三章 糾える縄②
暖かかった。
暖かさが、毛布を何枚も重ねたように上から押さえつけてくる。重いのが頭なのか体なのか、わからなかった。指を動かそうとしても、どこに指があるのかがわからない。
夢とも言えないものが、浅いところを流れていった。メーターの数字が、いくら見ても読めない。赤い数字が並んでいるのに桁が数えられない。誰かが後ろの座席で眠っている気がした。振り向こうとして、首が動かなかった。病院の廊下の端の窓。布団の上に出ている母の手の甲に、点滴の管がテープで留めてある。テープの端がめくれていて、直そうと手を伸ばすのに手は届かない。あー、野口さんか。ざらついた声がどこか近くでした。
車の後ろのほうで、誰かが雪を踏む音を聞いた気がした。踏んで、止まって、また踏む。押しつけるような、くぐもった音が何度か続いた。夢の中の音なのか外の音なのか、わからないまま音は遠くなった。
ラジオのはがきを読む声が、どこかで途切れた。
冷たい。
顔の左側だけが冷たかった。風が当たっている。エンジンの音がしない。暖房の風もやんでいる。
肩を誰かが揺すっていた。強く。もう一度。
目を開けた。天井の車内灯が点いていた。黄色い光の下に顔があった。フードの縁に雪がついていて、頬が赤い。濡れた前髪が額に張りついている。吐く息が白く、速かった。あの雨の夜、後ろの座席で眠っていた顔だった。
「……陽菜さん」
声がかすれて、自分の声に聞こえなかった。
陽菜は一歩下がった。車内灯の光の外に出て、顔が見えなくなった。雪を蹴る音がして、足音が浜のほうへ遠ざかった。
降りようとした。足が言うことをきかなかった。ドアの縁をつかんで、体を外へ押し出した。雪に膝が落ちる。冷たさがズボンを通って、膝から上がってくる。野口はなんとか立ち上がり、浜へ下りる道のほうへ、二歩、三歩進もうとする。膝がまた折れ、雪に手をついた。手のひらの下の雪がひどく遠いものに思えた。
頭の内側を太い輪で締めつけられるような感覚が襲う。締めつけは脈と一緒に強くなり、目の奥まで来た。胃がせり上がり、野口は雪に手をついたまま吐いた。口の中が酸っぱかった。
「陽菜さん」
風が、声を浜のほうへ持っていった。もう一度呼ぶが、返事はなかった。
道の端まで這うようにして行った。浜は暗く、漁具小屋の屋根の白い並びと波頭だけが見えた。小屋の影のどこかに、まだいるかもしれない。呼んだ。風の音しか返ってこない。呼んだ。立とうとして雪をつかむと雪は指の中で崩れて、つかめなかった。呼びつづけた。呼ぶたびに声が小さくなって、喉にひっかかるようになった。
坂の上のほうで、犬が吠えた。浜の上の家の一つに灯りが点く。野口は声をのみこんだ。呼べば、あの窓の向こうの誰かが聞くかもしれない。雪の上に手をついたまま、灯りの点いた窓を見上げて、息を殺していた。灯りは長いこと点いていて、やがて消えた。野口はもう一度、さっきより低い声で呼んだ。
誰も出てこなかった。
雪の中に膝をついたまま、浜の暗がりを見ていた。
喉がひりつく。もう一度、名前を呼んだ。波の音が、その声をのみこんだ。
軽のところへ戻る。運転席に体を半分入れると、キーが切ったところまで回されていた。自分で回した覚えはなかった。四つの窓を全部下ろしてから、エンジンをかけた。冷たい風が車の中を吹き抜けていく。ダッシュボードの時計は、一時十二分を指していた。ラジオを切った。
軽の後ろへ回った。車内灯の光は、開いたドアから雪の上に斜めに落ちていて、後ろまでは届かない。懐中電灯を点ける。黄色い弱い光の中に排気管のまわりの雪が浮かんだ。
雪は、排気管の口のまわりにぎっしりと詰めてあった。手のひらで押しつけて固めた跡が、雪の面にいくつも残っている。吹きだまりなら、こんな形にはならない。跡には指の筋がなく、のっぺりとしていた。野口は自分の手袋を外して、固めた跡の一つに手のひらを重ねてみた。跡のほうが、指一本ぶん大きかった。
その上から、小さな指でかき出した跡が重なっていた。爪を立てたような細い筋が、固めた面を何本も削っている。排気管の口は半分だけ開いていた。開いたところから、白い排気が細く吐き出されていた。
