三章 糾える縄③
夜、矢代が部屋に来た。手に道の駅の物産館の袋を提げている。
「頭、どうです」
「昼よりは」
矢代は座卓の向かいに座って、袋から柿の種の小袋を二つ出した。
「夕飯、ちょっと足りなかったんで。宿の人には言わないでくださいね」
小袋の端を切って、一粒つまんだ。上着のポケットでスマホが震えた。矢代は画面を見て口の端をゆるめ、画面を伏せる。伏せる前に、布団で眠っている小さな子の髪の結び目が見えた。
「本部って、一回筋を決めると、そればっかりなんですよ」
矢代は柿の種を噛みながら言った。
「火事のあと、タクシー会社に乗車記録を出してもらってるんですけどね。追ってるのは、火事のあとに現場の近くから乗った若い女の客。そればっかり。陽菜さんの」
もう一粒つまんだ。
「一件だけ、火事の前のが混じってたんです。二十三時五十分。アパートの二本手前の角で、年寄りの男が一人降りてる。乗ったのは大通り」
祝いの晩、と遠藤は言っていた。休憩室で缶のお汁粉を両手で包んで、十一時半ごろ、大通りで手を挙げた爺さんがいてさ、と。普段着で、革の手袋して。叙勲の先生を乗せたんだよ。野口は記者のころの癖で、その晩の日報の余白に、祝いの晩、十一時半、大通り、普段着、革の手袋、近く、と書いた。
「どこの会社の車ですか」
矢代は会社の名前を言った。野口の会社だった。
「うちの遠藤が、その晩、叙勲の先生を乗せたって言ってました。休憩室で」
矢代の指が、柿の種の袋の上で止まった。
「十一時半ごろ、大通りで手を挙げたそうです。普段着で、革の手袋をしてたって。すぐ近くで降りたと」
矢代は袋を座卓に置いて、手帳を出した。表紙のシールの角を押さえずに開いて、何か書いた。書き終えてからもペンの先を紙につけたままでいた。
「……革の手袋」
矢代はそれだけ言って、手帳を閉じた。
二人とも、柿の種を食べていた。窓の外の国道を除雪車が黄色い光を回しながら通っていった。
「もう一つ、本部の読みがあって」
矢代は窓のほうを見たまま言った。
「ニュースでやってたでしょう、あの日曜の。川に軽トラが沈んでたって。駅前の橋のそばで」
あの日曜の昼、家でストーブのやかんの湯を注ぎながら、テレビをつけた。火事のニュースは二番目だった。一番目のニュースを野口は聞いていなかった。何かが川に、と言っていた気がする。
「あれ、沢井さんのなんですよ。報道には持ち主は出てないですけど」
矢代は空になった小袋の口を指で折った。
「本部は、陽菜さんが沢井さんの車で現場を離れて川べりで乗り捨てて、歩いてコンビニまで行ったと読んでます。陽菜さん、免許持ってるんで。軽トラには鍵が刺さってなかった。沢井さんのポケットにもなかった。陽菜さんが鍵を持って逃げた、ってことになってます」
あの日曜の夕方、野口はアパートの裏の路地に立った。焼けた部屋の裏の小さな窓から、路地は別の路地につながって、その先で小さな公園の植えこみに突き当たっていた。公園の向こうに、国道の街灯が並んでいた。国道に出て右へ行けば、野口がいつも行っているコンビニがある。
川は、その反対だった。アパートと駅前のあいだに川があって、署へ行くバスはその橋を渡った。
「陽菜さんがあのコンビニに向かったなら、川は逆の方角です」
「ええ」
矢代はそれだけ言い、残っていた柿の種の袋を野口のほうへ押した。
「で、野口さんのほうは。十年前のこと」
野口は袋の中の割れた柿の種を指でよけた。
「まだです」
「ですよね」
矢代は立ち上がって、空の小袋をポケットに入れながら戸のほうへ行った。
「それ、全部食べていいですよ。僕、明日も道の駅寄るんで」
◇
次の日の朝、矢代のセダンで鳴磯の浜へ下りた。見ておきたい、と矢代が言った。
焼け跡のまわりの雪は、町の男たちの長靴の跡で踏み荒らされていた。三つ目の漁具小屋の戸は昨日こじ開けられたまま、針金で柱にくくりつけてあった。針金の端が指で何度もねじった形のまま上を向いている。四つ目の小屋の南京錠も掛け金ごと外されて雪の上に落ちていた。
