メスガキ家没落の日
メスガキ家の屋敷に、ギルドの使者が訪れたのは、夕刻のことだった。
「ミオナ・メスガキ様。魔力融資契約の変更申請について、審査結果をお伝えいたします」
応接室の長椅子に腰掛けていたミオナは、優雅に微笑んだ。
「追加融資が認められたのね?」
「いいえ。申請は却下されました」
使者の返答に、ミオナの笑顔が凍りついた。
「……理由を説明してくださる?」
「事業計画の遅延、計画自体の肥大、および魔力返済能力の低下が確認されました。既存の契約条項に基づき、期限の利益を喪失したものと判断されます」
「おかしな話ね。施設が完成すれば、投資分などすぐに回収できるわ」
「現時点では、将来の収益を保証するものがございません」
「将来の収益がなければ魔力融資を受けられず、魔力融資を受けられなければ施設を完成させられない。そうおっしゃるの?」
「契約に基づき、担保の回収手続きを開始いたします」
使者は一礼し、応接室を出ていった。
扉が閉まる。
ミオナは机の上に置かれた書類を見つめていた。
「……冗談じゃないわ」
その声には、いつもの余裕がなかった。
魔力融資が止まれば、建設中の施設は完成しない。
施設が完成しなければ、収益は生まれない。
収益がなければ、魔力を返済できない。
そして返済できなければ、担保に入れた魔力が回収される。
契約書には、最初からすべて書かれていた。
ミオナ自身も、それを理解していた。
だからこそ、事業が計画どおりに進むことを前提に、魔力のほとんどを投じたのだ。
失敗するはずがなかった。
失敗するわけにはいかなかった。
彼女は机の上の書類を束ね、立ち上がった。
「ハルトを呼んでちょうだい」
◇
十分後。
ハルト・メスガキは、妻の書斎に入った。
黒髪の短髪に、褐色の瞳。三十代後半の彼は、背丈も顔立ちも、どこにでもいる平凡な男性だった。
華やかな貴族社会の中では、特に目立つところもない。
彼は書斎の机に積み上げられた書類を見て、何が起きたのかを察した。
「魔力融資が断られたのか?」
「ええ」
「そうか……」
ハルトは短く答え、近くの椅子に座った。
「何か言うことはないの?」
ミオナが尋ねた。
「俺に何を言えと?」
「あなたも、この事業に賛成したでしょう?」
「反対しても、君は聞かなかっただろう」
ミオナの眉がわずかに動いた。
「……今、何と言ったの?」
「いや。何でもない」
ハルトは視線を落とした。
言い返したところで、何も変わらない。
それは、長年の結婚生活で身につけた処世術だった。
ミオナは優秀な女性だった。
交渉では相手の弱点を見抜き、契約では一文字の不備も見逃さない。商売において、彼女の右に出る者は少なかった。
しかし、彼女は自分の判断が正しいと信じたとき、他人の意見を聞かなくなる。
夫であるハルトも、その例外ではなかった。
「それより、今後のことを考えよう」
ハルトは顔を上げた。
「事業を縮小して、残った魔力を守ることはできないのか?」
「無理よ」
「まだ、すべてを失ったわけじゃないだろう」
「あなた、契約書を読んだの?」
「読んだよ」
「なら、分かるでしょう。事業を縮小すれば、収益見込みがさらに下がる。担保価値も下がる。債権者は、今以上に厳しい条件を突きつけてくるわ」
「だったら、事業を続けるための魔力を別のところから――」
「どこから借りるの?」
ミオナは即座に問い返した。
「今回の信用評価は、主要なギルドに共有される。わたくしたちに新しく融資するところなどないわ」
「……そうか」
「そうよ」
ミオナは椅子に腰掛けた。
「だから、事業を完成させるしかないの。今さら撤退することなんてできないわ」
ハルトは妻を見つめた。
彼女の判断には、理屈があった。
事業を完成させなければ、投資した魔力の大半が失われる。
ならば、魔力を調達して完成させるしかない。
しかし、その魔力を調達する方法が、もう残されていない。
ハルトにも、それが分かっていた。
「……ミオナ」
「何?」
「もし、失敗したらどうする?」
ミオナは答えなかった。
