三章 糾える縄①
座卓の上でスマホが震えていた。暗い部屋の中で画面の明かりが、そばに置いた部屋の鍵の木の札を白く浮かせている。三時五十二分。知らない番号だった。
「……はい」
風の音がした。その向こうで硬いものを叩く音が続いている。軒の氷を棒か何かで叩き落としているような音だった。
「野口さんか。……丹羽だ。近所の」
息が上がっていた。
「あんたの家に誰か入ってる。いま、勝手口から出てきた」
野口は布団の上で体を起こした。いつもコンビニの駐車場で会釈している顔を思い出す。
「誰が、ですか」
「わかんねえ。暗くて。……何かあったらあんたに言えって、沢井が」
声が電話から離れて、別のほうへ向いた。
「……誰だ」
少し遠くで、別の声が何か言った。穏やかな男の声だった。風が強くなって、言葉は聞きとれない。
なにか重いものが、雪の上に落ちる音がした。雪を踏む音が、二つ、三つ、近づいてきた。
「丹羽さん」
呼んだときには通話は切れていた。
野口はかけなおすが、呼び出し音が鳴りつづけて誰も出ない。もう一度かけるが同じだった。三度目は、呼び出し音を十まで数えたところで、指が勝手に切っていた。
消防に電話をかけて、千坂の家の坂の名前を言った。坂の途中の家で、人が落ちたかもしれない。電話の向こうの男は坂の名前を二度くりかえしてから、野口の名前といまどこにいるかを訊いた。鳴磯の隣の町の名前を言うと、男は一度黙った。
電話を切ると部屋の中の音が戻ってきた。国道を通る車はない。窓のガラスが、風で小さく鳴っている。千坂までは二時間かかる。
暗いまま靴下を履いた。上着に腕を通しながら階段を下りると、帳場の柱の振り子時計が四時を打ちはじめた。
◇
上がり框に腰を下ろして、長靴に足を入れた。スマホの電話帳を開いて矢代の名前を出し、発信のボタンに親指を置く。
家の押し入れには、六年前に東京から送った段ボールがある。二〇一六年の束のいちばん上の手帳は、終わりのページがよく開く。輪ゴムをかけようとするたびに、そこが開いた。家に誰かが入った、と言えば、相手が何を探しに入ったのかを調べられるかもしれない。ゆうべ、道の駅のセダンの中で矢代は、十年前の事件について言及していた。
親指を離して、スマホを上着のポケットに入れた。
宿の玄関の戸を開けると、雪が斜めに降っていた。国道の向かいの空き地は、道の駅から戻ったときから空いたままだった。
軽の屋根の雪を腕で払ってエンジンをかけた。吹き出し口の風はまだ冷たい。ワイパーが雪を押しのけるたびに、フロントガラスの両端に雪が溜まっていく。
岬を回ると、海のほうから風がまともに吹きつけてきた。ハンドルが取られて、軽が一度、路肩のほうへ寄った。国道に出ても前にも後ろにも他の車のライトは見えない。道の駅の前を過ぎた。駐車場には一台もいなくて、出口の常夜灯の下を雪が横に流れていた。
山あいの道に入ると雪は細かくなり、まっすぐ落ちてくるようになった。ヘッドライトの中で、雪の粒が手前へ向かって次々に飛んでくる。見ていると、自分が止まっていて、道のほうが流れてくるような気がした。野口は目をこすった。
信号のない交差点で車を停め、もう一度丹羽の番号にかけた。呼び出し音をハンドルに額をつけるようにして聞いた。誰も出なかった。
丹羽は毎晩二時すぎに市場へ向かう。国道を通るとき、軽トラックの運転席から片手を上げる。野口も缶コーヒーを持ったまま手を上げる。名前を知ったのはこの冬の初雪の朝だった。
何かあったら言え、と沢井に言われていたと丹羽は言った。沢井が死んで、もうひと月になる。
峠の手前で黄色い回転灯をつけた除雪車に追いついた。抜けるところはなく、後ろについた。除雪車の刃が雪を押していく音が、閉めた窓の中まで聞こえてくる。回転灯の光が両側の雪の壁を黄色く照らしては、また暗くした。二十キロも出ていない。野口はハンドルを指で叩き、やめて、また叩いた。
