三章 糾える縄④
昼のテレビに施設の食堂が映った。地方局の夕方の番組の予告だった。今夜、鳴磯の児童養護施設でクリスマス会、孫の行方を案じる理事長も子どもたちと、と字幕が出ている。画面の中の大槻は、まだ飾りつけの途中の食堂で背の低い男の子を抱き上げていた。男の子の手に色紙の輪をつないだ鎖の端が握られていた。
女将が茶の間のテレビを消した。
「あの人たち、今夜出かけるんでしょう」
女将は、帳場の脇の主人のほうを向いて言った。主人は藁を撚る手を止めずに、うなずいた。
矢代は午後のあいだ、部屋で電話をかけていた。病院の代表番号にかけて、当直の医師が誰になるかを遠回しに訊いている。名前は教えてもらえなかったらしく、電話を切ってから手帳の新しいページに、当直、九時から、とだけ書いた。
「当直の先生が会っていいって言ってくれれば、大槻の許しがなくても本人に会えるかもしれないんで。本部を通したら、また市川に止められますから」
矢代は手帳を閉じて、表紙のシールの角を親指で押さえた。
夕方、矢代の携帯が鳴った。矢代は画面を見て、廊下へ出ていった。戸の向こうで、矢代の声が急に高くなった。
サンタさんはね、パパのところにも来るか、わかんないなあ。うん、うん。ママの言うこと、聞いて。
戻ってきた矢代は、何もなかったような顔で座卓の前に座った。
「八時に出ましょう。クリスマス会は七時半からだそうです。テレビの生中継が八時すぎ」
野口は一昨日買った電池を懐中電灯に入れた。点けると、白い光が天井に丸く当たった。
八時を過ぎて、矢代のセダンで施設の裏の林道に上がった。町の裏の道から林道へ入るところで、矢代はヘッドライトを消した。轍の上を這うような速さで上っていく。雪明かりで両側の杉の幹だけが黒く並んで見えた。
杉の切れたところで、矢代は車を止めた。一週間前に野口が軽を寄せたのと同じところだった。エンジンを切ると、車の中はすぐに冷えはじめた。
斜面の下に、施設の古い棟の食堂の窓が溢れた明かりが大きく写っていた。窓ガラスに色紙の鎖と綿の雪が貼ってある。中にテレビの照明が一本立っていて、そこだけ白く強い光が当たっていた。風向きが変わると、子どもたちの歌う声が切れ切れに斜面を上ってきた。節は聞きとれても、言葉は聞きとれなかった。
部屋の中に、大槻がいた。灰色のカーディガンにネクタイを締めて椅子に腰を下ろし、膝の上に小さな女の子を乗せている。女の子は大槻の膝の上で、紙の冠を両手で押さえていた。大槻が何か言うと、まわりの子どもたちが笑った。カメラを担いだ男が、その前で位置を変えている。
大槻は膝の上の女の子の冠を指でまっすぐに直した。脇の段ボール箱に手を入れて、包装紙にくるんだ箱を一つ出し、女の子の前に差し出した。女の子が両手で受け取ると、まわりの大人が手を叩いた。
窓の端のほうに、森下の紺のカーディガンが見えた。皿を重ねて奥へ運んでいく。その後ろを背の高い女の子が、小さい子の手を引いて横切った。美咲だった。美咲は窓のほうを見ずに、食堂の奥の戸の向こうへ入っていった。
「いますね」
矢代が言った。手帳を出して時計を確かめ、短く何か書きつけた。
「うちの娘、サンタに髪留め頼んだんですよ。星のついたやつ。保育園で誰かがしてたらしくて」
「見つかったんですか」
「千坂中探して、ないんです。似たのはあるんですけど、星の数が違うって言われそうで」
矢代は笑った。笑ったあとで、窓の中の大槻のほうへ目を戻した。大槻は、次の子どもに包みを渡すところだった。
「病院まで、二十分ちょっとです」
矢代はエンジンをかけた。ライトを消したまま、林道を後ろ向きに下りはじめた。斜面の杉のあいだに、黒い屋根が一つあった。古い炭焼きの小屋らしく、屋根に雪が載っている。野口はそれを目の端に入れただけで、前を向いた。
