ロリーナとライルと祈り
ロリーナ・メスガキが目を覚ましたとき、最初に目に入ったのは、見慣れない天井だった。
「……ここは?」
身体を起こそうとして、ふと、自分が柔らかなベッドに寝かされていることに気づいた。
周囲を見渡す。
質素な家具。整然と並んだ本。壁に掛けられた騎士の剣。そして、窓から差し込む夕暮れの光。
ここは、王都の騎士宿舎にあるライルの部屋だった。
「ようやく目が覚めたか」
部屋の隅から声がした。
振り向くと、兄のライルが椅子に座っていた。短い銀髪に、落ち着いた茶色の瞳。鎧は脱いでおり、簡素なシャツ姿だった。
「……お兄様?」
「そうだ。ほかに誰がいる?」
「わ、わたくしは……」
ロリーナは額に手を当てた。
記憶が混乱している。
ヤロウ・ザーコの店でクズオと再会したこと。自分の意思に反して騎士たちに襲いかかったこと。そして、最後に見た兄の顔。
「わたくし……お兄様に……」
「首筋に軽く一撃を入れた。あのままじゃ、お前は自分の意思とは関係なく、騎士たちを攻撃し続けていただろうからな」
「…………」
ロリーナは、唇を噛んだ。
自分の身体を、自分の意思で動かせなかった。
あの感覚を思い出すだけで、胸の奥が冷たくなる。
「わたくしは……クズオの命令に従わされていたのですね」
「ああ。あいつの奴隷魔法だ」
ライルは苦々しげに答えた。
「ただ、どうやら魔法そのものが未熟だったらしい。お前があいつから離れたことで、攻撃命令を維持できなくなったようだ。今はもう、身体を乗っ取られるような感覚はないんだろう?」
「……はい」
ロリーナは、自分の手を見つめた。
指を動かす。
手を握り、開く。
自分の意思どおりに動く。
それだけのことが、今はひどくありがたかった。
安堵した途端、さまざまな感情が押し寄せてきた。
悔しさ。恐怖。そして、兄に助けられたことへの戸惑い。
かつてのロリーナなら、兄に弱みを見せることなど考えられなかっただろう。
しかし、今は違った。
「……ありがとうございます、お兄様」
小さな声だった。
ライルは一瞬、目を丸くした。
「なんだ、急に。礼なんていらない」
「それでも、ですわ」
ロリーナは顔を背けた。
「わたくしは……お兄様に助けていただきました。それは、事実ですもの」
「……そうか」
ライルはそれ以上、何も言わなかった。
妹の頬が、ほんの少し赤くなっていたからだ。
そして、気まずい沈黙が訪れた。
兄妹でありながら、二人は長い間、まともに話す機会を持たなかった。
家の中では、母ミオナが絶対的な権力を握っていた。
メスガキ家は女系の家。家督を継ぐ資格を持たなかったライルは、家を出て騎士になった。
一方、ロリーナは母のもとで育ち、交渉術と家の権力を学んだ。
互いに相手を嫌っていたわけではない。
ただ、どう接すればよいのか、わからなかったのだ。
ライルは、そっと立ち上がった。
「……夕食を用意する。お前も食べるだろう?」
「え、ええ。いただきますわ」
「そうか。少し待っていろ」
ライルが部屋を出ていく。
ロリーナは、その背中をぼんやりと見送った。
やがて、温かなスープの香りが漂ってきた。
◇
午後6時。
テーブルには、湯気の立つスープと、硬めのパンが二人分並んでいた。
豪華な料理ではない。
しかし、スープには野菜と肉がたっぷり入っており、丁寧に煮込まれたことがわかった。
「……お兄様が、お料理を?」
「騎士宿舎にいた頃から、自分で作っていた。大したものじゃないがな」
「そ、そうですの……」
ロリーナは椅子に座った。
ライルも向かい側に腰を下ろす。
「それじゃあ、食べよう」
「いただきますわ」
二人はスプーンを手に取った。
最初の数分間、会話はなかった。
スープをすする音と、パンをちぎる音だけが部屋に響く。
ロリーナは、ちらりと兄を見た。
兄は黙々と食事をしている。
昔から、あまり口数の多い人ではなかった。
だが、こうして向かい合って食事をするのは、いったい何年ぶりだろう。
「……お兄様」
「ん?」
「お仕事は、よろしいのですか?」
「ああ。今日は休みを取っている。お前を放っておくわけにもいかないからな」
「……わたくしのために?」
「ほかに誰がいる?」
ロリーナはスプーンを握り直した。
「……ありがとうございます」
「だから、礼はいらないって」
「で、ですが……」
「それより、スープが冷めるぞ」
「わ、わかっていますわ!」
思わず声が大きくなった。
ライルは、わずかに口元を緩めた。
「元気そうで何よりだ」
「なっ……!わたくしは、いつだって元気ですわ!」
「そうか。なら、もっと食べろ」
ライルは自分のパンを一切れ、妹の皿に置いた。
「…………」
ロリーナは、しばらくそのパンを見つめていた。
こんなことをされるのは、初めてだった。
いや、正確には、幼い頃にはあったのかもしれない。
しかし、母の期待に応えようとし、家の中での立場を守ろうとするうちに、いつしか兄との距離は遠くなっていた。
「……お兄様は」
「なんだ?」
「お母様のことを……恨んでいらっしゃるのですか?」
ライルの手が止まった。
しばらくして、彼はスープの器を置いた。
「……恨んでいないと言えば、嘘になる」
「…………」
「だが、今さら恨んだところで、何かが変わるわけでもない。それに、母上なりの考えがあったんだろう」
