夜の聖浄教会
ライルは、聖浄教会に疑問を抱いていた。
マナ欠乏者隔離区域。
そこでは、マナ欠乏の症状が進行した者が、定期的に教会へ連れて行かれる。
表向きの説明は簡単だった。
彼らは聖転の恵みを受け、楽園へ導かれるのだという。
だが、ライルには納得できなかった。
なぜ、マナ欠乏者は隔離されなければならないのか。
なぜ、症状が悪化した者は教会へ連れて行かれるのか。
そして、なぜ、聖転を迎えた者は二度と戻ってこないのか。
国は、これらの疑問に答えようとしなかった。
騎士団に所属していた頃、ライルは何度か隔離区域に関する資料を調べようとしたことがある。しかし、閲覧できたのは、住民の管理方法や区域の維持費といった表面的な情報ばかりだった。
聖転に関する詳細な記録は、すべて機密扱い。
教会の内部についても、王都の騎士でさえ立ち入れる場所は限られていた。
それは、あまりにも不自然だった。
――本当に人々を救うための儀式なら、なぜ隠す必要がある?
ライルは、聖柱の前で聞いた音を思い出した。
ゴオオオオオ、という音。
あれを聞いたとき、彼は直感した。
あの扉の向こうには、何かがある。
そして、それを知るためには、自分の目で確かめるしかない。
◇
その日の深夜。
王都の街並みは、すっかり静まり返っていた。
大通りの街灯が、石畳を淡く照らしている。夜風が吹くたび、建物の軒先に吊るされた看板が小さく揺れた。
ライルは、黒い外套を羽織り、周囲を警戒しながら歩いていた。
目指す場所は、聖浄教会。
昼間は多くの信徒で賑わう大聖堂も、今は暗闇の中に沈んでいる。
「……さて」
教会の裏手に回ったライルは、腰の道具袋から細い金属片を取り出した。
騎士として働く以前から、彼はこうした細工を得意としていた。
鍵穴に金属片を差し込み、指先に神経を集中させる。
カチリ。
拍子抜けするほど簡単に、鍵が開いた。
「……警備が甘すぎるな」
思わず、そう呟いた。
信徒たちの信仰が、それほどまでに厚いということなのだろうか。
それとも、そもそも侵入者など想定していないのか。
ライルは扉の隙間から内部を覗いた。
暗闇。
物音はない。
彼は静かに中へ入り、扉を閉めた。
「……よし」
「お兄様」
「うわっ!?」
思わず声が出そうになり、ライルは慌てて口を押さえた。
背後には、ロリーナが立っていた。
黒い外套を身にまとい、こちらを見上げている。
「お、お前……! どうしてここにいる!?」
「ついてきましたの」
「見ればわかる!そうじゃなくて、なぜついてきたんだ!」
「お兄様が夜中にこっそり出かけていくものですから、何かあるのではないかと思いまして」
「だからといって、ついてくる奴があるか!」
ライルは頭を抱えた。
「今すぐ帰れ。ここから先は危険だ」
「嫌ですわ」
「ロリーナ!」
「わたくしだって、知りたいのです」
ロリーナの声は、いつになく真剣だった。
「昼間、あの聖柱の前で……わたくし、何もできませんでした。ただ、あの方々が連れていかれるのを見ているだけでしたわ」
「……」
「本当に楽園へ行かれたのか。それとも、別の何かが起きているのか。わたくし自身の目で確かめたいのです」
ライルは、妹の顔を見つめた。
その瞳には、恐怖がないわけではなかった。
それでも、引き下がるつもりはないらしい。
「……まったく」
ライルは深くため息をついた。
「絶対に俺から離れるな。何かあったら、すぐに逃げる。いいな?」
「はい、お兄様!」
「声が大きい!」
「……はい」
ロリーナは、慌てて口元を押さえた。
ライルはもう一度ため息をつき、暗い廊下の奥へと歩き始めた。
◇
夜の大聖堂は、昼間とはまるで別の場所のようだった。
白い壁は暗闇に沈み、天井の高さも、聖柱の巨大さも、昼間以上に不気味に感じられた。
静寂の中では、自分たちの足音さえ大きく響く。
ライルとロリーナは、壁際を伝うようにして進み資料室へ向かった。
教会の運営記録や聖典の写本、信徒の名簿などが保管されている場所だ。
ライルは扉を開け、室内に入った。
棚には大量の書類が並んでいた。
「……さて、何か手がかりがあればいいんだが」
彼は手近な書類を取り出し、目を通し始めた。
ロリーナも別の棚を調べる。
しかし、見つかるのは魔力寄付の記録、礼拝の予定表、教会の修繕履歴といった、ありふれた書類ばかりだった。
「お兄様、こちらはどうでしょう?」
