二章 過去の亡霊⑥
本部は、施設の坂の途中から脇へ入ったところにある古い二階建ての家だった。門柱に、社会福祉法人鳴磯福祉会、と木の札が掛かっている。呼び鈴を押すと、大槻が出てきた。
白い髪は十年前より薄くなっていたが、きちんと分けてある。灰色のカーディガンの下にネクタイを締めていた。
「寒かったろう。中へお入り」
応接室は玄関の右手にあった。石油ストーブが燃えていて、窓の下に叙勲の賞状が額に入れて立てかけてある。壁の一面が書棚になっていて、上のほうの段に輪ゴムで束ねた葉書がぎっしり並んでいた。束の背に、年が書かれた紙が挟んである。
大槻は急須に湯を注いで、茶を二つ淹れた。
「十年前は、麦茶だったね。夏だったから」
野口の前に茶を置くと、大槻は向かいのソファに腰を下ろした。
「いまは、タクシーの運転手だってね。夜の仕事は体にこたえるだろう。お母さんの軽、まだ大事に乗ってるそうじゃないか。森下くんが言ってたよ」
「……よくご存じですね」
大槻は笑った。
「森下くんは、よくやってくれてるよ。春に出ていく子が、三人いてね。あの子たちが出ていくまでは、森下くんもここを離れるわけにいかないだろう」
野口は、湯呑みに手を伸ばさなかった。
「陽菜のことは聞いてるね」
「はい」
「あの子を見つけてくれるなら、私は君にいくらでも頭を下げるよ」
大槻は膝の上で両手を組んだ。声がそこで途切れた。上着のポケットからハンカチを出して、たたんだままテーブルの端に置いた。
「悠真くんの名札を届けてくれたそうだね」
名札のことは、ニュースには一度も出ていない。署の窓口の書類にも野口は、布製の名札、一枚、としか書いていない。
「落とし物でしたから」
「ありがとう。あれで、警察も悠真くんのことを調べなおしてくれた」
大槻はそれ以上、名札のことは言わなかった。
「あの子は小さいころから、大事なものを握ったまま眠る子でね。熱を出すと特にそうだった」
大槻は組んだ手をほどいて、膝の上に置いた。
「あの晩も、ほかに何か握っていなかったかい」
「わかりません」
「そうか」
野口は書棚のほうを見た。大槻がその目を追った。
「卒園した子たちがね、毎年くれるんだ。みんな、毎年。四十年分になるかな。千坂にも何人かいるよ。君の会社の岸本くんも毎年くれる」
会社の事務所の、岸本のデスクが思い浮かんだ。端に封を切っていない窓つきの封筒が重ねてあった。
大槻はストーブのほうへ手をかざした。
「お母さんが亡くなって十年になるね。十三回忌は、まだ先か」
大槻は、窓の外の雪を見ていた。
「六年前の記事は読まれましたか」
「読んだよ。よく書けていた。番屋の板のところは、私も驚いた」
「記事が出た翌週にあの番屋は燃えました」
「あれはひどかった」大槻は首を振った。「浜の者はみんな気味悪がってね。誰がやったのか、とうとうわからなかった。君も、あれで書いたものの裏が取れなくなったろう。気の毒だった」
大槻はテーブルのハンカチの角を、指で揃えた。
「沢井くんは、ここにいたころから、話をこしらえるのが上手な子だった。人を引きこむのがね。君が信じたのも無理はないよ」
「沢井さんに騙されたとは、私は思っていません」
「そうか」大槻はうなずいた。「君は、そういう人だったね。十年前も」
大槻は茶を一口飲んだ。
「病院に、悠真くんのことで来たそうだね」
「はい」
「三浦さんは、もう長くないんだ。そっとしておいてやってくれないか。最期くらいは静かなほうがいい」
大槻は、野口の顔を見て、少し笑った。
「悠真くんのことを伺ってもいいですか」
「どうぞ」
「六年前の電話で大槻さんは、あの子のことは私が責任を持って確かめている、と言いました。東京で身を寄せている、と」
「言ったね」
「どうやって、確かめていたんですか」