峠を越えたところの広い路肩で除雪車が右に寄って停まった。運転席の窓から腕が出て、先へ行け、というふうに振られた。野口は横を抜けながら片手を上げた。腕はもう一度振られて、窓の中へ引っこんだ。
前が開けた。対向車線の遠くに、ライトが二つ見えた。近づいてくる。ハイビームのままだった。目の奥が白くなり、すれ違ったあとには、黒い車体の形しか残らなかった。ダッシュボードの時計は、五時を少し過ぎていた。野口はまばたきをして、ハンドルを握りなおした。
千坂の市街に入る頃、空の端が灰色になりはじめた。
◇
坂の下に軽を停めた。丹羽の家の前に、青いシートが張ってあった。シートの手前で銀色の梯子が横倒しになっている。家の脇には、市場へ行くときの軽トラックが半分雪に埋まったまま停まっていた。玄関の灯りが、明るくなりかけた中でまだ点いている。
パトカーが一台と白いセダンが一台いた。シートの前に、紺のコートの年配の男と若い男が立っている。野口が名前を言うと年配のほうが手帳を出した。
「ああ、通報の。遠いところご苦労さんです」
刑事は手帳をめくった。
「救急が着いたのが四時七分。もう、だめでした。梯子から落ちて頭を打ってます。雪の浅いところだったんで」
シートの下の雪に黒いしみが広がっていた。若いほうの刑事が、それを踏まないように靴の向きを変えた。
「電話で、話していたんです」
「らしいですね。ポケットの電話の最後の通話があなたで」
「誰だ、と言いました。誰かに向かって。そのあとで倒れる音が」
「誰だ、ね」
刑事は野口のスマホの着信の画面を見せてくれと言った。見せると、三時五十二分の行を指でなぞってうなずいた。
「通話は一分ちょっと。梯子の上で片手で電話してりゃ、落ちますよ。酒もだいぶ残ってたみたいだし。誰だってのも、暗い中ですからね。猫が屋根を走ったのかもしれません」
「電話は切れていました」
「落としたら、切れることもあるでしょう」
刑事は手帳を閉じた。
「近所の人の話じゃ、先月の終わりから毎晩お酒ばかり飲んでたそうで。台所に空いた瓶がずいぶん並んでた。知り合いが亡くなったとかでね」
先月の終わりに死んだ知り合いの名前を野口は知っている。
若いほうの刑事が野口の顔を見ていた。年配のほうに何か耳打ちすると、年配の刑事は、ああ、と小さく言った。
「野口さんって、あの、週刊誌の。陽菜さんの、タクシーの」
「はい」
「そうですか。いや、こっちは事故で上げますけど本部のほうにも一応回しときますよ。同じ名前が出てくると、向こうも気にするんで」
本部、と刑事が言ったとき、署の二階の会議室の半分開いていた戸が浮かんだ。矢代がゆうべ道の駅で口にした市川という男が、その戸の向こうのどこかにいたはずだ。
庭が落ちたあとに近づいてきた男の足音を野口は思い出す。
「あんたの家に誰か入ってる、と言っていたんです。丹羽さんは」
「ああ、なるほどね。じゃあ一応、見ときますか」
向かいの家の門の前に、綿入れを着た老人が立っていた。軒の下に、まだ青い藁の注連縄が掛かっている。老人は野口を見ると、シートのほうへ顎をしゃくった。
「何も見てねえ。寝てたもの。救急車の音で起きた」
刑事が何か訊きかけると、老人は同じことを言った。寝てたもの、と、二度目のほうが声が大きかった。綿入れの前を合わせた手が、小さく震えていた。
玄関の鍵は、かかったままだった。刑事たちと裏へ回ると、勝手口の古い錠の鍵穴のまわりに細い傷が何本か光っていた。傷の底の金属は、まだ錆びていない。
「前からの傷じゃないですか。古い錠ですからね」
若いほうが言った。野口は答えずに勝手口の戸を引いた。鍵はかかっていた。
家の中は、出てきたときのままに見えた。台所の流しに伏せた湯呑みも、居間のストーブも、母の字のラベルが貼られた瓶も、元の場所にある。刑事たちは靴を脱がずに、玄関から廊下をのぞいて、それで済ませた。
