四章 渦の奥から①
シャッターの下の隙間が、灰色に明るくなっていた。
ストーブの火は一晩中、落とさなかった。それでもコンクリートの床から冷えが上がってきて、野口は作業台に背中をつけたまま、何度か目を開けた。目を開けるたびに、車庫の中の誰かが起きていた。矢代はシャッターのそばのビールケースに座り、腕を組んで目を閉じている。眠っているのかどうかはわからない。田所はストーブの前で、膝の上に両手を置いて背中を丸めていた。若林は夜のうちに一度母屋へ戻り、また来て、除雪機の前の床に段ボールを敷いて横になった。
陽菜は作業台の脇の木くずの積もった隅で膝を抱えて眠っていた。野口の手袋をはめたまま、両手を膝のあいだに挟んでいる。ときどき咳をしたが、咳をしても目は覚まさなかった。
母屋へ続く奥の戸が開いて、若林の妻が入ってきた。握り飯を並べた皿と魔法瓶を作業台の上に置くと、誰の顔も見ずに隅の陽菜のほうへ行き、自分の着ていた半纏を脱いで陽菜の肩にかけた。陽菜は目を開けなかった。若林の妻は半纏の襟を一度だけ直して、母屋へ戻っていった。
田所の手が震えていた。持ち上げかけた湯呑みが作業台の上で鳴った。
「……一杯だけ」
若林のほうを見ずに、田所が言った。若林は首を振り、魔法瓶の湯を湯呑みに注いで田所の前に置いた。
「息子に電話だけでも」
田所は湯呑みを両手で包んだ。
「春から、あいつが会社やるんだ。何も知らねえで」
矢代が目を開けて、あとで、かけられるようにします、と言った。田所はそれきり黙った。
若林が作業台の端のラジオのつまみを回した。雑音のあいだから、朝のニュースの声が聞こえてくる。
隣町の総合病院で、ゆうべ火事があった。一階の倉庫から出火し、入院患者は別の棟へ避難した。けが人はいない。入院していた女性が一人、行方がわからなくなっていて、警察と消防、地元の消防団が夜を通して捜している。女性は自分で外へ出た可能性もあるとみて――。
田所の湯呑みが、口の手前で止まった。田所は湯呑みを置き、置いた手をもう片方の手で押さえた。
矢代が上着の内ポケットからスマホを出して、電源を入れた。画面が明るくなるまで、親指で縁をこすっていた。着信の通知音が、続けて何度か鳴った。矢代は留守番電話を一件だけ耳に当てて聞き、消した。
「出頭しろ、だそうです」
矢代は野口のほうへ顔を向けて、口の端だけで笑った。画面の別の行の上で、親指が止まった。矢代は立ち上がって、奥の戸から母屋のほうへ出ていった。戸の向こうで矢代の声がしたが、言葉は聞きとれなかった。戻ってきた矢代はスマホの電源を切って、上着の内ポケットにしまった。
田所は握り飯を一つ取って、時間をかけて食べた。梅干しの種を皿の端に置いた。二つ目も食べて、種を一つ目の隣に並べた。種は二つとも、同じ向きに並んでいた。
昼のニュースは、雑音が少なかった。
鳴磯町の工務店の社長が、今日未明、警察官を名乗る男に自宅から連れ出されたとみられます。警察は、容疑者を男性を連れ出した疑いで逮捕状を取り、行方を追っています。調べによりますと、男は千坂在住の元雑誌記者、野口修容疑者、三十七歳。女は、千坂市の火事で重要参考人として行方を捜していた、大学生の長谷部陽菜容疑者、二十歳で――。
隅で陽菜が目を開けていた。半纏の襟の中から、ラジオのほうへ顔を向けている。陽菜の唇が、容疑者、と一度だけ動いたように見えた。
田所が矢代のほうを向いた。矢代は田所の目を見返して、肩をすくめた。
野口は自分のスマホを出した。不在着信が、二十件を超えていた。所長の名前と、遠藤の名前と、長谷部の名前が並んでいる。長谷部の名前の上で、野口の親指がしばらく止まった。それから電源を切った。若林がラジオを消した。
