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世界はあなたに焦がれている  作者: シロ


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二章 過去の亡霊②

 階下で、振り子時計が四つ打った。枕もとのスマホは、四時十五分になっている。国道を通る車の音はなく、海の音だけが続いていた。


 六時すぎに布団を出た。窓の外はまだ暗いが、雪はやんでいる。下りていくと、帳場の柱の前で主人が踏み台に乗って振り子時計の箱を開けていた。ネジを巻く音が、玄関の土間まで聞こえる。針は五時五十分を指していて、野口のスマホでは六時五分だった。主人はネジを巻き終えると、針には触らずに箱を閉めた。


 台所から、女将が顔を出した。


「鳴磯さ行く道、岬の手前が波で通れないって。あしたの朝には開くって、ラジオで言ってた」


 行くのか、とは訊かれなかった。帳場の隅に置いてもらっていた革靴を玄関の長靴の隣に並べてから、階段を上った。部屋で上着の内ポケットからノートを出し、浜の地図のページの角を折った。


 次の朝、帳場の前を通ると、女将がラジオの音を上げた。岬の手前の道は、けさ六時に通れるようになったという。


「道、開いたって」


 女将は伝票の束に目を戻した。玄関で長靴を履いていると、戸口の雪を払っていた主人が黙って脇へよけた。軽のフロントガラスには、夜のうちに降った雪が薄く載っていた。ブラシで落としてエンジンをかけ、吹き出し口に手をかざして、風がぬるむのを待った。


 岬の手前で、道は崖と海のあいだを縫う。路肩には砂利と黒い海藻の塊が寄せてあって、ゆうべ波がここまで上がったことがわかる。崖の下で砕けたしぶきが、ときどき風に乗ってガラスに当たった。ワイパーを動かすと、塩の粒が扇の形に白く残った。


 岬を回ると、鳴磯の町が見えた。漁港を抱えるようにして、低い家並みが坂の下に固まっている。漁港の前の食堂はシャッターが下りていて、色の抜けた貼り紙が四隅をテープで留めてあった。長いあいだありがとうございました、と読める。日付のところは雨で流れていた。十年前の夏、沢井はこの店の窓際の席で水の入ったコップを両手で包んでいた。


 坂の上に、施設の白い古い棟がある。その裏に、十年前にはなかった平たい屋根が並び、軒から雪がはみ出していた。坂の下の空き地には、局の名前を横腹に入れたワゴン車が二台停まっている。マイクを持った女が施設の門柱を背にして立ち、カメラに向かって何度も同じ言葉を言いなおしていた。野口は顔を伏せて、車の速度を落とさずにその前を過ぎた。


 防波堤の先で、ゴムの合羽の老人が竿を出している。車を降りた野口に気づくと、老人は振り向かないまま、足もとのバケツを傾けて見せた。底に水が少し入っているだけだった。


 浜へ下りる道は、雪に埋もれかけていた。上着の内ポケットからノートを出し、角を折ったページを一度だけ開いて岬のほうへ歩いた。長靴が、雪の下の砂に沈んだ。


 番屋のあったところは、遠くからはそれとわからない。近づくと、雪の上に基礎の石の頭が四角く並んで出ていた。内側には黒い柱の根元が二本、雪から突き出ている。焼けた木の表面は細かく割れて、曇った空の下で鈍く光っていた。


 棚は、浜に面した戸の右の壁にあった。そのあたりの雪を長靴の先で払うと、黒い土の中から溶けて固まった緑色のガラスのかけらが出てきた。梁に吊るしてあった浮きの名残りだろう。


 雪の上には、野口のもののほかにもう一筋の足跡があった。町のほうから来て、基礎の石の角で向きを変え、同じ道を戻っている。野口の長靴より、ふたまわりほど小さい。ゆうべの雪が、足跡の縁を丸くしていた。