寝起きしている部屋の押し入れを開けた。上の段の奥に、段ボールが二つある。手前の箱の蓋を開けると、取材のノートの束が年ごとに並んでいた。
どの束にも輪ゴムがかかっていた。新しい、色の濃い輪ゴムで、指をかけると強く押し返してくる。十二月のはじめにこの箱を開けたときには、輪ゴムはどれも伸びきっていて、指をかけただけで切れた。切れたまま、束の上に載せておいたはずだった。
束の順番も揃っていた。年の古いほうから、箱の手前に向かって並んでいる。
いちばん底に、二〇一六年の束があった。新しい輪ゴムの下にいちばん上にあったはずの黒い手帳がなかった。
「どうです。盗られたものはありますか」
玄関のほうから、年配の刑事の声がした。
あの手帳のことを言えば、何が書いてあったかを訊かれるだろう。
「……ありません」
「そうですか。まあ念のため、錠は替えたほうがいいですね。それと、電話のことは調書にしますんで。昼すぎに坂の下の交番まで来てもらえますか」
刑事たちの足音が、玄関から遠ざかった。
野口は箱の前にしゃがんだまま、新しい輪ゴムの一本に指をかけた。どれも同じ太さで、同じ向きに二重にかけてある。
窓の外で、パトカーが坂を下りていった。
野口は箱を畳の上に引き出して、逆さにした。ノートの束が畳に崩れた。輪ゴムを一本ずつ外して、一冊ずつ開いた。二〇一六年の束も、ほかの年の束も、もう一つの箱の本と名刺の束も、全部出した。黒い手帳はなかった。畳の上に、外した輪ゴムが散らばっていた。
台所へ行った。母はいつも、流しの下の引き出しの取っ手に輪ゴムを束にして掛けていた。取っ手には、同じ色の輪ゴムが何本か掛かっている。前に何本あったのかを野口は覚えていなかった。
外へ出ると、丹羽の家の門には黄色いテープが一本、斜めに張られていた。軒には雨どいに沿って、太いつららが並んでいる。左の端から真ん中のあたりまでは根もとから叩き落とされていて、下の雪に折れた氷の棒が何本も突き刺さっていた。真ん中から右には、手のつけられていないつららが軒いっぱいに下がっている。
テープの外から、家の脇の軽トラックの助手席が見えた。市場の伝票の綴りが載っていて、いちばん上の紙にきょうの日付が書いてある。
向かいの老人が、綿入れのまま門を出てきて野口の隣に立った。二人で軒のつららを見上げた。
「今度の休みに雪囲いやるって、言ってたのにな」
老人はそれだけ言うと、自分の家の門の中へ戻っていった。門の閉まる音がした。
玄関の灯りが、明るくなった空の下でまだ点いていた。
昼前に、国道沿いのホームセンターで補助錠を一つ買った。勝手口の戸の内側にねじで留めるもので、箱の説明書きでは簡単そうに見えた。物置には、台車を直そうとした金槌のほかにドライバーが一本しかない。ねじは二本目で斜めに入り、抜こうとすると頭の溝がつぶれた。三本目からは、穴をずらして留めた。かけてみた補助錠は、戸の縁から傾いていた。
昼すぎに坂の下の交番へ行った。奥の小さな部屋で、若いほうの刑事がノートパソコンを開いて待っていた。年配のほうはいなかった。
刑事は、宿の名前と電話がかかってきた時刻と通話の内容を順に訊いた。野口が答えるたびに、キーを打つ音が部屋に響く。
「誰だ、と言った。そのあとは」
「倒れる音がしました。雪を踏む音が、二つか三つ」
「ほかに丹羽さんは何か言いましたか」
何かあったらあんたに言えって、沢井が。
「家に誰か入っている、と」
刑事はうなずいて、キーを打った。
刑事は、印刷した調書を読み上げた。午前三時五十二分ころ、丹羽稔から携帯電話に着信があり、梯子の上で作業中と思われる音とともに野口の家に人が入っている旨の話があった。誰だ、という声ののち、転落したと思われる音を聞いた。
「誰だ、のあとに別の人の声がしました。穏やかな声でした」
刑事は紙を見て、野口を見た。