矢代は、母屋の裏口の外にいた。
野口が戸を開けると、軒の下で矢代が雪の積もった塀のほうを向いて立っていた。上着の襟を立てて、両手をポケットに入れている。吐く息が、軒からこぼれる雪の中に消えていった。
「嫁さん、怒ってました」
矢代は塀のほうを向いたまま言った。
「怒ってるっていうか、泣いてました。本部からうちに電話があったそうで。ご主人と連絡が取れません、何かご存じですかって」
軒から、雪の塊が落ちた。
「連れ出したの、僕なんで。野口さんでも、陽菜さんでもない。僕がいまから本部に出ていけば、あの手配はひっくり返ります」
野口は答えなかった。
「出ていったら、田所さんは本部に行く。本部に行ったら市川にバレる。まぁ、もうバレているでしょうが」
矢代は、自分で言ったことを確かめるように塀の雪を見ていた。
「わかってるんですけどね」
野口は作業場の戸の隙間から、ストーブの前の田所の背中を見た。丸めた背中をストーブの火が赤く照らしていた。
「まだ、あの人から何も聞いていません」
矢代はしばらく黙っていた。それから、ポケットから手を出して、顔をこすった。
「ですよね」
矢代は戸のほうへ歩いて、野口の横を抜けるとき、一度だけ野口の肩に手を置いて、すぐに離した。
ストーブの上のやかんが鳴りはじめたころ、矢代がビールケースを一つ持ってきて、田所の向かいに置いた。腰を下ろして、膝の上で両手の指を組んだ。
「田所さん」
田所はストーブの火に顔を向けたままだった。
「何も知らねえ」
「まだ、何も訊いてないです」
「先生には世話になっただけだ。仕事もらって、会社やってこれた。それだけだ」
矢代は黙っていた。若林は除雪機の前にしゃがんで、エンジンのカバーを外していた。こちらに背中を向けている。野口は作業台に寄りかかって、田所の横顔を見ていた。陽菜は隅で、半纏の襟を口もとまで上げていた。
「十年前の八月に、台風が来ましたよね」
矢代の声は低かった。陽菜の肩が、半纏の中で小さく動いた。
「施設の裏の、新しい棟の工事。あの年の夏に基礎を打ってます」
「知らねえ。古い話だ」
「若林さん」
矢代は田所から目を離さずに言った。若林の手が、除雪機の中で止まった。背中は向けたままだった。車庫の中で、ストーブの火の音だけがした。
「あの年の、打設の日程」
若林は答えなかった。スパナを床に置く音がした。
「二日、早まった」
若林は除雪機のほうを向いたまま言った。
「台風の次の朝だ。社長から夜中に電話が来て、朝一番で生コン呼ぶって。雨の上がらねえうちに」
田所が若林の背中を振り向いた。口が開いて、閉じた。
「おれは言われたとおりに、型枠を見て回った。掘ったとこの土が、前の日と違ってた。十年、言わねえでいた」
若林はスパナを拾って、また除雪機の中に手を入れた。手は、動いていなかった。
田所の手が、膝の上で震えている。
「……酒、ねえのか」
誰も答えなかった。田所は隅の陽菜のほうへ顔を向けかけては、すぐに戻す。それを何度か繰り返した。
「三浦麻衣も、病院からいなくなったんだべ」
田所の声がかすれた。
「先生が面倒見てた麻衣も、か」
田所はゆっくり首を振った。
「おれも、か」
田所は、ポツリポツリと話し始めた。
台風の晩、夜中に電話が鳴った。先生だった。現場へ来い、一人で来い、と言われた。田所は雨合羽を着て、軽トラックで施設の裏へ上がった。現場の照明は点けるな、と言われた。
「小さい重機が、現場に置いてあったから。基礎の底は、もう掘り終わってたんだ。そこを、もう一段」
田所は手で何かをすくう形をした。手が震えて、形にならなかった。