「……聖転の儀式に必要な物資の一覧か」
ライルは紙面に目を走らせた。
白い衣。儀式用の香料。聖柱の維持管理に必要な物資。
どれも、表向きには不自然な点がない。
聖転を迎えた者の名前は記録されているものの、その後の扱いについては、ただ「聖転完了」と記されているだけだった。
「……これじゃ、何もわからないな」
「そうですわね……」
ロリーナが書類を棚に戻した、そのときだった。
――ガチャ。
2人は同時に動きを止めた。
扉の開く音。
続いて、遠くから足音が聞こえてきた。
コツ、コツ、コツ。
複数人の足音だった。
「……誰か来た」
ライルは小声で告げた。
ロリーナが息を呑む。
ライルはすぐに資料室の灯りを消した。
室内が暗闇に包まれる。
2人は扉の脇に身を寄せ、わずかに開いた隙間から大聖堂を覗いた。
やがて、2つの人影が現れた。
1人は昼間に説法していた司祭。
もう一人はシスターだった。
2人とも手に小さな灯りを持ち、足早に聖柱へ向かっている。
その表情は、昼間の穏やかなものとはまるで違っていた。
司祭は左手の手首を見ながら苛立たしげに口を開いた。
「こんな夜遅くに、何事だ」
シスターは足を止めずに答えた。
「緊急の案件です。こちら側の処理はお任せください」
「……ああ、頼む」
司祭は短く返事をすると、シスターと別れ、聖柱の前へ進んだ。
胸元には、金色の装飾が揺れていた。
聖浄教のシンボル。
昼間、司祭が身につけていたものと同じだった。
司祭はそれを手に取り、白い扉の前にかざした。
すると――。
低い駆動音が響いた。
聖柱の表面に、細い線が浮かび上がる。
白い壁と見分けがつかなかった扉が、中央から左右に分かれていった。
「……っ!」
ロリーナは、思わず声を上げそうになり、両手で口を押さえた。
昼間と同じだ。
聖柱の中には、あの白い空間が広がっていた。
司祭は周囲を見渡すこともなく、そそくさと中へ入っていった。
そして、扉は音もなく閉じた。
数秒後。
――ゴオオオオオオオ
あの音が大聖堂に響いた。
ライルは息を止めたまま、聖柱を見つめていた。
昼間、聖転を迎えた人々が入っていったときと、まったく同じ音だった。
だが、今度は違う。
中に入ったのは、マナ欠乏者ではない。
司祭だ。
それなのに、なぜ同じ音がする?
「…………」
ライルは、頭の中で情報を整理しようとした。
司祭は、夜中に何らかの緊急事態を告げられ、聖柱の中へ入った。
シスターは「こちら側の処理」を引き受けると言った。
そして、扉が閉じた直後、あの音が鳴った。
聖転の儀式と、何が違うのだろう。
いや、そもそも――。
そのときだった。
シスターが、ゆっくりと振り返った。
手に持った灯りが、白い顔を下から照らしている。
彼女は大聖堂を見渡した。
そして、何かを確認するように、ゆっくりと視線を巡らせた。
ライルは、息を潜めた。
ロリーナも、身じろぎひとつしなかった。
シスターの視線が、資料室の扉へ向いた。
彼女は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
やがて、静かに歩き始めた。
コツ、コツ、コツ。
足音が近づいてくる。
まっすぐ、こちらへ。
「……お兄様」
ロリーナが、声にならないほど小さく囁いた。
ライルは返事をしなかった。
ただ、腰の剣に手を添えた。
足音が、資料室の前で止まった。
そして――。
扉の取っ手が、ゆっくりと回り始めた。
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カチャリ。
資料室の扉の取っ手が、ゆっくりと回った。
ライルは瞬時に判断した。
「……こっちだ」
妹の手を引き、部屋の奥へと移動する。
資料室には、天井近くまで届く大きな戸棚がいくつも並んでいた。2人はそのうちの1つに身を滑り込ませた。
ライルがロリーナの口元に指を当てる。
声を出すな。
そう伝えると、ロリーナは小さく頷いた。
直後、扉が開いた。
コツ、コツ、コツ。
シスターの足音が、資料室の中に響く。
彼女は手に持った灯りを掲げ、室内を見渡した。
「…………」
何かを探しているのだろうか。
シスターは机の上に視線を向け、書類の並びを確認した。それから、何事もなかったかのように扉を閉めた。
カチャリ。
鍵のかかる音がした。
ライルは眉をひそめた。
――鍵をかけた?