「言葉は、聞きとれたんですか」
「聞きとれませんでした」
刑事は黙ってキーをいくつか打ち、印刷しなおした。誰だ、という声ののち、男性の声のようなものを聞いた、という一行が増えていた。野口はその紙に名前を書いて、人差し指を朱肉に押しつけた。
帰りに、道の駅に寄った。物産館の中は暖房が効いていて、レジの奥で年配の女が今日も編み物をしていた。缶コーヒーを一本買うと、女は編み棒を置いて、峠はどうだったかと訊いた。除雪車が出てた、と答えると女はうなずいて、また編み棒を取った。
外へ出て、駐車場を見渡した。夜明け前には一台もいなかったところに、いまは車が何台か停まっている。トイレの棟の軒下に、防犯カメラが一つ。駐車場のほうへ向けて取りつけてあった。野口は、その黒い丸いレンズを見上げた。
宿に戻ったのは日が暮れてからだった。国道の向かいの空き地は雪が平らに積もったままで、タイヤの跡もない。
主人が玄関の前の雪を寄せていた。野口の軽を見るとスコップを止めて、空き地のほうへ顎を向けた。
「来なかった。今日は、一日」
主人は何か言いかけて、やめた。スコップを雪に差したまま、玄関に入っていった。
帳場には誰もいなかった。茶の間の戸が開いていて、こたつに女将が座っていた。テレビは点いていない。こたつの上に菓子折りの箱が一つ、包装紙をはがされないまま置いてある。包装紙には、千坂の駅前の菓子屋の名前が刷ってあった。
「座って」
野口が座ると、女将は野口の湯呑みに茶を淹れた。自分の湯呑みは伏せたままだった。主人が入ってきて、こたつには入らずに、戸口の柱に寄りかかった。
「今朝ね、鳴磯学園の理事長さんが来たの。八時半ごろ」
女将は菓子折りに目をやった。
「町の者が見張りなんかしてご迷惑をかけましたって。玄関で頭下げて。上がってもらって、あたしがお茶淹れに台所さ行って、戻ってきたら理事長さんが二階から下りてくるとこだった。お手洗いを探してたって」
「二階のどこから」
「階段の上から。あんたの部屋の前の廊下」
女将は湯呑みに伸ばしかけた手を、こたつ布団の上に戻した。
「帰りしなに裏のほうさ目やって、あの離れは使ってるのかって」
「物置だって言った」
柱に寄りかかったまま、主人が言った。女将はうなずいた。
「理事長さんの車が出てってから、離れさ行ったの。……あの子はいなかった。畑に小さい足跡がついてて、岬の道のほうさ続いてた」
「離れに、誰が」
女将は顔を上げた。
「あの子。陽菜ちゃん」
茶の湯気が、野口と女将のあいだで細く揺れていた。
「先週の日曜の晩から。小松さんが夜中に車で連れてきたの。誰にも言わないで預かってくれって。小松さんとこの亡くなったお母さんとね、あたし、学校で同じ組だったの」
「私がここにいることは」
「知らなかった。言わなかったもの。あの子にも、あんたにも」
女将は伏せてあった自分の湯呑みを起こした。何も入っていない湯呑みを、両手で包んだ。
「一度だけ訊かれたの。ほかにお客さんいるんですかって。いないって言った。あんたが二階にいる晩に」
戸口の柱のところで、主人が身じろぎした。
「朝の早い子でね。主人が土間で藁打つ音で起きるんだって。離れの窓から、主人が縄なうのずっと見てたって」
主人は自分の手を見下ろした。藁の屑が、指の節にまだ一本ついていた。
女将は湯呑みを包んだまま、こたつの上を見ていた。
「あんたに言ったら、刑事さんが来たとき、あんたここで嘘つかなくちゃなんねえべ」
六日前の朝、本部の刑事が二人、この茶の間に座っていた。あの朝、離れに陽菜がいた。宿の裏へ運ばれていく盆を野口は何度も見ていた。
「あの朝ね。あたし、お茶出してから台所で包丁持ったまま、ずっと立ってたの。大根一本も切らねえで」
女将の口もとが少しゆるんで、すぐに戻った。
「あの子、一度だけあんたのこと言ったの。野口さんに傘返さなきゃって。会社の傘だからって。……あたし、二階にいるよって言いそうになった」