「青いシートに巻いて、縄がかけてあった。先生が、車から下ろして」
「中は」
「見てねえ。見なかった。暗くて、雨で」
田所は、すぐに答えた。答えてから、自分の膝に目を落とした。
「土かけて、重機でならした。雨で泥になって。朝、二日早く生コンを呼んだ。先生が、そうしろって」
田所は湯呑みを持ち上げて、冷めた湯を一口飲んだ。置くとき、底が作業台に当たって鳴った。
「先生に言われた。誰にも掘らせるな、何があってもだって。見つかったら、お前がやったことになるって。そういうふうに言った。そういうふうな、ことを」
田所は口の中で何か繰り返した。それは声にもならない声で、誰も聞き取ることはできなかった。
「あとで、一回だけ」
田所の声が低くなった。
「まだ息があったかもしれないな、って」
隅で、陽菜が半纏の襟を口に押し当てて、顔を壁のほうへ向けた。その肩が、半纏の中で固くなっていた。
ストーブの上で、やかんの蓋がかたかたと鳴る。若林が立って、やかんを下ろした。
「先生がそう言ったんだ。笑ってもいねえ顔で。あれから十年、夜になると」
田所は続けなかった。矢代は田所の顔から、目を動かさずにいた。
「今年の三百万」
田所の目が動いた。
「沢井が死んで、会社の金も回んなくなって、先生に泣きついた。先生は、現金で出してくれた。子どもらの積み立ての金だってのは、あとで知った」
「領収書は」
「補修工事って名前で、書かされた」
田所は言葉を探した。見つからないようだった。
「書いちまった。なんでだか、書いちまったんだ」
湯呑みの底に、茶の色の輪が残っていた。田所はそれを、指でなぞった。
野口は作業台から体を離した。
「田所さん」
田所は顔を上げなかった。
「あの晩、悠真くんを背負って番屋を出ていった人を陽菜さんが見ています」
壁に向いていた陽菜の顔が、こちらへ戻った。田所の背中を見ていた。その視線に田所の肩がこわばる。
「それから、もし、あのとき悠真くんにまだ息があったとしても」
野口はそこで一度、言葉を切った。
「この八月で、十年たっています。埋めたことは、もう罪には問われないはずです」
田所は何も言わなかった。ストーブの火に顔を向けていた。泣かなかった。肩だけが、何度か上下した。
若林が除雪機の前にしゃがみなおした。スパナがカバーの縁に当たる音がした。
「あの人は、ほかにも人を殺してるんですか」
矢代が言った。田所は答えるまでに、長くかかった。
「わかんねえ」
声は小さかった。
「わかんねえ。ただ、あの晩」
田所は自分の手のひらを開いて、閉じた。
「シート巻いて縄かけるのが、早かった。先生の手は、慣れてた。おれは毎日、大工の手を見てるから、わかるんだ」
田所はそこで口を閉じた。誰も続きを言わなかった。シャッターの向こうを、除雪車が通っていった。刃が雪を押す低い音が車庫の壁を震わせて、遠ざかった。
矢代が、膝の上で組んでいた指をほどいた。
「この話を、本部に」
「本部は、だめだ」
田所が、初めて自分から顔を上げた。
「市川さんは、昔から先生に頭が上がんねえ。おれと、おんなじだ」
田所はそれだけ言って、また下を向いた。矢代は何も言わずに、ほどいた指を組みなおして、膝の上に置いた。
◇
夕方のニュースは、また雑音がひどかった。若林がアンテナの線を窓のほうへ引っぱると、声がはっきりした。
行方がわからなくなっている入院患者の女性の、病院の名前の入った毛布が、手配中の男が泊まっていた旅館の物置から見つかったことがわかりました。警察は、旅館を経営する夫婦から、事情を聴いています――。