侵入者がいると疑っているのか。それとも、夜間は必ず施錠する決まりなのか。
いずれにせよ、簡単には出られなくなった。
シスターは懐から鍵を取り出した。
だが、それを使ったのは、出入口の扉ではなかった。
彼女が向かったのは、資料室の奥にある本棚だった。
背表紙の並んだ棚の前で立ち止まり、何冊かの本を確かめるように指でなぞる。
やがて、一冊の本を押し込んだ。
カチッ。
小さな音がした。
続いて、シスターは手に持った鍵を、本棚の側面にある小さな鍵穴へ差し込んだ。
カチャリ。
鍵を回す。
――ゴゴゴゴゴ……。
「……っ!」
ロリーナは、声を上げそうになって口を押さえた。
本棚の一部分が、床の下へと静かにスライドしていった。
その奥から、暗い通路が姿を現した。
壁の向こうに、こんな空間が隠されていたとは。
シスターは周囲を一瞥すると、灯りを手に通路へ入っていった。
やがて、本棚が元の位置に戻り始めた。
ゴゴゴゴ……。
再び、カチッという音。
資料室には、何事もなかったかのように本棚が並んでいた。
静寂が戻る。
ライルは、しばらく動かなかった。
足音が遠ざかっていくのを待ち、ようやく戸棚から顔を出した。
「……お兄様。今のは……」
「見間違いじゃない。隠し通路だ」
ライルは本棚へ歩み寄った。
先ほどシスターが押し込んだ本を探す。
並んだ背表紙を順に確かめ、同じ位置にある本を軽く押してみた。
何も起こらない。
別の本を押しても、反応はなかった。
「鍵が必要らしいな……」
「では、先ほどのシスターが持っている鍵を……」
「簡単に言うな。それに、あの通路の先に何があるかもわからないんだぞ」
そう言いながらも、ライルの目は本棚から離れなかった。
昼間、聖柱の内部へ入った司祭。
その直後に響いた、あの重低音。
そして今、資料室の奥に隠された通路。
この教会には、表向きの説法では語られない何かがある。
「……行くぞ」
「えっ、でも、鍵が……」
「通路の入口は開いた。あいつが鍵を使って開けたんだ。仕組みを調べれば、何とかなるかもしれない」
ライルは本棚を調べ続けた。
やがて、棚の側面にある小さな金属板を見つけた。
そこには、鍵穴のほかに、目立たない継ぎ目があった。
ライルが指先で触れる。
カチッ。
本棚の一部が、わずかに浮き上がった。
「……お兄様、今の音は?」
「何かに引っかかっただけだ。まだ開かない」
何度か試しているうちに、ライルは仕組みを理解し始めた。
どうやら、鍵を回すだけでは足りないらしい。
特定の本を押し込んだ状態で、鍵を操作する必要があるようだった。
しばらくして。
ゴゴゴゴゴ……。
本棚が、再び動いた。
「開いた……!」
ロリーナが小さく声を上げた。
「静かに」
ライルは妹を制し、通路の奥を覗き込んだ。
人ひとりが通れるほどの幅。
壁には、一定間隔で小さな灯りが埋め込まれていた。
その光は、魔法によるものとは少し違って見えた。
炎の揺らぎがない。
光の強さも、色も、一定だった。
「……こんな設備、教会にあるなんて聞いたことがない」
ライルは剣の柄に手を添えた。
「ついてこい。ただし、何があっても勝手に動くな」
「はい、お兄様」
二人は通路へ足を踏み入れた。
◇
通路は、思いのほか長かった。
石造りの教会とは違い、壁は滑らかな金属で覆われている。床も平らで、継ぎ目がほとんどなかった。
まるで、別の建物の中にいるようだった。
進むほどに、空気が冷たくなっていく。
「……どこまで続いているのでしょう」
「わからない」
ライルは短く答えた。
前方から、かすかな足音が聞こえてきた。
2人は立ち止まり、壁際に身を寄せる。
足音は一度だけ止まり、再び遠ざかっていった。
「シスターが、まだ先にいるのかもしれない」
「追いかけますの?」
「姿を見られない距離を保つ。危険だと思ったら引き返すぞ」
2人は慎重に進んだ。
しばらくすると、通路の先に大きな鉄の扉が見えてきた。
扉の脇には、壁に埋め込まれた透明な板がある。
ガラスのように見えた。
シスターは、その扉の前で立ち止まっていた。
手に持った灯りを脇へ置き、透明な板に顔を近づける。
その直後。
『リア・コーネル少尉、認証しました』
無機質な声が通路に響いた。
「しょうい……?」
ライルは、思わず呟きそうになった口を閉じた。
聞いたこともない言葉だ?