足跡は二つあった。軽の後ろから浜へ下りる道のほうへ続いている大きな長靴の跡は、もう縁が丸くなりかけていた。その上を小さな長靴の跡が何度も行き来していた。行って、戻って、また来ていた。
大きな長靴の跡は、浜を漁港のほうへ戻っていた。町のほうへ。野口は懐中電灯をそちらへ向けた。黄色い光は十歩先で雪に吸いこまれて、その先は暗かった。
野口は排気管の前にしゃがんだ。固めた雪に指を入れた。指に力が入らず、雪は塊のまま剥がれた。剥がした塊を脇に置き、また指を入れた。かじかんだ指先から、感覚がなくなっていった。
運転席に戻っても、車は出せなかった。ハンドルを握ると手が震え、前を見るとガラスの向こうの道がゆっくり傾いていく。二度、ドアを開けて、雪の上に吐いた。
雪はまだ降っていた。懐中電灯で照らすと、大きな長靴の跡の縁がさっきより丸くなっている。朝までには、固めた雪の面も、小さな指の筋も、平らになってしまう。
もう一度車を降りた野口はスマホを出して、フラッシュを点けた。排気管。手袋で固めた面。小さな指の筋。二つの足跡の一番はっきり残っているところ。足跡の横に懐中電灯を置いて、大きさがわかるようにした。一枚撮るたびに指が画面の上で滑った。撮り終えた写真を開いて、写っているのを確かめた。電池の残りが半分を切っていた。
車内に戻り、エンジンを止めて窓を全部下ろした。冷たい空気が入ってくる。頭の締めつけは少しずつゆるんだが、体の芯から冷えていった。歯が鳴りはじめるとまた降りて、排気管を懐中電灯で照らし、口が開いているのを確かめてからエンジンをかけた。暖房の風が足もとを温めるあいだ、窓は指の幅だけ開けておいた。体が温まるとまた降りて、排気管を照らした。
まぶたが重くなるたびに藁の縄を指に巻いて、緩んだところを撚りなおした。藁は乾いていて、指先で何度もほどけた。撚っているあいだは、目を開けていられた。
空の端がまだ黒いまま、わずかに薄くなったころに港のほうから車のライトが一つ、浜の上の道をこちらへ来た。
野口はスマホを握った。ライトは近づいてきた。除雪の済んでいない道を、確かめるような速さだった。軽の横まで来て、そのまま過ぎた。黒い車だった。運転席の窓は曇っていて、中は見えない。テールランプが岬のほうへ遠ざかって、カーブの向こうへ消えた。
野口は、止めていた息を吐いた。
空が灰色になってから、矢代の番号を押した。三度目の呼び出しで、矢代が出た。後ろで子どもの声が何か言っていた。
「野口さん。早いですね」
「殺されかけました」
電話の向こうが静かになった。子どもの声も聞こえなくなった。
「……行きます。どこですか」
鳴磯の浜の場所を言うと矢代は、九時には、と言って電話を切った。
ラジオを点けた。漁業気象を読む声がした。知らない港の名前と波の高さが続いた。三メートル、のち四メートル。うねりを伴う。
九時を過ぎて、紺のセダンが浜の上の道に停まった。矢代はコートの前を閉めずに降りてきた。まっすぐ軽のほうへ来て、運転席の窓から野口の顔を見た。
「何時間、ここに」
「一時すぎから」
「吐きました?」
野口は、雪の上の自分が吐いたあとのほうへ目をやった。矢代の目もそちらへ行った。
「頭は」
「痛いです。夜中よりはましです」
「病院、行きましょう」
野口は首を横に振った。目が、軽の後ろの雪の上の小さな長靴の跡のほうへ行った。
矢代は何か言いかけて、やめた。セダンの後ろの席から水のペットボトルを一本持ってきて、キャップを開けてから野口の手に押しつけた。
「こっち、座っててください。暖房効いてるんで」
野口がセダンの助手席に移ると矢代はドアを閉めて、軽の後ろへ回った。
手袋は、はめなかった。素手で雪の上のものに触れないように指を浮かせたまま、足跡の縁をなぞっていく。半分埋まった大きな長靴の跡を一つずつたどった。靴底の模様が残っている一つの前で止まり、スマホで何枚か撮った。それから排気管の前にしゃがんだ。夜中に野口が剥がした塊が、脇に積んである。矢代は塊の一つを指でひっくり返し、固めた面を上に向けた。