 六年前の二月、この棚の裏を沢井と二人でのぞいた。


◇


 六年前の一月の終わり、東京の編集部で携帯が鳴った。画面に、沢井、と出ている。四年ぶりだった。


「野口さんか。沢井です」


 窓際の編集長の席で、長谷部が誰かと電話をしている。野口は廊下へ出た。


「会ってほしい人がいるんだ」


 四年前の夏にも、沢井は電話で、会わせたい子どもがいる、と言った。その朝、野口は千坂の病院にいた。あとで沢井は警察に何日か呼ばれ、名前の出ないまま釈放された。野口がかけた電話はそれきり一度もつながらなかった。


「どういう人ですか」

「電話じゃ、ちょっと。来てもらえれば」


 週末に、新幹線で千坂へ行った。母の軽は、四年まともに動かしていない。駅前で車を借りた。鳴磯の民宿は看板を下ろしていて、国道を戻った隣の町に、古い旅館を見つけた。女将はまだ六十を過ぎたくらいで、帳場で算盤をはじいている。宿帳に名前を書くと、女将はその字を指でなぞるように読んだ。二晩目からは、帰りの遅い野口のために玄関の鍵を開けたままにしておいてくれた。戸を引くと、帳場の灯りだけが点いていて、柱の振り子時計が小さく鳴っている。


 ある晩、帳場の前を通ると女将が算盤から顔を上げた。


「鳴磯さ、お仕事で」

「四年前の女の子のことで」


 女将は算盤の玉を指で払った。


「陽菜ちゃんの」


 それ以上は訊かずに、帳場のストーブの火を一つ上げた。


 沢井に連れていかれたのは、旧道が町に入るあたりの古い家だった。玄関の上がり框に、男物と女物の長靴が一足ずつ並んでいる。茶の間の仏壇には、年寄りの写真が二枚と、その脇に野球帽をかぶった小さな男の子の写真が立ててあった。こたつに、三十代の終わりの痩せた女が座っている。


「小松です。蒼太の、父親の妹です」


 女は頭を下げたまま、顔を上げなかった。


「去年、両親が続けて亡くなって。片づけをしてたら、いろいろ出てきて」

「いろいろ、というのは」


 彼女は膝の上に手提げの袋を置いていて、その口を片手で押さえていた。沢井がこたつの向こうから、彼女の手もとを見た。彼女は首を横に振った。


「蒼太のことで、納得していないんです」


 それ以上は、何を訊いても答えなかった。どうして沢井と一緒なのかを訊くと、彼女は仏壇のほうを見た。


「施設の人のほかで、あの子の葬式に来てくれたのは、この人だけだったから」


 沢井が、倉庫のことと蒼太のことを話した。四年前に漁港の食堂で聞いたのと同じ話を、四年前より短く話した。髪に白いものが混じっていても、作業着の袖から出た腕は太いままだった。話のあいだ、彼女は一度もうなずかずに窓の外の雪を見ていた。袋の口を押さえた手は、最後まで動かなかった。


 次の日の昼、沢井の軽トラックで浜へ下りた。番屋は漁に使わなくなった小屋で、戸に鍵はかかっていない。中は外より寒く、潮と古い網のにおいがした。板の隙間から入る光が、床の上に何本も細い線を引いている。梁には緑色のガラスの浮きがいくつも吊るしてあって、戸を開けた風でぶつかり合って鳴った。


 流しの横の小さな戸は、陸のほうを向いていた。沢井はそちらには目をやらずに浜に面した壁の棚の前へ行き、両手で棚を手前に引いた。


「見てほしいものがある」


 棚の裏の板に、字が彫ってある。釘の先か何かで何度もなぞったらしい。二つ並んでいた。


  ひな   ゆうま


 野口はしゃがんで、板に指を当てた。溝の縁は、もう黒ずんでいる。ひな、は陽菜だろう。四年前、この番屋で九日目に見つかった女の子だ。ゆうま、という名前に覚えはなかった。鞄からカメラを出して、板に光が当たるように棚の角度を変えてもらい、何枚か撮った。


「ゆうま、というのは」


 沢井は答えずに、棚を元の位置に押し戻した。


 四年前の捜索の二日目、長机の端で消防団の男たちが話していた。きのう男の子の届けも出ていたが、親戚の家に行っていて、けさ取り下げになった。野口はそれを聞きながら浜へ歩いていった。


