キモオジ家の屈辱の日々
その日、キモオジ家の当主は、人生で何度目になるかわからない屈辱を味わっていた。
「……こちらの条件で、どうか再考していただけませんでしょうか」
子爵邸の応接室。
革張りの椅子に浅く腰掛けた男は、額に滲む汗をハンカチで拭いながら、向かい側の女性に頭を下げていた。
クズオ・キモオジの父、バルド・キモオジ子爵である。
彼の目の前には、銀髪の長い髪を背中に流した女性が座っていた。
碧眼。長身。整った顔立ちには、年齢を感じさせない気品が漂っている。
淡い紫色のドレスをまとい、背筋を伸ばしたその姿は、どこから見ても高貴な貴婦人だった。
彼女の名は、ミオナ・メスガキ。
マナレベル3を誇るメスガキ家の夫人である。
ミオナは、上品な笑みを浮かべたまま、手元の契約書に視線を落とした。
「まあ。バルド様は、先月も同じことをおっしゃっていませんでしたか?」
「そ、それは……」
「先々月も、その前の月も、似たようなお話を伺ったように記憶しておりますけれど」
ミオナは首を傾げた。
責めるような口調ではない。
むしろ、相手を気遣うような優しい声だった。
だからこそ、バルドは言い返せなかった。
「もちろん、わたくしもキモオジ家の皆様には、長年のお付き合いがありますから。できる限り、お力になりたいとは思っておりますの」
「おお……! それでは!」
「ですが」
ミオナは、契約書の端を指先で軽く叩いた。
「こちらの返済条件を変更するとなりますと、ほかの取引先との公平性を保てなくなってしまいますわ」
「し、しかし、我が領地の鉱山からは、今年も十分な魔力結晶が採掘されております! 来月には必ず……!」
「そのお話も、以前に伺いましたわね」
にこり。
ミオナの笑顔は、少しも変わらなかった。
「ところで、バルド様」
「は、はい!」
「先日、わたくしの娘が、キモオジ家のご子息と街でお会いしたそうですの」
バルドの顔が引きつった。
「クズオが……ですか?」
「ええ。わたくしの娘が申しますには、ずいぶんと興味深いお話をされたとか」
「そ、それは……」
「なんでも、メスガキ家の商売は、いずれキモオジ家がすべて引き継ぐことになる、と」
室内の空気が凍りついた。
ミオナは扇子を開き、口元をそっと隠した。
「ふふっ。若い方は夢があってよろしいですわね」
笑っている。
しかし、その碧眼には、わずかな温度も感じられなかった。
「わたくしどもの事業を引き継ぐには、まず、契約書を最後までお読みになる習慣を身につけていただかないと」
「も、申し訳ございません!」
バルドは勢いよく頭を下げた。
「息子には、私から厳しく言い聞かせます! どうか、どうか今回だけは……!」
「まあ。謝っていただく必要はございませんわ」
ミオナは静かに扇子を閉じた。
「ただ、わたくしとしても、娘に余計な心配をかけたくはありませんの。今後は、キモオジ家の方々が、わたくしどもの事業について不用意な発言をなさらないよう、ご配慮いただければ幸いですわ」
「は、はい……!」
「それでは、契約の件ですが」
ミオナは書類をバルドの前に差し出した。
「こちらの条件でお願いいたします。ご署名を」
バルドは、震える手で羽ペンを握った。
そこには、先月よりも不利な返済条件が記されていた。
それでも、署名するしかなかった。
彼が契約書に名前を書き終えると、ミオナは満足そうに頷いた。
「ありがとうございます。これで、双方にとってよいお取引になりますわね」
その言葉を最後に、商談は終わった。
バルドは、最後まで一度も顔を上げることができなかった。
そして、ミオナは最後まで、上品な笑みを崩さなかった。
*
「お父様!」
応接室から出てきたバルドを、廊下で待っていたクズオが呼び止めた。
クズオは三十代半ばの小太りの男だった。