林道の入口でライトを点けて、町の裏の道から岬の道へ出た。岬を回りかけたところで、矢代がフロントガラスの先を顎で指した。
隣町の方角の空が、低いところで赤かった。雲の下の雪が、そこだけ明るく染まっている。その上を黒い煙が海からの風で横に流れていた。
「病院の方角ですね」
矢代はアクセルを踏んだ。岬の道の雪に、タイヤが何度か取られかけた。消防車のサイレンが後ろから近づいてきて、二人を追い抜いていった。
四階の端の廊下の照明が他の階より暗いあの病棟を野口は思い出した。ナースステーションのカウンターに、色紙の輪の鎖が下がっていた。矢代はハンドルを握ったまま、前の消防車の赤い灯を追っていた。
総合病院の前のロータリーに、消防車が二台と救急車が三台停まっていた。赤い回転灯が、降る雪の中で回っている。本館の一階の端の窓から黒い煙が出ていた。炎はもう見えない。焦げたゴムのようなにおいが、雪のにおいに混じっていた。本館の窓は、上の階までほとんど暗い。玄関の上のクリスマスの電飾だけが、どこか別の電源につながっているらしく、赤と緑の点滅をやめなかった。
玄関の庇の下に患者たちが固まっていた。毛布にくるまって、車椅子に座っている人がいる。パジャマの上に病院の毛布を巻いて、点滴スタンドにつかまって立っている人もいた。職員が名簿を手に名前を呼びながら、一人ずつ、渡り廊下の先の外来棟のほうへ連れていく。
矢代が車を停めた瞬間、野口は急いでドアを開ける。
庇の端で薄い寝間着の老女が、病院のスリッパのまま立っていた。肩が震えている。野口は自分の上着を脱いで老女の肩にかけ、前を合わせた。老女は野口の顔を見上げたが、何も言わなかった。
「車、暖房効いてます」
矢代がセダンの後ろのドアを開けて、エンジンをかけた。野口は老女の腕を取って、セダンの後ろの席まで歩かせた。毛糸の帽子の老人も、もう一人入れた。矢代が暖房のつまみを一番上まで回した。
消防の隊員が一人、玄関から出てきた。矢代は上着の内ポケットに手を入れて、手帳を半分まで出した。ロータリーに、パトカーが一台入ってきた。矢代は手帳を内ポケットに戻した。
「手、貸します。何でも」
隊員は矢代の顔を見て、建物のほうを顎で指した。
「上の階から下ろしてる人を、外来のほうへ。本館には入らないで。渡り廊下から先だけ」
二人は職員について、渡り廊下の端から外来棟の待合まで担架を運んだ。本館のほうから、看護師と法被を着た消防団の男たちが、担架と車椅子を次々に押してくる。渡り廊下の窓ガラスが、外の回転灯で赤くなっては暗くなった。担架の上の老女は、毛布の下で目を開けたまま、天井の非常灯を見上げていた。
二度目に渡り廊下を戻るとき、車椅子を押してくる看護助手とすれ違った。ゆうべ、ナースステーションのカウンターの中にいた女だった。看護助手は野口の顔を見て、すぐに前を向き、車椅子を押していった。
外来棟の待合は、暖房が落ちていて寒かった。非常灯だけが点いていて、長椅子の列の向こうは暗い。運ばれてきた患者たちが、長椅子と車椅子に名簿の順に並べられていく。家族らしい人たちが、玄関から次々に駆けこんできた。誰かが、誰かの名前を大きな声で呼んでいる。
三度目に担架を置いたとき、車椅子の老人が野口の袖を引いた。
「ロザリオ、落としたんだ。この辺に」
老人は床を指さした。野口はしゃがんで、懐中電灯で長椅子の下を照らした。濡れた靴の跡のあいだに、小さな木の珠を連ねたものが落ちていた。拾って、老人の手に握らせた。老人はそれを毛布の中に引きこんで、何か小さく言った。礼なのか祈りなのか、野口にはわからなかった。
隣の長椅子で、父親の車椅子を押してきた中年の女が野口の顔をじっと見ていた。
「あんた、テレビの……」