「母親から毎年、年賀状に写真をつけて送ってもらっていたよ。元気でやってます、ってね」
大槻は書棚のほうへ顎を向けた。
「その年賀状を見せていただけますか」
「探しておこう。何しろ、この量だから」
「束の背に年が書いてあります。去年の束だけでも」
大槻は書棚から目を戻した。
「人の手紙だからね。本人の許しがなければ、見せられない」
「本人は、もう長くないとさっきおっしゃいました」
「だからこそだよ」
大槻は笑いながら湯呑みをテーブルに置いた。
「……あの人が、私に嘘をついていたのかもしれないね。病気の人を責めたくはないけれど」
ストーブの上のやかんが、小さく鳴りはじめた。大槻は立ってやかんを火の脇へずらした。そのまま窓の前に立ち、外を見た。窓の下の斜面の向こうに施設の平たい屋根が雪をかぶって並んでいる。
「あの棟ができてから、子どもたちは六人ずつで暮らしてる。台所も風呂も、家と同じだ。十年前に君に話したろう。家みたいにって」
大槻は窓の前から戻って、ソファに腰を下ろした。
「小松さんのところへ行ったようだね」
大槻はハンカチをポケットに戻した。
「警察も行ったそうだけど。何かわかったかい」
「蒼太くんの話を伺いました」
「そうか。あの人は、まだ私を恨んでいるだろうね」
大槻は野口の顔を見ていた。
「野口くん。陽菜の居場所に心当たりがあったら、教えてくれないか。お礼はする」
「見つけたらどうするんですか」
「家に連れて帰る。それから、一緒に警察へ行くよ。あの子が何をしたにしても、一人にはしない」
蒼太の叔母の家の傘立ての、乾きかけた黒い傘が頭にあった。野口は何も言わなかった。
「そうか」
大槻は立ち上がった。
玄関で長靴を履いていると大槻が上がり框から手を差し出した。野口が手を出すと、大槻はそれを両手で包んで、すぐに離した。十年前の公民館の廊下と同じ、乾いた温かい手だった。
「哲くんにも君が元気だったって言っておくよ」
戸を開けると、外はもう暗くなりかけていた。
「気をつけて帰りなさい。林道は夕方になると凍るから」
林道の上り坂の途中で、轍のわきに車を寄せた。杉の切れたところから、施設の窓の灯りが見える。ノートの終わりのほうの、小松、の番号を押した。
呼び出し音が五回鳴って、つながった。
「……はい」
「野口です。いま、大槻さんに会ってきました。私が小松さんのところへ行ったことを知っていました」
受話器の向こうで、彼女は何も言わなかった。テレビの音が、ふっと消えた。
「町内会の人が、紙を持って家を回っています。そちらにも、行くと思います」
「……昨日、来たよ」
彼女の声は低かった。
「わかった。もう、こっちにはかけてこないで。誰が聞いてるか、わからないから」
◇
土曜の朝、スマホを座卓の真ん中に置いてから着替えをすませた。窓の結露を手のひらで拭くと、国道の向かいの空き地に軽トラックが一台停まっているのが見えた。ドアに漁協の名前が入っていて、荷台に網の束が積んである。きのうの夕方、灯油を買いに出て戻ったときには、もうそこにいた。マフラーから白い煙が細く出ていて、曇ったガラスの向こうに運転席の男の頭の形だけがわかる。
朝飯に下りると、帳場の脇の土間で主人が注連縄をなっていた。框の端に、できあがった縄が何本も寝かせてある。どれにも半紙を細く切った札が結んであって、主人の字で、床屋、公民館、と書いてあった。
「町内の分だ。毎年、頼まれるもんだから」
主人はそれだけ言うと、次の藁を膝の上で揃えた。
茶の間のこたつの上に、地元の新聞がたたんで置いてあった。開くと、社会面の下のほうに写真つきの小さな記事があった。鳴磯福祉会の理事長が、今年も卒園生に年賀状を書いている、という記事で、写真の大槻は机に向かって万年筆を持ち、脇に葉書の山が積んである。四百枚あまり、と数が書かれていた。記事の終わりに、大槻の言葉が載せてあった。一枚ずつ、顔を思い浮かべながら書いています。孫のことは、いまは祈るしかありません。