整えたつもりの髪は脂っぽく額に張り付き、頬には、いつも何かを企んでいるような薄笑いが浮かんでいる。
「どうだったんです? あの女、こちらの要求を呑んだんでしょうね?」
「声が大きい!」
「ひっ!」
父親に怒鳴られ、クズオは肩を震わせた。
バルドは周囲を見回し、誰もいないことを確かめてから、低い声で言った。
「条件は、さらに厳しくなった」
「なっ……!」
クズオの顔から笑みが消えた。
「ふざけるな! あの女、また我が家を食い物にしたのか!」
「黙れと言っている!」
「ですが、お父様!」
「いいか。メスガキ家には逆らえん。今の我々には、あの家との取引を失う余裕などないのだ」
バルドは疲れ切った様子で、壁に手をついた。
「マナレベルが違うのだ……。向こうはレベル3。我々はレベル1。魔力の差は、身分の差だ」
「そんなもの……!」
クズオは拳を握り締めた。
「俺たちは貴族だぞ! それなのに、どうして女の言いなりにならなければならないんだ!」
父親は何も答えなかった。
それが、かえってクズオの怒りを煽った。
「……世の中には、どうにもならんことがある」
「どうにもならない?」
クズオは笑った。
口元だけを歪めた、不気味な笑みだった。
「いいや。そんなはずはない」
彼は父親の背中を見つめながら、胸の奥で何かが燃え上がるのを感じていた。
「いつか必ず、思い知らせてやる……」
*
数日後。
キモオジ家の子爵邸では、恒例の夜会が開かれていた。
もっとも、参加者の大半は、近隣の下位貴族や領地の役人たちである。
かつては華やかだったという大広間も、今では壁紙が剥がれ、燭台の装飾もくすんでいた。
それでも、バルドは一族の威厳を保つため、夜会を中止するわけにはいかなかった。
「クズオ。今夜は余計なことをするなよ」
父親から釘を刺されたクズオは、不満げに頬を膨らませた。
「わかっていますよ」
もちろん、わかってなどいなかった。
クズオの視線は、大広間の入口に向けられていた。
そこから、ひときわ目立つ一団が入ってきたからだ。
銀髪の貴婦人。
その隣には、茶色のショートヘアに姫カットを施した少女がいた。
碧眼。小さな顔。華奢な体格。
ピンクと黒を基調としたゴシックロリータ風のドレスをまとい、胸元にはメスガキ家の紋章が輝いている。
ロリーナ・メスガキ。
ミオナの娘であり、マナレベル3の名家に生まれた令嬢だった。
ロリーナは広間を見渡すと、わずかに眉をひそめた。
「お母様。ここ、去年よりずいぶんと古くなっていません?」
「まあ、ロリーナ。失礼ですよ」
ミオナは微笑んだ。
「招待してくださったバルド様に、そんなことをおっしゃってはいけませんわ」
「……はあい」
ロリーナは、いかにも不満そうに返事をした。
そして、周囲に聞こえるか聞こえないかという声で呟いた。
「まあ、仕方ないわよね。魔力がないんだもの」
クズオの眉がぴくりと動いた。
聞こえていた。
間違いなく、聞こえていた。
彼は拳を握り締め、ロリーナのもとへ歩み寄った。
「お、お嬢様。お久しぶりですな」
「あら?」
ロリーナはクズオを見上げた。
「どなたでしたっけ?」
「なっ……!」
「冗談よ。キモオジ家のクズオ様でしょ?」
ロリーナは、にっこりと笑った。
「お父様から聞いているわ。事業の才能があって、将来はきっと大物になるんですって?」
「そ、そうだ! よくわかっているじゃないか!」
クズオは、たちまち機嫌を直した。
やはり、この少女も自分の才能を認めているのだ。
彼は胸を張った。
「俺はいずれ、この領地を代表する大貴族になる男だからな!」
「へえー。すごーい」
ロリーナは拍手をした。
ぱち、ぱち、ぱち。
乾いた音が三回、広間に響いた。
「じゃあ、どうしてお母様に、いつも魔力を借りに来ているの?」