女将は湯呑みをこたつに置いた。茶の間の時計が鳴っていた。
「理事長さん、帰るとき玄関であたしに言ったの。四十年ぶりかなって」
女将の指が、湯呑みの縁をなぞった。その指はかすかにふるえていた。
「あのときは、沢井くんを連れてきてくれてありがとうって」
主人が柱から背中を離した。
「四十年前の冬にね、うちの物置に男の子が入りこんでたの。朝、薪取りに行ったら筵の中で丸まってた。靴下も履いてねえで。ご飯食べさせて風呂さ入れたら、背中に痣があった。……古いのと、新しいのと」
柱のところで、主人が目を伏せる。女将は一瞬顔を上げ、主人と目を合わせた。
「一晩置いて、次の朝あたしが施設さ連れて返した。それが当たり前だと思ってたの。親のいない子は施設さ返すもんだって。玄関で若い職員さんが受け取ってくれて、ありがとうございましたって頭下げてた」
「その職員が」
「顔なんか覚えてなかった。今朝、言われるまで」
女将は窓のほうを見た。窓の外は暗く、ガラスに茶の間の灯りが映っているだけだった。
「六年前、あんたの記事が出たでしょう。浜に住んでる男の人が、子どものころ施設の倉庫さ入れられてたって。読んで、あのときの子を思い出した。名前はわかんなかったけど。この冬の火事のあとでテレビに沢井っていう人の写真が出て、それでわかった」
女将は、こたつの上の自分の手を見た。
「あの時、なんで……」
女将の声はそこで途切れた。
「理事長さん、最後にもう一つ言ってった」
柱のところで、主人が言った。
「もうそろそろ、この宿も続けるのが大変でしょうって」
主人はそれだけ言うと、茶の間を出ていった。玄関の戸が開いて、スコップが雪をすくう音が、また聞こえはじめた。暗くなってからも、その音は長く続いた。
野口は二階の部屋に上がった。座卓の脇に置いた鞄のファスナーが、端まで閉まっていた。今朝、暗い中で靴下を出したあと半分開けたままにして出たはずだった。閉めたような気もした。確かではない。
鞄の中を見た。着替えと充電器と、六年前の鳴磯のノートが入っている。どれも元の順に入っていた。
窓の前に立った。峠のむこうですれ違った黒い車のことを思い出した。ダッシュボードの時計は、五時を回ったところだった。四時前に千坂を出れば、あのあたりを五時ごろに通る。そこから宿までは、一時間とかからない。八時半までには、二時間あまりある。指を折って数えなおして、野口は考え込んでいた。
階段を下りて、女将に離れを見せてもらえるかと訊いた。女将は黙って懐中電灯を取り、台所の奥の裏口を開けた。
離れは母屋の裏から、雪をかいた細い道を二十歩ほど行ったところにあった。六畳一間で、隅に古い簞笥と使っていない布団が積んである。一組だけ、窓の下にきちんとたたんであった。その上に、湯たんぽが二つ、口を上にして並んでいる。触ると、もう冷たかった。
窓の桟に、藁で撚った短い縄が一本置いてあった。人差し指くらいの長さで、撚り目が途中から緩んでいる。
「主人の余り藁。あの子、見よう見まねでずっと撚ってたの」
女将は懐中電灯の光を縄から外した。
野口は縄を手に取った。緩んだところを指で撚りなおそうとして、やめた。上着の内ポケットに入れる。女将は何も言わなかった。
母屋に戻って、玄関で長靴を履いた。主人がスコップを止めて、こちらを見た。野口は軽の屋根の雪を、腕で払いはじめた。
岬の道は、夜になって車が減っていた。ヘッドライトの中を雪が斜めに横切っていく。波が岩に当たる音が、閉めた窓の外でときどき道まで上がってきた。
離れの裏から出た小さな足跡は、岬の道のほうへ向かっていたという。鳴磯へ戻ったのなら、陽菜が行くところは、野口は一つしか思いつかなかった。十年前、悠真と二人で九日間隠れていた番屋だ。いまは基礎の石と黒い柱の根もとが二本残っているだけになっている。