「俺たちだけじゃない。ロリーナもいる。ライルだって、王都の騎士団にいるんだ。家がなくなれば、あの子たちの立場も――」
「失敗しないわ」
ミオナは、夫の言葉を遮った。
「わたくしが失敗するはずがないでしょう?」
その言葉を聞いて、ハルトは口を閉ざした。
彼は妻を信じたかった。
しかし、彼女が自分自身に言い聞かせているだけだということも、分かっていた。
◇
夜。
ハルトは書斎を出て、屋敷の廊下を歩いていた。
窓の外には、手入れの行き届いた庭園が広がっている。
かつて、この屋敷には多くの使用人がいた。
商人や貴族が訪れ、豪華な食事が並び、夜遅くまで宴が開かれていた。
だが、今は違う。
使用人たちの間では、雇用契約を更新できるのかという噂が広がっていた。
商会からの連絡は途絶え、屋敷に出入りする商人の数も減っている。
ハルトは、窓に映る自分の顔を見た。
何の取り柄もない男。
それが、自分に対する評価だった。
ミオナと結婚したときから、周囲は彼をそう見ていた。
メスガキ家の当主は妻であり、夫はその隣にいるだけの存在。
娘のロリーナは母親の才能を受け継いでいると期待され、息子のライルは男であることを理由に、家の後継者から外された。
ハルト自身も、家の中で何かを決める権限などほとんど持っていなかった。
それでも、家族が無事ならよかった。
妻が笑っていれば。
子どもたちが元気なら。
自分が多少、軽んじられたところで構わなかった。
そう思ってきた。
だが、彼は一度だけ、妻に本気で抗議したことがある。
数年前のことだった。
◇
その日、ハルトは屋敷の門前で、一家が荷物をまとめているのを見た。
父親らしい男と、その妻。幼い子どもが二人。
彼らは魔力の強制徴収で魔力の大半を失った結果、マナレベルが0になったのだという。
隔離居住地域への移送が決まり、家族で最後の荷物を運んでいた。
父親は、屋敷の玄関から出てきたミオナを見つけると、駆け寄った。
「ミオナ様! どうか、もう一度だけお考え直しください!」
彼は深々と頭を下げた。
「私たちの家族には、まだ幼い子どもがいるのです。どうか、生活に必要な分だけでも魔力を残していただけませんか!どうかご慈悲を!」
ミオナは、冷たい目で男を見下ろした。
「契約は契約よ。あなたがたは、期日までに債務を履行できなかった。それだけの話でしょう?」
「ですが、事業が失敗したのは、私たちの責任だけでは……!」
「言い訳は結構よ」
男の顔が歪んだ。
「……どうして、そこまでなさるのですか?」
その言葉に、ミオナは小さく首を傾げた。
「どうして?」
「私たちは、あなたに逆らったわけでも、何か悪いことをしたわけでもありません。ただ、事業がうまくいかなかっただけなのです。どうして、家族まで引き離されなければならないのですか!」
ミオナは、心底不思議そうに男を見た。
「そんなことも分からないの? 社会の役に立たない無能だからに決まってるでしょ? まあ、貴方みたいなザコの相手をするのは、あたしくらいのものだけれど?」
男は、言葉を失った。
その横で、幼い子どもが母親の服をつかんでいる。
ハルトは、その光景を見ていられなかった。
「ミオナ。もういいだろう」
彼は妻の腕をそっと引いた。
「この人たちにも事情があるんだ。子どもまで巻き込む必要はない」
ミオナの表情から、笑みが消えた。
「……ハルト?」
「魔力を全部取り上げなくてもいいじゃないか。少しくらい、残してやっても――」
「あなたは、何を言っているの?」
「いや、だから……」
「契約に従って債務を回収しているだけよ。わたくしたちが特別に慈悲を与えれば、ほかの債務者はどう思うかしら?」
「それは……」
「自分たちも特別扱いされて当然だと考えるでしょうね。そんなことをしていたら、制度そのものが成り立たなくなるわ」
ミオナは、夫の手を振りほどいた。
「あなたは、経営のことを何も分かっていないのね」
「……」
「感情で判断していたら、メスガキ家はここまで大きくなれなかったわ」
ハルトは、何も言い返せなかった。