野口の手が、上着の上から内ポケットに触れた。藁の縄が、指の先に当たった。
女将は、刑事を相手に何を話すのか。何を話さずにおくのか。主人は、たぶん何も言わない。
隅で、陽菜が床の木くずに目を落としたまま言った。
「おじいちゃんは、わたしがいたところを知ってる」
「宿の離れのほかには」
野口が訊いた。
「浜の漁具小屋と、林道の上の炭焼き小屋」
陽菜は顔を上げなかった。
「毛布だけ、なんでしょうか」
矢代が言った。誰も答えなかった。ラジオは、もう天気の話に移っていた。矢代は陽菜と野口の顔を順に確かめてから、窓の外の暗くなりはじめた空に目をやった。
「今夜、見に行きます」
「見に行くなら、浜からにして」
陽菜が言った。
「町の人がわたしの毛布を見つけたのは、浜の小屋だったって、若林さんが言ってた」
若林が作業台の引き出しを開けて、鍵を一つ出した。キーホルダーに、漁協の名前の入ったプラスチックの札がついている。若林はそれを、何も言わずに作業台の上に置いた。
手配された身では、町が寝静まるまで動けなかった。田所はビールケースに座ったまま、壁にもたれて眠っていた。口が半分開いて、ときどき、何か言いかけるように唇が動いた。
若林が除雪機のカバーを戻して、始動の紐に手をかけた。一度引くと、エンジンは咳きこんで止まった。二度目も同じだった。三度目にエンジンがかかり、低い音が車庫の中にこもって、床のコンクリートが震えた。若林はエンジンの音に耳を寄せて、すぐにスイッチを切った。車庫の中が、前より静かになった。
若林は軍手を外して、作業台の野口の隣に来た。眠っている田所の背中を見る。
「あんたは記事に書くのか」
野口は、作業台の上の自分の手を見ていた。若林は、答えを待っていないようだった。
「おれの言ったことも書くのか」
「もう、記者じゃありません」
若林は、軍手を作業台の上に置いた。指の先が、どれも黒く擦り切れていた。
「んだか」
若林はそれだけ言って、ストーブに灯油を足しに行った。
母屋のほうから子どもの声がして、若林の妻の声がそれを叱り、子どもが笑った。奥の戸が細く開いて、小さな女の子の顔がのぞいた。女の子は隅の陽菜をじっと見ていた。陽菜は、手袋の手を膝の上で少しだけ上げた。女の子が何か言いかける前に、後ろから若林の妻の手が伸びて女の子を引き戻し、戸を閉めた。
若林の妻が、汁の椀を盆に載せて入ってきた。眠っている田所の前にも、一つ置いた。
汁を飲み終えたころ、陽菜が隅から立ち上がった。半纏を肩にかけたまま作業台のそばまで来て、コートの内側に手を入れて、何度も折りたたまれて角の丸くなった紙を出した。
「悠真くんの手紙」
陽菜は紙を野口の前に置いた。
「麻衣さんに、渡したかったの」
陽菜はそれきり口を閉じた。野口は紙を開いた。ノートを破った紙だった。鉛筆の字が、罫線からはみ出しかけては戻っている。消しゴムで消して、書きなおしたところがあった。
おかあさんへ
ぼくは、ひなちゃんといっしょにいます。さわいさんが、ごはんをもってきてくれます。だから、しんぱいしないでください。
そうこのこと、言ってごめんなさい。おかあさんがおこったのは、ぼくがうそを言ったと思ったからだと思います。でも、ほんとうに見ました。園長先生が、そうたくんをそうこに入れて、かぎをかけました。ドアのむこうで、そうたくんの声がしていました。
さわいさんは、大人の人にぜんぶ話したら、もうだいじょうぶになると言いました。ぼくは話します。そしたら、うちに帰れますか。
帰ったら、またたまごやきを作ってください。あまいのがいいです。
ゆうま
野口は最後の行まで読んで、もう一度、はじめから読んだ。
