兄妹の刃
ザーコ魔導具店。
「ロリーナ! もうやめろ!」
ライルは妹の短剣を受け止めながら、必死に呼びかけていた。
しかし、ロリーナの身体は止まらない。
その瞳には涙が浮かんでいる。本人は嫌がっている。それなのに、主従契約の力によって、彼女の腕は何度も短剣を振るっていた。
「くっ……!」
刃がぶつかり合う。
ライルは妹を傷つけないよう、必死に力を抑えていた。
しかし、ロリーナの動きには本人の意思とは異なる不自然さがあった。攻撃をためらっているように見えるのに、身体だけは強制されるように前へ出てくる。
「なんで……どうして、こんなことに……!」
ライルの脳裏に、幼い頃の妹の姿がよぎった。
生意気で、負けず嫌いで、いつも自分に口答えしていた妹。
そんな彼女が、今は見知らぬ誰かに操られるように、自分へ刃を向けている。
「ロリーナ! 俺の声が聞こえるか!」
ロリーナの瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
その奥に、必死に助けを求める少女の意思が見えた気がした。
ライルは剣を握りしめる。
目の前の少女を斬ることなど、できるはずがない。
だが、彼女の手にある短剣は、確かに自分へ向けられている。
そして、その向こうでは、妹をこんな目に遭わせた張本人が逃げている。
「絶対に、お前をこんな状態のままにはしない!」
ライルは歯を食いしばり、妹の短剣を受け止め続けた。
助けなければならない。
何があったのか、知らなければならない。
だが、このままでは、いずれ自分かロリーナが傷つく。
ならば、方法は一つしかなかった。
「すまん、ロリーナ!」
ライルは短剣を剣の腹で弾き、妹の懐へ踏み込んだ。
そして、首筋の急所を避けながら、手加減した一撃を入れる。
「……あっ」
ロリーナの身体から力が抜けた。
短剣が床に落ちる。
倒れかけた妹を、ライルは慌てて抱き止めた。
「ロリーナ! おい、しっかりしろ!」
返事はない。
呼吸はある。どうやら気を失っただけのようだった。
「……よかった」
ライルは安堵の息を吐き、妹をそっと床へ横たえた。
だが、安心している暇はなかった。
*
店の奥では、上級士官とヤロウの戦闘が続いていた。
ヤロウは杖を振り回しながら、騎士たちの追撃を巧みにかわしている。
しかし、彼の表情からは先ほどまでの余裕が消えていた。
「ちっ……! 思ったより大事になっちまったな」
上級士官が剣を突きつける。
「もう逃げられんぞ、ザーコ!」
「そいつは困るねえ」
ヤロウは懐に手を入れ、小さな瓶を取り出した。
中には、白っぽい粉末と液体が混ざった怪しげな物質が入っている。
「おい、待て! 何をする気だ!」
「やべえ、ここいらでずらかるか」
ヤロウは軽い調子で言い放つと、小瓶を床へ叩きつけた。
ガシャン!
瓶が砕けた瞬間、白い煙が勢いよく噴き出した。
「なっ、これは……!」
「全員、警戒しろ! 煙を吸うな!」
騎士たちが口元を覆い、煙の中で身構える。
視界が白く染まった。
数秒後。
煙が薄れ始めたときには、ヤロウの姿はどこにもなかった。
「逃げられただと……!」
上級士官が悔しげに歯を食いしばる。
店内には、破損した魔導具と割れた瓶の破片だけが残されていた。
ライルのもとに上級士官がやってきた。
「その子は?」
「……俺の妹です」
「何?」
「ロリーナ・メスガキ。間違いありません」
ライルは意識を失った妹を見つめた。
彼女の手首には、見覚えのない刻印が浮かんでいる。
「隊長。俺は妹を医療施設へ運びます。その後、必ず事情を説明します」
上級士官は短くうなずいた。
「分かった。だが、彼女も捜査上の重要人物かもしれん。医療措置を優先したうえで、詳しい事情を聞くことになる」
「承知しています」
ライルは妹を抱き上げた。
その表情には、騎士としての冷静さだけではない、強い怒りが浮かんでいた。
――いったい誰が、妹をこんな目に遭わせたのか。
その答えを知るのに、そう時間はかからないだろう。
**
王都南区、裏路地。
「ぜえっ……ぜえっ……!」
クズオ・キモオジは、壁に手をつきながら肩で息をしていた。
「くそっ……! くそっ……! なんなんだよ、いったい!」
額から汗が流れ落ちる。
普段からろくに身体を動かさないクズオにとって、全力疾走など何年ぶりのことだろうか。
太った腹が上下し、足は鉛のように重い。