妻の言葉が正しいのかどうか、彼には分からなかった。
ただ、目の前の一家が、これからどうなるのかを考えていた。
隔離居住地域で、生活を立て直せるのだろうか。
子どもたちは、学校へ通えるのだろうか。
父親と母親は、子どもたちを守れるのだろうか。
そんなことばかりが気になった。
ミオナは、彼の隣を通り過ぎた。
「行きましょう、ハルト。あなたがそんな顔をしていると、こちらまで気分が悪くなるわ」
その日、ハルトは妻に逆らうのをやめた。
◇
現在。
ハルトは、廊下の窓から庭園を見つめていた。
あの一家は、今ごろどうしているだろう。
もう、ここにはいない。
彼らが住んでいた家は、債権者によって処分されたと聞いていた。
そして今度は、自分たちの家が同じ運命をたどろうとしている。
「……ミオナ」
彼は妻の名をつぶやいた。
責めたいわけではなかった。
彼女が事業を成功させようと必死だったことは、分かっている。
家族を守ろうとしていたのかもしれない。
だが、彼女は家族を守るために、あまりにも多くのものを賭けすぎた。
そして何より、彼女は自分が他人に何をしてきたのかを、忘れてしまっていた。
◇
翌朝。
メスガキ家では、魔力の回収手続きが始まった。
ギルドの魔導師が債務回収魔法を起動する。
ミオナの体が青白く光った。
ミオナの脳内に無機質な音声が響いた。
『魔力回収処理を開始します』
ミオナは検魔針を取り出した。
方位磁針のように見えるそれは、所有者の魔力によって針が特定の目盛まで動く。
針が動き、みるみる自分の魔力が減っていくのがわかった。
やがて、無機質な音声が響いた。
『有効魔力量が規定値を下回りました』
『マナレベルを再判定します』
『マナレベル1』
ミオナは、静かに息を吐いた。
「まだよ……」
そうつぶやいた直後、追加の魔力回収処理が実行された。
『マナレベル0』
ミオナは動かなかった。
その数字が何を意味するのか、彼女は誰よりもよく知っていた。
社会の役に立たない者。
生活維持基準を満たせない者。
隔離居住地域への移送対象者。
かつて彼女が、何のためらいもなくそう分類してきた人々。
今度は、自分がその一人になったのだ。
◇
その夜。
ハルトは、寝室で荷物をまとめているミオナを見つけた。
「……すまない」
ハルトが言った。
ミオナは手を止めた。
「どうして、あなたが謝るの?」
「俺が、もっと早く君を止めていれば……」
「やめてちょうだい」
ミオナの声は鋭かった。
「今さら、そんなことを言って何になるの?」
「……」
「あなたは、いつだってそう。何かが起きてから、もっとこうすればよかったと言う。でも、何も決めない。何も変えない。責任も取らない」
ハルトは、妻を見つめた。
その言葉は、いつものミオナらしかった。
相手の弱点を見抜き、逃げ道を塞ぐ。
しかし、彼女の目は赤くなっていた。
「……俺は、君が怖かったんだ」
ハルトは言った。
ミオナの手が止まる。
「何ですって?」
「君は賢い。俺よりずっと優秀だ。だから、君の判断に口を出すべきじゃないと思っていた。君に任せておけば、家族は大丈夫だと……そう思いたかった」
「……」
「だが、俺は間違っていたのかもしれない」
ハルトは、窓の外を見た。
「君が、あの一家を追い詰めたとき。俺は、君にやめろと言った。だが、最後まで止めることはできなかった」
「……あれは、契約に従っただけよ」
「分かっている」
ハルトはうなずいた。
「君は、いつだって契約に従ってきた。だからこそ、今の君がいるんだろう」
「なら――」
「だが、契約が正しいことと、それが人にとって正しいことは、同じじゃない」
ミオナは、何も言わなかった。
ハルトは続けた。
「君は、あの一家に言っただろう。社会の役に立たない無能だから、切り捨てられて当然だと」
「……」
「今の俺たちは、どうなんだ?」
ミオナの唇が震えた。
「俺たちは、もう社会の役に立たないのか?」
「違うわ」
彼女は即座に答えた。
「わたくしたちは、まだ――」
言葉が途切れた。
まだ何なのだろう。
まだ価値がある?
