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世界はあなたに焦がれている  作者: シロ


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7/19

二章 過去の亡霊①

 眠れなかった。ストーブの火を細くして布団に入ってから、畳に伏せたスマホを裏返した。画面の明かりが天井に四角く映った。不在着信が寝る前よりまた増えている。


 いちばん新しい写真は、居間の電灯の下で撮った名札の表と裏の二枚だ。表を開いて指で広げると、薄くなった字が画面いっぱいになった。磯の字の画が、にじんでつながっている。指をずらして四年一組の名前を画面の外へ出すと、画面には学校の名前だけが残った。


◇


 十年前の七月、東京は朝から蒸し暑かった。編集部の冷房は窓際の席だけが効きすぎていて、野口は膝に上着をかけてゲラを直していた。昼すぎに長谷部がホチキスで留めた紙の束を机に置いた。


「読んどけ」


 長谷部は三十六で、野口が入ったときからのデスクだ。ワイシャツの袖をいつも肘までまくり、耳に赤ペンをはさんでいる。


 紙の束は手紙の写しだった。差出人は鳴磯町に住む男で、町の児童養護施設を十八で出たと書いている。便箋の罫線からはみ出さない几帳面な字だった。子どものころ、施設の裏の倉庫に何度も入れられた。いまも同じことが続いていると、施設にいる子から聞いた。最後の行に名前と電話番号がある。沢井達也。


 読み終えて顔を上げると、長谷部はまだ机の横に立っていた。


「どうだ。書けそうか」

「どこの施設ですか、これ」

「鳴磯学園。施設長は大槻っていう」


 長谷部は窓のほうを見たまま、袖をもう一折りまくった。


「女房の親父なんだよ。だから俺は書けない。会社には言うなよ」

「なんで、自分なんですか」

「お前は断らないだろ」長谷部は少し笑った。「俺もあそこの出なんだよ。女房とは、あそこで一緒に育った。……昔の話だと思うけどな。俺がいたころも、そういう話はあった。俺は入れられなかったけど。本当なら書いていい」


 長谷部は自分の席に戻り、ほかの誰かのゲラに線を引きはじめた。


 その晩、手紙の番号に電話をかけた。三度目の呼び出しで出た男は、雑誌の名前を聞くと黙りこんだ。電話の向こうで犬が吠えている。


「来てもらえますか」


 千坂で車を借り、海沿いの道を二時間走った。七月の鳴磯は、浜から来る風が湿っている。漁港のまわりには網を干す小屋とシャッターの下りた店が並んでいた。沢井とは漁港の前の食堂で会った。


 日に焼けた四十すぎの男で、作業着の袖から出た腕が太い。港で荷を運ぶ仕事をしているという。水の入ったコップを両手で包んだまま、沢井はテーブルの上に指で四角を描いた。


「戸の内側に、取っ手がないんです。外からしか開かない。夏なんか、中は蒸し風呂ですよ」

「どのくらい入れられるんですか」

「泣くと長くなるんです。朝までってこともあった。俺は七つのときから、何べんも」


 沢井はコップの水を一口飲んだ。


「いまも、ですか」

「いまいる子から聞きました。名前は言えません。言ったら、その子がまた入れられるかもしれない」

「入れるのは誰ですか」


 沢井はすぐには答えなかった。棚の上のテレビが、高校野球の地方大会を映している。打球の音がして、店の主人が「あっ」と声を上げた。


「いまは、言えない。あんたが記事を書くって決めたら、全部話します。俺のほかにも、入れられたやつは何人かいる。話すかどうかは、わからないけど」


 そこで初めて、沢井は野口の顔を正面から見た。


「長谷部さんとは、施設で一緒だったんです。俺が高校のとき、あの人はまだ小学生で。……長谷部さんのところなら、書いてくれると思ったんで」

「なんで、いまなんですか」

「裏に新しい棟が建つって聞いて」


 沢井はコップを持ち上げかけて、また置いた。


「建ったら、新聞が写真を載せる。施設長が子どもらと並んで笑ってるやつだ。そうなったら、俺が何を言っても誰も聞かない」


 次の日、沢井は軽トラックで施設の裏の林道へ野口を連れていった。杉の切れたところで車を停めると、斜面の下に施設の裏手が見える。工事の囲いの手前に、トタン屋根の低い建物があった。屋根に近いところに小さな窓が一つだけついている。


