二章 過去の亡霊③
焼け跡に、また雪が降りはじめていた。小さな足跡の縁が、さっきより丸くなっている。
ノートの二本線の引いてあるページを開いた。安全は私が確かめている。その横の余白にボールペンで、転入なし 十年、と書いた。かじかんだ指で書いた字は、六年前の字より大きく右へ傾いている。
流しの横の小さな戸があったあたりへ回ると、斜面は六年前と同じように陸へ上がっていた。杉の向こうに、施設の坂と平たい屋根が見える。坂の下では、カメラを担いだ男が三脚の脚を雪に押しこんでいた。
小さな足跡を、町のほうへたどってみた。浜から上がる道の除雪車の通ったところで、足跡は黒く濡れたアスファルトに消えていた。
その道を町のほうへ上がっていくと、後ろから軽トラックが来て、横に停まった。運転席の窓が下りた。漁協の名前の入った作業着の男で、六十は過ぎていた。男は野口の顔と焼け跡のほうを順に見た。
「あんた、あの記者だべ」
野口は答えなかった。
「テレビで見た。陽菜ちゃんを逃がした運転手。また何か、こしらえに来たのか」
男は窓を上げて、雪の中を走っていった。荷台に積んだ網の束が、段差を越えるたびに跳ねた。
坂の下の空き地でカメラが一斉に同じほうを向いた。黒い車が一台、施設の坂を上っていく。後ろの席の窓は曇っていて、中は見えない。車が門の中へ消えると、マイクの女はまた門柱の前に立ちなおした。
軽に戻って、エンジンをかけた。ワイパーが雪と塩を一緒に寄せた。町を出るところで、旧道が国道に合わさる角を通った。その先に、六年前に沢井と訪ねた家の屋根が見える。煙突から細い煙が上がっていた。沢井は、全部渡しに行く、と言った。六年前、沢井の隣でずっと袋の口を押さえていた彼女を思い出した。ノートを開き、終わりのほうの名前と番号の並びを指でたどると、小松、とあった。番号をスマホに打ちこみ、発信は押さないまま、国道を宿へ戻った。
宿の前の駐車場に車を入れても、画面は発信の手前で止まっていた。エンジンを切ってから、ボタンを押した。
呼び出し音が五回鳴った。六回目の途中で途切れ、受話器の向こうで誰かが息をする気配がした。声は出なかった。駐車場の街灯の下を、雪が斜めに流れていた。
「野口です。六年前に、沢井さんと伺った」
返事はなかった。テレビの音が小さく聞こえて、すぐに消えた。音を絞ったのだろう。
「小松さんの携帯で、合っていますか」
「……合ってます」
六年前と同じ、低い声だった。
「沢井さんのことで、伺いたいことがあります」
長い間があった。電話の向こうで、戸を閉めるような音がした。
「来るなら、あしたの昼すぎに」
それだけで、電話は切れた。エンジンを切った軽の中は、もう冷えはじめている。野口は画面を見てから宿の玄関へ歩いた。
帳場で、女将が宿帳の束を揃えていた。
「鳴磯、どうだった」
「相変わらず番屋がなくなっていました」
「燃えたっきりだもの。誰も建てなおさない」
女将は宿帳を棚に戻して、帳場のストーブの火を一つ上げた。
部屋に上がって、ストーブに火を入れた。ノートの終わりのほうを開き、小松、と書いた番号の横に、あした 昼すぎ、と書き足した。
夕飯の膳が下がったあと、座卓の上でスマホが震えた。登録していない番号が出ている。市外局番は、鳴磯のあたりのものだった。
「野口くんか。大槻です」
六年前に電話で聞いたのと同じ、言葉の切れ目のはっきりした声だった。
「番号は、六年前に君から電話をもらったときのをとってあったんだ。急にすまないね」
「いえ」
「番屋を見に来てくれたそうだね。浜の者から聞いたよ。寒かったろう。あそこは、海から風がまともに来るから」
野口は返事をしなかった。大槻は気にするふうもなく、陽菜の話をした。小さいころから熱を出しやすい子だったこと。警察からは、まだ何も言ってこないこと。声は一度も途切れなかった。
「君には、迷惑をかけたね。あの晩、あの子を乗せてくれたのが君だったと、記事で知ったよ」
「仕事でしたから」
「そうか」
電話の向こうで、息を小さく吸う音がした。
「陽菜が頼るとしたら、蒼太くんの叔母さんのような人かもしれないね。あの人は、私を恨んでいるから」
「そうですか」
