三章 糾える縄⑤
矢代は、除雪の済んだ港の通りを港の外れのほうへゆっくり走らせた。誰も口をきかなかった。
川の手前に、田所工務店の看板が出ていた。資材置き場の奥で、雪をかぶった小型の重機が黄色い腕を地面に下ろしている。その先の坂の途中に、二階建ての家があった。二階は暗く、一階の茶の間らしい窓にだけ灯りが点いていた。ダッシュボードの時計は一時を回っていた。陽菜が、その窓を見ていた。
矢代は田所の家の前の道で車を止めた。ここまで来ると風はなく、雪がまっすぐ落ちていた。矢代は茶の間の灯りを見上げてから、シートベルトを外した。
「野口さんは車に。顔が知られてるんで」
矢代はエンジンをかけたまま降りた。野口は運転席の後ろの窓を指の幅だけ下ろした。冷たい空気が入ってきた。陽菜は、石段を上がっていく矢代の背中を見ていた。
矢代が玄関の戸を叩いた。二度。間をあけて、もう二度。
茶の間の灯りの中で影が動き、玄関の戸の向こうに明かりが点いて、戸が細く開いた。白髪の男の顔がのぞいた。港の外れの事務所の窓で、受話器を耳に当てていた男だった。戸の隙間の奥に茶の間が見えた。こたつの上に、一升瓶と湯呑みが一つだけ置いてある。点けたままのテレビが、深夜の通販の番組を映していた。
「田所和夫さんですね。県警の矢代です。夜分にすみません」
「何だ、こんな夜中に」
「三浦さんのことで、少し」
田所の顔から酒の赤みが引いていった。田所の手が、上がり框の脇へ伸びた。そこに電話の子機が置いてあった。
「先生に……」
子機をつかんだ田所の手首を矢代がつかんだ。
「電話はあとにしてください」
田所は手を振りほどこうとした。子機が框に落ちて、硬い音を立てた。矢代は戸の内側へ一歩入って子機を拾い上げ、裏の蓋を親指で外して、中から何かを抜いた。子機と抜いたものを別々のポケットに入れた。
「何すんだ」
田所の声が裏返った。矢代は答えずに、田所の腕を取ったまま、玄関の壁に掛かっていたジャンパーを外して、田所の肩にかけた。
「先生は知ってるのか」
田所の声は、さっきより小さかった。
「来てください」
田所は動かなかった。片手で戸の縁をつかんで、暗い階段の上を見上げた。矢代が腕を引くと、戸の縁から指が外れ、田所の足が框から土間へ落ちた。靴下のままだった。矢代は土間のサンダルを足で寄せて、田所に履かせた。
家の奥で、女の声が何か言った。矢代は家の中へ顔を向けた。
「警察です。ご主人、少しお借りします」
二階の窓に一度灯りが点いて、すぐに消えた。
矢代は田所の腕を取ったまま、石段を下りてきた。田所の足はサンダルの中で滑って、二度、膝をつきかけた。そのたびに、矢代が腕を引き上げた。近くまで来ると、酒のにおいがした。
矢代は助手席のドアを開けて田所を押しこみ、運転席に回って乗りこむとドアをロックした。カチ、という音に、田所の肩が跳ねた。矢代は田所のジャンパーを上から順に手で叩いていき、内ポケットから携帯を抜き出して電源を切り、自分の上着のポケットに入れた。田所はそれを止めなかった。膝の上で両手が震えていた。
開いたままの玄関の戸から、明かりが雪の上にこぼれていた。
田所は助手席で前を向いていたが、後ろの席の気配に首を回した。陽菜が、フードを下ろしていた。
田所の顔が変わった。口が開いて、そのまま閉じなかった。
「大きく、なったな」
ほとんど聞こえないくらいの声だった。陽菜は答えなかった。手袋の指が、膝の上でゆっくり握られた。田所は陽菜から目をそらして前を向き、膝の上で両手を握りしめた。
矢代が車を出した。港の岸壁に沿って走るあいだ、漁船の灯りが黒い水の上に何本も細く揺れていた。
「どこさ行くんだ」
田所が、前を向いたまま言った。
「若林さんのところ」
後ろの席から陽菜が言うと、田所の肩がもう一度跳ねた。
港の裏の坂を上ったところで、矢代は車を停めた。若林の家の車庫のシャッターは半分開いていて、中は暗かった。母屋の窓も、どこも暗い。
陽菜が先に降りた。車庫の脇を回って、母屋の裏の戸を指の背で三度叩き、間をあけてもう三度叩いた。叩き慣れた手つきだった。
裏の戸の向こうに灯りが点いた。戸が開いて、寝間着の上に半纏を羽織った若林が顔を出した。
若林は陽菜を見てから、陽菜の後ろに立っている男たちを順に見ていった。元の雇い主の田所のところで、目が止まった。田所は若林と目を合わせなかった。ジャンパーの襟に顎を埋めて、雪の上のサンダルの足に目を落としている。若林は矢代を見て、最後に野口の顔で目を止めた。
「あんたか」
若林は陽菜に目を戻して、顎で矢代のほうを示した。
「この人は」
「刑事さん」
若林は矢代を見た。矢代は黙って、若林の目を見返していた。若林はもう一度田所に目をやってから、陽菜の手袋の余った指先を見た。
「入れ」
若林は母屋には入れずに、四人を車庫のほうへ連れていった。半分開いたシャッターの下をくぐると、中は外と変わらないほど冷えていた。若林が裸電球を点けた。赤い除雪機が、前と同じところにカバーを外したまま置いてある。その奥に作業台と、石油ストーブと、ビールケースを逆さにした腰掛けが二つあった。
若林はストーブの火を点けて、やかんに水を入れて載せ、ビールケースの一つをストーブの一番近くへ引き寄せた。
母屋へ続く奥の戸が指一本ぶん開いていた。その隙間に、若林の妻らしい女の顔がのぞいて、すぐに引っこんだ。
「社長。ここさ座れ」
田所は若林の顔を見ずに、ビールケースに腰を下ろした。ストーブの前に出した両手の指が、震えていた。
若林は作業台の下の段ボールからカイロの大袋を引っぱり出し、袋の口を手で裂いて二つ取り出すと、陽菜の膝の上に放った。陽菜は作業台の脇の木くずの積もった床に膝を抱えて座っていた。手袋の手でカイロを拾って、袋を破った。
やかんの湯が沸くと、若林は作業台の湯呑みを一つ手ぬぐいで拭いて茶を淹れ、田所の前に置いた。田所は湯呑みを見下ろす。
若林は車庫の入口のほうへ戻っていき、半分開いていたシャッターの下の縁に両手をかけた。
シャッターが音を立てて下りていった。外の雪明かりが細くなって、消えた。下の縁がコンクリートの床に当たって止まると、若林はしゃがんで錠を掛けた。
裸電球の下でストーブの火が赤く強くなっていった。