「あそこです」


 沢井はハンドルに両手を置いたまま、顎で示した。


「近くで見ますか」

「ここでいい」


 エンジンはかけたままだった。下の棟から昼のチャイムが聞こえて、外にいた子どもたちが建物の中へ走っていく。沢井は最後の一人が入るまで見てから車を出した。


 施設に取材を申しこむ電話で、長谷部の名前を出した。施設長は、その週のうちに時間を空けてくれた。


 施設は町を見下ろす坂の上にあった。白い二階建ての古い棟の前で、夏休みの子どもたちがボールを蹴っている。裏手では新しい棟の工事が始まっていて、囲いの板に、田所工務店、と書いてあった。板の隙間から、掘り返した赤土と重機の黄色い腕が見える。


 施設長の大槻は、玄関まで出てきて野口を迎えた。六十を過ぎて、白髪の混じった髪をきちんと分けている。足もとに寄ってきた小さな女の子の頭に大槻は手を置いた。


「お客さんだから、向こうで遊んでおいで」


 女の子が走っていくのを見送ってから、大槻は野口に向き直った。


「哲くんの下で働いてるんだってね。野口くん、だったかな。暑いなか、遠いところを。あれは元気にしてますか。忙しいと電話もよこさない」


 応接室の壁には、子どもの描いた絵が画鋲で留めてあった。大槻は麦茶を出し、野口の質問に一つずつ答えた。手紙の中身を話しても顔色は変わらない。


「昔は、そういう時代もありました。職員も若くて、子どもも多かった。叱り方を知らない者もいたでしょう。いまは、研修にも力を入れています」


 窓の外で、子どもの蹴ったボールが網に当たった。大槻はそちらへ目をやって、少し笑った。


「新しい棟ができたら、六人ずつで暮らせるようになる。家みたいにね。あの子たちには、それがいちばんいい」


 机の上の電話が鳴った。大槻は失礼、と断って受話器を取り、窓のほうへ体を向けた。


「ええ。……その、後見の話はこちらでも確かめてからにしましょう。あの子のことは、私がいちばんよくわかっていますから」


 受話器を置くまで、声の調子は変わらなかった。野口は手帳の端に、後見、と書いた。


「どこまで話しましたかね」


 倉庫のことを訊くと、大槻は思い出すような顔をした。


「物置ならありますよ。見ていきますか」


 林道から見下ろしたトタン屋根の建物だった。中には雪かきの道具と古い机が積んであり、昼でも暗く、土とさびのにおいがする。野口が戸の内側をのぞこうとしたとき、大槻はもう戸に手をかけていた。


「暑いでしょう。中はもっと暑い」


 玄関へ戻る廊下で、四十くらいの女の職員とすれ違った。洗ったばかりのシーツを両腕に抱えている。大槻に頭を下げた女は、野口の顔を一度だけ見て、子どもたちの声のするほうへ歩いていった。胸の名札に、森下、とある。玄関のすのこには子どもの運動靴がかかとをそろえて並んでいて、端の一足だけ、左右が逆になっていた。大槻はかがんで、その一足を揃えなおした。


「この子はね、何べん言っても逆に履くんだ」


 笑った顔のまま、大槻は指先を払った。


 東京に戻って取材のメモを見せると、長谷部は立ったまま最後まで読んだ。


「お義父さんは、何て言ってた」

「昔は、そういう時代もあった、と」

「言いそうだな」


 長谷部はメモを野口の机に戻した。


「沢井って男の話の裏を取れ。入れられたやつがほかにいるなら、そいつらにも当たれ」


 沢井が名前を挙げた元の入所者は二人いた。会ってくれたのは一人だけで、隣町の外れのアパートに住む三十すぎの男は、倉庫のことを訊くと、覚えてない、と言ってテレビの音を大きくした。もう一人は、何度かけても電話に出ない。