「騎士団だと……? なんで俺が追われなきゃならないんだ……!」
自分が何をしたのか。
それを考えるよりも先に、クズオの頭に浮かんだのは、自分の身の安全だった。
「俺は選ばれた人間なんだぞ……! こんなところで捕まってたまるか……!」
息を整えようと、クズオは路地の壁に背中を預けた。
そのとき。
「そこのお兄さん、大丈夫ですか?」
不意に、若い女性の声がした。
「ああ? なんだよ……」
クズオは荒い息を吐きながら振り返った。
そこには、一人の女性が立っていた。
赤みのあるボサボサのセミショートヘア。小柄な体格。鋭い茶色の瞳と凛とした顔立ちには、どこかやさぐれたような影が伸びていた。
深みのある黒いジャケットが、彼女の背中を包み込み、その下には、しなやかな黒いシャツが透き通るような光を放っていた。
腰には、ベルトが巻かれており、その上には、闇ギルドの紋章が刻まれた小さなプレートが、彼女の存在を示す証のように輝いていた。
薄いグレーパンツは、彼女の小柄な体にフィットし、しなやかな黒いブーツを履いていた。
服装こそ昔とは違うが、その顔には確かな見覚えがあった。
クズオの表情が凍りついた。
「……お、お前……」
女性は、にっこりと笑った。
ただし、その笑顔には少しも温かみがなかった。
「久しぶりだな、クソ兄貴」
「メ、メアリー……?」
メアリー・キモオジ。
かつてクズオの妹だった女。
幼い頃、父と兄によって魔力を奪われ、マナレベルを引き下げられた末に、他の貴族へ売り払われた少女。
家族から守られるどころか、家族自身に人生を踏みにじられた被害者だった。
そして今、彼女は王都にいた。
「お、お前……なんで、ここに……!」
「へえ。あたしの顔、まだ覚えてたんだ?」
メアリーは一歩、クズオへ近づいた。
「安心したよ。あんたたちのことは、あたしも一日だって忘れたことがないからさ」
「ま、待て! 誤解だ! あれは父上が……!」
「誤解?」
メアリーの笑みが消えた。
「お前とクソ親父のせいで、あたしがどれだけ酷い目にあったか。きっちり、借りは返してやるよ」
彼女の手が、腰のナイフへ伸びた。
クズオの顔から血の気が引いた。
「ひっ……!」
次の瞬間、メアリーが踏み込んだ。
「死ね、クソ兄貴!」
「うわああああっ!?」
ナイフが、クズオの鼻先をかすめた。
クズオは情けない悲鳴を上げ、腹を揺らしながら横へ飛び退いた。
「お、おい! 何をするんだ! 話し合おう! なっ!?」
「話し合い?」
メアリーは容赦なく追いすがる。
「あたしが売られたとき、あんたは話し合ってくれたのか?」
「ま、待て! あれは昔の話だろ!」
「昔?」
ナイフが再び閃いた。
「こっちは、つい昨日のことみたいに覚えてるんだよ!」
「ひいいっ!」
クズオは慌てて身をよじった。
刃が服の裾を切り裂き、布切れが宙を舞う。
「や、やめろ! 俺はお前の兄貴だぞ!」
「だから何だよ!」
「家族だろうが!」
「家族!?」
メアリーの目が大きく見開かれた。
「よくもそんな言葉が口から出てくるな!」
彼女は一気に間合いを詰めた。
クズオは悲鳴を上げ、逃げ道を探して左右を見回す。
しかし、狭い路地の先は行き止まりだった。
「ひっ……! う、嘘だろ……!」
追い詰められたクズオは、壁に背中を押しつけた。
メアリーはナイフを構えたまま、ゆっくりと近づいてくる。
「さて、クソ兄貴。まずは何から返してもらおうか?」
「ま、待ってくれ! 魔力ならある!」
「魔力?」
メアリーは鼻で笑った。
「あたしの人生を奪っておいて、魔力で済むと思ってんのか?」
「ひいいいいっ! 助けてくれー!」
クズオの悲鳴が、薄暗い路地裏に響き渡った。
**
「さて、クソ兄貴。そろそろ観念したらどうだ?」
メアリーが一歩踏み出す。
クズオは情けない声を上げ、尻もちをついた。
「助けてくれー! 誰か! 騎士団! 警備兵! 誰でもいいから助けてくれえええ!」
涙目で叫ぶ姿は、選ばれた人間どころか、路地裏で追い詰められた哀れな男そのものだった。
メアリーは冷ややかな目で見下ろした。
「……本当に、何も変わってねえな」
「えっ?」
「あたしから魔力を奪ったときもそうだった。父親の後ろに隠れて、偉そうなことを言ってたくせに、自分が不利になるとすぐに誰かに助けを求める」
「そ、それは……!」
「今度こそ、逃がさねえよ」
メアリーがナイフを構え直す。
その瞬間だった。
クズオの目つきが、ほんのわずかに変わった。
