午前4時45分の足音
午前四時四十五分。
地下螺旋収容塔に、奇妙な光景があった。
看守長が、階段を降りていた。
全身はべっとりと血にまみれ、白いエプロンも、白い手袋も、もはや元の色が分からないほど赤黒く染まっている。右手に握られた大鉈からは、まだ新しい血が滴り落ちていた。
ギィ……。ギィ……。
巨大な刃が石段を擦るたび、不快な金属音が塔の吹き抜けに響く。
それでも看守長は、何事もなかったかのように階段を降りていった。
そして、その少し後ろ。
三つの人影が、音もなく続いていた。
銀色の長い髪を揺らす女。
水色のボブヘアの少女。
桃色のツインテールの少女。
ミオナ、クー、ヤンだった。
「……は?」
自分の牢の中からその光景を目撃したクズオは、思わず目を疑った。
あの三人は、確かに昨夜、最上階の牢にいたはずだ。
しかも、看守長の少し後ろを歩いている。
いったい何が起きているのか。
「お、おい!お前ら、何で外にいるんだよ!」
クズオは鉄格子に駆け寄り、声を上げた。
ミオナが足を止めた。
ゆっくりと顔だけをこちらへ向ける。
その目に浮かんでいたのは、驚きでも、焦りでもなかった。
ただ、露骨な嫌悪感だった。
「……静かにしてちょうだい」
囁くような声だった。
それだけ言うと、ミオナは再び前を向いた。
「はあ!?おい、待てよ!俺にも説明しろ!」
クズオの呼びかけを無視して、三人は階段を下りていく。
クーは一度だけ、冷たい視線をクズオに向けた。
ヤンは何か言いたそうに口元を緩めたが、ミオナに続いて黙ったまま通り過ぎた。
「ふざけんな!俺を無視するんじゃねえ!」
クズオも牢から出ようとした。
ところが。
ガッ。
「ぐっ……!」
鉄格子はビクともしなかった。
彼は慌てて足元を確認し、扉の横にある魔力ゲージを見上げた。
ガラス管の中には、まだほんの少しだけ魔力が残っていた。
「な、何だよ、これ……!」
昨夜、自分で満たした魔力ゲージは、時間とともに減少していく。
それが空になるまでは、牢から出られない。
つまり、あの三人は何らかの方法で、看守長が巡回している最中に牢の外へ出ていたのだ。
クズオの脳裏に、嫌な考えがよぎった。
――まさか、看守長とつながっているのか?
いや、そんなはずはない。
あんな化け物と、どうやって話をつけるというのだ。
そもそも、看守長は昨夜も大鉈を振るい、魔力ゲージの空になった囚人を容赦なく解体していた。
そんな相手に、交渉など通じるはずがない。
ならば、何か別の方法があるのか。
ミオナたちだけが知っている、脱獄の手段が。
「くそっ……! あいつら、俺に隠してやがる!」
クズオが歯噛みした、そのときだった。
塔の下層から、重々しい金属音が響いた。
ガガガガ……。
ギィィィ……ン。
金属製の扉が開き、そして閉まる音。
看守長が、どこかへ帰っていったのだろうか。
クズオは息を潜め、耳を澄ませた。
やがて、塔の中は再び静寂に包まれた。
しかし。
ガガガガ……。
再び、金属製の扉が開く音がした。
「……何だ?」
今度は、複数の足音が聞こえた。
タッ、タッ、タッ、タッ……。
硬い靴底が石床を叩く音が、遠くから近づき、やがて遠ざかっていく。
その足音は、看守長のものとは明らかに違っていた。
看守長の足音は、重く、鈍い。
まるで巨大な獣が歩いているかのようだった。
だが、今聞こえた足音は違う。
複数人の人間が、整然と歩いているような音だった。
そして、しばらくすると、その音も聞こえなくなった。
クズオは鉄格子にしがみついたまま、暗い階段を見つめていた。
何かが起きている。
間違いなく、この塔では何かが起きている。
だが、それが何なのか、彼にはまったく分からなかった。
午前5時。
その瞬間だった。
――ガチャン。
地の底から、重々しい鍵の閉まる音が響いた。
まるで、巨大な扉に何重もの錠前がかけられたかのような音だった。
そして、それと同時に。
クズオの牢の横にある魔力ゲージが、完全に空になった。
カチリ。
鉄格子の鍵が外れる音がした。
ガコンッ!