野口は新聞をたたみなおして、元の場所に置いた。
味噌汁をすすっていると、廊下を女将が通った。盆に握り飯が二つと、蓋をした椀が載っている。女将は茶の間のほうを見ずに台所の奥へ行き、裏口の戸が開いて、閉まる音がした。野口は残りの味噌汁を飲んで、膳を重ねた。
森下は、土曜に電話する、と言った。施設の外からかけるなら、子どもたちの昼飯の前か、夕方の買い出しのときだろう。部屋に戻って、スマホの音を一番大きくした。
窓の外では、軽トラックの屋根に雪が積もっていく。男はときどきワイパーを少しだけ動かした。フロントガラスに扇の形の跡ができて、またすぐに白くなった。土間からは、主人が藁を木槌で打つ音が間をあけて聞こえてくる。
一度、スマホを持って下へ下りた。主人は框に腰を下ろしたまま、撚りかけの縄の端を野口のほうへ差し出した。
「そこ、押さえててくれ」
言われたとおりに縄の端を両手で押さえると、主人は残りの藁を三つに分けて、膝の上で撚りはじめた。撚るたびに押さえている手に縄の重さがかかってくる。主人は何も訊かなかった。野口のスマホは、框の上で画面を上にして置いてあった。
縄が腕の長さほどになったところで、主人は「もう、いい」と言った。手を放すと、手のひらに藁の筋の跡が赤く残っていた。
部屋に戻って、電池の残りを見ると八割あった。ノートを開いて、森下と話したことを書きつけたページを読みなおす。
しばらくして、もう一度スマホを見た。着信はなかった。窓の外の軽トラックの屋根に、雪が厚みのわかるほど積もっていた。
◇
昼のバスが宿の前で止まって、走り去った。
「野口さんっていう人、いますか」
玄関で女の子の声がした。下りていくと、上がり框の前に美咲が立っていた。紺のジャージの上に施設の駐車場で着ていたのと同じダウンを着て、肩に雪を載せている。
女将が帳場から出てきて、框の手前で止まった。美咲と野口の顔を一度ずつ見た。
「上がってもらっても、いいですか」
女将は首を振った。
「いま、掃除してっから。車で話したら。暖房かければ、寒くねえべ」
軽のエンジンをかけて、暖房を強くした。助手席の美咲は、膝の上でスマホを両手で持っている。画面の左の角から斜めにひびが入っていて、写真を出すたびにそのひびが写真の上を横切った。
「森下先生の机にさ、ここの名刺があったの。裏に番号が書いてあるやつ。電話しようかと思ったけど、来たほうが早いと思って」
「バスで来たの」
「一時間。往復で千円ちょっと」
美咲は一枚目の写真を出した。通帳のページを上から撮ったもので、ボールペンの先が一つの行を指している。日付は十二月七日で、払い戻しの額はそれまでの残高のほとんどだった。
「これ、あたしの。おととい、先生といっしょに見たとき撮っといたの。先生が、ちょっとごめんねって、本部に電話しに行ってるあいだに」
二枚目は、机の上に広げた紙を撮ったものだった。帳簿の写しで、十二月七日の行に、新館床補修工事・現金払い、とある。その下に手書きの領収書の写しが重ねてあって、写しでも田所工務店の角印が赤く読めた。
「春に一緒に出る子が二人いるんだけど、その子たちのも同じ日に引き出されてた」
三枚目も同じ机だったが、紙が一枚増えていた。見積書で、日付は十一月二十日になっている。
「これは午後に撮ったの。先生が理事長のとこから帰ってきたら、置いてあった」
「先生はなんて」
「もういいの、戻ったから、って。それだけ」
美咲は画面を自分のほうへ向けて、ひびのところを親指でなぞった。