女はそれだけ言うと、父親の車椅子を野口から引き離すように長椅子の端まで押していった。
待合の真ん中で、看護師長らしい女が名簿を広げて、名前を読み上げはじめた。呼ばれるたびに、どこかで返事がした。職員が一つずつ、名簿に印をつけていく。
「三浦さん。……三浦麻衣さん」
返事がなかった。
看護師長がもう一度、名前を呼んだ。待合の中の声が、少しずつやんでいった。長椅子の列の、一番奥の暗いところに、空いた場所が一つあった。床に車椅子の轍が二本、濡れて残っていた。
若い看護師が、奥から走ってきた。
「三浦さん、さっきまでここに……トイレに行きたいって言う人がいて、そっち連れてって、五分くらい……」
看護師の声が途切れた。看護師長が名簿を持ったまま何か言いかけたときには、若い看護師はもう走りだしていた。三浦さん、と呼ぶ声が、廊下の奥へ遠ざかっていった。
職員たちが手分けして散った。トイレへ、診察室へ、渡り廊下へ、駐車場へ。矢代が看護師長に何か訊いて、渡り廊下のほうへ走った。
野口は懐中電灯を持って、待合の奥の夜間通用口から外へ出た。
建物の陰の雪は、表ほど踏み荒らされていない。通用口の前の柔らかい雪の上に、細い轍が二本、並んで続いていた。その間に長靴の跡が並んでいる。轍はうっすらと新しい雪をかぶって、縁が丸くなりかけていた。
「三浦さん」
声に出していた。轍をたどると、道は外来棟の裏を回って、駐車場の暗い端へ出た。そこで轍は、車の停まっていたらしい四角い場所に入って、消えていた。四角い場所の雪だけが浅く、周りより黒く見えた。
「三浦さん」
暗がりの向こうに、国道の街灯が並んでいた。返事はなかった。
通用口の脇に空の車椅子が一台、たたまずに置いてあった。野口はそれを、雪の上へ押し出してみた。三歩ほどで車輪が雪に沈んだ。肩で押すと、車輪は雪を噛んで、ようやく半回りした。野口は車椅子を通用口の脇に戻して、駐車場の暗い端をもう一度照らした。
九時半を過ぎて、外来棟の待合に黒い外套の男が入ってきた。
大槻だった。頭の雪を手で払って、入口の脇にいた職員に言った。
「鳴磯福祉会の大槻です。三浦麻衣さんの保証人をしております。病院から知らせをいただいて、急いで来ました。三浦さんは、無事ですか」
奥から事務の男が出てきて、理事長さん、こちらへ、と長椅子の端を空けようとした。大槻は手でそれを止めた。職員が手もとの名簿を見て、顔を上げた。言葉が出ないでいるうちに、さっきの若い看護師が奥から戻ってきた。肩で息をしている。大槻の顔を見たとたん、看護師の目からこらえていたものがあふれた。
大槻は看護師の前まで行って、冷えた両手を手袋をはめた両手で包んだ。看護師は首を振りながら、何か言おうとして言えなかった。大槻は黙っていた。看護師の手を包んだまま、待合の奥の暗いほうを見ていた。
大槻は手を離すと、入口の脇に立っていた野口に目を留めた。
「野口くん。君も来てくれたのか」
大槻は野口の前まで来て、手袋の手で野口の腕に軽く触れた。黒い革の手袋だった。上着を着ていない腕に、セーター越しにその手の形がわかった。
「上着も着ないで。また具合を悪くするよ」
野口は動かなかった。
大槻は矢代のほうを向いて、小さく会釈した。
「三浦さんが、見当たらないそうです」
矢代が言った。大槻は目を閉じて、黙った。
「……あの人は自分で歩けるうちは、よく一人で外へ出たがったんです。海のほうへ」
大槻は外套の内ポケットから携帯を出して、どこかへかけた。
「会長さん。夜分にすまない。病院で火事があってね。三浦さんがいなくなった。うん、そうなんだ。悪いが、浜のほうを何人かで見てもらえないか。私もいまから行く」
電話を切ると、大槻は外套の前を合わせた。
「探してきます。浜のほうかもしれない」
