二章 過去の亡霊④
宿に戻ると、帳場の奥の茶の間でテレビがついていた。女将がこたつで洗濯物をたたみ、主人は注連縄を膝に載せている。夕方のニュースが、鳴磯の施設の門の前を映していた。きのう、坂の下に局の車が並んでいたあの門柱だった。
黒い外套の大槻が門の内側で足を止め、何本も突き出されたマイクの前に立っている。白い髪が雪で少し濡れていた。
「孫が無事でいてくれれば、それでいい。それだけです。陽菜、聞いていたら帰ってきなさい。誰もお前を責めたりしない」
声はところどころで途切れた。大槻は深く頭を下げ、職員に肩を支えられて門の奥へ入っていった。画面の下に、祖父の大槻恒夫さん、と字が出ている。
女将がタオルをたたむ手を止めた。
「十年前と同じだね」
主人が撚っていた藁から顔を上げて、画面を見た。女将はそれきり何も言わずに、次のタオルを取った。
部屋でストーブに火を入れ、座卓にノートを開いた。新しいページにスマホの写真を見ながら書きこんでいく。
蒼太名義。遺産の入金が一度。
引き出しの月と額を上から順に並べた。最後の引き出しは、二〇一六年の六月。その横に、施設の便箋の名目を書き写した。
学用品、通院、衣類、行事。施設長の判。
その下に、後見、と書き、七月はじめ、施設長に話してあった、と続けた。蒼太の死は七月の終わり。取っ手のない戸の絵。行を一つ空けて、若林、港の裏、田所工務店、新館の工事、と書いた。
千坂の押し入れの段ボールの底に、二〇一六年の手帳がある。応接室で書いた、後見、の字を思い出す。
ペンを置いた。ストーブの脇で、自分の折りたたみの傘が開いたまま乾いていた。畳んで、鞄の脇に立てかけた。
スマホの電話帳を開いて、矢代の名前を出した。番号の下の発信ボタンに親指を置いた。しばらくそのままにしてから、画面を閉じた。
風呂に下りて、戻ってくると座卓の上でスマホが鳴っていた。階下で、振り子時計が九つ打った。スマホの時計は、九時十五分になっている。矢代からだった。
「野口さん。夜にすみません。鳴磯にいますよね、まだ」
「はい」
「小松さんっていう人、ご存じですか。鳴磯の、施設で亡くなった蒼太くんっていう子の叔母さんで」
ストーブの火が、小さく音を立てた。
「知っています」
「きのう、うちのが二人で行ったんですけどね。玄関で帰されたって。沢井さんと秋からよく電話してた人なんで」
矢代はそこで黙った。紙をめくる音がした。
「きょう、会いました」
「そうですか。……何か、言ってました?」
野口は、座卓のノートの通帳の数字の並んだページを見た。
「いまは、まだ答えられません」
電話の向こうで、矢代が息を吐いた。
「この前も、それでしたね」
「すみません」
「いや」
矢代は少し間を置いた。
「言えるようになったら、最初に僕に言ってください。本部より先に」
寝る前に顔を洗いに下りると、主人が布団を一組、肩にかついで帳場の前を通っていった。白い敷布の端が背中で揺れていた。主人は野口に顎を引いただけで、台所の奥の裏口から出ていった。戸が閉まるまでのあいだ、外の雪の明るさが土間に差しこんでいた。
朝のうちに、除雪車が宿の前の国道を二度通った。二度目のあとで主人が玄関の前を寄せはじめたので、野口も物置からもう一本のスコップを出した。主人は黙って、野口の寄せるほうを空けた。
国道の端まで寄せ終えたところで、灰色のセダンが一台、宿の前に停まった。降りてきたのは男が二人で、年かさのほうは五十に近く。紺のコートの襟を立てている。若いほうは助手席から書類鞄を出した。
「野口修さんですね」
年かさの男が上着の内側から手帳を出して開いて見せた。県警の名前があった。
「少し、お話を伺えますか。こちらにいらっしゃることは、矢代から聞いてましたんで」
主人がスコップを持ったまま、二人を見ていた。
女将が茶の間を空けてくれた。こたつの天板の上に新聞と女将の老眼鏡が置いたままになっていて、女将はそれを片づけてから、茶を三つ出して帳場へ戻った。年かさの刑事は茶には手をつけずに、手帳を開いた。若いほうは書類鞄から紙の束を出して、膝の上に置いた。
「木曜の週刊誌、ご覧になりました?」
「はい」
「あれに出てる映像ね、うちは最初の晩に全部見てます。道の駅で、陽菜さんに傘を渡してますね。柄に会社の名前の入った、黒い傘」
「渡しました」
「日曜の晩、矢代が何か受け取ったり渡したりは、と訊いたとき、二万円を受け取った、としか言ってない。調書にもそう書いてます」
「言いませんでした」
「なぜです」
返事をするまでに、間があいた。
「……忘れていました」
若いほうの刑事が、膝の上の紙をめくった。