「……お兄様は、お優しいのですね」
「そうか?」
「ええ。わたくしなら……きっと、許せませんわ」
ロリーナは視線を落とした。
自分もまた、母のやり方を当然のものとして受け入れていた。
兄が家を出たとき、寂しいと思ったことはある。
けれど、家の決まりだから仕方がないと、自分に言い聞かせていた。
その結果、兄と話すことすらなくなった。
「……わたくしも、ひどい妹でしたわね」
「何を言っているんだ?」
「だって……」
「ロリーナ」
ライルは、妹の言葉を遮った。
「過ぎたことを、全部自分の責任にする必要はない。お前はまだ、これからどうするかを決められる」
「……これから」
「ああ」
ライルは、少しだけ迷ったあと、口を開いた。
「ロリーナ。俺の家で暮らせ」
「……え?」
ロリーナは顔を上げた。
「お、お兄様のお家で……?」
「そうだ。ここなら、少なくともあいつに好き勝手されることはない。俺も近くにいる」
「で、ですが、わたくしは……」
ライルは少し照れくさそうに頬をかいた。
「その……兄妹なんだから、遠慮するな」
ロリーナは、言葉を失った。
兄妹。
当たり前のはずなのに、その言葉が妙に胸に響いた。
自分が失ったもの。
自分が、これまで顧みようとしなかったもの。
それが、目の前にあった。
「…………」
ロリーナは俯いた。
「……少し、考えさせてくださいませ」
「ああ。もちろんだ」
ライルは、それ以上何も言わなかった。
二人は再び食事を始めた。
先ほどまでの沈黙とは、少しだけ違う静けさだった。
◇
午後8時。
食事を終えた二人は、部屋の中央に並んで立っていた。
この世界では、午後8時になると、誰もが神への祈りを捧げる。
創世神をはじめとする神々。
彼らが世界を創造し、日々の暮らしを見守っている。
祈りの作法は簡単だ。
目を閉じ、両手を胸の前で組み、心の中で感謝を捧げる。
ライルが静かに目を閉じた。
ロリーナも、それに倣う。
――神々よ。
今日も一日、無事に過ごせたことに感謝いたします。
どうか、明日も……。
そのとき。
二人の脳内に、澄み切った声が響き渡った。
『日頃より弊社の「力場」をご利用くださり、誠にありがとうございます』
ロリーナの眉が、ぴくりと動いた。
祈りの最中に聞こえてくる、いつもの声。
創世神の御言葉。
あるいは、神々に仕える者たちの声だと、一般には信じられていた。
『本日の貴方の消費クレジットは、2000マナになります。明日の午後1時に自動徴収されます』
淡々とした口調だった。
そこには慈悲も、威厳もない。
ただ、事務的な案内だけが続いていく。
『なお、マナ残高がマイナスになった場合、身体能力の一部に影響が出ます』
ロリーナは、目を閉じたまま息を潜めた。
なぜ、神々は魔力の請求をするのだろう。
いや、そもそも――。
『場合によっては、あなた自身または周囲の方々の生命を危機にさらすことをご了承ください』
声が途切れた。
部屋には、再び静寂が戻った。
ライルはゆっくりと目を開けた。
ロリーナも、目を開ける。
2人は顔を見合わせた。
「…………」
「…………」
先に口を開いたのは、ライルだった。
「……いつものことだ」
「……お兄様は、あの声を神々の御言葉だとお考えですの?」
「そう教えられてきたからな」
「ですが……」
ロリーナは、言いかけて口を閉じた。
神々の声。
そう呼ばれているものの正体を、彼女は知らない。
ただ、あの声が告げた内容は、はっきりと理解できた。
今日、自分たちが消費した魔力。
明日、徴収される魔力。
残高が足りなければ、身体がまともに動かなくなるかもしれない。
そして、最悪の場合は命さえ危険にさらされる。
「……お兄様」
「なんだ?」
「神々は、わたくしたちから何を徴収しているのでしょう?」
ライルは答えなかった。
答えられなかったのだ。
人々は神々に祈り、神々の声に従い、神々が定めた規則の中で生きている。
それが当たり前だった。
ロリーナは、もう一度、先ほどの言葉を思い返した。
――日頃より弊社の「力場」をご利用くださり、誠にありがとうございます。
弊社。
その一言が、耳の奥に残っていた。
神々は、なぜ自らを「弊社」と呼ぶのだろう。
そして、なぜ人々は、それを疑問に思わないのだろう。
ロリーナは、そっと両手を握りしめた。
自分は、これまで多くのものを当然だと思って生きてきた。
家の掟も。
マナレベルによって人の価値が決まることも。
神々の声に従うことも。
だが、クズオに支配されたあの日、自分の意思がどれほど簡単に奪われるのかを知った。
そして今、神々と呼ばれる存在が、自分たちの命にまで値段をつけている。
「…………」
ロリーナは、顔を上げた。
「お兄様」
「ん?」
「わたくし……もう少し、この世界について知りたいですわ」
ライルは妹を見つめた。
その瞳には、かつての傲慢さとは違う、確かな意志が宿っていた。
「……そうか」
ライルは静かに頷いた。
「なら、まずはゆっくり休め。明日から考えればいい」
「……はい」
2人は、もう一度だけ、胸の前で手を組んだ。
しかし今度は、神々に何かを願うことはなかった。
ただ、互いがそこにいることを確かめるように、静かに目を閉じた。