大槻は待合を出ていった。ガラス戸の向こうの、回転灯の赤い光の中をロータリーの端に停めた黒い車のほうへ歩いていく。その歩き方は、急いでいるようには見えなかった。
矢代は、出ていく背中とまだ騒いでいる待合とを交互に見ていた。野口は矢代を見て、ガラス戸のほうへ顎をしゃくった。
矢代は出ていった。ガラス戸の向こうで、矢代はセダンの後ろの席から毛布を一枚引っぱり出して、近くの職員に渡し、運転席に乗りこんだ。年寄りたちは、もう外来棟へ移されていた。セダンが黒い車から遅れて、ロータリーを出ていった。
野口は職員と一緒に、外来棟のまわりを探しつづけた。駐車場の車のあいだを、一台ずつ懐中電灯で照らした。植えこみの陰を照らした。排水溝の格子の上の雪を照らした。
渡り廊下の窓の向こうに、さっきの看護助手が立っていた。制服の上に誰かのジャンパーを羽織って、夜間通用口のほうを見ている。顔が青かった。
看護助手が、野口に気づいた。ガラス越しに目が合う。看護助手は口を開きかけて、閉じた。渡り廊下の奥へ戻っていった。角を曲がる前に一度だけ、通用口のほうを振り返った。
火が消えた、と知らせが回った。消防の隊員がホースを巻きはじめ、患者たちが階ごとに本館へ戻されはじめた。ロザリオの老人は、車椅子のまま職員に押されて渡り廊下を戻っていくとき、毛布の中から野口に手を上げて見せた。
指の先が、もう冷えきっていた。
さっきの若い看護師が、上着を腕にかけて戻ってきた。目がまだ赤かった。
「庇のとこのおばあちゃんが、あの人に返してって」
上着は、内側がまだ、人の体の温かさを残していた。
十時を過ぎて、矢代が戻ってきた。セダンの屋根に雪が積もっていた。
「岬の道で見失いました」
矢代は運転席の窓を下ろして言った。野口が助手席に乗ると、矢代はハンドルに両手を置いたまま、フロントガラスの先を見ていた。
「カーブを二つ曲がったら、いなかった。待避所を一つずつ照らしたんですけど、どこも空で。浜には会長さんたちの懐中電灯が出てました」
野口は、夜間通用口の外の細い轍のことを話した。轍が駐車場の暗い端で、車の停まっていた四角い場所に入って消えたことを。矢代は黙って聞いていた。それから手帳を出して膝の上で開き、九時三十五分、病院を出る、と書いた。
鳴磯の町に戻ると、浜へ下りる道の上に漁協の軽トラックが三台並んでいた。浜で、懐中電灯の光がいくつも、ばらばらに動いている。野口は浜のほうへ顔を向けた。
矢代は浜へは回らずに、施設の坂の下に車を停めて、エンジンを切った。坂の途中から脇へ入ったところの古い二階建ての家は、窓がどれも暗かった。門柱の鳴磯福祉会の木の札に雪が斜めに載っている。家の脇の車庫は、戸が開いたまま空だった。
野口は浜のほうへ向けていた顔を戻して、シートに背中をあずけた。
車の中が、すぐに冷えていく。二人ともコートの襟を立てて、家の暗い窓を見ていた。
野口の手のひらに、担架の取っ手の冷たさがまだ残っていた。麻衣の顔を野口はまだ知らない。悠真くんのことで来たと伝えてください。あの日、野口は看護師にそう頼んで、帰った。
浜の懐中電灯の光が、一つ、また一つと、岩場のほうへ移っていった。
矢代がグローブボックスを開けて、缶コーヒーを二本出した。一本を野口の膝に置いた。
「冷めてますけど」
缶は、外の雪と同じくらい冷たかった。野口は開けずに、両手で持っていた。
十一時を過ぎても、黒い車は戻ってこなかった。
「玄関の前の雪、見ておきたいです」
矢代が言って、二人で車を降りた。門の中の、玄関までの雪はきれいにかいてあった。かいた道の脇の柔らかい雪の上に、足跡が一筋あった。
小さな長靴の跡だった。新しい。縁がまだ崩れていない。懐中電灯で照らすと、靴底の模様があの夜に軽の後ろを何度も行き来していた跡と同じに見えた。