 七月の終わり、野口の携帯に沢井から電話がかかってきた。


「子どもが死にました。階段から落ちたって」


 小松蒼太という、七歳の男の子だった。


 次の日の朝に東京を出て、昼すぎに鳴磯に着いた。施設に電話をかけると、大槻が出た。


「子どもたちが落ち着かないので、いまは遠慮してもらえるかな。わかってくれるね、野口くん」


 坂の下から見上げると、白い棟の窓はどれも閉まっていた。裏手の工事の音だけが、いつもどおり聞こえてくる。


 地元の署の刑事課長は、市川という四十代の男だった。二階の応接で書類をめくりながら話した。


「夜中にトイレに起きて、階段で足を滑らせたんでしょう。落ちるところを職員が見ています。書類も出てる」

「解剖は」

「事故ですから」

「見ていた職員の方に、話を聞けますか」

「それは、施設に訊いてください」


 市川は書類を閉じて立ち上がり、ドアを開けたまま野口が出るのを待った。


 その晩、漁港の前の食堂で沢井に会った。テレビは天気予報になっていて、店の主人は網戸の外で煙草を吸っている。沢井の前のコップは、水が減っていなかった。


「落ちるところを、職員が見ていたそうです」


 沢井は顔を上げた。


「誰が」

「施設に訊け、と言われました。解剖もしないそうです」


 沢井はコップを置いた。底がテーブルに当たって音を立てた。


「蒼太も、入れられてたって聞いた」


 声は低く、網戸の外の主人までは届かない。


「入れられてた子が、夜中に一人で階段なんか下りないですよ。暗いとこが怖くなるんだから。俺がそうだったもの」

「警察には」

「言ったよ。中学のとき、交番に。その晩のうちに施設に帰されて、次の日からまた入れられた」


 沢井は両手をテーブルの上で組んだ。


「俺が手紙なんか出したからかもしれない。嗅ぎ回られてるって、わかったんだ」

「それは、まだわかりません」

「いや。たぶん、そうなんだ」


 長いあいだ、沢井は何も言わなかった。テレビがあしたの波の高さを読み上げている。


「事故ならいいんだけど」


 沢井は勘定を置いて席を立った。戸口で振り返りかけて、そのまま暗い港のほうへ出ていった。東京の長谷部に電話で伝えると、事故なら事故だ、裏が取れるまで書くな、と返ってきた。


 八月のはじめ、施設の通用口の前で仕事を終えて帰る職員を三日続けて待った。名刺を出しても、誰も足を止めない。森下は自転車を押して野口の前を通りすぎるとき、一度だけこちらを見て、自転車にまたがった。


 浜には、海水浴の家族連れが来るようになっていた。漁港の防波堤に座ると、施設の坂が見える。波打ち際では浮き輪をつけた子どもが父親に手を引かれ、波が来るたびに悲鳴を上げて笑っていた。パラソルの影で、年寄りが新聞を顔にかけて眠っている。膝の上の手帳は開いたままになっていた。


 そのころ、母から電話があった。


「お盆は、帰ってくるんだべ」

「わからない。仕事が詰まってて」

「そう」


 病院の帰りで、駐車場の車の中からかけているという。どこか悪いのかと訊くと、いつもの、とだけ母は答えた。


「暑いから。体、気をつけて」


 それで電話は切れた。お盆のあいだも、野口は鳴磯の民宿にいた。奥さんの家には孫たちが帰ってきていて、廊下を走る足音が夜まで続く。


 お盆が明けた次の日の夕方、町の防災無線が鳴った。十歳の女の子が、昼から行方がわからなくなっています。背の高さと服の色を言って、見かけた方は交番まで、と同じ文句が二度くり返された。民宿の奥さんが台所から顔を出して、施設長さんのとこの孫だって、と言った。


 長谷部の娘の、陽菜だった。長谷部の携帯にかけると、話し中の音が続いた。


 翌朝には、町は人で埋まっていた。消防団と警察が浜と山に分かれ、坂の下にはテレビの中継車が並んだ。捜索の先頭には大槻がいて、麦わら帽子をかぶり、地図を広げた長机の前で消防団の団長と話していた。長机の端では、法被の男が二人、配られた地図をのぞきこんでいる。


「きのう、男の子の届けも出てたべ」

「あれは親戚の家さ行ってたんだと。けさ、取り下げだ」


 男たちはそれきり、浜の受け持ちの話に戻った。野口は民宿で長靴を借り、捜索隊の後ろについて浜の岩場を歩いた。前を行く男たちの中に、沢井の作業着の背中もあった。潮の引いた岩のあいだに、ちぎれた網や色の抜けたサンダルが挟まっている。それが見えるたびに誰かが手を止め、また歩きだした。


 その晩、民宿の茶の間のテレビに陽菜の写真が出た。前髪をピンで留め、首をかしげて笑っている。同じ民宿に泊まっているテレビ局の若い男が、缶ビールを畳に置いて画面を見ていた。奥さんは麦茶のポットを置いていくと、写真が替わるまで戸口に立っていた。