紙を、折り目どおりにたたんで、陽菜のほうへ戻す。陽菜はそれを受け取ってコートの内側にしまい、上から手を当てた。
「タクシーの後ろの座席の隙間に、名札が残っていました。警察に提出しました」
「あの晩、渡すつもりだったの」
声は小さかった。
「言おうと思って、言えなくて。車の中があったかくて、眠っちゃった。道の駅で歩きだしてから、手の中にないって気がついた」
陽菜はそこで黙った。ストーブの上で、鍋の蓋が小さく鳴った。
「冬休みに、おじいちゃんの家で雪かきをしようと思ったことがあって」
陽菜がぽつりと言った。
「玄関に掛けてあったおじいちゃんのヤッケを借りたの。ポケットに手を入れたら、悠真くんの名札が入ってた」
陽菜は手袋の手を、自分のコートのポケットに入れて、出した。抑揚のない声だった。
「おじいちゃんは、物を置き忘れるような人じゃないのに」
陽菜は、ストーブの火のほうへ顔を向けた。
「わざとだったんだと思う」
陽菜は、まだコートの胸に手を当てていた。
「その手紙を、どうしてずっと」
「おじいちゃんに取られたら、もう戻ってこないから」
少しして、陽菜はもう一度口を開いた。
「おじいちゃんは、取ったものを捨てないでしまっておくの」
時計が十時を回った。矢代が立ち上がって、作業台の上の鍵を取り、シャッターの下の錠に差して、回した。錠の外れる音が、車庫の中に響いた。
シャッターを腰の高さまで上げたとき、作業場の隅で、陽菜が半纏の襟から目だけを出していた。野口と目が合うと、陽菜は膝を抱えなおして、壁のほうへ顔を向けた。
若林の軽ワゴンは、ヒーターをいちばん強くしても足もとに生ぬるい風しか出てこなかった。鍵は運転席の日よけの裏に挟んであった。助手席には、軍手が一組と懐中電灯が一本、並べて置いてあった。後ろの席には、チャイルドシートがベルトで留めてある。
矢代は港の裏の坂をライトも点けずに下りた。坂の下まで下りて初めてライトを点ける。車を漁港のほうへ走らせる。ワイパーのゴムが片側で切れていて、拭き残した筋の向こうを、港の街灯が一つずつ過ぎていった。
「若林さん、冬もこれで乗ってるんですかね」
矢代は体をハンドルに寄せて、曇ってくるガラスを袖で拭いた。野口は軍手をはめた。右の人差し指の先の糸がほつれていて、爪がのぞいた。
街灯の下を通るたびに、ルームミラーの中で後ろのチャイルドシートが白く浮いた。矢代はミラーに一度目をやって、ハンドルを握りなおした。
漁港の端の網を干す小屋の陰に車を入れた。五日前の晩、野口が軽を停めて、町の窓の灯りが消えるのを待ったところだった。エンジンを切ると、波の音が近くなった。
浜の上の道を、二人で歩いた。道に沿った家々は、どこも暗かった。一軒だけ、カーテンの隙間でテレビの青い光が動いていた。雪は海のほうから斜めに来て、コートの海側の肩にばかり積もっていった。
浜へ下りる道の上まで来て、野口は足を止めた。
道の端は、五日分の雪をかぶって平らになっていた。どこに膝をついたのか、もうわからない。野口は、しゃがんで、軍手の手を雪に置いた。指が柔らかい雪に沈んで、その下の固いものに当たった。
矢代が隣にしゃがんだ。懐中電灯を雪すれすれに寝かせて、先を手のひらで覆った。細くなった光の中で、野口の指の先から、固い筋が道と平行に延びていた。矢代は手袋の指で、上の雪を払った。新しい雪は、なでるだけで崩れた。その下で、タイヤの跡が凍っていた。何台分もの跡が重なって凍り、その上をまた別の轍が踏んでいる。
「ゆうべの会長さんたちの車ですかね」
矢代は言いながら、手を止めなかった。いちばん上の跡の一本に、同じ形の切れ込みが、間をあけて並んでいた。タイヤの溝が、そこだけ斜めに欠けている。矢代はそのあたりを、手のひら二つぶんほど払い出した。