「八日目に、会わせたい子どもがいると言いましたね。あれは」


 沢井は戸口に立って、海を見ている。


「いまは、言えない」


 四年前の食堂でも、沢井は同じ言い方をした。


 帰りぎわ、野口は流しの横の小さな戸を開けてみた。裏は浜ではなく、枯れた草の斜面がそのまま陸へ続いている。斜面の上の、雪をかぶった杉の向こうに施設の坂と三年前にできたという平たい屋根が見えた。沢井は軽トラックの運転席でエンジンをかけて待っていた。


 帰りの軽トラックで、沢井は一度だけ口を開いた。


「書くのか」

「書きます」


 沢井はハンドルを握りなおして、あとは前だけを見ていた。


 漁港の前の食堂は、その年はまだ開いていた。棚の上のテレビも同じ場所にある。昼すぎで客はいなかった。主人に、四年前に四年生だったゆうまという男の子のことを訊くと、主人は鍋をかき回す手を止めずに言った。


「三浦さんとこの、悠真だべ。母ちゃんは麻衣さんっていって、施設の台所で働いてた」

「いまは」

「秋に、東京さ行った」


 主人は鍋のふたを閉めて、ようやく野口の顔を見た。


「あんた、前にも来てたな。あの夏」


 その晩、主人に聞いた通りを歩いた。三浦、と表札の出ていた家は窓に板が打ちつけてある。隣の家の呼び鈴を押すと、エプロンの女が戸を半分だけ開けた。三浦さんのことを訊くと、女は野口の後ろの暗い通りを一度見た。


「知りません。施設に訊いてください」


 戸が閉まり、内側で鍵の回る音がした。向かいの家の窓のカーテンが、指一本ぶん動いて戻った。


 旅館の部屋でノートに書いた。


三浦悠真、鳴磯小、一六年秋、東京へ転出。母と。


 書きながら、四年前に長机の端で聞き流した男の子の届けのことを、また思い出していた。


 月曜の朝、鳴磯小学校の職員室を訪ねた。教頭は名簿を開かないまま、廊下に出てきて戸を閉めた。


「転出しています。それ以上は、お答えできません」


 窓の外の校庭では、子どもたちが雪の山に登っては滑り下りていた。


 同じ日の午後、教育委員会へ電話をかけた。電話口の男は、所在は答えられない、安全は確認している、とだけ言った。誰が確認したのかは言わない。施設の電話番号を押すと、大槻が出た。


「野口くんか。東京から、わざわざ」


 声の調子は、四年前と変わらなかった。


「お母さんのことは、残念だったね。あのときは、花しか出せなくて」


 四年前、母の祭壇の脇に彼の名前が書かれた供花が一つ並んでいた。野口は礼を言った。


「いやいや。哲くんから聞いたもんだから」

「三浦さんは事情があって、東京に身を寄せている。行き先は伏せてほしいと、本人から頼まれていてね。誰かから逃げているんだよ。君が書くのはかまわない。ただ、あの母子の居場所に触れるようなことだけは、書かないでやってくれないか」


 受話器の向こうで、大槻が間を置いた。


「あの子のことは、私が責任を持って確かめています」


 礼を言って、電話を切った。ノートの、安全は私が確かめている、の下に、二本線を引いた。


 東京へ戻る前の日、蒼太くんの叔母の家にもう一度寄った。彼女は玄関の上がり框に立ったまま、野口を上げなかった。


「書くなら、蒼太の名前は出さないでください」

「わかりました」


 彼女の手は、前掛けのポケットに入っている。戸を閉める前にもう一度、お願いします、と頭を下げた。


 その足で、漁港の前の食堂に寄った。昼の客が引いたあとで、主人はカウンターの内側で煙草に火をつけた。


「悠真のことだけどな。あの夏、麻衣さんが交番に届けを出して、次の日に下げたっけ。親戚の家にいたって」


 主人は煙を窓のほうへ吐いた。旅館に戻って、ノートの施設長の行の下に一行書き足した。


一六年夏、母、交番に捜索願、翌日取り下げ、親戚の家にいた。町で。


 四年前の長机の端で聞き流した届けは、悠真のものだった。


 東京に戻って、母親の名前で思いつく窓口に一つずつ電話をかけた。区の福祉の窓口も、母子で入れる寮も、答えられないと言う。悠真の居場所はまったくわからなかった。


 二月の終わり、部屋で原稿を書いた。番屋の板の写真を机に立てかけて、ノートを開いた。蒼太の名前は、叔母との約束どおり書かなかった。沢井のことは、浜に住む男、とだけ書いた。悠真の名前は残した。彼の名前は消すことはできない。