足跡は玄関には向かわずに、家の脇へ回っていた。家の脇の物置の、軒の下の暗がりへ続いている。
矢代が、野口の顔を見た。野口は懐中電灯を下に向けて、光を雪の上に落とした。物置の軒の下の暗がりからは、何の音もしなかった。
「誰か、いますか」
声を大きくはしなかった。暗がりで、何かが動いた。咳をこらえるような、短い音がした。
フードをかぶった人影が暗がりから一歩出てきた。フードの縁に雪が白くついている。懐中電灯の光の端に、長靴の先と手袋をしていない手が入った。指の節が赤く、ひびが切れていた。
野口は光を少しだけ上げた。フードの下の顔が、光の縁に入った。
「陽菜さん」
陽菜は野口を見て、野口の後ろの矢代を見た。足が、もう一度暗がりのほうへ下がりかけた。
「この人は、大丈夫です」
野口は言った。フードの下の顔は、野口の後ろの矢代から動かなかった。
もう一歩下がれば、陽菜は物置の陰の暗がりに入る。
「三浦麻衣さんが、いなくなりました」
陽菜の足が止まった。
「いつ」
かすれた声だった。
「九時ごろです。隣町の病院で火事があって、患者さんを外来のほうへ移しているあいだに、車椅子ごといなくなりました」
陽菜は野口の顔を見つめていた。それから、顔だけを浜のほうへ向けた。家々の屋根の向こうの暗い浜で、懐中電灯の光がいくつも、ばらばらに動いている。咳が出て、陽菜は手の甲で口を押さえた。肩が震えていた。長靴の口から、濡れた靴下がのぞいていた。
矢代は何も言わずに坂の下へ歩いていき、施設の塀の陰に停めたセダンの後ろのドアを開けて、エンジンをかけた。暖房の吹き出す音が、ここまで小さく聞こえてきた。
野口はセダンの後ろへ回って、排気管を懐中電灯で照らした。雪が薄く積もっている。手袋の指で払ってから顔を上げると、陽菜がこちらを見ていた。
陽菜は雪を踏んで坂を下りかけて、一度だけ振り返った。大槻の家の二階の窓のほうだった。それから向きなおって、後ろの席の奥に乗りこんだ。野口が隣に座ってドアを閉めた。暖房の風は、まだ冷たかった。
陽菜の目が、運転席の男に行った。
「その人は誰?」
「千坂の刑事さんです」
野口が言った。矢代は前を向いたまま、黙っていた。陽菜は矢代をしばらく見てから、窓の外へ顔を向けた。
車が坂を下りきったところで、陽菜が言った。
「浜へ行ってください」
矢代は何も訊かずに漁港の脇を回って、浜の上の道へ車を入れ、ライトを消して道の端に停めた。
浜に、懐中電灯の光が十いくつ散らばっていた。法被の背中が、光の中を横切っていく。誰かが誰かの名前を呼んで、風がその声を岬のほうへ持っていった。三浦さん、と聞こえた気がした。三人とも、車を降りなかった。
暖房の風が、ようやく温かくなった。矢代が前の席から腕を伸ばして、吹き出し口の向きを後ろの席へ変えた。
陽菜は窓の外の、道の端に目をやっていた。四日前の夜、野口が雪の中に膝をついたあたりだった。
「ここで、見たの」
陽菜は、膝の上で両手を組んでいた。
「小屋の板の隙間から、懐中電灯が見えた。誰かが浜を歩いてきて、この道に上がって、車の後ろにしゃがんでた。立ったときに、雪の明るさで背中が見えたの」
浜で、懐中電灯の光が一つ、岩場のほうへ離れていった。
「おじいちゃんだった」
陽菜は、組んだ手に目を落とした。
「十年前に番屋から悠真くんをおぶっていったのも、おじいちゃんだと思う。同じ背中だった」
暖房の音だけがしていた。ハンドルの上で、矢代の手が止まっていた。
野口は何か言おうとして、言葉が出なかった。陽菜の膝の上の手に目が行った。爪のまわりが黒ずんでいる。野口は自分の手袋を外して、陽菜の膝の上に置いた。
陽菜は手袋を見下ろしたが、手に取らなかった。
「岩のところから、あなたが立つのを見てた」
