聖転の恵みーーールナーク書23:6
ライルの家から、歩いて5分ほどの場所に、聖浄教会という教会があった。
白い石材で造られた大聖堂は、周囲の建物よりもひときわ高くそびえ立っている。尖塔の先端には黄金の装飾が施され、日中には遠くからでもその輝きを見ることができた。
この街に住む人々にとって、聖浄教会は特別な場所だった。
毎日、決まった時刻に祈りを捧げること。神々の教えに従うこと。そして、マナの恵みに感謝すること。
それらは、食事や睡眠と同じように、生活の一部となっていた。
その日も、大聖堂には大勢の信徒が集まっていた。
白い壁。白い床。白い天井。
装飾は少なく、余計なものは何ひとつ置かれていない。
正面には、天井を突き破るかのようにそびえ立つ巨大な白い柱があった。
聖柱。
聖浄教会が、楽園への門と呼ぶものだった。
司祭ー金の刺繡が施された白いローブに身を包んだ灰色の短髪の50代くらいの男性ーが聖柱の前に立ち、集まった信徒たちを見渡した。
「兄弟姉妹の皆さん。今日は、聖転についてお話ししましょう」
穏やかで、よく通る声だった。
信徒たちは静かに耳を傾ける。
「聖典の記録者ルナークは、こう記しています」
司祭は、手元の聖典を開いた。
「『マナの渇きを癒せぬ者よ。あなたの愛する者と、その隣人のために、聖転の恵みは備えられている』」
司祭は一度、言葉を切った。
「この言葉の意味を、皆さんはお考えになったことがあるでしょうか」
誰も答えなかった。
「人は、誰しも限りある存在です。どれほど善良な者であっても、どれほど多くの人を愛していても、いつかはマナの渇きに直面します。そして、すべての人が、その渇きを癒やせるわけではありません」
司祭は、ゆっくりと両腕を広げた。
「しかし、悲しむ必要はないのです。なぜなら、私たちには聖転があるからです」
その言葉に、信徒たちは静かに頷いた。
「この大聖堂を見渡してごらんなさい」
司祭が片手を掲げる。
「壁も、床も、天井も、ひとつの染みもない白です。なぜ白いのか。それは、ここが穢れを地上に置いてゆく場所だからです」
信徒たちは、白い壁を見上げた。
そこには、確かに染みひとつなかった。
「人は地上に生きる限り、さまざまなものを背負います。悩み、苦しみ、後悔、そして、愛する者への未練。しかし、聖転を迎える者に、それらを背負い続ける必要はありません」
司祭は、今度は正面の聖柱を指し示した。
「皆さんの正面に立つ、あの巨大な聖柱。天を支えるかのようにそびえる、あの白き柱こそ、楽園へ通じるただ一つの門なのです」
大聖堂の中に、静かなざわめきが広がった。
聖柱を見つめる人々の表情には、畏敬と安堵が浮かんでいた。
「マナの渇きに苦しむ者が、その時を迎えたなら、教会は白き衣を用意いたします」
司祭は、祭壇の脇に置かれた白い布を手に取った。
「縫い目すら見えぬ、汚れなき衣です」
白い布が、照明の光を受けて輝いた。
「それに袖を通した者は、もはや渇いた者ではありません。召される者です」
司祭の声は、いっそう柔らかくなった。
「私たちは、その方の手をとり、聖柱の前へお連れします」
彼は聖柱へ向き直った。
「白き扉が、音もなく左右に開きます。中は広く、静かで、何もありません。何も要らないからです」
信徒たちは息を潜めた。
「その方が中へ進み、こちらへ振り返ったとき……」
司祭は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「扉は、静かに閉じてゆきます」
大聖堂に、沈黙が落ちた。
司祭は聖典を閉じ、胸の前で両手を組んだ。
「その瞬間、私たちは、その方が地上で背負ってきたすべての苦しみから解放されたことを知るのです。渇きも、痛みも、恐れも、もうありません」
彼は、信徒たちを見渡した。
「ですから、皆さん。聖転を恐れてはなりません。愛する者が聖転を迎えるとき、悲しみに囚われるのではなく、その方が恵みを受けることを喜びましょう」