上着の内ポケットからスマホを出して、電源を入れた。画面の上の端を指でなぞると、アンテナのマークが消えた。矢代は跡の横にボールペンを置いて、何枚か撮った。
「一応です」
浜へ下りる道に、足跡はなかった。懐中電灯を消して、雪の中を下りた。長靴が膝の下まで沈んだ。下りきったところに、焼け跡の黒い柱が二本、雪明かりの中に立っていた。二人はその前を過ぎて、漁具小屋のほうへ歩いた。
三つ目の小屋の戸は、柱に針金でくくりつけてあった。矢代は針金の端を指でつまんで、そこで手を止めた。
「誰か開けてますね。僕のあとで」
矢代は針金をほどいた。中は、網の山も浮きの籠も、三日前の朝と同じところにあった。毛布のあった乾いた四角の跡は、割れ目から吹きこんだ雪の粉で白くなっていた。口を潰した空き缶は、もうなかった。
野口は戸口に立って、小屋の奥の暗がりを見ていた。
矢代が戸を閉めて、針金をくくりなおした。
野口は振り返る。五十メートルほど後ろに、先程通り過ぎた焼け跡の黒い柱に波が寄せてきて、基礎の石の一番海側の角を白く洗って、引いていった。
焼け跡の手前で、矢代は懐中電灯を膝の高さまで下げた。
光を雪すれすれに寝かせると、平らに見えていた雪に影ができた。基礎の石の頭が、四角く並んで短い影を引いた。四角の内側には、細長いふくらみがいくつか、てんでの向きに伏せている。焼け落ちた床の板が、雪をかぶっているらしかった。
矢代は光を陸のほうへ回していった。
焼け跡の裏の斜面を、浅い溝が二本、並んで下りてきていた。新しい雪に埋もれかけていて、光を寝かせたときにだけ、影の筋になって見えた。溝の端は、浜へ下りる道の上のさっき二人がしゃがんだ道の端のほうへ、暗がりの中に消えている。
裏口のあったあたりで、矢代は膝をついた。懐中電灯を野口に渡して、溝の一本の上の雪を手袋の指で払いはじめた。
新しい雪の下から、締まった固い面が出てきた。長靴の跡が、いくつも重なっていた。どれも縁が丸くなっていて、底の模様は残っていない。溝の底は平たく、その長靴の跡を横切っていた。溝の通ったところだけ、跡の縁が削れて、平らにならされている。
矢代は一歩ずれたところを、もう一か所払った。そこでも同じだった。
「靴跡の上を通ってます」
矢代はボールペンを溝の横に置いて、撮った。もっと寝かせて、と言われて、野口は懐中電灯の頭を下げた。
ゆうべ、浜の捜索は、零時を回ってから引き上げていった。法被の背中が間をあけて坂を上り、軽トラックが三台、速度を落とさずにセダンの横を過ぎた。そのあいだ陽菜は、後ろの座席で野口の手袋をはめた手を膝のあいだに挟んで、顔を伏せていた。
浜の上の道のほうで、電話が鳴っていた。どこかの家の奥の呼び出し音が、風の切れ目に細く届いて途中でやんだ。しばらくして、別の家のほうでまた鳴りはじめた。
矢代は顔を上げなかった。雪を払う手が、速くなった。
溝は伏せた板のふくらみの一つに行き当たって、終わっていた。そのふくらみだけ背が低く、盛り上がりの縁が丸かった。
矢代がその上の雪を払った。新しい雪の下に押し固めた面があった。手のひらで押しつけた跡が、いくつも重なっている。
野口の手の中で、懐中電灯の光が揺れた。野口は柄を握りなおした。
矢代は写真を撮ってから、固めた面を端から指で崩していった。その下は締まっていなかった。ざらざらした粒の雪が詰めてあるだけで、手首まで入れると指先が板に届いた。焼けた木の肌が、手袋の下で、こつ、と鳴った。