「ほんとに戻ってたの。きのうの夕方、先生が通帳見せてくれた。利息までついてた。だから、もういいんだって。……もういいって、何が」
「写しはどうしたの」
「夜、事務室のシュレッダーにかけてた。あたしが戸のとこで見てるの、知ってて、先生は何も言わないでかけてた」
「これ、いくらになる?」
美咲は画面を野口のほうへ向けた。
「教習所、三十万くらいかかるの。あたしのだけじゃなくて、一緒に出る子のぶんも。週刊誌って、こういうの買うんでしょ。陽菜さんが乗ってた車の映像だって、誰か売ったんでしょ」
その車を運転していたのが野口だということを、美咲はたぶん知っている。知っていて言ったのかどうかは、表情を見てもわからなかった。
「これは、買えない」
「なんで」
「売ったら君の名前が出るかもしれない」
「名前なんか」
美咲は窓の外を見た。軽トラックの運転席で、男がこっちを向いている。
「名前なんか、出たって。どうせ春にはいなくなるんだし」
「出たら、施設に残る子たちのところにも人が来るかも」
美咲は返事をしなかった。しばらくしてから、窓のほうを向いたまま言った。
「ねえ。陽菜さんって、ほんとに人、殺したの」
「わからない」
「ちっちゃい子たち、陽菜さんのこと鬼みたいに言うんだよ。園長先生の孫なのに、って。夜、トイレ一人で行けないって子もいる」
美咲はスマホをダウンのポケットにしまって、反対のポケットから小銭を出し、手のひらの上で数えた。百円玉が四つと、十円玉がいくつか。
「バス代、出すよ」
「いらない。そういうんじゃないから」
美咲はドアに手をかけた。
「坂の下でさ、名刺配ってた雑誌の人がいたんだよね。施設のみんなに。あの人に電話してみる」
ドアが開くと車の中の暖気が少し逃げた。美咲は雪の中を宿の前の停留所まで歩いていった。屋根のついた停留所の下で、スマホを耳に当てている。空き地の軽トラックの男が、窓を指の幅ほど下ろしてそれを見ていた。
坂の下で名刺を配っていた雑誌の人、と美咲は言った。三浦家の隣と病院までついてきた若い男のダウンの胸ポケットからのぞいていた赤い灯を、野口は思い出した。
ノートを開いて、写真で見た日付を書いた。見積書、十一月二十日。払い戻しと領収書、十二月七日。見積書の日付だけが、火事の晩より前になっている。その紙は美咲が朝に撮ったときには机になく、午後には綴じてあった。書いたページの端を折ってから、ノートを閉じた。
◇
美咲の乗ったバスが岬のほうへ見えなくなってから、女将が玄関から出ていった。綿入れのまま、長靴も履かずにつっかけで雪を踏んでいく。国道を渡って、空き地の軽トラックの窓を拳で叩いた。
窓が下りた。女将が何か言い、男が何か答えた。男は前を向いたまま、もう一度何か言った。女将は窓の縁に手をかけて、長いあいだ立っていた。
戻ってきた女将は、玄関の土間でつっかけの雪を落とした。帳場の脇で縄をなっている主人の前に立って、野口のほうは見ずに言った。
「会長さんに頼まれたんだって。会長さんは、先生に頼まれたんだって」
主人の手は止まらなかった。
「うちの前さ、朝から晩まで車停めて。先生に頼まれたんだって。あの人がどこさ行くか、見てろって」
「んだな」
主人は撚った縄を引いて、長さを見た。それから縄を框に寝かせて立ち上がり、玄関の脇のスコップを取って、外へ出ていった。宿の前の雪を国道のほうへ向かって、一杯ずつ遠くへ放りはじめた。放った雪は、空き地の軽トラックの手前の路肩に、だんだん高く積もっていった。
女将は帳場に入って、宿帳を開き、また閉じた。それから台所のほうへ行きかけて、廊下の途中で止まった。廊下の先に裏口の戸がある。女将はそれを見てから、茶の間に入ってこたつの上の新聞を揃えた。
その午後、野口が水を飲みに下りるたびに女将はどこかで手を止めて、裏口のほうを見ていた。
◇
