一章 雨の夜の乗客⑤
十一時近く、鳴磯の手前の町に入った。国道沿いの二階建ての古い旅館は看板の電球が半分切れていて、玄関の上の灯りだけがついている。
引き戸を開けると、帳場の奥から綿入れを羽織った女将が出てきた。七十に近いだろう。
「こんな晩に。どちらから」
「千坂から。何日か、泊めてもらえますか」
女将が開いた宿帳に名前と住所を書いた。宿帳を引き寄せて字を読んだ女将が野口の顔を見た。
「前にも、泊まったね」
「六年前に」
女将は、鍵の箱へ手を伸ばした。
「空いてますよ。この時期は、ほかにお客さんもいないから」
二階の角の六畳に通された。灯油ストーブと小さなテレビがあり、床の間に色の褪せた鯉の掛け軸が下がっている。窓は結露で曇って、外の雪は見えない。ストーブに火を入れて下へ降りた女将が、盆に椀を一つ載せて戻ってきた。
「残りものだけど。冷えたでしょう」
里芋と大根の汁だった。湯気の向こうで、女将がストーブの火の具合を見ている。礼を言うと、
「なんも」
女将はそれだけで階段を降りていった。
上着を壁の釘に掛け、ノートを座卓に置いた。袖で結露を拭くと国道の街灯の下を雪が斜めに流れていた。拭いたところは、すぐまた白く曇った。汁を飲んでからスマホの電源を入れた。不在着信が十一件。どれも知らない番号だ。留守番電話は聞かずに、矢代の番号にかけた。
「野口さん。どうしました、こんな時間に」
「家を出ました。宿に泊まっています」
町の名前と国道の番号を言うと、電話の向こうで書く音がした。
「ほかに、この場所を知ってる人は」
「いません」
「そうですか。……何かあったんですか」
「週刊誌から電話がありました。車内の映像を持っていると」
ペンを置く音がした。
「あの晩の、ですか」
「たぶん」
「……うちから出たとは、思いたくないですけどね。中を当たってみます。何かあったらこの番号に」
電話を切ると、風の音の中で低い音がずっと鳴っているのが聞こえた。宿の裏はすぐ浜で、六年前も夜はこの音がしていた。
上がってきた女将が押し入れから布団を出して敷き、足もとにタオルでくるんだものを入れた。
「湯たんぽ、入れときましたから。熱かったら、足で寄せて」
女将が降りてから布団をめくると、口金のまわりが錆びたブリキの湯たんぽだった。布団に入っても眠れない。国道を大型のトラックが通るたびに窓のガラスが細かく鳴り、遠ざかると海の音だけが残った。
朝、玄関の前で雪をかく音がした。下りていくと、毛糸の帽子を耳まで下ろした宿の主人が、角の丸くなったスコップで国道までの雪を寄せている。女将と同じくらいの年だ。物置の前に立てかけてあったもう一本を取って、野口は反対側から寄せはじめた。
主人は手を止めて野口を見たが、何も言わずにまた雪を寄せた。国道の端まで道をあけて、主人がスコップを突き立てて腰を伸ばしたところへ、除雪車が通りかかった。あけたばかりの入口に、また雪の塊が押しつけられた。
「毎朝これだもの」
主人は短く笑って、突き立てたスコップを抜いた。革靴にはすぐ雪が入り、終わるころには中の指が痛んでいた。
部屋のストーブの前で靴下を乾かしながら、座卓のノートを開いた。悠真のページの角が折れている。その前のページには、鉛筆で描いた浜の地図があった。海岸線に沿って国道と旧道が引かれ、岬の手前の小さな四角の横に、番屋、とある。ノートの終わりのほうには、六年前に会った人の名前と番号が、鉛筆とボールペンで罫線に沿って並んでいた。
沢井の名前もあった。番号の横に、小さな日付が三つ書きこんである。六年前の終わりに、かけても出なかった日だ。同じ番号が、いまもスマホの電話帳に沢井の名前で入っていて、十日あまり前の晩はそこから着信があった。
