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世界はあなたに焦がれている  作者: シロ


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11/18

二章 過去の亡霊⑤

 夕飯のあと、女将に呼ばれて茶の間のこたつに入った。朝、刑事が座っていたところに主人が注連縄の続きを膝に載せて座っている。撚り終えた縄の先が、畳の上でとぐろを巻いていた。七時のニュースは、この晩も千坂の火事を最初に伝えた。


 捜査関係者への取材でわかったこととして、アナウンサーが原稿を読んだ。十年前、陽菜さんが行方不明になった同じ夏に鳴磯町では九歳の男の子の捜索願が一度出され、翌日に取り下げられていた。男の子はその年の秋に東京へ転出したことになっているが、転入した記録がなく、いまも所在がわかっていない。警察は亡くなった沢井さんが当時、この男の子とも関わっていた疑いがあるとみて捜査している。


 画面に男の子の名前が出た。三浦悠真くん。写真はなく、名前だけが映っていた。


スタジオに戻ると、男のコメンテーターが手もとの紙を置いた。


「十年前の夏に、もう一人いたわけですよね。で、その子だけが戻ってきていない。沢井さんが二人を連れていって、陽菜さんだけが帰ってきた。そう考えると、十年たって陽菜さんがあの部屋で彼と会っていた理由も、なんとなく見えてくる気がしますね」


 女将はタオルをたたむ手を止めて、天気予報になるまでずっと画面を見ていた。主人は藁を撚る手を止めずに、ときどき顔を上げた。


 天気予報が終わると、女将がテレビを消した。


「あした、また雪だって」


 部屋に戻って、スマホで悠真の名前を打った。書きこみは夕方から増えつづけていた。六年前の記事に出ていた名前と同じだ、と最初に書いた人がいて、その下に記事の見出しの写真が貼ってある。捏造じゃなかったのか、という書きこみがいくつか続いたあとで、流れが変わった。記者は最初から沢井とつながっていた、だから陽菜を逃がしたんだ、という書きこみがずらっと並んでいる。


 六年前の裁判の記録を見つけてきた人もいた。陽菜さんの両親が、記者と雑誌を訴えている。父親はいま東京の週刊誌の編集長で、記者は当時その部下だった。名前を並べた表を作って貼った人がいて、表の真ん中に野口の名前があった。


 焼け跡に立つ自分の写真もあった。土曜に撮られたもので、遠くからだったらしく、顔はわからない。浜の向こうの防波堤の脇に、屋根の黄ばんだ白い軽が小さく写っていた。


 表の下に、六年前の記事のページを撮った写真を貼った人もいた。指で広げると、自分の書いた記事が粗い粒のまま読めた。番屋の板の写真の横の段落に、男の子の所在はつかめない、という一行がある。捜索願のことも、東京への転出のことも、そこには書いていない。どちらも、さっき茶の間のテレビで、アナウンサーが読んだことだった。


 スマホを置いて、ノートを開いた。六年前の終わりのほうのページに、二本線を引いた行がある。安全は私が確かめている。その横に土曜に焼け跡で書き足した、転入なし 十年、の字がある。何枚か戻ると、六年前に三浦の家を訪ねた晩のページがあった。窓に板。隣の家、知りません、施設に訊いてください。カーテンが動く。


 ノートを閉じて、ストーブの火を細くした。


 あくる日は、昼前から雪になった。


 朝飯のあとで帳場の前を通ると、玄関の上にできあがった注連縄が掛けてあった。主人が踏み台に乗って、縄から垂れた藁の長さを揃えている。女将が下から、もうちょっと右、と言った。主人は返事をしないで、縄を指一本ぶん右へずらした。


 上着を着ていると、遠藤から電話がかかってきた。


「野口さん? 遠藤。いま大丈夫?」

「はい」

「いや、頼みってほどじゃないんだけどさ。休憩室のファンヒーター、壊れたんだよ。所長が新しいの買わないの。野口さんから一言いってくんないかな。あの人、野口さんの言うことなら聞くから」

「いまは、会社に行けないので」

「あ、そっか。そうだよな」遠藤は笑った。「会社の前のテレビは、やっといなくなったよ。所長、ゆうべ久しぶりに定時で帰ってた。……そういえばさ、岸本さん、なんか最近羽振りいいんだよ。昼に事務所でうな重とってんの。うな重だよ、あの人が。ボーナス、あの人だけ出たのかね。まあ、いいけどさ。じゃ、またね」