「…………」
「大物になる予定なのに、今はまだ魔力がないの?」
「き、貴様……!」
「ロリーナ」
ミオナが静かに娘を呼んだ。
「クズオ様を困らせてはいけませんわ」
「はあい、お母様」
ロリーナは、まったく反省していない顔で答えた。
ミオナはクズオに向き直る。
「申し訳ございません。娘はまだ、世間の機微というものを十分に理解しておりませんの」
「い、いえ……」
「けれど、将来の夢を持つことは素晴らしいことですわ。クズオ様も、ぜひ夢を大切になさってくださいませ」
ミオナは上品な笑みを浮かべた。
「ただし、夢を実現するためには、相応の実績が必要ですけれど」
クズオは、何も言えなかった。
ロリーナは母親の腕にそっと寄り添い、満面の笑みを浮かべている。
「ねえ、お母様。そろそろ帰りましょう?」
「そうね。バルド様には、あとで改めてご挨拶をしておきましょう」
ミオナはクズオに軽く会釈した。
「それでは、ごきげんよう」
親子は、来たときと同じように優雅に広間を出ていった。
残されたクズオは、その場に立ち尽くしていた。
周囲から、忍び笑いが聞こえてくる。
誰もが彼を見ていた。
いや、彼にはそう感じられた。
みんなが自分を笑っている。
自分を見下している。
あの母娘のように。
「……覚えていろ」
クズオは、歯を食いしばった。
「絶対に、覚えていろよ……!」
*
それから、数か月が過ぎた。
キモオジ家の財政は、ますます悪化していた。
マナクレジットの返済は滞り、領地の維持費も不足し始めた。
バルドは連日、取引先を訪ねて頭を下げていた。
そして、クズオは屋敷の自室で、酒を飲みながら愚痴をこぼしていた。
「くそっ……! どいつもこいつも、俺を馬鹿にしやがって……!」
彼はテーブルを叩いた。
空になった酒杯が床に落ち、乾いた音を立てた。
「俺が何をしたっていうんだ! 俺は貴族だぞ! 選ばれた人間なんだ!」
返事をする者はいない。
人々の身分は魔力の多さで決まり、数字で表される。
魔力の多い方から、
マナレベル4は王族
マナレベル3は上位貴族
マナレベル2は中位貴族
マナレベル1は平民~下位貴族
そして、マナレベル0はマナ欠乏予備群として郊外の隔離居住地域へ移送される。
魔力がマイナスに転じた者は、聖浄教会による「聖転」の儀により神々の楽園へと迎えられる。
誰もが知っている、この世界の常識だった。
マナレベル1。
彼は、その数字を憎んでいた。
だが、自分には貴族という身分がある。
自分は、平民よりも上なのだ。
そう信じなければ、彼は自分を保てなかった。
「……そうだ」
やがて、彼の口元に、いつもの笑みが戻った。
「俺が悪いんじゃない。世の中の仕組みが間違っているんだ」
彼は酒杯を拾い上げ、残っていた酒を飲み干した。
「俺たちが下にいるのは、今だけだ。いつか必ず、立場は逆転する」
そのときだった。
扉がノックされた。
「クズオ様。旦那様がお呼びです」
「何だよ、こんな時間に!」
「メスガキ家について、重大なお話があるとのことです」
クズオは顔を上げた。
「……メスガキ家?」
胸の奥で、何かがざわめいた。
彼はゆっくりと立ち上がり、口元を歪めた。
「まさか……」
その顔には、期待と疑念が入り混じっていた。
そして、彼は父親の書斎へと向かった。
まだ、彼は知らない。
長年、自分たちを見下してきた一族に、何が起ころうとしているのかを。
だが、もしも。
もしも、本当に立場が逆転するのなら。
そのときこそ、自分の人生が始まるのだと、彼は信じていた。
クズオは、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……ぐへへへ」
その笑い声は、夜の屋敷に、いつまでも響いていた。