あちこちから、すすり泣く声が聞こえた。
信徒の一人が、震える声で尋ねた。
「司祭様……聖転を迎えた者は、本当に楽園へ行けるのでしょうか」
「もちろんです」
司祭は、迷いなく答えた。
「聖柱の向こうに何があるのか。それを地上に残る私たちが知る術はありません。大切なのは、神々の恵みを信じることです」
信徒は、涙を拭いながら頷いた。
「ありがとうございます、司祭様……」
「あなたの信仰に、創世神の祝福がありますように」
司祭は優しく微笑んだ。
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説法が終わり、大聖堂に静寂が戻った。
信徒たちが祈りを捧げる中、正面の大扉がゆっくりと開いた。
入ってきたのは、神父とシスター達に連れて来られた全身を純白の衣で包んだ男女だった。
年齢も、体格も、さまざまだった。老人もいれば、まだ若い者もいる。皆、顔色が悪く、足取りはおぼつかなかった。
その後ろには、彼らの家族と思われる人々が付き添っていた。
母親に手を引かれた幼い子供。夫の腕を支える妻。老いた父親に寄り添う娘。
彼らの表情には、深い悲しみが刻まれていた。
司祭の傍らにいたシスターが、そっと近づき、耳打ちした。
「隔離居住地域よりマナ欠乏者を移送しました。侵蝕レベル1.9です」
司祭は小さく頷いた。
「直ちに始めましょう」
そして、祭壇の前に立つと、集まった信徒たちへ向き直った。
「兄弟姉妹の皆さん。今、ここに、聖転の恵みを受ける方々がいらっしゃいました」
白い衣を着た人々が、ゆっくりと聖柱へ向かって歩き始めた。
その瞬間、付き添っていた家族たちが、次々と彼らに駆け寄った。
「お母さん……!」
「あなた、どうか……どうか、お元気で……!」
「父さん、嫌だよ……! 行かないで……!」
泣き声が大聖堂に響き渡った。
白い衣を着た女性が、幼い娘を抱きしめた。
「泣かないで。大丈夫よ」
彼女は、娘の頬を優しく撫でた。
「お母さんはね、これから楽園へ行くの。もう苦しくないのよ」
「でも……でも、お母さん……!」
「いい子ね。あなたは、ここで幸せに暮らすのよ」
女性は笑顔を作った。
その頬を、涙が伝っていた。
別の場所では、老いた男性が、妻の手を握っていた。
「すまんな……お前を1人にしてしまう」
「何を言っているの……。あなたは、何も悪くないわ」
妻は夫の手を両手で包み込み、何度も頷いた。
「神々が、あなたを楽園へ導いてくださるのよ。だから……だから、安心して……」
そう言いながら、彼女は声を押し殺して泣いた。
誰もが、別れを惜しんでいた。
誰もが、愛する者を失いたくないと思っていた。
それでも、彼らは聖転を拒まなかった。
拒んではならないと、教えられていたからだ。
司祭は、その光景を静かに見守っていた。
やがて、家族たちが少しずつ身を引くと、司祭は再び口を開いた。
「皆さんも、聞いたことがあるでしょう」
穏やかな声が、大聖堂に響いた。
「ゴオッ、という、あの響きを」
信徒たちの表情が、一斉に引き締まった。
「恐れることはありません。あれは天の息吹です。楽園が、その方を迎え入れる音なのです」
司祭は聖柱を見上げた。
「扉が再び開くとき、そこにはもう誰もおりません。渇きも、苦しみも、存在しない。完全に、その方は導かれたのです」
信徒たちは、静かに頷いた。
「ですから、兄弟姉妹よ」
司祭は、白い衣を着た人々へ視線を向けた。
「愛する者がその時を迎えたなら、引き留めてはなりません。泣いてもよい。けれど、その手を握って、白き門まで共に歩きなさい」
彼は胸の前で両手を組んだ。
「それがあなたにできる、最も深い愛なのですから」
そして、最後に告げた。
「マナの満ちる日まで」
信徒たちが一斉に頭を垂れた。
聖転の儀式が始まった。
◇
白い衣を着た人々は、聖柱の前に整列させられた。