矢代が助手席の窓を叩いた。野口は窓を下ろして、スマホを差し出した。夜中に撮った写真を一枚ずつめくっていくと、矢代の指が止まった。矢代は写真と手もとの雪の塊を長いこと見比べていた。
「……事故じゃないですね、これ」
矢代は排気管の口をのぞきこんだ。
「誰かが開けてくれました」
矢代は立ち上がって、足跡を目で追った。大きいほうは浜へ下りる道を下って、浜を漁港のほうへ戻っている。小さいほうは、軽の後ろと道の端を何度も行き来してから、浜へ下りていた。矢代は道の端まで行って、浜を見下ろした。
矢代は小さな長靴の跡を見ていた。長いあいだ見ていて、野口には何も訊かなかった。
「昨日の千坂の件」
矢代は浜を見たまま言った。
「所轄から上がってきてました。電話の相手に野口さんの名前があって。……家に誰か入ってたって」
「勝手口の錠に傷がありました」
「何か盗られました?」
「……いいえ」
矢代は手に息を吹きかけた。指先が赤くなっている。スマホを出して、どこかへかけた。
「矢代です。……鳴磯にいます。野口修の車のマフラーに、雪が詰められてました。手で固めてあります。中で寝てたそうで」
電話の向こうの声が、矢代の耳から漏れてきた。低い、聞き覚えのある声だった。
「雪国じゃ、よくある事故だ」
矢代は少し間をあけた。
「はい」
電話を切ると、矢代はスマホをポケットに戻した。何も言わなかった。
浜のほうから人の声が聞こえた。
浜の向こうの端に、男たちが列になっていた。十人ほどで、消防団の法被を作業着の上に羽織った者もいる。長い棒を持った者が先に立って、漁具小屋を一つずつ見て回り、こっちへ近づいてくる。
十年前の夏、野口はこれと同じ列の後ろを歩いた。九日間、浜の端から端まで、岩場の陰を一つずつのぞいていく男たちの後ろをメモ帳を持ってついていった。列の前のほうで、誰かが、陽菜ちゃん、と呼びつづけていた。
列の先頭に紺のコートの町内会長がいた。毛糸の帽子に雪が積もって、白い山のようになっている。会長は浜の上の道の野口に気づくと、列から離れずに声を張った。
「陽菜ちゃんがこの浜にいるらしいって、先生が。今朝、電話で」
三つ目の小屋の前で、男たちが止まった。一人が、割れた戸の板の隙間に棒の先を差しこんで、こじった。戸が外れて、雪の上に倒れる。男たちが中をのぞきこみ、一人が入っていった。
出てきた男は、たたんだ毛布を一枚、両手で抱えていた。会長がそれを受け取って広げた。毛布の端を手袋の指でしばらくつまんでいた。それから施設のある坂の上のほうを見上げて、携帯を耳に当てた。
電話を終えた会長が毛布を若い男に渡して、浜から道へ上がってきた。息が白く切れている。会長は野口を見て、矢代を見た。
「そちらさんは」
「通りすがりです。千坂から、ちょっと」
矢代は軽く頭を下げた。会長は矢代のコートと靴を上から下まで見た。
「この浜で、ゆうべ何かあったかね。車が一晩中、停まってたって聞いたもんだから」
「眠ってしまって」
野口が言うと、会長は軽の後ろの剥がした雪の塊のほうへ目をやり、野口の顔を見た。何か言いかけて、帽子の雪を手で払った。
「先生がね、陽菜ちゃんが浜にいたら警察より先に自分に知らせてくれって。寒いところでかわいそうだからって」
会長は浜へ下りていった。
列の後ろのほうに、漁協の男がいた。男は小屋のほうではなく、浜の上の道の野口の顔を見ていた。
男たちの列が岩場のほうへ遠ざかってから、野口は言った。
「さっきの電話」
矢代は浜に目をやったまま、ええ、とだけ言った。
「十年前に会っています。蒼太くんのことで」
「知ってます」
浜で、男たちが四つ目の小屋の錠を棒でこじりはじめた。金属の鳴る音が、風に乗って上がってきた。
矢代はスマホを出して、背中を向けた。保育園、と言う声が、風の合間に聞こえた。迎え、と言い、今日は、と言いかけて、声が低くなった。電話を切ってからも矢代は背中を向けたままでいた。
「宿の部屋。空いてますかね」