昼前に、宿の三軒先の金物屋のガラス戸を開けた。ゴムと灯油のにおいがする土間に、雪かきやゴムの長靴が並んでいる。壁の漁協の暦は、十月のページのままだった。奥でラジオが小さく鳴っている。
綿の入ったチョッキの老人が奥から出てきて、長靴を、と言った野口の濡れた革靴に目を落とした。
「何センチ」
「二十七です」
棚から下ろした箱は二つで、足首までのものと膝の下まであるもの。老人は長いほうを押し出した。
「雪、深くなるがら。こっちだべ」
その場で履き替えて、革靴は紙袋に入れてもらった。代金を受け取りながら、老人が訊いた。
「あんた前も来たな」
「はい」
「鳴磯さ行くのか」
「まだ、わかりません」
「そうか」
老人はレジの横のストーブの前に戻って、新聞を広げた。
昼すぎに雪がやんだ。宿の裏口を出て、物干し場の脇の踏み固められた細い道を下りると、波の届くところまで雪に覆われた砂浜に出た。長靴の底で雪が鳴った。雪の切れる線から先は砂が黒く濡れ、波が引くたびに細かい泡が残る。
海は灰色で、沖へ行くほど暗い。高い波が崩れるたびに、白いしぶきが風に乗って顔まで届いた。沖の雲の中で、雷が低く鳴った。間をおいて、もう一度鳴った。
波打ち際に、漁具の浮きや外国の字の入ったペットボトルが打ち上げられていた。ペットボトルを拾って字を読もうとしたが、どこの国の字なのかもわからない。もとの場所に置いた。
岬のほうへ歩くと、砂浜は小さな川の河口で切れた。茶色く濁った川の水が、海の灰色の中へ扇の形に広がっている。浜の端から、海岸線の先に鳴磯町の岬が黒く見えた。岬の手前に低い屋根がいくつか並んでいる。
宿の玄関で長靴の雪を落としていると、帳場から女将が顔を出した。
「浜さ行ったの」
「はい」
女将の目が足もとに落ちた。
「長靴、三軒先で買ったんだべ。あそこのじいさん、口が悪いでしょう」
「雪が深くなるから、こっちだ、と言われました」
女将は声を出さずに笑い、野口の提げた紙袋をのぞいた。濡れた革靴を見ると、黙って袋ごと帳場の奥へ持っていった。
一階の風呂は、タイル張りの湯船に三人も入ればいっぱいになる。湯気で曇った窓の向こうは見えない。洗い場に重ねた黄色い桶。棚に並ぶシャンプーやボディソープは底に刷った名前がほとんど消えていた。湯につかると、海の音がタイルの壁にこもって聞こえる。
風呂から上がると、帳場の奥の茶の間の戸が細く開いていた。クイズの番組がついていて、主人は座ったまま首を前に垂れて眠っている。その横のこたつで、女将が洗濯物をたたんでいた。ストーブの前の新聞紙の上に、丸めた新聞を詰めた野口の革靴が並んでいる。
「あったまっていきなさい。湯冷めするから」
こたつの角に足を入れた。クイズが終わって七時のニュースになるとすぐに千坂の火事について話し始めた。十歳の陽菜の写真のあとに、大学の知り合いだという女の子の首から下が映った。
「おとなしい子で。誰かを恨むような子には、見えなかったです」
タオルをたたむ女将の手が止まっていた。
「かわいそうに」
誰のことなのか、野口にはわからない。女将はタオルを重ねて、次の一枚を取った。
「六年前も、この子のことで来てたんだべ」
画面を見たままだった。
「はい」
女将はうなずいただけだった。主人が首を起こして画面を見て、また目を閉じた。天気予報になったところで、野口は礼を言ってこたつを出た。
部屋に戻ると、火曜の記者から短いメッセージが届いていた。明日発売です、改めてコメントをいただければ、とある。返信欄に、コメントは差し控えます、と打ちかけて消し、メッセージも消した。
日付が変わる少し前に、スマホが鳴った。画面に長谷部の名前が出ている。座卓に置いたまま、鳴りやむまで出なかった。留守番電話には何も残っていなかった。