 三日目に、大槻がカメラの前に座った。公民館の長机に地元の記者と東京から来た記者が並び、野口はいちばん後ろの列にいた。深く頭を下げた大槻が、孫を無事に帰してほしい、と言った。声はところどころで途切れた。上着の胸からハンカチを出したが、目もとには当てずに、たたんだまま机の上に置いた。開いた襖の向こうの座敷では、長谷部の妻が窓のほうを向いて座っていて、配られた握り飯の包みが膝の前に開かれないまま置いてある。会見が終わって廊下へ出ると、大槻が野口を見つけて足を止めた。


「野口くんも、来てくれたのか。ありがとう」


 大槻は野口の手を両手で包んで、すぐに離した。乾いた温かい手だった。


 会見の記事は野口が書いた。民宿の部屋から原稿を送ると東京の別のデスクから電話があり、施設長が声を詰まらせたところを頭に持ってこい、と言った。言われたとおりに直して、送り直した。


 その夜遅く、編集長から携帯に電話がかかってきた。


「施設長は、長谷部の義理の親父さんだそうだな」

「はい」

「お前、七月からその施設を洗ってたらしいな。出張の伝票に鳴磯が並んでる」

「デスクに言われて」


 電話の向こうで、編集長は長く息を吐いた。


「身内の施設を、身内の部下に洗わせてたわけか。載せる前でよかった。施設の件は止めろ。長谷部には、俺から言う」


 四日目の夜、民宿の前の自動販売機の明かりの下に長谷部が立っていた。東京から来て、妻と一緒に大槻の家に泊まりこんでいる。ひげが伸びて、目の下が黒くなっていた。


「編集長から聞いたな。施設のほうは、もういい。いまは、こっちを追え」

「沢井さんの話は」

「もういい、と言ったんだ」


 長谷部は自動販売機の明かりに目を細めた。小さな虫がいくつも、光に当たっては落ちていく。


「編集長に、手記を書けと言われた」

「書くんですか」

「書くよ。ほかのやつに書かれるよりはいい」


 長谷部はポケットに両手を入れて、坂を上りはじめた。


 次の日から、施設の玄関の前に全国から届いた手紙と寄付の段ボールが積まれるようになった。森下たち職員が、汗を拭きながらそれを中へ運んでいる。


 六日目の昼、国道沿いのコンビニで沢井を見かけた。レジ袋を両手に提げていて、パンの袋と水のペットボトルが透けて見える。野口が声をかけると、沢井は袋を少し持ち上げた。


「捜索の人らに」


 沢井は袋を助手席に置いて、軽トラックのドアを閉めた。


 次の週の号に、長谷部の手記が載った。父親として娘の帰りを待つ短い文章に、当時の編集長が見出しをつけた。


  世界は君に焦がれている


 同じコンビニの棚にも、その号が差してある。野口は一冊買って、民宿の部屋で読んだ。手記には、陽菜が初めて自転車に乗れた日のことが書いてある。後ろを押していた手を離したのに、陽菜は気づかないで角まで走っていった、という。読み終えると、野口は雑誌を鞄の底にしまった。その号はよく売れた、と編集部の同僚が電話で言った。


「見出し、編集長が自分でつけたんだって。ゲラ見て、これでいく、売れるって」


 八日目は、朝から波が高かった。台風が近づいていて、捜索は昼で打ち切られた。漁港では男たちが船の綱を二重に張り、民宿の奥さんは一階の雨戸を端から閉めていく。窓が風で鳴りはじめた夕方、携帯が鳴った。沢井だった。


「会わせたい子どもがいる」


 いつもより低い声だった。


「明日の朝、迎えに行く」

「子どもって、誰ですか」


 答えはなく、電話は切れた。かけ直しても沢井は出ない。


 陽菜ちゃん、とは沢井は言わなかった。二日目に長机の端で聞いた男の子のことを、一度だけ思い出した。あれは親戚の家にいて、届けは取り下げになっている。この八日間のあいだ、この町で子どもといえば一人のことだった。施設のことを持ちこんできた男が、捜索の人らにと言ってパンと水を買い、朝になったら子どもに会わせると言っている。


 野口は長谷部に電話をかけ、沢井に言われたことをそのまま伝えた。


 その夜、千坂の病院から電話がかかってきた。母が倒れた、という。


 雨は横から降っていた。借りていた車で国道を千坂へ走った。ワイパーが追いつかず、何度も路肩に寄せて風がゆるむのを待った。倒れた木が片側の車線をふさいでいるところでは、雨合羽を着た警察官が赤い棒を振っていた。ラジオは台風が夜のうちに沿岸を抜ける見込みだと繰り返している。


