神を演じる者
その頃、聖柱ー改めエレベーターの内部では。
ゴオオオオオオオオオッ――。
低く重い駆動音が、真っ白な空間に響き渡っていた。
そこに、1人の司祭が立っていた。
彼は駆動音が響く中、袖口を少しずらし、腕に装着したスマートウォッチを確認した。
午前4時ちょうど。
「……まったく。こんな時間に呼び出しやがって」
司祭は不機嫌そうに吐き捨てた。
やがて、駆動音が徐々に小さくなり、最後には完全に止まった。
プシュウウウッ。
空気が抜けるような音とともに、目の前の白い扉が開いた。
その向こう側には、広大な研究施設が広がっていた。
壁も床も天井も純白で統一され、無数の照明が空間を照らしている。白衣を着た研究員たちが行き交い、壁面に設置されたモニターには、見慣れない数値や波形が絶え間なく表示されていた。
その光景は、聖王国の人々が思い描く天国とは、似ても似つかないものだった。
司祭がそこに足を踏み入れると、近くで作業していた白衣の研究員が彼に気づいた。
「あっ、レイモンド博士!お待ちしておりました!」
研究員は慌てて駆け寄ってきた。
レイモンドと呼ばれた男は、眉間に深い皺を寄せた。
「全く、権限レベル7の幹部クラスを実験場の現地管理に派遣するとは、本社は何を考えているんだ」
「お、おやすみのところ、申し訳ありません。マナ欠乏者の変異制御が間に合っておらず……」
「それは、ギリギリの状態で研究所に運ぶからだろう。余裕がなさすぎる」
「それはそうなのですが……現地工作員と機材が不足していまして」
「言い訳はいい。状況を説明しろ」
「は、はい!こちらです!」
研究員が先導し、レイモンドはその後を歩き始めた。
途中、彼は司祭服の胸元に手をかけた。
白い法衣を脱ぐ。
その下から現れたのは、ワイシャツとネクタイだった。
さらに、胸元には小さな社章が光っていた。
聖王国の紋章ではない。
レイモンドは司祭服を研究員に渡すと、近くのロッカーから黄色い防護衣を取り出した。
頭部まで覆う一体型の防護衣。顔の部分だけが透明になっており、全身を外部環境から隔離する構造になっている。
彼は手慣れた様子でそれを身に着けた。
「隔離作業区域へ案内しろ」
「承知しました」
2人は、厳重な扉の前に到着した。
認証装置に手をかざすと、電子音が鳴り、扉が開いた。
その瞬間、耳障りな叫び声が聞こえてきた。
「ぎゃあああああっ!」
「押さえろ!固定具が外れる!」
「変異停止剤を追加しろ!早く!」
「駄目です!反応がありません!」
レイモンドは、表情一つ変えずに中へ入った。
そこは、地獄絵図だった。
無数の金属製ベッドが並び、その上には白い衣服を着た人々が横たわっている。
身体に透明な管を繋がれ、手足を固定された者。
全身を震わせ、意味の分からない言葉を叫び続ける者。
皮膚の一部が黒ずみ、異様な瘤が全身に浮かび上がっている者。
そして、人間の形を保てなくなりつつある者。
研究員たちは忙しなく動き回り、注射器や薬剤、各種の器具を手に、次々と被験者の処置に当たっていた。
レイモンドは最初のベッドの前で立ち止まった。
そこには、全身が大きく膨張し、口から泡を吹いている男性が横たわっていた。
胸部が不規則に隆起し、皮膚の下で何かが蠢いている。
レイモンドは、ベッドの脇に表示された液晶モニターの数値を確認した。
「……駄目だな。こいつは手遅れだ。地下通路に放り込め」
「しかし、博士。まだ生体反応が――」
「反応があるから何だ?変異がここまで進行している。これ以上、薬剤を無駄にするな」
「了解しました」
研究員たちは男性のベッドを移動させ始めた。
レイモンドは、その様子を一瞥しただけで次のベッドへ向かった。
そこには、先ほどの男性とは明らかに異なる被験者がいた。
身体は一回り大きくなり、肩幅が広がっている。筋肉は異常なほど発達し、皮膚は青白く変色していた。
しかし、暴れる様子はない。
被験者はベッドの上で静かに呼吸を繰り返し、研究員の呼びかけにも反応していた。
レイモンドは表示された数値を確認し、短く頷いた。
「こいつは適合種だな。看守長として登録しろ」
「了解しました。識別番号を付与し、地下収容区画へ移送します」
「既存の看守長との適合性も確認しておけ。管理対象同士で共食いを始められたら面倒だ」
「分かりました」
レイモンドは次のベッドへ進んだ。
「こいつは?」
「変異が始まっていますが、数値は安定しています。侵蝕レベルは2.1。現時点では、変異停止剤への反応も良好です」
「そうか。なら経過観察だ。安易に処分するな。安定した個体のデータは貴重だ」
「はい!」
研究員は手元のタブレットで素早く記録を取っている。