「何かわかったら、知らせてくれるとありがたい。夜分に悪かったね」
電話が切れた。野口はスマホを伏せて、ノートの、小松、の横の字を見た。あした 昼すぎ。電話をかけてから、まだ二時間とたっていない。大槻が知っていて言ったのか、口にしてみせて、こちらがどう動くかを見ているのか、野口にはわからなかった。あしたの約束を取り消せば、取り消したことが、どこかで誰かの耳に入るかもしれない。
階下で、振り子時計が八つ打った。
朝、帳場の脇の土間に藁の束が積んであった。主人が框に腰を下ろし、藁を三本ずつ手に取っては、膝の上で撚り合わせている。正月の注連縄だった。撚りかけの縄の先が、土間の上でとぐろを巻いていた。主人は野口に気づくと、手を止めずに顎を引いた。藁くずが、主人の膝から長靴の上へ落ちていく。
台所から女将の声がした。
「また降るって。昼から」
国道を鳴磯のほうへ走ると、ゆうべの雪が路肩に低く積まれていた。岬の手前の道は、きのうより波が低い。日曜の町は、店のシャッターがほとんど下りていた。漁港の脇の交番の前を通った。ガラス戸の奥に灯りが点いていて、若い警官が一人、机で書きものをしていた。十年前の夏、悠真の母は、ここに届けを出して、次の日に取り下げている。漁港の先で車を回して国道を戻り、旧道が国道に合わさる角を曲がった。
蒼太の叔母の家は、旧道の終わりから少し上がったところにある。生け垣の上に雪が厚く載っていて、門柱の脇まで細い道がかいてあった。煙突から、きのうと同じ細い煙が上がっている。かいた道の雪には、長靴の跡がいくつも重なっていた。大きさの違うものが、少なくとも二つある。
玄関の戸を引くと、土間の冷えた空気に灯油と線香のにおいが混じっていた。上がり框の脇の傘立てに、黒い傘が一本差してある。傘の先から水が垂れて、傘立ての底に溜まっていた。骨のあいだに、溶けきらない雪の粒がついている。こちらを向いた柄に、白い字で野口の会社の名前が刷ってあった。
土間には、女物の長靴が二足並んでいた。一足は踵がすり減っていて、もう一足はそれより小さい。小さいほうの底の溝に、黒い砂が詰まっている。
奥から足音がして、彼女が出てきた。六年前より髪が短く、頬のしわが硬くなっている。綿入れの前を片手で合わせたまま、彼女は野口の顔を見て、それから足もとを見た。長靴を見たのか、傘を見たのか、野口にはわからない。
「上がって」
茶の間のこたつの上に、湯呑みが二つ置いてあった。どちらにも、底に茶が少し残っている。彼女は野口より先に茶の間に入り、こたつの奥の側の湯呑みを取って台所の流しへ持っていった。水の音がして、すぐ止まった。戻ってきた彼女は新しい湯呑みに茶を淹れて、野口の前に置いた。
部屋の隅に、小さな水槽があった。金魚が二匹、底の砂利の上でじっとしている。ポンプの細い管から泡が上がって、水面で途切れずに鳴っていた。仏壇には、六年前の写真が三枚、同じ並びで立っている。野球帽の男の子の写真の前に、新しい菊が差してあった。
「きのう、警察が来たの」
彼女は自分の湯呑みを両手で包んで言った。
「沢井さんとの電話のこと。秋から何べんもかけてたのが、記録に残ってたって。何の話をしてたかって訊かれて、蒼太の墓参りのことって言った」
「それで、帰りましたか」
「玄関で帰った。若い刑事さんと、年の行った人と二人。陽菜さんから連絡はないかって、最後に訊かれた。ないって言った」
彼女は湯呑みに目を落としたまま、口をつけなかった。こたつの上に、手を温めるように置かれた彼女の指は、関節が赤く腫れていた。漁協の加工場で、冬のあいだも水仕事をしているのだという。
「沢井さんは、秋からどうしていましたか」
「よく来てた。蒼太の墓参りっていうのは、嘘じゃないの。月に一度は、二人で行ってた」
彼女は仏壇のほうを見た。
「秋から、あの人、よくしゃべるようになってた。前は、来ても黙ってお茶飲んで帰るだけだったのに。何かあったんだろうと思ってた。何があったかは、訊いてないけど」
「沢井さんから。あの晩、留守番電話が入っていました」
彼女の指が、湯呑みの上で止まった。
「明日の朝、陽菜ちゃんと一緒に、全部渡しに行く。そう言っていました。私は、その電話に出なかった」
「……そう」