矢代は隣のふくらみの前に移って、同じように払った。新しい雪の下に長靴の跡のある固い面があった。その下にも固い雪が何枚も重なっていて、指は板まで届かなかった。
「ここだけ雪が積もってないです」
矢代は濡れた手袋を外して、上着の内ポケットから白い手袋を出してはめた。指の先が、すぐに雪の水を吸って灰色になった。
板の陸側の端に手をかけて、矢代は野口を見た。野口は懐中電灯の光を板に向けて雪に差し、反対の端に手をかけた。
板は、雪に接したところが凍りついていた。二人で持ち上げると木の割れる音がして、焼けた木の粉が雪の上にこぼれた。下にもう一枚重なっていて、それも一緒に持ち上がった。思ったより軽かった。二枚を立てて、基礎の石に立てかけた。
板のあったところに、石と石の間の暗い窪みがあった。矢代が懐中電灯を雪から抜いて、窪みに向けた。
灰色の厚い靴下だった。両方の足に履いている。
光が膝のほうへ上がった。薄い水色の細かい柄の入った寝間着の裾が、雪の粒をかぶっていた。その上に毛糸のカーディガンの裾が重なっている。痩せた腿の上に、両手が重ねて揃えてあった。左の手首に病院の白いリストバンドが巻いてある。細い字で名前が刷ってあった。
三浦麻衣
光は、カーディガンの襟のところで、一度止まった。それから彼女の顔に当たった。
髪は短く、白いものが多かった。生えぎわに、板のあいだから入りこんだ雪の粒がいくつも溶けずに残っていた。頬の肉が落ちて、顎の骨の線がそのまま見えている。目は閉じていた。誰かが閉じたのか、閉じたままその人生を終えたのか、野口にはわからなかった。唇が薄く開いて、前歯の先がのぞいていた。
知らない顔だった。
十日前、野口は病院のナースステーションで名前を名乗り、悠真くんのことで来たと伝えてください、と頼んだ。エレベーターを待つあいだに、廊下の奥のデイルームへ点滴スタンドを押していく、その後ろ姿を見た。痩せた肩に、同じ毛糸のカーディガンを掛けていた。
野口は、雪の上に膝をつく。
「……野口です」
声は、ほとんど出なかった。
矢代が懐中電灯を雪に差して、光を窪みの縁に向けた。白い手袋の両手を胸の前で合わせた。目を閉じて、頭を下げた。顔を上げるまでに、波が二度寄せて、二度引いた。
野口は膝をついたまま、両手の置き場がなかった。濡れた軍手の手を自分の腿の上に置いていた。
矢代はスマホを出した。フラッシュは使わずに、懐中電灯の光を斜めに当てて、足もとから順に撮っていった。
撮り終えた矢代の指が、画面の上の端にかかって、そこで止まった。浜の上の家の窓に灯りが点いた。
野口は顔を上げた。道に沿った家の一番端の窓だった。灯りは消えなかった。間をおいて、二軒先の窓にも点いた。どこかで戸の開く音がして、男の声が短く誰かを呼んだ。
矢代は画面を板を持ち上げる前に撮った一枚に戻した。画面と、石に立てかけた板とを何度か見比べた。
「戻します」
二人で板を持ち上げた。下の一枚を先に窪みの上へ渡した。上の一枚の縁が麻衣の額の上まで下りてきたとき、野口は言った。
「すみません」
矢代は一歩下がって画面を確かめ、板の端を手で押して石の角に合わせてから、撮りなおした。雪はもう、板の上に降りはじめていた。払った跡の固い面にも、白い粒がたまっていった。
港のほうでエンジンがかかった。続けて、もう一台かかった。ヘッドライトが、浜の上の道をこちらへ動きだした。
矢代が野口の腕をつかんだ。二人は浜へ下りる道を避けて、波のほうへ歩いた。濡れた砂のところまで出ると、矢代は引いた波のあとをゆっくりと歩いた。踏んだ跡に次の波が来て、跡は泡の中で崩れた。野口もそのあとを踏んだ。波が膝の下まで来て、長靴の口から水が入った。