まだ優秀である?
まだ、特別な存在である?
それを証明するものは、もう何も残っていなかった。
「……わたくしは」
ミオナは、手元の衣服を握りしめた。
「わたくしは、間違っていないはずだったのよ」
ハルトは答えなかった。
「事業を成功させれば、すべて解決するはずだった。家族のためにも、メスガキ家のためにも、必要なことだったの。わたくしは、最善の判断をしたはずなのに……」
ミオナの声が、少しずつ小さくなる。
「どうして、こんなことに……」
ハルトは、妻の前に立った。
彼女が泣くところを、ほとんど見たことがなかった。
いつも冷静で、いつも自信に満ちていた。
そのミオナが今、何を信じればいいのか分からずにいる。
「……俺にも、分からない」
ハルトは正直に答えた。
「ただ、君がこれまで切り捨ててきた人たちも、同じことを思ったんじゃないか」
ミオナは顔を上げた。
ハルトは目をそらさなかった。
「どうして、こんなことに。どうして、自分たちがこんな目に遭わなければならないのか。誰か、助けてくれないのか……って」
ミオナの目から、涙が一筋こぼれた。
「……やめて」
「すまない」
「もう、やめてちょうだい……」
ハルトは、それ以上何も言わなかった。
彼女を慰める言葉も、励ます言葉も、見つからなかった。
ただ、そこに立っていた。
◇
翌朝。
ミオナは馬車の前に立っていた。
屋敷の門は開かれ、玄関には荷物が積まれている。
かつて彼女に仕えていた使用人たちは、すでにほとんど姿を消していた。
ハルトは、彼女の隣に立っていた。
「ロリーナには、俺から連絡しておく」
「……ええ」
「ライルにもだ。あの子たちには、できるだけ迷惑をかけたくない」
「そうね……」
ミオナは、いつものように微笑もうとした。
しかし、うまく笑えなかった。
「ハルト」
「何だ?」
「あなたは……わたくしを恨んでいる?」
ハルトは、しばらく考えた。
「恨んでいないと言えば、嘘になる」
ミオナはうつむいた。
「だが、君だけの責任でもない」
「……どういう意味?」
「俺も、この家の一員だった。君のやり方に疑問を持ちながら、何もしなかった。君が決めたことに従い、都合の悪いことから目を背けてきた」
「だから、俺にも責任がある」
ミオナは何も言わなかった。
やがて、車両の扉が開いた。
「ミオナ・メスガキ様。ご乗車ください」
係員が告げた。
ミオナは一歩、前に進んだ。
その背中を見つめながら、ハルトは言った。
「……帰ってこい」
ミオナの足が止まった。
「必ず、帰ってこい。ロリーナも、ライルもいる。俺たちの家族は、まだ終わっていない」
ミオナは振り返った。
夫の顔は、いつもと変わらなかった。
平凡で、目立たず、特別な才能もない。
彼女が長年、頼りないと思ってきた男。
それでも、今この瞬間、自分に帰ってこいと言ってくれる人間は、彼しかいなかった。
「……ええ」
ミオナは、かすかにうなずいた。
「帰ってくるわ」
それが、彼女に残された最後の約束だった。
扉が閉まる。
馬車が動き出す。
ハルトは、馬車が見えなくなるまで、その場を動かなかった。
かつてミオナが切り捨てた人々も、こうして誰かに見送られたのだろうか。
それとも、誰にも見送られず、ただ連れていかれたのだろうか。
彼には、分からなかった。
ただ一つ分かったことがある。
メスガキ家が失ったのは、魔力だけではない。
人を値踏みし、価値がないと判断すれば切り捨ててきた。
その結果、いざ自分たちが価値を失ったとき、誰も手を差し伸べてくれなかったのだ。
ハルトは、空になった屋敷を振り返った。
「……ロリーナ。ライル」
子どもたちの名を呼ぶ。
「どうか、お前たちは……」
その先の言葉は、声にならなかった。
彼は、ただ静かに目を閉じた。