塔のあちこちで、牢の扉が一斉に開いた。
「……は?」
クズオは、開いた扉を呆然と見つめた。
昨夜まで、魔力ゲージが空になれば看守長に殺されると思っていた。
実際、目の前でそうなった囚人もいた。
それなのに、今は違う。
午前5時になると、塔のどこかで鍵が閉まる音がし、それを合図に牢が一斉に解放される。
まるで、夜の間だけ何かを閉じ込めていたかのように。
「……何なんだよ、ここは」
クズオは震える声で呟いた。
しかし、答える者はいなかった。
その日の午前中、クズオは地下水路へ向かった。
昨日と同じように、スライムの駆除作業に参加するためだった。
そして、周囲を見回した。
銀色の長い髪。
水色のボブヘア。
桃色のツインテール。
あの3人を探したのだ。
だが、どこにもいなかった。
地下水路にいる囚人たちに尋ねても、誰もミオナたちの姿を見ていないという。
昨日まで、あれほど頻繁に地下水路へ出入りしていた3人が、忽然と姿を消していた。
「……ちっ。どこに行きやがった」
クズオは苛立たしげに唾を吐いた。
昨夜、あの3人が看守長の後ろを歩いていたこと。
午前5時に鍵の閉まる音がしたこと。
そして、その直後に牢が一斉に開いたこと。
それらが無関係だとは、どうしても思えなかった。
だが、クズオには確かめる方法がなかった。
ただ一つ、彼の頭に残ったものがあった。
ライオットの言葉だ。
『上からは無理だが、下なら……』
「……そうか」
クズオの顔に、いつもの薄気味悪い笑みが浮かんだ。
「看守長の出入りする扉だ。そこに何かあるんだ」
もちろん、それは彼の勝手な推測にすぎなかった。
それでもクズオは、自分に都合のいい解釈を疑わなかった。
「俺は選ばれた人間なんだぞ。こんな場所で一生を終えるわけがない」
彼は拳を握りしめた。
「待ってろよ……。必ず脱獄してやるからな」
そのとき、背後から声がした。
「おい、新入り。仕事をサボるな」
「ひっ!?」
振り返ると、作業監督の囚人が腕を組んで立っていた。
「スライムをあと十匹だ。終わらなきゃ、今日の賃金はなしだからな」
「な、何だと!?俺はキモオジ家の跡取りだぞ!」
「知らねえよ。ここじゃ全員、ただの囚人だ」
男は鼻で笑い、歩き去った。
クズオは顔を真っ赤にした。
しかし、言い返すことはできなかった。
ここでは、家柄も、肩書きも、過去の栄光も通用しない。
必要なのは、今日を生き延びるための魔力と金だけだった。
クズオはスライムの詰まった水路へ向き直った。
そして、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……絶対に、出てやる」
その決意が、彼をどこへ導くことになるのか。
まだ、誰も知らなかった。
**************
その日の夕方。
地下螺旋収容塔には、いつものように橙色の魔法灯がともり始めていた。
囚人たちは牢から出て、通路に並んだ屋台で食事を買い、酒を飲み、仲間たちと談笑している。肉の焼ける香ばしい匂いが漂い、あちこちから笑い声が聞こえてきた。
数時間後には、再びあの看守長が現れるというのに。
囚人たちは、まるでそれが当たり前であるかのように、束の間の自由を楽しんでいた。
クズオは、自分の牢の前に置かれた椅子に腰を下ろし、隣の牢を覗き込んだ。
そこには、金属製の小さな容器を片手に持ったライオットがいた。
「おい、ライオット」
「……何だ、新入り」
ライオットは容器を口元に運び、酒を一口飲んだ。
「ちょっと聞きたいことがある」
「ほう。今度は何を企んでる?」
「企むとは失礼な!俺はただ、脱獄の方法を探しているだけだ!」
「同じことだろうが」
ライオットは呆れたように肩をすくめた。
クズオは周囲を確認すると、声を潜めた。
「今朝のことなんだが……。最上階にいた女3人を見たんだ」
「女3人?」
「銀髪の女と、水色の髪の女、それからピンク色の髪の女だ。お前も知ってるだろう?」
「ああ、ミオナたちか」
ライオットは特に驚いた様子もなく答えた。
「そうだ!あいつらだ!午前4時45分頃、看守長の後ろを歩いていたんだよ!」
「……それで?」
「あいつらは牢の外にいたんだ!看守長があんなに近くにいるのにだぞ!?俺たちは夜中に外へ出たら殺されるんじゃなかったのか?何でだ?」
ライオットは、しばらく黙ってクズオを見つめた。
「看守長は、活動時間を厳守する」
「……活動時間?」
「奴は決められた時間に巡回を始め、決められた時間に戻る。どれだけ仕事が残っていようとな」
ライオットの声は、先ほどまでよりも低くなった。
「だから、帰るまでの時間が足りなくなったときは、後ろを振り向かない」