「……なんてな」
「は?」
クズオは、懐に手を突っ込んだ。
そして、小型の魔法杖を取り出す。
「くたばれ!」
杖の先端が淡く光った。
直後、メアリーの足元で小さな衝撃が弾けた。
「っ!?」
不意を突かれたメアリーは体勢を崩し、石畳の上に転倒した。手にしていたナイフが、乾いた音を立てて地面を滑る。
「ははっ! ははははは!」
クズオは慌てて立ち上がると、メアリーから距離を取った。
そして、つい先ほどまでの怯えた顔が嘘だったかのように、醜悪な笑みを浮かべた。
「この俺を殺せると思ったのか? 百万年早いんだよ!」
「てめぇみてぇなバカな女が、この俺に勝てるわけねえだろうが!」
クズオは杖を振り回し、倒れたメアリーを見下ろした。
「魔力を取り戻した? だから何だってんだ! 俺には魔法がある! 生まれながらにして選ばれた、この俺にはな!」
その顔には、先ほどまでの恐怖など微塵も残っていなかった。
弱者を前にしたときだけ現れる、いつもの傲慢さ。
「いいか、よく聞けよ。てめえみてえなバカなブス女は、俺の奴隷になればいいんだよ!」
「……」
「雑用だけじゃ可哀そうだから、たまには夜の世話もさせてやるよ。俺は寛大だからな! ははははは!」
メアリーの表情から、感情が消えた。
クズオはそれに気づかない。
自分が優位に立ったと思い込み、得意げに杖を突きつけた。
「さあ、跪け! 俺に逆らったことを後悔しろ!」
そして、聞き覚えのある呪文を唱えた。
「《スレイブ》!」
魔法陣が、メアリーの足元に浮かび上がる。
クズオは勝利を確信し、口角を吊り上げた。
だが――。
何も起こらなかった。
「…………あれ?」
クズオの笑顔が固まる。
魔法陣は淡い光を放ったあと、何事もなかったかのように消滅した。
「……あれ? どうなってる?」
もう一度、杖を振る。
「《スレイブ》!」
沈黙。
「お、おい……。おいおい、嘘だろ?」
クズオは杖を見つめ、それからメアリーを見た。
メアリーはゆっくりと立ち上がり、服についた埃を払っていた。
そして、落ちていたナイフを拾い上げる。
「バカはてめえの方だろ、クソ兄貴!」
「なっ……!?」
「あたしが、いつまでマナレベル0だと思ってやがるんだ?」
クズオの顔から、再び血の気が引いていった。
「い、いつの間に魔力が回復して……!?」
「あんたに教えてやる義理はねえよ」
メアリーはナイフを指先で回し、冷たい笑みを浮かべた。
「ただ、ひとつだけ教えてやる」
「な、何を……?」
メアリーは一歩ずつ、クズオへ近づいた。
「実入りのいい仕事で魔力を稼がせてもらってるんだよ」
「……し、仕事?」
「てめえみてえな、ゴミ野郎の掃除とかな!」
「ひいいいいっ!」
クズオは悲鳴を上げ、後ずさった。
今度こそ、逃げられない。
隷属魔法は通用しない。
魔法杖を持っていても、相手を圧倒できる保証はない。
そして目の前にいるのは、かつて自分が無力な少女だと思っていた妹だった。
クズオは震える手で杖を構えた。
「ま、待て! 話し合おう! なっ? さっきのは冗談だ! 冗談に決まってるだろ!」
「へえ?」
メアリーは首を傾げた。
「じゃあ、あたしが売られたのも冗談だったのか?」
「そ、それは……!」
「あたしが何をされたか知ってるか? どんな目に遭って、どうやって生き延びたか、想像したことがあるか?」
「……っ!」
「ないよな。自分が楽しけりゃ、他人がどうなろうと知ったこっちゃねえんだから」
メアリーの声が低くなる。
「だから、あたしも遠慮しねえ」
彼女が踏み込んだ。
「うわあああっ! 来るなあああ!」
クズオは杖を振り、やみくもに魔法を放った。
小さな衝撃が石畳を砕き、壁にぶつかって火花を散らす。
だが、メアリーは攻撃の軌道を見極め、次々とかわしていく。
「おいおい、どうしたんだよ、クソ兄貴!」
「くそっ! くそっ! なんで当たらねえんだ!」
「昔みたいに、あたしが何もできずに泣きわめくと思ったか?」
メアリーは笑った。
「残念だったな。あたしはもう、あんたの知ってる妹じゃねえんだよ!」
「勘弁してくれよおおお!」
クズオの情けない叫びが、再び路地裏に響き渡った。
かつて彼が奪ったもの。
踏みにじった人生。
押しつけた苦痛。
それらが、今になって彼自身を追い詰めていた。
彼女にとって、この再会は単なる殺し合いではない。
長年の借りを、きっちり返すための時間なのだ。