矢代が針金をほどいて、戸を引いた。網の山も浮きの籠も、おとといの夜に割れ目から見たのと同じところにあった。毛布のあった場所だけ、床の板が四角く乾いている。乾いた四角の端に、口を潰した空き缶が一つ転がっていた。
矢代はしゃがんで、缶を見た。触らなかった。
戸口の板の雪の吹きこんでいない隅に、小さな長靴の底の形が半分だけ残っていた。矢代はそれを見てから、焼け跡のほうを振り返った。黒い柱が二本、雪の上に突き出ている。
「十年前、あそこに入ったんですよ。捜索隊で。陽菜ちゃんが見つかった朝に」
矢代は焼け跡を見たまま言った。
「流しに湯呑みが二つあって」
風が戸を鳴らした。
「裏口の泥に小さい靴の跡。隅に子どもの靴下が片っぽ」
矢代は膝に手をついて立ち上がった。
「全部報告しました。湯呑みは食べ物運んでた男のだろうって。靴の跡と靴下は陽菜ちゃんのだろうって。市川が」
「陽菜さんは」
「見つかったとき、両方の足に靴下履いてました。映像にも映ってます」
母が死んだ朝、病院の待合室のテレビで野口はその映像を見ていた。毛布の端から出ていた両足に白い靴下を履いていた。
矢代は焼け跡の基礎の石の角まで歩いて、雪の中から緑のガラスのかけらを一つ拾った。光にかざして見てから、元のところに戻した。
宿の駐車場に戻ると、矢代はエンジンをかけたまま降りなかった。スマホを出して何枚か画面をめくり、野口のほうへ向けた。
表の写真だった。発信の履歴が、日付と時刻と相手の番号の順に並んでいる。十一月二十八日の行は少なかった。二十一時四十二分。相手の番号の横に、三浦麻衣、と手書きで書き添えてある。
「本部の捜査資料に入ってたんです。陽菜さんの携帯の記録です。部屋に置いてあったやつ。出る前に、一本だけ」
矢代はスマホを引っこめた。
「麻衣さんのほうの記録は、まだ見てないんです」
矢代は本部の番号を押した。
「三浦麻衣さんに面会をしたいです。入院中の。医師の許可は取ります。はい。本部を通して、正式に」
電話の向こうの声が、また漏れてきた。浜で聞いたときより、はっきりしていた。
「理事長の了解を取れ」
「本人は意識はしっかりしてるそうです。大槻さんの了解が要る理由がわかりません」
「わからなくていい」
「課長。あの人は」
声が大きくなった。
「お前を通したのは、誰だと思ってる」
矢代は何も言わなかった。電話の向こうで物を置く音がして、通話が切れた。
矢代はスマホを膝の上に置いて、フロントガラスを見ていた。ワイパーの付け根に、雪が三角に溜まっている。暖房の風の音だけがしていた。
野口も、ワイパーの付け根の雪を見ていた。
矢代はスマホをポケットにしまった。
「どこか行くとこだったんでしょう。乗せていきますよ」
「懐中電灯の電池を」
矢代はうなずいて、ギアを入れた。ワイパーが付け根の雪を一度だけ押しのけた。
その日の午後、知らない番号から電話があった。出ると、公衆電話の硬貨の落ちる音がした。
「森下です」
声の後ろで、車の通る音がしていた。
「土曜は、ごめんなさい」
「いえ」
「……お金は戻ったの。美咲ちゃんのも、ほかの子のも。利息までついて。それで、もうわたしは」
森下はそこで止まった。硬貨がもう一枚、落ちる音がした。
「昨日、理事会に呼ばれたの。美咲ちゃんが雑誌の人に写真を売ったって。わたしの机から撮ったんだろうって。……あの子、春に出ていくのに」
「美咲さんは」
「何も言わないの。わたしにも。目も合わせない」
野口は、施設の玄関のすのこの上の運動靴を思い出した。
「倉庫の朝のことは」
「言えない」
すぐに返ってきた。
「ここにいるあいだは。あの人が、いるあいだは」
電話が切れた。切れる前にお釣りの硬貨が返ってくる音がした。
夕方、港の前の通りの店へパンを買いに行った。食料品と雑貨を一緒に並べている店で、レジの奥の灯油の缶の上に年賀はがきの束が積んであった。
レジに、先に男が一人並んでいた。作業着に、毛糸の帽子をかぶっている。カゴの中に菓子パンが二つと、牛乳が一本と、使い捨てのカイロの大袋が一つ入っていた。十枚入りの袋だった。
男が振り向いて、野口の顔を見た。港の裏の坂の車庫の奥で何かを叩いていた男だった。若林は目をそらして、カゴをレジに置いた。