「運賃も、二万三千いくら、ご自分で足してますよね。傘を渡して、金も足して、行き先は訊かない。それで何もしてないって言われても、こっちはちょっと」
年かさの刑事が、手で若いほうを止めた。
「留守電で沢井さんは、六年前はすまなかった、と言ってますね。六年前に何があったんです。あなたの記事の取材に協力した人だって話もある」
「取材のことは、話せません」
「沢井さんは、亡くなってるんですよ」
「それでも、です」
年かさの刑事は、しばらく野口の顔を見ていた。それから手帳に何か書いた。
「陽菜さんがどこにいるか、心当たりは」
「道の駅から先は、見ていません」
「見ていない、ね」
刑事はその言い方を、手帳に書き写したようだった。
「このまま陽菜さんが見つからなくて、あとになってあなたが居場所を知ってたってことになったら、犯人隠避です。わかりますね」
「はい」
「町を離れるときは、ここに連絡をください」
名刺が一枚、こたつの上に置かれた。二人は茶に手をつけないまま、立ち上がった。玄関で若いほうの刑事が長靴を履くのに手間取っているあいだ、年かさの刑事は帳場の柱の振り子時計を見上げていた。
セダンが国道へ出ていってから、茶の間に戻った。こたつの上でお茶は冷めていた。
矢代は十日あまり前、カメラのほうも見た、と言った。傘のことは一度も訊かなかった。
女将が茶の間に入ってきて、湯呑みを盆に載せた。
「ごはん、温めなおすから。ご飯を食べてから行きなさい」
◇
岬を回るころには、また降りだしていた。路肩に寄せられた雪の上に波の運んだ海藻が黒い筋になって残っている。鳴磯の町に入って港の裏の坂を上ると、若林の家の車庫はきのうの夕方と同じようにシャッターが半分開いていた。中で何かを叩く音がしている。
軽を若林の家の前に停めて、シャッターの下から声をかけた。叩く音がやんだ。
「はい」
かがんでくぐると、六十をいくつか過ぎた男が軍手の手にスパナを持って立っていた。足もとに赤い除雪機が一台、カバーを外されて置いてある。隅の石油ストーブの上でやかんが鳴りかけていた。
「若林さんですか」
「んだ」
「野口といいます。千坂から来ました」
男は野口の顔を見たまま、黙っていた。
「テレビの人だべ」
「……はい。沢井さんのことで、少し伺いたいことがあって」
若林はスパナを作業台に置き、やかんの湯を湯呑みに注いで自分で一口飲んだ。
「沢井さんな。秋に何べんか来たよ。そこさ座って、こうやってお茶飲んで」
ビールケースを逆さにした腰掛けが、ストーブの前に二つ並んでいる。
「何の話をされてたんですか」
「昔の工事の話。施設の裏の新しい棟の」
若林は除雪機の前にしゃがんで、エンジンのあたりに手を入れた。
「おれ、あのころ田所さんのとこで大工やってたから。あの現場さいたの。それで訊きに来たんだ、沢井さんは」
「私も、あの夏はこの町にいました。陽菜ちゃんがいなくなったときに」
若林が顔を上げた。
「そうだったの」
「沢井さんは、あの年の工事の何を訊いたんですか」
若林の手が、エンジンの横の紐にかかったまま止まった。ストーブの上で、やかんがまた鳴りはじめた。若林は立ってやかんを下ろし、それから紐のところへ戻って一度引いた。エンジンは咳きこむような音を一度だけ立てて止まった。
「これ、去年までは一回でかかったんだけどな」
若林は軍手を外して、指先でプラグのまわりを拭った。野口は待った。
「きのうも電話あったよ。若い女の声で」
「女の人ですか」
「昼前だったかな。電話の画面に、公衆電話って出てた。名前は言わなかった。沢井さんと同じこと訊かれたよ。あの年の工事のこと」
蒼太くんの叔母の家の傘立てを思い出した。柄に野口の会社の名前の入った傘の先から、水が垂れて底に溜まっていた。
「その人には、なんて答えたんですか」
若林は軍手をはめなおした。
「田所さんには、世話になったからね」
「沢井さんには、話したんですよね」
若林はしばらく黙っていた。
「沢井さんは、知り合いだったから。あんたはただの記者だべ。記事に書かれたら、田所さんもおれも終わる」
「田所さんは、いまも」
「やってるよ。港の外れの川のそば。現場はもう息子さんが回してるけど、社長は田所さんのまんまだ」
それきり除雪機のほうを向いて、紐を続けて引いた。エンジンはかからなかった。
「沢井さん、なんで死んだんだべな」
除雪機を見たまま、若林が言った。
「わかりません。……若林さんは、テレビの言ってることをどう思いますか」
若林はスパナでカバーの縁を軽く叩いた。