柱の根元には、扉があった。
壁と見分けがつかないほど白い扉だった。
継ぎ目も、取っ手も見当たらない。
それでも、司祭が手をかざすと、扉は音もなく左右に開いた。
その向こうには、白い空間が広がっていた。
奥行きはわからない。
壁も床も天井も、すべてが白い。
空間全体が均一に明るかった。
そこには何もなかった。
家具も、装飾も、祭壇もない。
ただ、白い空間があるだけだった。
「さあ、参りましょう」
司祭が優しく促した。
白い衣を着た人々は、一人ずつ中へ入っていった。
そのたびに、家族たちが泣きながら手を振った。
「お母さん……!」
「あなた……!」
「父さん、ありがとう……!」
最後の一人が、扉の前で立ち止まった。
白い衣を着た若い男性だった。
彼は振り返り、後ろに立つ女性を見つめた。
「……すまない」
「謝らないで」
女性は涙で濡れた顔を上げた。
「あなたは何も悪くない。だから……どうか、安らかに」
男性は何かを言おうとした。
しかし、言葉は出てこなかった。
彼はただ、何度も頷いた。
そして、白い空間へと足を踏み入れた。
司祭が静かに手を下ろす。
扉が閉じ始めた。
左右から迫る白い扉の隙間が、少しずつ狭くなっていく。
男性は、最後までこちらを振り返っていた。
やがて、その姿が見えなくなった。
扉が閉じた。
その瞬間だった。
――ゴオオオオオ
大聖堂に低く重い音が響いた。
まるで、巨大な何かが息を吐き出したかのようだった。
信徒たちは、誰一人として動かなかった。
ただ、目を閉じ、胸の前で手を組んでいた。
やがて、音が止んだ。
静寂が戻った。
司祭は、深く頭を垂れた。
「……天の息吹が、彼らを迎え入れました」
その言葉を聞いた女性が、膝から崩れ落ちた。
「あなた……っ!」
声にならない嗚咽が漏れた。
周囲の信徒たちが、彼女の肩を支えた。
「どうか、悲しまないでください」
「ご主人は、楽園へ召されたのです」
「神々の祝福がありますように……」
慰めの言葉が、次々と掛けられた。
女性は泣き続けた。
聖転を迎えた者は、楽園へ導かれたのだ。
そう、誰もが信じていた。
◇
大聖堂の後方。
ライルとロリーナもまた、一連の儀式を見つめていた。
ロリーナは、いつの間にか兄の袖を握りしめていた。
「……お兄様」
「ああ」
「今の方々は……本当に、楽園へ行かれたのでしょうか」
ライルは、すぐには答えなかった。
聖柱を見つめる。
白い扉は、すでに閉ざされていた。
「……教会は、そう言っている」
「そう、ですわね……」
ロリーナは俯いた。
先ほど、白い衣を着た女性が娘を抱きしめていた姿が、頭から離れなかった。
あの女性は、もう戻ってこない。
娘も、それを理解している。
それでも、母親は笑顔を作り、娘を安心させようとしていた。
なぜ、あんなにも苦しそうに笑わなければならなかったのだろう。
マナが不足すれば、身体に不調が現れる。
さらに不足すれば、生命に関わる。
それは、この世界で暮らす者なら誰もが知っている常識だった。
しかし、だからといって、あのような儀式が必要なのか。
白い扉の向こうに、何があるのか。
ライルは、考え込むように眉を寄せた。
ロリーナは、聖柱を見上げた。
白く、巨大で、神聖な柱。
人々は、そこに救いがあると信じている。
だが、彼女の胸には、説明のつかない違和感が残っていた。
あの低い音。
扉が閉じた直後に響いた、地の底から聞こえるような音。
あれは、本当に天の息吹なのだろうか。
それとも――。
「……お兄様」
「なんだ?」
「わたくし、少し怖いですわ」
ライルは、妹の顔を見た。
ロリーナは聖柱から目を離さなかった。
「神々が本当にわたくしたちを見守ってくださっているのなら……どうして、あの方々は泣きながら楽園へ行かなければならないのでしょう」
ライルは何も言わなかった。
ただ、妹の肩にそっと手を置いた。
その手の温もりを感じながら、ロリーナは静かに息を吐いた。