振り向いた矢代は、いつもの顔をしていた。
矢代のセダンの後ろを間をあけて走った。岬のカーブのたびに、頭の芯がまた痛んだ。
宿の玄関の軒に、太い注連縄が下がっていた。町内に配った縄よりひとまわり太い。房の藁が、左右できちんと揃えてある。矢代は戸を開ける前にそれを見上げた。
帳場に出てきた女将の目が、矢代から野口の顔へ移った。
「あんた、顔が」
それだけ言って、女将は二階へ上がっていった。押し入れを開ける音がして、布団を敷く音がした。
下りてきた女将に、矢代が、もう一部屋お願いできますか、と言った。女将は宿帳を開いて、矢代のほうへ向けた。
矢代はボールペンを取って、名前と千坂の住所を書いた。職業の欄で、ペンが一度止まり、公務員、と書いた。
女将は宿帳を自分のほうへ戻して、その字を見てから野口の顔を見た。野口は長靴を脱いでいるところで、顔を上げなかった。
「あんたは寝てなさい。汁持ってくから」
女将は矢代のほうへ向きなおった。
「二階の奥の部屋。ストーブすぐ点けますから」
女将は鍵を一本、帳場の板の上に置いた。
昼すぎ、宿の二階の布団の中でスマホを開くと、他誌のサイトに速報で記事が出ていた。紙の号は木曜に出る、と見出しの上に小さく書いてある。こめかみの奥が脈を打つたびにまだ痛んだ。
見出しは、児童養護施設、子どもの積立を工事代に、だった。署名は吉岡になっている。退所を控えた少女Aさん(十八)が、自分の通帳を見て、残高のほとんどが引き出されていることに気づいた、と記事は書きはじめていた。教習所に通うために貯めてきたお金だった、という一行のあとに、美咲が撮った写真が三枚並んでいる。通帳の行と、帳簿の写しと、見積書。見積書の写真の下に、日付は十一月二十日、と小さな字の説明がついていた。
記事の終わりに、関係者の話として、施設の内部では以前から金の扱いに疑問の声があった、とあった。少女Aさんは春に施設を出て、介護の仕事に就く予定だという。
宿の前の停留所の屋根のついた待合の下で、スマホを耳に当てていた美咲の背中を思い出した。画面を消して、スマホを枕もとに伏せた。
夕方、茶の間のテレビに法人本部の古い家の玄関が映っていた。
地方のニュースで、画面の下に、児童養護施設で積立金を流用か、と字が出ている。週刊誌のサイトに出た記事の画面が先に短く映った。記事の中ほどに、通帳の払い戻しの行の写真があって、そこだけ黄色い線が引いてある。写真の右下の隅に、ひびのような細い線が一本、斜めに入っていた。
玄関の前に大槻が立っていた。灰色のカーディガンの上に黒い外套を羽織り、何本も突き出されたマイクの前で、両手を前で組んでいる。
「事務の手違いでした。本来、施設の会計から出すべきものを子どもたちの口座から出してしまった。気づいてすぐ、法人から利息をつけて全額を戻しました。発覚した時点で、県にも届けております」
大槻は一度、マイクの向こうを見回した。
「子どもたちのお金に手をつけたのは、私の監督が足りなかったからです。お詫びします」
深く頭を下げた。白い髪の分け目が、画面の真ん中に来た。顔を上げると、大槻はもう一度、マイクの向こうを見回した。
「記事にしてくださった記者の方にも、お礼を申し上げます」
大槻の後ろの玄関の戸の脇に森下が立っていた。紺のカーディガンの前で手を組んで、目を伏せている。カメラが大槻の顔に寄っていくあいだ、森下は一度も顔を上げなかった。
画面がスタジオに戻った。コメンテーターの男が、隠さずに自分から出てきて頭を下げることは、なかなかできることじゃないですよ、と言った。むしろ透明性がある、と隣の女がうなずいた。
女将はこたつの上のリモコンに手を伸ばさなかった。帳場の脇の土間から聞こえていた主人の藁を撚る音が、いつのまにかやんでいた。
矢代は茶の間の戸口の柱に寄りかかって、画面を見ていた。昼に部屋を取ったばかりで、まだ宿の丹前を羽織っていない。大槻の顔が映っているあいだも、矢代の目は玄関の脇の森下に向いていた。
ニュースが天気予報に替わった。女将が立ち上がって、台所へと入っていった。