「若林さん、孫が来るのかい。早いね」
レジの女将が、カイロの袋のバーコードを読みながら言った。
「……んだ」
若林は千円札を二枚出して、釣りを数えずにポケットに入れた。袋を提げて店を出ていった。
野口はガラス戸の前に立って、雪の中の若林の背中が港の裏の坂の角を曲がるまで見ていた。それから、パンをレジに置いた。
女将が、年賀はがきの束のほうへ顎をしゃくった。
「先生の年賀状、うちにも毎年来るよ。もう出しはじめたって。うちの息子にまで来るんだから。施設にいたわけでもないのにさ」
女将は、束のいちばん上のはがきを指でまっすぐに直した。
宿に戻ると、帳場の脇の土間で矢代が主人の隣の框に腰を下ろして、藁を膝の上に載せていた。主人に言われたとおりに三本ずつ揃えて撚ろうとして、撚ったそばから藁がほどけていく。
「刑事さん、不器用だな」
主人が言った。
「よく言われます。娘の髪もうまく結べないんですよ。保育園の先生に、毎朝結びなおされてて」
矢代は、ほどけた藁をもう一度揃えた。主人は自分の縄をなう手を止めずに、矢代の手もとを横目で見ていた。そのうちに、矢代の藁の端を一度だけ取って、撚りの向きを逆に直して返した。
夕飯のあと、矢代は、娘の顔見てきます、と言ってセダンを出した。あしたの昼には戻ります、と言った。
二十三日の朝、一人で鳴磯の漁港の脇を通ると漁協の加工場の窓が湯気で白く曇っていた。曇りの薄いところから、中の流しの前に並んだ女たちの背中が見えた。端から二人目の頭に白い手ぬぐいを巻いた背中が、蒼太の叔母のように見えた。冷たい水の中で、手が動いている。野口は軽の速度を落とさずに加工場の前を通り過ぎた。
昼すぎに、矢代が戻ってきた。宿の部屋で矢代はスマホの画面を野口に向けた。
昨日と同じ形の表の写真だった。三浦麻衣の携帯の発信履歴。十一月二十八日、二十一時四十五分。相手の番号の横に、大槻恒夫、と書き添えてあった。その行の欄外に、鉛筆の小さな字の書きこみがあった。理事長へ。陽菜から連絡があった旨。本人に確認済み。
「三分です」
矢代はそれだけ言って、画面を消した。
夜の総合病院は、正面の入口が閉まっていて、夜間の通用口だけが開いていた。緩和ケアの病棟は四階の端で、エレベーターを降りると廊下の照明が他の階より暗い。ナースステーションのカウンターに、紙で作ったクリスマスの飾りが下がっていた。色紙の輪をつないだ鎖で、ところどころ、輪の色が二つ続いている。
廊下の両側の病室の戸は、ほとんど閉まっていた。一つだけ半分開いた戸の中で、テレビの青い光が天井で揺れていた。廊下の突き当たりの部屋の戸も細く開いていて、点滴スタンドの影が床に細く伸びていた。
カウンターの中に、三十すぎの看護助手が一人いた。ほかの看護師は病室を回っているらしい。看護助手は顔を上げて、野口を見て、手が止まった。
「……三浦さんの」
野口の顔を知っていた。
「ご面会はご家族か、決められた方だけなんです。三浦さんは、理事長さんのお許しがないと」
矢代が手帳を出して、開いて見せた。看護助手はそれを見て、首を振った。
「それでもです。夜勤の看護師に言われてますから。わたしは、助手なんで」
看護助手はカウンターの上のカルテ立てを揃えた。廊下の奥で、ナースコールの小さな音が一度鳴って止まった。野口は礼を言って、エレベーターのほうへ戻りかけた。
「あの」
看護助手が、カウンターから身を乗り出した。声が小さくなった。
「三浦さん、あなたの名前何度も訊いてました。悠真のことで来た人、なんていったっけって。メモを見せたら、ノグチさんって読んで、それきり黙って」
看護助手は身を引いて、また何もなかったようにカルテ立てに手を置いた。
「言わないでください。わたしが話したって」
矢代が、カウンターのほうへ一歩戻った。
「あしたの夜は、大槻さん、こちらに見えますかね」
看護助手は廊下の奥へ目をやってから、首を小さく横に振った。
「あしたはイブですから。施設のクリスマス会で、理事長もそちらにいらっしゃるはずです」
エレベーターの中で、矢代は閉まった戸に映った自分の顔を見ていた。一階に着いて、戸が開いた。