「沢井さんが、あの子に何かするとは思わないね。秋に来たとき、もうすぐ全部片づくって言ってたんだ、沢井さん。片づいたら、また魚でも持ってくるって。あの人、港で働いてたころは売り物にならないのをよく置いていったから」
礼を言って車庫を出た。家の前で軽の屋根の雪を払っていると、上のほうでまた紐を引く音がした。坂の下の道を漁協の名前の入った軽トラックが一台、ゆっくり通っていった。
港の外れまで走ると、小さな川の手前に田所工務店の看板が出ていた。十年前に、施設の裏の工事の囲いで見た名前だった。トタン張りの事務所の横に資材を置く広い空き地があって、奥で雪をかぶった小型の重機が黄色い腕を地面に下ろしている。事務所の窓の中で、白髪の男が受話器を耳に当てたまま道のほうを見ていた。速度を落とさずに前を過ぎた。
町へ戻る途中、旧道が国道に合わさる角を通った。バス停の小屋と並んで公衆電話のボックスが立っている。ガラスの扉の下のほうに雪が吹きつけて、白く貼りついていた。角から坂の上を見ると、叔母の家の煙突から今日も細い煙が上がっていた。角は曲がらずに、港のほうへ走った。
昼は港の前の通りの店でパンと缶コーヒーを買った。食料品と雑貨を一緒に並べている店で、レジの奥に灯油の缶が積んである。女将がレジを打っているあいだに入口の戸が開いて、男が二人入ってきた。前にいるのは七十くらいの、紺のコートの男だった。後ろの男は漁協の名前の入った作業着を着ていて、土曜に焼け跡の上の道で軽トラックの窓を下ろした男だった。
紺のコートの男は、カウンターに紙を一枚置いた。
「奥さん、これ、新しいの。前のは雪で濡れたべ。貼り替えさせてもらっていいかな」
紙には陽菜の写真が刷ってあった。テレビが使っている居酒屋の座敷の写真を切り抜いたものだ。下に、見かけた方は、と電話番号が二つ並んでいる。一つは町内会、もう一つは鳴磯福祉会だった。
「警察でなくて、こっちさ電話してもらえれば。大槻先生のお孫さんだからね。先生も、まず自分で話を聞いてやりたいって言ってるから」
女将は古い紙をはがして、レジの横のガラスに新しいのを貼った。セロハンテープを切る音がした。
釣りを受け取って店を出た。軽は公民館の前の駐車場に停めてある。雪を踏んで半分ほど行ったところで、後ろから呼ばれた。
「運転手さん。千坂の」
紺のコートの男が、店の軒下から出てきた。漁協の男は少し後ろで両手を作業着のポケットに入れている。
「ちょっと、いいかな。町内会の会長をやってる者なんだけども。若林さんとこに千坂の車が停まってたって、この人が言うもんだから」
会長は野口の前まで来ると帽子の雪を払った。
「この町さ何の用で来てるのか、聞かせてもらえないかね。町の者が気にしてるもんだから」
「人に会いに来ています」
「誰に」
「その前に、一つ伺っていいですか。さっきの紙、見かけたら警察じゃなくて、施設のほうに電話するようになってますね」
会長の口が、一度止まった。
「……警察には、先生のほうから話がいくから」
「また何か書くつもりだべ」
漁協の男が言った。会長は手を上げて、漁協の男を止めた。
「十年前、あの子を探して浜を歩いたのは、町の者なんだ。九日間。おれも消防団の法被着て、岩場を歩いた。見つかった朝、テレビであの子が先生に抱かれてるの見て、おれは泣いたよ。うちのかあちゃんも泣いてた」
会長は公民館のほうへ目をやった。入口のガラス戸の向こうに、長い廊下が見えている。十年前、会見のあとで大槻はあの廊下で野口の手を両手で包んだ。
「今度も、警察より先に町で見つけてやりたいんだ。先生もそう言ってる」
「見つけたら、どうするんですか」
「どうするって」会長は野口の顔を見なおした。「先生のとこさ連れていくよ。家族なんだから」
漁協の男が一歩前に出た。
「六年前のあんたの記事のあとな。施設で働いてたうちの娘、テレビの車に家の前まで来られて辞めたんだ。あんたは東京さ帰ればよかったんだろうけど」
「それは、知りませんでした」
漁協の男は、それ以上は言わなかった。会長が男の腕に手を置いた。
「先生は、あんたのことも悪く言ってなかったよ。気の毒な人だって」
会長は軽く頭を下げ、男の腕を引いて店のほうへ戻っていった。二人は通りの次の店に入っていった。向かいの床屋のガラス戸にも、その隣の酒屋の戸にも、同じ紙が貼ってある。通りの角で、首からカメラを提げた若い男が床屋の戸の貼り紙を撮っていた。男はこちらへもレンズを向けかけて、下ろした。
軽に乗って、パンの袋を開けた。防波堤の先では、土曜と同じゴムの合羽の老人が竿を出していた。食べ終えるまで見ていたが、竿は一度も動かなかった。