 出がけに、帳場の女将が使い捨てのカイロを一つ差し出した。


「きょうは冷えるから。車の中、なかなか温まらないでしょう」


 鳴磯の町に入って、施設の坂の下を通った。空き地には、今日も局の車が並んでいる。その列の端から、白い乗用車が一台出てきて、野口の軽の二台あとについた。後ろの窓に、レンタカー会社のステッカーが貼ってある。この町には、いまそういう車が何台も入っていた。


 三浦の家は、六年前と同じように窓に板が打ちつけてあった。板の色が六年分くすんで、玄関の前は誰も雪をかいていない。隣の家の前は、きれいにかいてあった。呼び鈴を押すと、しばらくして戸が半分だけ開いた。六年前と同じ女だった。エプロンではなく、灰色のセーターを着ている。


 女は野口の顔を見て、それから野口の後ろの通りを見た。


「……前にも、来た人だね」

「六年前に。三浦さんのことを伺いに」


 女は戸に手をかけたまま、閉めなかった。


「ゆうべのテレビ、見た?」

「見ました」

「悠真くん、東京さ行ってなかったって。あたし、ずっと東京にいるんだと思ってた」


 女はセーターの袖を、手の甲まで引っぱった。


「秋に、引っ越しのとき、麻衣さんが一人で荷物出してたの。軽トラックに。悠真くんは、先に向こうさ行ってるって。そう言ってたから」

「悠真くんの姿は、見ましたか。あの夏のあとで」


 女は少し考えてから、首を横に振った。


「見てない。夏休みが明けても、学校へ行くとこは見なかった。病気で休んでるって、麻衣さん言ってた」

「最後に見たのは、いつですか」

「お盆の前。麻衣さんと、浜のほうへ歩いてた。釣り竿持って」


 女は通りのほうへ目をやった。


「麻衣さんは、いまどちらに」

「去年の春に一度、ここさ来たの。家の様子を見に。痩せてて、顔の色が悪くて。大槻先生の黒い車で来て、玄関の前で車から降りないで、窓から家を見て帰ってった。病院さ入ったって、あとで聞いた。隣の町の、国道沿いの総合病院。回覧板を持ってきたときに、町内会長さんが言ってた。施設のほうで、面倒みてるって」

「ありがとうございます」

「あのとき、施設に訊いてくださいって言ったでしょう、あたし」


 女はそれ以上は言わずに、戸を閉めた。


 軽に戻ってエンジンをかけると、通りの先の角をさっきの白い乗用車がゆっくり曲がっていくのが見えた。


 総合病院は、宿のある町の国道沿いにあった。岬の道を戻るあいだ、ミラーの中に白い車が見えたり見えなかったりした。四階建ての病院で、玄関の前のロータリーの雪はきれいにかいてある。売店の前では、パジャマの上に上着をはおった男が、新聞を一部買っていた。


 緩和ケアの病棟は四階の端だった。エレベーターを降りると、廊下の照明がほかの階より暗い。ナースステーションのカウンターにシクラメンの鉢が一つ置いてあった。


 カウンターの中で、四十くらいの看護師がパソコンに向かっていた。


「こんにちは。ご面会ですか」

「三浦麻衣さんに、お会いしたいんですが」


 看護師は画面に目を戻して、名前を入力した。


「失礼ですけど、ご家族の方ですか」

「いえ」

「ごめんなさいね。こちらの病棟、ご面会はご家族と決められた方だけなんです。ご本人の体調のこともあるので」

「その決められた方っていうのは、鳴磯学園の人ですか」


 看護師の指が、マウスの上で止まった。


「それは、ちょっと」


 看護師は困ったように笑った。


「お名前だけ、伺っておいてもいいですか。保証人の方に、こういう方が見えましたってお伝えしておきますから」


 名前を言えば、その保証人に伝わる。少し迷ってから、名前を言った。看護師はメモ用紙に、ノグチ様、と片仮名で書いた。


「それと、悠真くんのことで来た、と伝えてください」


 看護師はペンを止めて、野口の顔を見た。それから、メモに一行書き足した。


 エレベーターを待っていると、廊下の奥のデイルームのほうへ点滴スタンドを押して歩いていく女性の後ろ姿が見えた。痩せた肩に、毛糸のカーディガンを掛けている。スタンドの車輪が、床の継ぎ目を越えるたびに小さく鳴った。後ろ姿がデイルームの戸の向こうへ入ったところで、エレベーターの扉が開いた。