六時前に目が覚めた。外はまだ暗く、海の音が続いている。顔を洗いに下りていくと、茶の間で主人がこたつに入って新聞を読んでいた。野口に気づいた主人は、新聞をたたんで座布団の横に置いた。帳場の隅の革靴は、指で押すと中まで乾いていた。
部屋に戻って八時にテレビをつけると、ワイドショーが最初にその記事を取り上げている。週刊誌の表紙が画面いっぱいに映った。見出しの赤い字が、表紙の半分を占めている。
捏造記者、陽菜さんを連れ回す
その脇にひとまわり小さな字で、逃走費用を肩代わりか、と書かれている。司会者が開いたページには、車内の映像から抜き出した写真が並んでいた。後部座席の陽菜の、濡れた髪と閉じた目。からし色のジャンパーの袖とサンダルの足もとを大きくした写真もある。隣には、どこかの集まりで撮られた男の写真が並べてある。男もからし色のジャンパーを着ている。写真の下には、死亡した沢井達也さん(知人提供)とあった。
「殺された男性の上着を着て、逃げていたということになりますね」
司会者が言うと、コメンテーターの一人が、上着を借りるような間柄だったんでしょう、と続けた。
次のページには、メーターの写真とトレイに置かれた二枚の一万円札の写真がある。その下に日報の写しが載っていて、行き先の「鳴磯方面 道の駅」と金額の「四万三千九百二十円」に赤い丸がついていた。運転者の欄には、黒い帯がかかっている。
「つまりですね、二万円しか払っていないのに、会社には全額が入っている。差額の二万三千九百二十円は、運転手が自分の財布から出した、ということなんです」
記事によると、この運転手は六年前に記事の捏造を疑われて会社を追われた元記者だということです、と司会者が続けた。画面の隅に、六年前の雑誌の表紙が小さく映った。野口の記事を載せ、取り下げて詫びた雑誌だ。司会者は手もとの紙を見ながら、その記事のことを短く読んだ。十年前に陽菜さんが見つかった浜の番屋に、もう一人の子どもの名前が彫られていた、という記事で、当時、その彫り跡は記者自身が彫ったものではないかという声が出て、掲載した雑誌は記事を取り下げている。
「逃走を手伝ったということになると、これは運転手さんも、ただでは済まないでしょうね」
コメンテーターがそう言うあいだに、画面が千坂のタクシー会社の前に切り替わった。看板にはぼかしが入っていても、車庫の屋根の形と洗車場の柱でわかった。マイクを持った女が、運転手は現在出勤していないということです、と伝え、画面は住宅街に移った。見覚えのある坂だった。坂の上の家の門の前に、カメラを持った人が何人も立っている。門柱の脇に、向かいの老人が立てた梅の雪吊りの竹が見えた。竹の先から、新しい縄が白く垂れている。
テレビを消して、スマホは部屋に置いたまま長靴で町の入口のコンビニまで歩いた。雑誌の棚には、その号が何冊も差してある。隣の段の古巣の週刊誌は、表紙のどこにも千坂の火事のことを書いていなかった。レジには作業着の男が二人、同じ号を一冊ずつ持って並んでいる。一冊抜いて開くと、テレビで見た写真が粗い粒で刷られていた。後部座席の写真が何枚か続いて、最後の一枚がトレイの上の二枚の一万円札だった。札を置いたあと、陽菜はドアのほうへ体を寄せ、野口は助手席の足もとの傘を後ろへ差し出している。写真は、その手前で終わっていた。ページを戻して最後の写真をもう一度見てから、棚に戻した。
宿に戻ると、帳場のテレビで別の局が同じ雑誌の表紙を映していた。座布団に座って伝票の束を膝に載せていた女将が、戸を閉める音に顔を上げた。野口を見て、テレビを見て、女将はリモコンを取った。画面が古い時代劇の再放送になった。リモコンを置くと、女将はまた伝票をめくりはじめた。
長靴を脱いで階段を上る途中で、柱の振り子時計が九時を打った。
部屋で、置いていったスマホが鳴っていた。所長からだ。