 夜中に病院に着くと、救急の入口の長椅子に向かいの家の主人が座っていた。ゴムの合羽を着たままで、足もとに水がたまっている。


「雨戸を閉めてやろうと思って行ったら、台所で倒れてたんだ」


 母は個室のベッドで眠っていて、呼んでも目を開けない。朝まで様子を見ましょう、と当直の医者が言った。廊下に戻って礼を言うと、向かいの主人は、なんも、と言って合羽のフードをかぶり直した。


 廊下の端の窓の前で、沢井の番号にかけた。呼び出し音が続いて、留守番電話に切りかわった。野口です、朝、行けなくなるかもしれません、また電話します、と吹きこんだ。ベッドの横の椅子に戻り、窓を叩く雨を聞いた。布団の上に出ている母の手の甲に点滴の管がテープで留めてあった。


 明け方。雨の音が弱くなったころ、母は息をしなくなった。


 沢井と約束した朝だった。鳴磯までは二時間かかる。たたんだ母のエプロンをビニールの袋に入れて渡され、書類を書いているうちに廊下の時計は八時を回っていた。携帯に沢井からの着信はなかった。


 待合室のテレビが、台風の過ぎた浜を映している。青い空の下に、無事保護、の字が出た。浜の番屋の前で、大槻が毛布にくるまれた陽菜を抱きしめている。捜索隊の男たちがまわりを囲み、誰かが拍手をしていた。陽菜の顔は大槻の肩に埋まっていて見えない。毛布の端から両足が出ていた。白い靴下を履いていた。


 待合室の誰かが、よかったねえ、とつぶやいた。


 昼のニュースが続きを伝えた。陽菜が見つかった番屋に数日前から食べ物を運んでいた男がいて、警察がその男から話を聴いている。名前は出なかった。病院の玄関を出て、沢井の番号にかけた。留守番電話の声が、ゆうべと同じ文句を繰り返した。


 母の葬式は、千坂の寺で出した。受付には向かいの主人が立ち、香典の袋を一つずつ数えている。祭壇の脇に白い菊の供花が一つ届いていた。札に、社会福祉法人鳴磯福祉会、とある。誰が知らせたのかはわからなかった。


 葬式のあと、借りていた車で鳴磯の民宿へ荷物を取りに戻った。奥さんは野口の鞄とたたんだ着替えを帳場に出しておいてくれて、台風の晩の分の宿代は受け取ってくれなかった。


「番屋さ食べ物運んでたの、沢井さんだって。港の」


 奥さんは声を落として、それ以上は言わない。漁港の前の食堂に沢井は来ていなかった。携帯にかけても、呼び出し音しか聞こえない。男の名前は最後まで報道に出ず、逮捕されることもなかった。


 東京に戻ると、施設の取材の経緯を一枚にまとめて編集長に出した。一週間ほどして、長谷部がデスクの席に戻ってきた。午前中は編集長の部屋に入っていて、出てくると、始末書を一枚書いた、とだけ隣のデスクに言った。昼すぎ、長谷部は野口の机の横で足を止めた。


「お袋さん、大変だったな」


 野口は席を立ち、長谷部について非常階段の踊り場へ出た。


「沢井さんの電話のことで、刑事は一度も来ていません。千坂にも、ここにも」


 長谷部は手すりに肘をついて、下の通りを見ていた。


「お義父さんから警察に伝わってる。お前の名前は出すなと。俺が頼んだ」

「電話を受けたのは、私です」

「施設を嗅ぎ回ってた記者が、誘拐の疑いのかかった男から電話をもらってた。そう書かれたら、お前は終わりだ」


 下の通りで、トラックがクラクションを鳴らした。


「沢井さんは」

「警察が話を聴いてる。あとは警察の仕事だ」


 長谷部は耳の赤ペンを抜いて、指のあいだで回した。


「陽菜は何も話さない。これ以上、あの子のことを掘り返さないでくれ。施設の件も、もういい。父親として頼む」


 返事を待たずに、長谷部は重いドアを引いて中へ戻った。


 野口は踊り場に残った。警察が、電話を受けた本人に一度も話を聞かないことがあるのか。沢井の番号には、ゆうべもかけている。呼び出し音が鳴るだけだった。


 その夜、施設の取材の手帳の終わりのページに、八日目の夕方の電話の時刻と沢井に言われたことを書いた。その下に、長谷部さんへ、とだけ書き足した。手帳は、机のいちばん下の引き出しにしまった。

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