窓の外が暗くなりかけたころ、スマホが鳴った。画面に矢代の名前が出ていた。
「野口さん。すいません、土曜に。いま鳴磯からの帰りなんですけどね、施設の日誌の続きを見てて。それで、上から伝言を頼まれちゃって」
「伝言」
「ええ。道の駅でいいですか。八時に。どうせ帰り道なんで」
宿の前の国道に出ると空き地の軽トラックのライトが点いた。岬の道でミラーを見ると、間をあけてライトが二つついてくる。カーブで見えなくなり、直線に出ると、また後ろを走っているのが見えた。
道の駅は物産館がとうに閉まっていて、トイレの棟の灯りだけが点いていた。駐車場の真ん中に、紺のセダンが一台停まっている。隣に軽を入れると、セダンの助手席のドアが内側から開いた。
「寒いのに、すいませんね。これ、どうぞ」
矢代は缶コーヒーを一本、野口の手に押しつけた。車の中は暖房が強くて、矢代のコートは後ろの座席に丸めて放ってあった。
「施設の日誌、今日で昭和の分は終わりました。どのページも消しゴムの跡が、やたら多いんですよ。まあ、それはいいんですけど」
矢代は自分の缶を両手で転がした。
「伝言っていうのは、市川からなんですけど。本部の、うちの上の人で」
十年前、地元の署の二階の応接室で書類を閉じて立ち上がった男の名前だった。事故ですから、と言った声を野口は今も覚えていた。
「大槻から市川に直接、苦情が来たそうです。記者が施設の子に、お金のことを訊いて回ってるって。近づかないでくれって。……伝えましたからね、僕は」
美咲に、お金は貯めてあるの、と訊いたのは本当だった。訊いたのは、施設の駐車場で二人で雪を寄せているときで、そばにいたのは米袋で斜面を滑っている小さい子たちだけだった。
「施設からの苦情が、そんなにすぐ本部の上まで届くんですね」
「届きましたね」
矢代はそれだけ言って、缶コーヒーを開けた。駐車場の端のほうを見ている。トイレの棟の明かりの届かないところに軽トラックが一台、ライトを消して停まっていた。
「つけられてますね」
「きのうの夕方から、宿の前にいます」
「そうですか」
矢代は上着の内ポケットから手帳を出した。表紙のシールの角を親指で押さえて、開かないまま膝の上に置いた。
「これ、娘が貼ったんですよ。保育園で、もらってきて。はがれかけてるんですけど、はがすと怒るんで」
野口は缶コーヒーの温かさを手のひらで持ちかえた。
「傘のこと」
矢代は前を向いたまま言った。
「僕は、最初の晩に映像で見てました。水曜に、署で野口さんに話を聞く前に。本部の人が行ったでしょう、宿に。あれ、聞きました」
「宿でそう言われました」
「言わなかったの、僕なんで」
ワイパーが一度動いた。フロントガラスの向こうで、トイレの棟の灯りに雪が光った。
「野口さん。十年前の事件について、まだ何か持ってますよね」
野口は答えなかった。矢代は少し待ってから、手帳をポケットに戻した。
「いいです。言えるようになったらで」
矢代はダッシュボードの時計を見た。
「八時半、過ぎちゃいましたね。娘、寝てるな」
矢代はデフロスターを強くした。野口が降りて軽のほうへ戻るとセダンは駐車場を出て、千坂のほうへ曲がっていった。
軽の運転席で、缶コーヒーを開けずにポケットに入れた。フロントガラスの雪をワイパーで落とすと、駐車場の出口が見えた。
出口の常夜灯が点いていた。火事のあとの日曜の昼に来たときは、灯りの消えた柱の上に雪が載っていた。いまは柱の上の灯りの輪の中を、雪が横に流れている。その先が旧道で、入口の色の褪せた青い標識に、雪の中でも、鳴磯 8km、と読めた。
駐車場の端で、軽トラックのライトが点いた。ライトは向きを変えて、国道のほうへ曲がっていった。
あの日、陽菜が会社の黒い傘を差して歩いていった旧道に雪が降りつづけていた。