「野口さん、今どこ」
「千坂の外です」
「そう。うちの前にもね、朝からテレビが来てて。お客さんが入れないんだよ」
所長は黙った。
「火曜の休みの話だけどね。会社としては、しばらく乗務停止ってことにさせてもらう。本社がそう言ってる。わかるよね」
「はい」
「家のほうにも、来てるんでしょ」
「テレビで見ました」
「何かあったら連絡するから。電話には出てよ」
ため息のあとで、電話は切れた。
昼すぎには遠藤からかかってきた。大変だね、を三回言ってから、会社の前の駐車場に中継車が二台停まっていて、客の車が入れずに所長が怒っている、と遠藤は話した。
「岸本さんなんか、朝から電話に出っぱなしだよ」
それから声を落とした。
「あの映像、誰が出したんだろうね」
答えずにいると、遠藤は、まあ、体に気をつけて、と言って電話を切った。
自分の名前を検索窓に打ちこむと、打ち終える前に続きの言葉が並んだ。捏造、タクシー、陽菜。陽菜の名前が出た日と同じだった。誰かが六年前の記事の見出しを貼ると、あとはその話ばかりになった。門の前から撮った坂の上の家の写真もあって、梅の雪吊りの竹が写っている。その下に、町の名前と番地の途中までが書いてあった。
午後、帳場へ下りて、一週間分を先に払いたいと言った。
「帰るときでいい」
女将は伝票から顔を上げない。財布を出したまま立っていると、今度は顔を上げた。
「帰るときで、いいから」
玄関の前で、主人が梯子を立てていた。看板の切れた電球を替えるらしい。外へ出て、黙って梯子の脚を押さえた。主人は一つ替えるたびに下を見て、押さえているのを確かめてから次に手を伸ばした。三つ替えてスイッチを入れると、昼の光の中で、看板の字がぜんぶ白く灯った。下りてきた主人は看板を見上げ、短くうなずいて、梯子を物置へ運んでいった。
窓の下の看板に灯りが入ると、間もなく矢代から電話があった。名乗った声が、いつもより低い。
「野口さん。念のため訊いときますけど、あの映像、どこかに売ったりしてませんよね」
「売っていません」
息を吐く音がした。
「ですよね。いや、上から訊いとけって言われてて」紙をめくる音がした。「運賃の足りない分の話、あれ、会社のほうだと誰が知ってます?」
窓の結露が、ガラスの下のほうで何本も筋になって伝っている。
映像も日報の写しも、警察と会社にしかない。警察から出たのなら、矢代はこんな訊き方はしない。
「日報は、事務所の誰でも見られますから」
「そうですか」矢代は少し黙った。「野口さん、ほかに何か言っとくことは」
「いまは、特に」
「そうですか。……寒いでしょう、そっちは。海のそばだから」
「ええ」
「気をつけて」
電話が切れてから、また雪が降りはじめた。廊下に、女将が灯油を足したポリタンクを置いていってくれている。ストーブに注いで、ポリタンクを廊下に戻した。
十時を過ぎて、また長谷部の名前が画面に出た。呼び出し音は切れずに続いた。しばらく見てから、通話ボタンを押した。
「野口か」
少し鼻にかかった低い声は、六年前、載せない、と言ったときと変わっていなかった。
どちらも黙っていた。向こうは編集部にいるらしく、遠くで誰かが電話に出る声と、コピー機の音がした。
「読んだ。……あそこは変わらないな。六年前もああだった」
「はい」
「あれ、売ったやつに心当たりはあるか」
「わかりません」
「そうか」
間があった。
「あいつは、何か言ってたか」
「何も。ほとんど眠っていました」
「そうか」
向こうで誰かが長谷部を呼び、送話口を手で押さえる気配がした。
「うちはこの件、何も書かない。俺がそう決めた。……お前が書くなら、うちで書け」
「書くとは、言っていません」
「書くさ。お前は」
電話はそこで切れた。スマホを畳の上に伏せた。