 捜索願のくだりは、夜中までかかって一度書き上げた。陽菜が消えた日にもう一人の男の子の届けが出て、次の日に取り下げられている。秋には母親と東京へ転出したことになっていて、その先は誰も知らない。段落の終わりに二人の子どもが同じ浜で消えて、一人だけが帰ってきた、と書いた。


 画面のその段落を、何度も読み返した。大槻の、逃げているんだよ、という声を思い出した。これが載れば、母子が逃げている相手が彼女たちを見つけるかもしれない。


 教育委員会にもう一度電話をかけて、母子が誰かから逃げているというのは本当かと訊いた。電話口の男は、所在についてはお答えできません、と同じことを繰り返した。施設の番号も押しかけて、やめた。


 明け方、その段落だけ選んで、消した。届けのことも東京のことも消し、男の子の所在はつかめない、という一行だけが残った。ノートの二本線の引いてある行は、原稿のどこにも入れなかった。窓の外で、新聞を配るバイクの音がしていた。


 三月のはじめ、原稿を長谷部の机に置いた。編集長になった彼の席は窓際に移っていたが、長谷部は袖を肘までまくり、耳に赤ペンをはさんだままでいる。一枚ずつめくって、彫り跡の写真を貼ったページで手を止め、そこだけ二度読んだ。最後のページまで、ペンは一度も抜かなかった。


「載せない」

「裏は必ず取ります」

「板の字なんて、誰でも彫れる」


 長谷部は原稿を揃えて、野口のほうへ押し戻した。


「それに、陽菜の名前が出る。うちの娘のことを、うちの雑誌に書かせるのか」

「あの事件は普通じゃないんです。まだ何か、見落としている気がします」


 長谷部は窓の外を見た。向かいのビルの屋上で、看板の電球が昼間から点いている。


「載せない、と言ったんだ」


 野口は原稿を受け取ったまま、机の前から動かなかった。


「あの夏の、八日目の電話のことですが」


 長谷部の手が、ゲラの束の上で止まった。


「番屋には、子どもが二人いたことになります。沢井さんが会わせたかったのは」

「警察が調べて、全部終わった話だ」


 長谷部は顔を上げなかった。耳の赤ペンを抜いて、持っていたゲラの一行に線を引いた。


「まだ、あの夏のことを言ってるのか」


 それきり、長谷部は野口のほうを見なかった。


 その月のうちに、原稿を他誌に持ちこんだ。四年前に長谷部の手記を載せた雑誌と、売り場の棚で隣に並んでいた週刊誌だった。担当の編集者は、彫り跡の写真を画面で何度も大きくしてから、言った。


「次の号に入れます。……本当に、いいんですね。あそことはこれで終わりになりますよ」

「わかっています」


 編集者は肩をすくめて、写真の端を指で叩いた。打ち合わせの机にまだ学生のような顔の若い男が、写真を刷った紙の束を運んできた。男は束を置いてから、肩越しに彫り跡の写真をのぞいて、しばらくその場を離れなかった。


 記事の出た朝、駅の売店に寄った。他誌の表紙の隅に、浜の番屋、消えた男の子、と小さく刷ってある。隣の段に会社の週刊誌が差してあって、表紙では知らない女優が笑っていた。一冊買って、ホームのベンチで自分の書いた見出しを読んだ。