 駐車場に出ると、軽の隣にさっきの白い乗用車が停まっていた。運転席のドアが開いて、男が降りてきた。紺のダウンジャケットを着て、首からカメラを提げている。二十代の終わりくらいで、ニット帽の下から出た耳が赤かった。昨日、通りのの角で床屋の貼り紙を撮っていた男だった。


「野口さんですよね」


 男はダウンの内ポケットから名刺入れを出した。


「先週お電話した、吉岡です。すぐ切られちゃいましたけど」


 名刺には、六年前に野口の記事を載せた雑誌の名前が刷ってあった。ダウンの胸ポケットの縁から、小さな赤い灯がのぞいている。


「すいません、ついてきちゃいました。きのう、公民館の前で会長さんたちと話してるの見かけて。けさ、施設の坂の下で張ってたら、この軽が通ったんで」


 吉岡は野口の車に目をやった。


「この白い軽。土曜の焼け跡の写真に写ってたのと同じですよね」


 野口は軽のドアに手をかけたまま、吉岡を見た。


「三浦さんの家の隣、寄ってましたよね。悠真くんの家でしょう、あそこ。ゆうべ、テレビで名前が出た」


 吉岡は手帳を開いた。


「木曜の記事のことで、言いたいことがあるんじゃないかと思って来たんですけど。……それより、こっちのほうが気になっちゃって。病院、どなたのお見舞いですか」

「言うことはありません」

「じゃあ、自分で調べます」


 吉岡は、ニット帽に積もりはじめた雪を手で払った。


「……覚えてないですよね、私のこと。六年前、打ち合わせの机に写真の束を持っていったの、私なんです。まだ入ったばっかりで。番屋の板の写真、あのとき横からずっと見てました」


 野口は何も言わなかった。


「あのときは、本当だと思ってましたよ。あの字。うちは、あのあとお詫びを載せたじゃないですか。あれ、社内でけっこう長く言われたんです。私はただの使い走りでしたけど、使い走りでも言われるんですよ、ああいうのは」


 駐車場の端で、除雪のトラクターが雪を寄せていた。


「吉岡さん。木曜の記事の、運賃の差額のことは誰から聞いたんですか」


 吉岡は笑った。


「言えませんよ、それは。野口さんだって、六年前、言わなかったでしょう」

「日報の写しは、警察とうちの事務所にしかありません」


 吉岡のペンが、手帳の上で止まった。止まったまま、手帳が閉じられた。


「寒いですね、ここ。海のほうから吹いてくる」


 胸ポケットの赤い灯は、ついたままだった。野口は自分の上着の胸に手をやりかけて、やめた。


「宿、この町ですか」


 答えずに、軽のドアを開けた。


「また来ます。たぶん」


 吉岡は白い車に戻ってエンジンをかけた。ワイパーが一度動いて、車は国道のほうへ出ていった。


野口は座席の足もとからブラシを出して、フロントガラスの雪を落としはじめた。


◇


 翌朝、宿の部屋から施設に電話をかけた。番号は、六年前のノートの終わりのほうに書いてある。三度目の呼び出しで、女の声が出た。


「はい、鳴磯学園です」

「野口といいます。十年前の夏に、取材で何度か伺った者です」


 電話の向こうが静かになった。後ろで、子どもが誰かの名前を呼んでいる。


「……通用口のところに、三日立ってた人?」

「はい」

「施設長の森下です」


 それきり、森下は黙った。


「おとといのニュースのことですか」

「それもあります。三浦さんのことと、蒼太くんのことを伺えればと思って」

「坂の下に、テレビの車がいるでしょう。表から来られると、子どもたちが騒ぐの。林道のほうから回って、裏の職員の駐車場に入ってください。いまは警察の人が来てるから、十時すぎに」


 岬の道は、波が低くなっていた。雪は小降りになっている。施設の坂の下を通ると、空き地の局の車はきのうより一台減っていた。坂は上らずに町の裏へ回って、十年前に沢井の軽トラックで上がった林道に入った。轍が一本だけついている。杉の切れたところで、斜面の下に施設の裏手が見えた。工事の囲いがあったところに、平たい屋根の棟が並んでいる。その手前の、トタン屋根の倉庫があったはずのところは、雪をかぶった平らな地面になっていた。


 裏の駐車場には、軽が三台と紺のセダンが一台停まっていた。セダンの屋根にも雪が薄く載っている。軽を端に入れて、エンジンをかけたまま待った。十分ほどして通用口の戸が開き、矢代が出てきた。後ろに、紺のカーディガンの女が立っている。