彼女は窓のほうを向いた。生け垣の雪の上を、雀が二羽、跳ねて渡っていく。
「あの人、六年前のこと。あんたに悪いことしたって、ずっと言ってた。降りたこと。理由は、私にも言わなかったけど」
彼女は窓のほうから目を戻した。
「あの晩、陽菜ちゃんを乗せたの、あんただってね。週刊誌に出てた」
「はい」
「何も訊かないで乗せたって、書いてあった。お金も足してやったって」
野口は答えなかった。
「どんなふうだった。あの晩」
「濡れていました。寒そうで、車の中ではずっと眠っていました」
野口は、彼女の目を見て続けた。
「道の駅で降りて、旧道のほうへ歩いていきました。傘を一本、渡しました」
彼女は顔を上げなかった。
「警察には、駐車場の出口のほうへ、とだけ言いました」
彼女は何も言わなかった。水槽の泡が鳴り、台所の時計の秒針が聞こえる。しばらくして、そう、と彼女が言った。それ以上は何も言わずに立ち上がり、仏壇の前へ行って下の引き出しを開けた。中から、輪ゴムで留めた紙の束と古い通帳を一冊出した。引き出しの奥には、色の褪せた紙の箱が見えた。
彼女は通帳をこたつの上に置いて、野口のほうへ滑らせた。表紙の名義は、小松蒼太、と書いてあった。
「六年前に、見せなかったでしょう」
「はい」
「怖かったの。あの人たちが、どこまで手を回すかわからなかったから」
彼女は表紙を開いて、ページを指でめくった。最初のほうに、大きな額の入金が一行だけあった。
「兄夫婦が死んで、あの子に遺産が入ったの。それがここに入ってる。あの子は施設にいたから、通帳は施設が預かってたの。施設長さんが、親の代わりだからって」
指が、数ページ先で止まった。そこから先は、引き出しの行ばかりが続いている。五十万、三十万、五十万。一年に何度か、決まった月でもなく、まとまった額が出ていた。最後の引き出しは、二〇一六年の六月だった。
「あの子が死んでから、施設がこれを返してきたの。遺品だって。うちの両親のところに。両親は通帳なんか開かないで、箪笥にしまってた。何年か前に二人がたて続けに死んで、片づけてたら出てきた」
彼女は通帳の後ろの見返しから、二つに折った便箋を抜いて広げた。鳴磯学園の名前が刷ってある便箋で、預り金の使途、と書いた下に、日付と金額が並んでいる。学用品、通院、衣類、行事。一つずつ、もっともらしい名目がついていて、終わりに施設長の判が押してあった。
「これも、一緒に入ってた」
彼女は便箋の端を、指で弾いた。
輪ゴムの紙の束は、銀行の取引明細の写しだった。彼女が自分で窓口に行って、取ってきたものだという。引き出しの行にはどれも、窓口、としか書いていない。
「誰が引き出したのか。銀行は」
「教えてくれない。施設の人が来てたんでしょうって、それだけ」
彼女は通帳を閉じて、表紙の上に手を置いた。
「七つの子が、五十万も何に使うの」
「施設に、このことは」
「訊けるわけない」
「警察には」
「見せてない。見せたら、また来るでしょう」
襖のほうでかすかな物音がした。野口はちらりと奥へ目を向けたが、彼女は気にせず話を続けた。
「あんたに見せるのは、六年前に蒼太の名前を書かないでくれたから」
彼女は湯呑みを取って、ようやく一口飲んだ。
「あの年の七月に、あの子の後見人になるって、家庭裁判所に出したの。兄の妹だから、親族でしょう。施設に置いたままじゃなくて、ちゃんと身内が面倒を見ないとだめだと思って」
「七月の、いつごろですか」
「はじめ。出す前に、施設長さんには話してあった。礼儀だと思って」
「会って、ですか」
「電話で。平日の昼に、施設にかけた。施設長さんは、こちらでも確かめてからにしましょうって。あの子のことは、私がいちばんよくわかっていますからって」
彼女は、その言い方をそのまま真似た。
十年前の夏、施設の応接室で大槻は窓のほうを向いて、その言葉を言っていた。
「蒼太が死んだのは、その月の終わりでした」
「裁判所から連絡が来る前だった」
彼女は、施設から電話が来た朝のことを話した。階段から落ちた。職員が見ていたので、事故だという。彼女が施設に着いたときには、蒼太はもう町の葬儀屋に運ばれていて、会えたのは棺に入ってからだった。葬式は施設が全部手配した。