町に入ったのは七時前だった。漁港の端の網を干す小屋の陰に軽を停めて、エンジンを切った。町の窓の灯りが、一つずつ消えていくのを待った。
九時を過ぎると、ほとんどの家の灯りが消えていた。漁港の前の閉まった食堂のシャッターの貼り紙が、街灯の下で白く見えた。坂の上の施設には、まだいくつか窓の灯りが残っている。その下の古い二階建ての家の窓は暗かった。
漁港の脇を過ぎて、浜へ下りる道の上で軽を停めた。グローブボックスに母が入れておいた懐中電灯があった。点けてみると電池が弱っていて、光が黄色い。
浜へ下りる道は、土曜に来たときより雪が深くなっていた。長靴が膝の下まで沈む。下りきったところで懐中電灯を消して、目を慣らした。海のほうは真っ暗で、白い波頭だけが、ときどき横に長く見えた。
番屋の焼け跡は、雪の中で基礎の石の四角がかろうじてわかった。黒い柱の二本は上に雪を載せて、前より短く見えた。足跡はなかった。あったとしても、降りつづける雪が、平らにしてしまっているだろう。
浜に面した戸のあったあたりにしゃがんで、手袋で雪を払った。黒い土の中から、溶けて固まった緑のガラスが一つ出てきた。土曜に見たものと同じところに埋まっていた。六年前、この右の壁の棚の裏に、ひな、ゆうま、と彫ってあった。棚も板も、もうない。十年前、ここで九日目に見つかった十歳の子が、いま、この雪のどこかにいるかもしれない。ガラスを雪の中に戻して、立ち上がった。
焼け跡から岬のほうへ、冬は使われない漁具小屋が間をあけて四つ並んでいた。トタンの屋根に雪が厚く載って、戸はどれも浜のほうを向いている。懐中電灯を手で覆って光を細くしながら、一つずつ照らした。どの戸にも、南京錠が下がっていた。一つ目の錠は赤く錆びて、掛け金と一緒に凍りついている。二つ目は、戸の前に吹きだまりができていて、腰の高さまで雪に埋まっていた。
三つ目の小屋の戸は、板が一枚、下のほうで割れていた。割れたところから、雪が中へ吹きこんでいる。しゃがんで割れ目に懐中電灯を近づけた。黄色い光の中に、丸めた網の山とガラスの浮きの入った籠と、壁に立てかけた櫂が見えた。奥のほうは光が届かずに暗かった。
風が割れ目で鳴った。ほかの音は聞こえなかった。
野口は割れ目の前で、口を開きかけた。浜の上の家々は暗いが、誰が起きているかはわからない。口を閉じて、懐中電灯を消した。四つ目の小屋の前を通って岩場の手前まで歩き、引き返した。三つ目の小屋の前で、もう一度足を止めた。波が、焼け跡の黒い柱のあいだに白く寄せて、引いていった。
道を上がって軽に戻る。エンジンをかけて、暖房を入れた。浜の上の道からは、焼け跡と漁具小屋の屋根の並びが、暗い中に白く見えている。誰かが小屋を出入りすれば、雪の上の影でわかるかもしれない。シートを少し倒して、ハンドルの上に腕を置いた。
ラジオが、日本海側の天気を読んでいた。あすの朝にかけて雪、沿岸では波が高い。アナウンサーは知らない港の名前をいくつも続けて読み上げる。しばらく聞いていると、いつしか深夜の番組に替わっていた。リスナーから届いたはがきを男の声が一枚ずつ読んでいく。妻が編んだ手袋を、片方だけなくしたという人のはがきだった。残った片方は捨てられずに、いまも引き出しにしまってあるという。暖房の風が、フロントガラスの下のほうから曇りを押し上げていく。
坂の上の施設の窓の灯りが一つ消え、間をおいて、もう一つ消えた。
上着の内ポケットから、藁の縄を出した。指でつまんで、撚り目の緩んだところを指先でなぞった。
十二時を回ったころ、こめかみの奥が鈍く痛みはじめた。寝ていないせいだろう。フロントガラスの曇りはすっかり消えて、吹き出し口の風が足もとから膝へ、膝から胸へ、ゆっくり上がってくる。あくびが一つ出た。野口は小屋の屋根の白い並びをもう一度見てから、ゆっくりと目を閉じた。