疑問が浮かぶ間にも、鉄の扉は静かに開いていった。
シスター――リア・コーネルは、慣れた様子で中へ入っていく。
扉が閉じる直前、彼女の背中がわずかに見えた。
その向こうには、白い壁ではなく、人工的な照明に照らされた通路が続いていた。
そして、扉は閉じた。
カチャン。
静寂。
ライルとロリーナは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
「……お兄様」
「……ああ。聞こえていた」
「しょうい、というのは……」
「わからない」
ライルは鉄の扉を見つめた。
「少なくとも、俺たちが知っている聖職者の肩書きじゃない」
彼は扉の脇にある透明な板へ近づいた。
表面には、文字もボタンも見当たらない。
先ほどのシスターは、ただ顔を近づけただけだった。
ライルは自分の顔を近づけてみた。
何も起こらない。
少し角度を変える。
やはり、何の反応もなかった。
「お兄様、わたくしも試してみますわ」
ロリーナも透明な板に顔を近づけた。
沈黙。
扉は、ぴくりとも動かなかった。
「……駄目ですわね」
「顔を認識しているのか、それとも何か別の仕組みなのか……」
ライルは扉の周囲を調べた。
鍵穴はない。
取っ手もない。
力ずくで開けられそうな隙間も見当たらなかった。
剣でこじ開けることも考えたが、そんなことをすれば大きな音が出る。そもそも、これほど頑丈な扉を破壊できる保証もない。
「……ここまでだな」
「戻りますの?」
「ああ。中に入れない以上、これ以上は危険だ。あのシスターが戻ってきたら、逃げ道もなくなる」
ロリーナは不満そうに唇を尖らせたが、素直に頷いた。
「……わかりましたわ」
2人は来た道を引き返した。
◇
資料室に戻ったとき、ライルはようやく安堵の息を吐いた。
だが、すぐに顔をしかめた。
「……しまった」
「どうしましたの?」
「扉だ。シスターが、鍵をかけた」
資料室の扉を確かめる。
案の定、鍵がかかっていた。
取っ手を回しても、扉は開かない。
「お兄様が開けたときのように、鍵を使えば……」
「これはそう単純な構造じゃない」
ライルは額に手を当てた。
隠し通路を見つけたのはいい。
しかし、帰り道を塞がれてしまった。
これでは、教会の人間が来るまで部屋に閉じ込められたままだ。
「……窓から出るしかないな」
ライルは室内を見渡し、壁際にある窓へ向かった。
幸い、資料室は一階にあった。
窓の鍵を外し、そっと開ける。
冷たい夜風が吹き込んできた。
外には、教会の裏庭が広がっている。
人影はない。
「先に俺が出る。お前は、俺の手をつかめ」
「はい」
ライルは窓枠を乗り越え、地面へ降り立った。
それからロリーナの手を取り、慎重に外へ降ろす。
着地したロリーナは、外套についた埃を払った。
「……まったく。夜中に教会へ忍び込んで、窓から逃げ出すなんて」
「お前がついてきたせいでもあるんだぞ」
「わ、わたくしだけのせいではありませんわ!」
「声が大きい!」
「……っ」
2人は顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく、小さく息を吐いた。
こんな状況なのに、少しだけ可笑しかった。
しかし、ライルはすぐに表情を引き締めた。
「……帰るぞ」
「はい、お兄様」
2人は裏庭を横切り、塀の陰を通って教会を離れた。
夜の街は、相変わらず静かだった。
だが、ライルの胸の中には、いくつもの疑問が渦巻いていた。
聖転の直後に響く、あの音。
教会の地下に隠された通路。
あの鉄の扉の向こうには、何があるのか。
なぜ、聖職者がそこへ出入りしているのか。
ライルは、歩きながら拳を握りしめた。
今夜、核心にはたどり着けなかった。
それでも、一つだけ確かなことがある。
聖浄教会には、信徒たちに決して見せてはならない何かが隠されている。
そして、その秘密は――。
聖柱の向こう側へと続いているのかもしれなかった。