 野口が車を降りると、矢代は目を丸くした。


「あれ。野口さん」


 矢代は女に頭を下げてから、雪を踏んでこっちへ来た。女は戸口からしばらく野口を見て、中へ戻った。


「警察の人が来てると聞いたので、矢代さんかと思って待ってました」

「僕を?」矢代は通用口のほうを振り返った。「施設長さんか。僕は、沢井さんがここにいたころの記録を見せてもらいに。昭和の終わりの日誌なんて、鉛筆の字が薄くて、半分も読めないんですよ」


 矢代は駐車場の端の平らな地面のほうを見た。


「あそこ、前は物置があったらしいですね。おととし壊したって」

「はい」

「来たこと、あるんですか」

「十年前に。林道の上から見ただけですけど」


 矢代は平らな地面の雪を見ていた。雪の上をカラスが一羽、跳ねて横切った。


「僕も、ここは来たことあるんですよ。十年前。捜索隊にいたんです、交番にいたころで」


 それ以上は言わずに、矢代はコートのポケットに手を入れた。


「おとといのニュースは、警察の見立てですか。沢井さんが、悠真くんのことにも関わってたっていう」


 矢代はポケットから手帳を出して、表紙のシールの角を親指で押さえた。


「野口さんは、どう読みます?」

「留守電の沢井さんの声は、人を連れ去った人間の声には聞こえませんでした」

「声ねえ」矢代は手帳を開かずに、またポケットに戻した。「声の感じだけじゃ、証拠になんないんですよね。……で、何か言えるようになりました?」

「まだです」

「ですよね」


 矢代はセダンのドアを開けて、屋根の雪を腕で払った。


「午後から、また強くなるそうですよ。林道、気をつけて」


 セダンが林道のほうへ出ていってから、駐車場の奥まで歩いた。平たい屋根の棟は、近くで見ると、窓の下に子どもの長靴が並んで干してあった。一つの窓に、折り紙の星がいくつもテープで貼ってある。


 通用口を入ると、灯油と給食のにおいがした。廊下の先の食堂から、子どもたちの声が聞こえる。長机の上に色紙が広げてあって、小さい子たちが輪っかをつないで鎖を作っていた。


 事務室は玄関の脇にあった。机が四つ寄せてあり、壁に行事の予定表と田所工務店の名前の入ったカレンダーが掛かっている。森下は自分の机の前の椅子を野口に勧めて、自分は立ったまま、ポットのお湯を急須に注いだ。


 五十くらいの、髪を短く切った女だった。十年前に廊下でシーツを抱えていたその顔を野口は覚えていた。


「あのときは、ごめんなさいね。通用口で」森下は茶を野口の前に置いた。「職員は外の人と話すなって、言われてたから」

「三浦麻衣さんは、ここの厨房にいましたね」

「十年前の秋まで。悠真くんも、夏休みはしょっちゅう来てた。お母さんの仕事が終わるまで、ここの子たちと遊んでたの。蒼太くんの面倒を、よく見てくれてた。年上だったから」

「総合病院の麻衣さんの保証人には、施設がなってるんですか」


 森下は顔を上げた。


「病院、行ったの?」

「きのう。会えませんでした」

「三浦さんのことは、理事長が個人でみてらっしゃるの。もう職員じゃないから、施設は関係ないって。わたしも、詳しいことは知らない」


 机の上の電話が鳴った。森下は受話器を取って、はい、と言い、すぐに背筋を伸ばした。


「はい、理事長。ええ、いま見えてます。はい。はい、わかりました」


 受話器を置いても、森下はしばらく電話のほうを見ていた。廊下を、子どもが二人走っていった。森下は戸口のほうを見て、走らない、と言った。足音が少しだけ遅くなって、また速くなった。