 記事が出た日の夕方、会社の総務から電話があった。会社には戻らず、家で待つように、と言う。翌週、部屋の呼び鈴が鳴って、配達の男が厚い封筒を差し出した。判を押して受け取り、玄関に立ったまま封を切った。訴えたのは長谷部哲と長谷部理恵で、娘のプライバシーを侵したとして他誌と野口の名前が並んでいた。理恵の名前を、野口はそこで初めて見た。四年前の公民館の座敷で、握り飯の包みを開かずにいた人だった。同じころ、ネットに、彫り跡は記者が自分で彫ったものだ、という書きこみが出はじめた。どこから出た話なのか、野口にはわからない。いくつかの雑誌が、関係者の話として同じことを書いた。電車の網棚の上の吊り広告に、記者の自作自演か、という字を見た日もある。野口はその下の席に座ったまま、終点まで乗っていた。


 記事が出た翌週、鳴磯の番屋が燃えた。夜中のことで、誰もいなかった。地元の新聞の小さな記事を、蒼太の叔母が写真に撮って送ってきた。黒い柱が二本立っているだけの写真で、不審火として調べている、と一行添えてあった。


 三月の終わりに、もう一度鳴磯へ行った。番屋のあったところには黄色いテープが張られ、黒い柱が二本、雪の消えた浜に立っている。焦げたにおいが、潮のにおいの下にまだ残っていた。テープの外に沢井が立っていた。作業着の背中が野口の足音に一度だけこわばった。沢井は振り向かずに、足もとの砂を長靴でならして、軽トラックのほうへ歩いていった。呼んでも、止まらなかった。その晩も、旅館の玄関の鍵は開いていた。帳場の女将は、燃えたってね、とだけ言って、宿帳を野口のほうへ向けた。


 四月の終わり、沢井から電話があった。倉庫のことを名前を出さずに話してくれるはずだった。


「すまない。降りる」

「誰かに、何か言われたんですか」


 受話器の向こうで、沢井が長く息を吐いた。車の通る音がしている。


「あんたのせいじゃない」


 理由を訊く前に、電話は切れた。かけ直しても呼び出し音が鳴るだけだった。その年の終わりまでに三度かけたが、一度もつながらなかった。


 家で待つあいだに、街のほうが静かになった。駅の改札を出る人はまばらで、すれ違う人はみなマスクをしている。部屋の窓から見える交差点で、信号だけが誰もいない横断歩道に青を出していた。六月に、他誌の弁護士と画面越しに話した。弁護士の後ろの本棚は上の段だけ本が抜けている。


「取材源を出していただければ、こちらは戦えます。彫り跡を見せたのが誰か、それだけでも」

「出しません」


 弁護士は手もとの紙に何か書き、隣の席に座った担当の編集者に目をやった。編集者はマスクを顎まで下げたまま、黙っていた。


 八月の終わりに、その編集者から電話があった。


「和解します。記事は下げて、お詫びを載せます。野口さんの名前はうちからは出しません」


 電話の向こうで編集者は黙ってから、すみません、と付け足した。


 十月、会社の会議室で総務部長が通知を読み上げた。他誌に原稿を持ちこんだことが理由だった。長いテーブルの向こうに部長と人事の女が並んでいて、長谷部はいない。会議室を出ると、廊下の先の編集部の入口に長谷部が立っていた。こちらを一度だけ見て、編集部の中へ入っていった。部屋の本と取材のノートを、段ボール二つに詰めた。ノートは年ごとに輪ゴムでまとめた。二〇一六年の束のいちばん上の手帳は、終わりのページがよく開くくせがついていて、輪ゴムをかけるときにもそこが開いた。閉じて、箱の底に入れる。宛先に千坂の実家の番地を書き、ガムテープで箱の口をふさいだ。


 十一月のはじめに千坂へ戻ると、先に送った段ボールが二つ、母の家の玄関の土間に積まれていた。向かいの家の主人が縄の束を提げたまま門の前まで来た。


「帰ってきたのか」

「はい」

「そうか」


 主人は、庭の隅でシートをかぶった母の軽のほうへ顎を向けた。


「たまに、エンジンかけてやれ。でないと、だめになるから」


 段ボールは、開けないまま押し入れの上の段に上げた。十二月に駅の裏のタクシー会社の面接を受けた。所長は履歴書を鼻の先の眼鏡で読んだ。


「雑誌のことは、知ってる」


 野口は黙っていた。


「夜は、出られるか」

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