あの夜、浜の上の家に灯りが点いて、野口は声をのみこんだ。灯りが消えてから、低い声でもう一度呼んだ。あの声も、岩のところまで届いていたのだろう。
「頭、まだ痛い?」
「少し」
浜の光が、また一つ、岩場のほうへ動いた。
「あの晩は、どうして浜に来たの」
前を向いたまま、陽菜が訊いた。
「宿の女将さんから聞きました。あなたが裏の離れにいたことも。あの朝、大槻さんが宿に来て、あなたが畑のほうへ出ていったことも」
陽菜の顔が、ゆっくりこちらを向いた。
「宿にいたの?」
「二階の角の部屋にいました」
陽菜は口を開けて、閉じた。
「女将さんに、ほかにお客さんはいるんですかって訊いたら、いないって言われた」
「女将さんは、私にも言いませんでした」
陽菜は膝の上の手袋を見ていた。肩が小さく揺れた。笑ったのか、泣きかけたのか、暗くてわからなかった。
「毎朝、おじさんが藁を打つ音で目が覚めてたの。あの音、二階でも聞こえてた?」
「聞こえていました」
陽菜は手袋を手に取って、片方ずつはめた。大きすぎて、指の先が余っていた。
「さっきは、どうしてあの家に」
野口が訊くと、陽菜はしばらく黙っていた。
「小屋から、施設の食堂の窓が見えるの。おじいちゃんが、会の途中で車で出ていったから」
陽菜はそれ以上は言わなかった。
浜で、また誰かが三浦さんと呼んだ。陽菜は窓の外へ顔を戻した。
「わたしが、電話したから」
何の電話なのか、陽菜は続けなかった。矢代はフロントガラスの先から目を動かさずにいた。
陽菜は手袋をはめた右手を、コートの胸のあたりに当てていた。コートのその場所が、四角くふくらんでいる。野口は、それについては訊かずにおいた。
零時を回って、浜の光が一つずつ港のほうへ引き上げはじめた。法被の背中が、道へ上がる坂を間をあけて上っていく。
坂の上で軽トラックのエンジンがかかり、ヘッドライトが浜の上の道をこちらへ向いた。矢代が座席で身を低くした。野口は陽菜の肩のあたりに手を伸ばしかけて、止めた。陽菜はもう、フードを深くかぶりなおして、膝のあいだに顔を伏せていた。
白い光が、フロントガラスから入ってきて、後ろの窓へ抜けていった。軽トラックは速度を落とさなかった。荷台に積んだ網の束が、段差を越えるたびに跳ねた。二台目も、三台目も、同じように過ぎていった。三台目のテールランプが港のほうへ見えなくなってから、陽菜はやっと顔を上げた。
矢代が、初めて陽菜に向かって言った。
「どこへ行きます」
「小屋に戻ります」
林道の杉のあいだの、雪をかぶった黒い屋根を野口は思い出した。施設の食堂の窓を林道から見下ろしたときに、目の端に入った屋根だった。
「戻らないでください」
陽菜が野口を見た。咳が出て、陽菜は手袋の手で口を押さえた。咳はなかなか止まらなかった。矢代が前の席から、黙って水のペットボトルを後ろへ差し出した。陽菜は少し迷ってから受け取って、二口だけ飲んだ。
宿には、四日前の朝、大槻が来ている。矢代の車で千坂へ連れていけば、行く先は警察署になる。陽菜は余った手袋の指先を、もう片方の手でつまんでいた。答えは返ってこなかった。矢代も、車を出さなかった。
「陽菜さん」
矢代が、前を向いたまま言った。
「十年前、おじいさんは番屋を出てどっちへ行きました」
陽菜は窓のほうを向いていた。返事までに、時間がかかった。
「裏の小さい戸から、陸のほうへ。雨ですぐ見えなくなった」
六年前の冬、野口は番屋の流しの横の小さな戸を開けてみたことがある。裏は浜ではなく、枯れた草の斜面が陸へ上がっていて、杉の向こうに、施設の坂と平たい屋根が見えた。
「あの裏の斜面を上がると、施設の裏に出ます」
野口は言った。
「十年前の夏は、あそこで新しい棟の工事をしていました。七月に行ったとき、赤土を掘り返しているのが見えました」