レイモンドは次々と被験者を確認し、処置の指示を出していった。
ある者は処分対象に指定され、ある者は看守長として登録され、またある者は研究継続のために隔離された。
そこに迷いはなかった。
彼にとって、目の前にいる人々は救済を求める人間ではない。
研究対象だった。
そのときだった。
「……あの」
か細い声が聞こえた。
レイモンドが振り返ると、すぐ隣のベッドに老人が横たわっていた。
老人の身体は、すでに大きく変形していた。
背中は歪に盛り上がり、首や腕にはいくつもの瘤が発生している。顔の片側も腫れ上がり、皮膚の色は不健康な灰色に変わっていた。
それでも、老人の目には、かすかな理性が残っていた。
彼はレイモンドの姿を見つめ、震える唇を開いた。
「……司祭様」
レイモンドは足を止めた。
「私たちは……救われるんですか?」
老人の声は、今にも消え入りそうだった。
「聖転を受ければ、マナの渇きから解放されると……皆が、そう言っていました」
老人は拘束された手を動かそうとした。
しかし、金属製の固定具が軋むだけで、手首はほとんど動かなかった。
「私は、もう長くないのでしょうか……?」
彼は、目の前の男を見つめていた。
聖王国の司祭。
人々を神々の楽園へ導く、神の使い。
老人にとって、彼は最後の希望だった。
レイモンドは、しばらく老人を見下ろしていた。
そして、穏やかな声で答えた。
「ええ。神々はあなた方を救います」
老人の顔に、安堵の色が浮かんだ。
「ああ……ありがとうございます、司祭様……」
老人は涙を流した。
レイモンドは、その涙を見つめながら、注射器を手に取った。
「ですから、今はゆっくりお休みなさい」
彼は老人の首元に素早く注射針を刺し、薬剤を注入した。
数秒後、老人のまぶたがゆっくりと閉じた。
「……神のご加護を」
レイモンドはそう告げると、何事もなかったかのように注射器を廃棄容器へ投げ入れた。
そして、次のベッドへ向かおうとした。
「あの!もしかして、レイモンド博士ですか!?」
突然、背後から興奮した声が上がった。
振り返ると、1人の研究員が駆け寄ってきた。
彼もまた、黄色い防護衣を身に着けていた。
「ここでお会いできるなんて光栄です!先月の北米セクターで開かれた学会での、アイソフェミアを用いた生体進化計画の構想、非常に興奮しました!」
研究員の声は、まるで憧れの著名人を前にした学生のように弾んでいた。
「特に、変異アイソフェミア濃度の制御によって生物の形質変化を強制的に誘導し、環境適応能力を人為的に引き上げるという発想は画期的でした!従来の遺伝子工学では――」
「講演の感想なら後にしてくれ」
レイモンドは、面倒くさそうに手を振った。
「今は、こいつらを何とかしないといけない」
「も、申し訳ありません!つい興奮してしまいまして……!」
「話なら、こいつらの変異が落ち着いてから聞いてやる」
「ありがとうございます!」
研究員は嬉しそうに頭を下げた。
レイモンドは、そのまま作業区画の奥へと歩いていった。
彼の背後では、研究員たちが薬剤を運び、記録を取り、被験者を隔離し、変異した身体の処置を続けていた。
誰かが悲鳴を上げる。
誰かが助けを求める。
誰かが神に祈る。
それでも、研究は止まらなかった。
*
隔離作業区域では、時間の感覚が失われていた。
午前4時に始まった作業は、夜明けを迎えても終わらなかった。
レイモンドは、被験者の数値を確認し、研究員に指示を出し、次々と判断を下していった。
地下通路へ送られた者。
看守長として登録された者。
経過観察のために隔離された者。
そのすべてが、研究記録に分類されていく。
やがて、作業区画の喧騒がわずかに落ち着いた頃。
レイモンドは防護衣の中で息を吐き、腕のスマートウォッチを確認した。
表示された時刻は、午前6時37分。
「……ようやく一段落か」
彼は疲れたように首を回した。
その目の前では、白い衣服を着た人々が、今も金属製のベッドに横たわっていた。
彼らは、自分たちがどこへ連れてこられたのかを知らない。
自分たちの身体に何が起きているのかも知らない。
ただ、神が自分たちを救ってくれると信じている。
レイモンドは、透明な防護面の向こうから、彼らを見つめた。
「……さて。どこまで耐えられるかな」
誰に聞かせるでもなく、彼はつぶやいた。
その声を聞く者は、誰もいなかった。
聖王国の人々は、聖柱の中で行われている出来事を知る由もない。
人々は今日も祈るだろう。
マナの渇きに苦しむ者が、聖転によって救われるようにと。
その祈りを受け取る司祭は、彼らを救済する神の使いではなかった。
彼は、彼らを実験場へ送り込むために、神を演じているだけの男だった。