「後ろを……振り向かない?」
「ああ。途中で誰かが騒ごうが、逃げようが、そいつの帰還時間を過ぎていれば追いかけない。奴にとって重要なのは、決められた時間に戻ることなんだろうよ」
クズオは目を見開いた。
つまり、看守長が帰る直前ならば、目の前を通り過ぎたとしても追いかけられない可能性があるということだ。
もちろん、帰還時間より前に見つかれば話は別だろう。
だが、看守長の行動には、明確な制約がある。
そこに付け入る隙があるのではないか。
クズオは続けて尋ねる。
「じゃあ、あの3人は何で午前5時前に外に出られた?」
「恐らく、魔力ゲージを途中までしか充填してないんだな」
「……は?」
「だから、途中で魔力切れを起こして、扉が開いたんだろう」
ライオットは、隣の牢の扉に取り付けられた細長いガラス管を指差した。
「魔力ゲージは、半分以上貯めないと鍵がかからねえ。最低限、それ以上は必要だがな」
「ま、待て!つまり、魔力ゲージを半分ちょっとだけ貯めておけば、夜中に牢から出られるってことか!?」
「理屈の上ではな」
「だったら、どうして誰も教えてくれなかったんだ!」
「教える義理がねえからだろ」
「ぐっ……!」
クズオは言葉に詰まった。
確かに、ここにいる囚人たちは、誰も彼を助けようとはしない。
むしろ、彼が困っている様子を見て、面白がっている者さえいる。
それにしても。
魔力ゲージを半分以上貯めておけば、鍵がかかる。
そして、魔力が尽きれば扉が開く。
そんな単純な仕組みだったとは。
「ふ、ふふ……」
クズオの口元が、徐々に歪んでいった。
「そういうことか……。そういうことだったんだな!」
「おい。妙なことを考えてるんじゃねえだろうな」
「妙なことだと? 失礼な! 俺は、この収容塔の仕組みを理解しただけだ!」
クズオは立ち上がり、得意げに胸を張った。
「魔力ゲージを最低限まで貯めて、夜中に外へ出る。そして、看守長がいなくなった隙に、脱獄の手掛かりを探す! 完璧じゃないか!」
「……お前、俺の話を聞いていたか?」
「もちろんだ!」
「いや、聞いてねえな」
ライオットは深いため息をついた。
「いいか、クズオ。確かに、ミオナたちは何かを知っているのかもしれねえ。だがな、あの地下の扉の向こうに何があるか、俺にも分からねえんだ」
クズオの笑みが、わずかに引きつった。
「そ、それがどうした!」
「看守長が戻っていったあと、もう一度扉が開いた。今度は複数人の足音が聞こえた。お前が見たという3人が、その足音の主だったのかどうかも分からねえ」
ライオットは容器を傾け、残った酒を飲み干した。
「軽率なことはやめておけ」
「……何だよ。お前、元ギルドマスターなんだろ? だったら、何か知ってるんじゃないのか?」
「知っていたとしても、お前に話す義理はねえな」
「なっ……!」
「それに、ここは普通の迷宮じゃねえ。魔物を倒して宝箱を開ければ終わり、なんて都合のいい場所じゃないんだ」
ライオットの声から、いつもの軽薄さが消えていた。
「ここじゃ、知らないことに首を突っ込んだ奴から死んでいく」
クズオは反論しようとした。
しかし、ライオットの目を見た瞬間、言葉が喉に詰まった。
酒に酔っているように見える男の目は、少しも酔っていなかった。
長い年月、危険な場所で生き抜いてきた人間の目だった。
「……ふん。脅かしたって無駄だぞ」
クズオは顔を背けた。
「俺は選ばれた人間なんだ。こんなところで一生を終えるわけがない」
「そうかい」
ライオットは興味なさそうに答えた。
「なら、せいぜい選ばれた人間らしく、長生きするこった」
そう言うと、彼は金属容器をしまい、牢の奥へ引っ込んだ。
会話は終わりだった。
クズオはしばらく隣の牢を睨んでいたが、やがて自分の牢へ戻った。
扉の横には、細長い魔力ゲージがある。
今夜、満タンまで充填する必要はない。
半分以上あればいい。
そうすれば、魔力が尽きる頃には牢の扉が開く。
あとは看守長が去るのを待ち、地下へ向かうだけだ。
「……ふふふ」
クズオは、誰にも聞こえないように笑った。
ライオットは危険だと言った。
地下の扉の向こうに何があるか分からないとも言った。
だが、それは裏を返せば、まだ誰も確かめていないということだ。
そして、誰も確かめていないのなら、最初に確かめた者が利益を得られる。
それこそが、キモオジ家の跡取りである自分にふさわしい行動だ。
「待ってろよ……。明日の朝には、この塔ともおさらばだ」
クズオは魔力ゲージを見つめた。
その目には、脱獄の成功を確信した者の、根拠のない自信が宿っていた。