「蒼太くんは、あの夏、夜がこわいと言っていたそうですね」


 森下はこちらを向いた。


「……誰から」

「小学校の連絡帳です。担任の先生が、七月の欄に書いていました。施設の欄の返事は、空いていました」


 森下はしばらく黙っていた。


「あの子、わたしが宿直の晩だけは、よく寝たの。廊下の電気、つけたままにしといてあげたから。ほかの晩のことは、わたしは知らない」

「蒼太くんが亡くなった朝のことは、覚えてますか」

「見つけたの、わたしなの」


 森下は窓の外を見た。窓の向こうに、平らな雪の地面がある。


「階段の下で、と警察は言っていました」


 森下の目は、平らな地面から動かなかった。


「倉庫の鍵が、どうかしていたんですか」


 森下がこちらを見た。十年前、沢井は漁港の食堂で、あの倉庫の戸は外からしか開かない、と言った。


「……わたしが話したら、わたしはここにいられなくなる」


 森下の声は低かった。


「わたしがいなくなったら、美咲ちゃんたちの面倒、誰が見るの。春にここを出ていく子が、三人いるのよ」


 森下は、さっき置いた受話器に目をやった。


「土曜に、電話する。ここからじゃなく」


 上着の内ポケットから宿の名刺を出して、裏に携帯の番号を書いた。森下は名刺を受け取って、裏の番号を見てから、カーディガンのポケットにしまった。


「陽菜ちゃんは」森下はポケットに手を入れたまま言った。「無事なの。あなた、乗せたんでしょう」

「道の駅で降りて、歩いていきました。そこから先は、わかりません」

「小さいころ、夏休みになるとここに来てたの。理事長のお孫さんだから、職員はみんな気をつかってたけど。あの子は気にしないで、ここの子たちと一緒に浜へ下りてた。悠真くんとも」

「理事長に、お会いできませんか」

「本部に伝えておきます」


 事務室を出ると、玄関のすのこに子どもたちの運動靴がかかとを揃えて並んでいた。壁に、額に入った新聞の切り抜きが掛かっている。春の叙勲を伝えた地元紙の記事で、見出しは、子どもたちのお父さん、だった。写真の大槻は、施設の前で子どもたちに囲まれて笑っている。いちばん前の小さな子の頭に、手が置いてあった。記事の終わりのほうに、大槻の言葉が書いてあった。ここを出ていった子も、いまいる子も、みんな私の子です。


 森下が、野口の後ろからすのこを見ていた。


「前は、毎朝一足だけ、左右が逆になってたの。何べん直しても」


 それが誰の靴だったのかは、森下は言わなかった。


 裏の駐車場に戻ると、野口の軽のまわりの雪を女の子が一人でかいていた。高校生くらいで、紺のジャージの上にダウンを着て、首にタオルを巻いている。


「あ、これ、お客さんの車?」

「はい」

「ちょっと前に出してもらっていい? ここ寄せないと、夕方の車が入れないんだよね」


 軽を前に出してから、物置に立てかけてあったもう一本のスコップを取った。女の子はスコップの先で、寄せる場所を示した。


「高校生?」

「三年。春に、ここ出るの」

「どこへ行くの」

「千坂。介護の仕事。寮があるとこ」


 女の子はスコップの雪を斜面のほうへ放った。


「車は、いるの」

「いる。訪問のほうも回るから。免許、取らないといけないんだよね。教習所、けっこう高いの」

「お金は貯めてあるの」

「ずっと積み立ててきたのがある。あれで半分なくなっちゃうけど。森下先生が、今度いっしょに通帳見ようって」


 女の子は、坂の下のほうへ目をやった。木のあいだから局の車の屋根がのぞいている。


「ちっちゃい子たち、テレビの陽菜さんのことわるい人だと思ってるよ。理事長先生の孫なのに、って。あたしは会ったことないから、わかんないけど」

「大槻さんはよく来るの」

「クリスマスには毎年来る。プレゼント配りに。サンタの格好はしないけど、ちっちゃい子は膝に乗せてもらって、写真撮るの。去年の写真、食堂に貼ってあるよ」


 駐車場の向こうは、杉のあいだを下っていく斜面になっていた。小さい子たちが三人、米袋に乗って歓声を上げながら滑り下りていく。斜面の下のほうは杉に隠れて見えない。下まで行った子が、米袋を引きずって上ってきた。


 通用口の戸が開いて、森下が顔を出した。


「美咲ちゃん、お昼。手、洗ってから」

「はあい」


 美咲はスコップを壁に立てかけて、野口に軽く頭を下げた。


 夕飯の膳を帳場へ下げに下りると、台所の奥の裏口が開いて、女将が入ってきた。空の盆を持っていて、肩に雪が少し載っていた。女将は野口の膳を受け取ると、何も言わずに流しのほうへ行った。


 部屋に戻ると、座卓の上でスマホが鳴っていた。四日前に一度、画面に出た番号だった。


「野口くんか。大槻です。会いたいって言ってくれたそうだね。森下くんから聞いたよ」

「……はい」

「明日の午後、本部においで。三時でどうかな。施設の下の、古い家だ。今日と同じように、林道から来るといい。表はテレビがうるさいから」

「伺います」

「待ってるよ」


 電話が切れてから、野口はノートの新しいページに明日、訊くことを書き留めていた。

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