矢代が、ミラーで野口の顔を見た。
「どこがやってた工事ですか」
「田所工務店です。囲いの板に、名前が出ていました」
「積み立ての、補修工事の?」
「施設の子が撮った領収書も、田所工務店のでした」
矢代は何も言わなかった。ワイパーが、フロントガラスの雪を二度押しのけた。
「沢井さんは秋から、その工事のことを、若林さんに訊きに通っていたそうです」
後ろの席で、陽菜が身じろぎした。
「田所さんって、どういう人ですか」
矢代が訊いた。野口は、港の外れの事務所の窓を思い出した。若林の車庫を訪ねた帰りに前を通ると、白髪の男が受話器を耳に当てたまま、道のほうを見ていた。
「おじいちゃんの言うことは、なんでも聞く人なの」
陽菜が言った。
「わたしが小さいころ、施設で会うといつもおじいちゃんに頭を下げてた」
浜のほうから風が来て、車の横腹に雪を吹きつけた。浜には、もう光は一つもなかった。
「麻衣さん、もう帰ってこないんでしょ」
陽菜の声は低かった。誰も答えなかった。ハンドルの上で、矢代の指が一度だけ動いた。
「月曜の記事に、あの見積書の写真が出ました」
野口が言った。
「次に記者が行くのは、田所さんのところです。私でもそうします」
「田所さん、毎晩お酒を飲んでるって、若林さんが言ってた。飲むと泣くんだって」
陽菜が、窓のほうを向いたまま言った。野口は、丹羽の台所に並んでいたという空き瓶のことを思った。
「丹羽さんも毎晩飲んでたんですよね」
「所轄の刑事さんは、そう言っていました」
矢代はしばらく、暗い浜から目を離さなかった。
「三浦さんがいなくなって、次はたぶんあの人なんで」
「あの人を、今夜は家に置いとかないほうがいいです」
「田所さん、きっとおじいちゃんに電話する」
後ろの席から、陽菜が言った。
矢代は答えずに、上着の内ポケットからスマホを出した。画面を見て、電源を切った。スマホをダッシュボードの上に伏せて、エンジンをかけたまま降りた。
野口も、反対側のドアから降りた。浜からの風に、雪が斜めに流れていた。矢代は車の後ろに立って、野口が回ってくるのを待っていた。
「逮捕状は、取れないんですか」
野口は、車の中までは届かないように声を落とした。
「何の罪で、ですか。日付の合わない見積書くらいじゃ、裁判所は出しません。出すにしても、市川の判子が要ります」
「じゃあ、手帳を見せて来てもらうんですか」
「任意で来てくださいって言ったら、あの人はまず大槻に電話します。来なくたっていいんです。任意なんで」
「警察署につれて行けば、あの人も手を出せないのでは」
「署に入れたら、朝には本部に上がって市川に連絡が入ります。市川から大槻までは電話一本です」
野口は、車の屋根に積もりかけた雪に目を落とした。
「朝まで家の前で見張っていたら」
「今夜はそれでいいとして、明日の晩はどうします。大槻に来いって言われたら、田所は自分から出ていきますよ」
矢代は手袋をはめなおした。
「電話させないで、連れてきます」
「それじゃ、さらうのと同じです」
「同じですね」
矢代は、車の屋根の雪を手で払った。
「警察の人がそれをやって、いいんですか」
矢代は答えなかった。浜のほうへ目をやった。道の端の、陽菜がさっき「ここで、見たの」と言ったあたりに、雪が積もっていた。
矢代は運転席のドアに手をかけた。
「戻ってくる前に、会っときます」
野口は後ろの席に戻った。陽菜が、野口の顔を見ていた。
「陽菜さん。田所さんと一緒に、朝までいられるところはありますか」
陽菜はすぐには答えずに、余った手袋の指先をまたつまんだ。
「若林さんのところなら。港の裏の、坂の途中です」
陽菜が矢代に言った。矢代はライトを点けて、車を出した。