漁具小屋の前を海の側から過ぎた。四つ目の小屋の先で、砂が終わって岩になった。岬の崖の下に雪をかぶった黒い岩が積み重なっている。矢代は岩の間の雪の吹きこんでいない隙間に野口を押しこんで、自分も身を低くした。
浜の上の道に、ヘッドライトが並んで停まった。
一台の荷台で、投光器が点いた。白い光が浜の上へ伸びてきて、焼け跡の黒い柱を照らし、雪の上を走って岩場の手前で止まった。光の中を雪が横に流れていった。
浜へ下りる道を懐中電灯が一列になって下りてきた。十いくつあった。いくつかの光の脇で、長い棒の先が揺れていた。列の中で誰かが声を張った。風で途中が切れて、小屋さ、と、先生が、だけが岩場まで届いた。
列の先頭が、焼け跡の手前で止まった。
懐中電灯の光が、いくつか雪の上に下りた。光は浜へ下りる道の下から漁具小屋のほうへ伸び、小屋の前から焼け跡のほうへ戻ってきた。二人の歩いた跡だった。誰かが何か言って、棒を持った男が二人、焼け跡の中へ入った。棒の先が雪に差しこまれた。抜かれて、隣に差しこまれた。
野口は岩の陰で、自分の手を握っていた。濡れた軍手の中で指の先の感覚がなくなりかけていた。
棒の一本が、止まった。
棒を持った男がしゃがんで、手で雪をかき分けはじめた。もう一人が駆け寄って、二人で何かを持ち上げた。
声がした。言葉になっていなかった。
懐中電灯の光が、焼け跡の一か所に集まった。投光器の光が動いて、焼け跡に向けて据えなおされた。光の中で、男たちが輪になった。輪の中の一人が、窪みのほうへかがみこんで、腕を伸ばした。
「……動かさないで」と、岩の陰で矢代が言う。
輪から離れたところで一人が雪に手をついて、吐いているのが見えた。
紺のコートを着た男が輪から出た。毛糸の帽子を片手で押さえて、もう片方の手で携帯を耳に当てている。男は鳴磯学園のある坂の上のほうへ顔を向けていた。
輪の外にもう一人、動かずに立っている男がいた。作業着の背中に投光器の光が半分かかっている。男たちが焼け跡の窪みをのぞきこんでいるあいだ、その男だけは浜へ下りる道の上の、道の端のほうに顔を向けていた。ヘッドライトの並んだ列の手前の、道がふくらんで広くなっているところだった。
漁協の作業着に見えた。顔までは、ここからはわからなかった。
矢代が野口の肩を叩いた。岩づたいに、岬のほうへ回る。岩は雪の下で凍っていて、野口は二度、手をついた。二度目に、矢代の手が野口の上着をつかんだ。崖の切れ目に漁師が浜へ下りるのに使う細い道があって、雪に埋もれた鉄の手すりがところどころ頭を出していた。手すりをつかんで、四つん這いで上がっていくと岬の道に出た。
町へは戻らずに岬の道を山のほうへ折れた。杉の林の中の、雪に埋もれた畑の道を回った。矢代は一度、靴、だめになりましたね、と言った。浜のほうからサイレンが聞こえて、すぐに風に消える。
杉の林を抜けるところで矢代が足を止めずに言った。
「陽菜さんには」
野口は答えなかった。矢代は前を向いたまま歩きつづけた。
漁港の端の網を干す小屋の陰に戻るまで歩くのに、一時間近くかかった。長靴の中の水は、途中から冷たいのかどうかもわからなくなっていた。
野口は車の後ろへ回って、排気管のまわりの雪を軍手の手でかき出した。かき出してから、懐中電灯で口を照らして運転席の窓を叩いた。
矢代がエンジンをかけた。ヒーターの吹き出し口から、冷たい風が出てきた。
矢代は車を出さなかった。スマホの写真を開いて、画面を膝の上で、野口のほうへ向かないように傾けた。一枚ずつ、送っていった。親指がときどき止まる。止まるたびに、画面の明かりが矢代の顎の下を白く照らした。