「施設長さんが、弔辞を読んだの。子どもたちを前に並ばせて。途中で声が詰まって、読めなくなって」
彼女は仏壇の写真のほうを見た。
「私も、あのときは泣いた。あの人の弔辞で」
彼女が顔を上げて、野口を見た。
「あんたも。あの夏、施設に来てたでしょう。沢井さんから聞いた。蒼太のこと、何か知ってた?」
「警察で、落ちるところを職員が見ていた、と言われました」
「見てたって、誰が」
「名前は教えてもらえませんでした。施設に訊いてくれ、と」
彼女は唇を結んだ。
「蒼太に会いに行くと、年上の男の子がよく一緒に遊んでくれてた。厨房で働いてるお母さんの子だって。名前は知らない。蒼太は、その子の後ばっかりついて歩いてた」
野口は、厨房、と頭の中で繰り返した。六年前、食堂の主人は悠真の母ちゃんは施設の台所で働いてた、と言った。
彼女は通帳から手を離して、自分の膝の上で両手を組んだ。
「私がこんな話を出したから、かもしれない」
声は低いままだった。
「通帳を見つけたときから、ずっとそう思ってる。私が余計なことをしなければ、あの子はいまごろ十七で、どこかで好きだった野球でもしてたかもしれない」
十年前の漁港の食堂で、沢井も同じことを言っていた。
彼女は立ち上がって、引き出しの奥の紙の箱を出してきた。蓋の角が潰れている。施設が通帳と一緒に返してきた、蒼太の遺品だった。野球帽と、名前の書かれた上履きが片方と、小学校の連絡帳が一冊入っている。彼女が連絡帳の終わりのほうを開いて見せた。七月の欄に、担任の字で一行だけ書いてある。このごろ、夜がこわいと言っています。おうちのほうでも、気にかけてあげてください。施設の返事の欄は空いたままだった。
箱の底に、四つに折った画用紙があった。
彼女は画用紙を開いて、こたつの上に置いた。クレヨンで黒い四角が描いてある。四角の真ん中に小さな人の形があって、四角の一辺に、戸の形の線が引いてあった。戸には取っ手が描いてない。
「何の絵か、わからなかったの。六年前は」
彼女は絵の端を指で押さえていた。
「沢井さんが、倉庫の話をしてくれるまで」
野口は、絵を写真に撮っていいかを訊いた。彼女はうなずいた。通帳の表紙と、引き出しの並んだページと、銀行の明細の写しと、施設の便箋も、一枚ずつ撮った。彼女は撮り終えるまで、何も言わずに野口の手もとを見ていた。
「沢井さんは、秋に、若林さんっていう人のところへ何べんか行ってた」
撮り終えたスマホを置くと、彼女が言った。
「田所さんのところで、大工をしてた人。施設の新しい棟を建てたときに、現場にいたんだって。沢井さんは、工事のことを訊きに行くって言ってた」
「若林さんの家は」
「港の裏の、坂の途中。表札が出てる」
窓の外が暗くなりはじめていた。女将の言ったとおり、昼すぎから降りだした雪が生け垣の上にまた積もっている。彼女は絵を四つに折りなおして、箱に戻した。
「書くの?」
箱の蓋を閉めながら、彼女が訊いた。
「わかりません」
彼女は蓋の上に手を置いたまま、野口の顔を見ていた。
野口が立ち上がると襖の向こうで、また畳のきしむ音がした。一度だけで、それきり何も聞こえなかった。彼女は箱の蓋から手を離さなかった。
野口はノートの終わりのページを一枚破って、自分の携帯の番号を書いた。
「何かあったら、ここに」
紙をこたつの上の通帳の隣に置いた。彼女は紙を見たが、手は伸ばさなかった。
「通帳のこと、警察にはまだ言わないで」
「言いません」
「いまは、ってことだから」
玄関で長靴を履いた。傘立ての黒い傘は先から垂れていた水が止まり、骨のあいだの布が乾きかけている。彼女は框に立って、野口が戸を開けるのを待っていた。
戸を閉める前に振り返ると、彼女はもう奥へ戻りかけていて、茶の間の襖の前で一度足を止めた。
門の外の軽に乗って、エンジンをかけた。ミラーの中で家の奥の窓に灯りが点いた。カーテンは閉まっていて、灯りの色しか見えない。
帰りに港の裏の坂を上ってみた。坂の途中に、若林、と表札の出た家があった。車庫のシャッターが半分開いていて、中で裸電球が点いている。誰かが何かを叩く音がしていた。車を停めかけて、やめた。坂を下りると、港の灯りが雪の中に滲んでいた。




