一章 雨の夜の乗客④
予備の車のラジオは、選局のつまみが固い。十時のニュースはそのラジオで聞いた。
「警察は、この部屋に住む大学生の長谷部陽菜さんが、事件について何らかの事情を知っているとみて、重要参考人として行方を捜しています。捜査関係者によりますと、死亡した沢井達也さんは十年前に陽菜さんが行方不明になった際、警察から事情を聴かれていたということです。県警は慎重に裏付けを進めるとしています」
つまみから手を離すと、上着の内ポケットのノートの角が裏地越しに当たった。
忘年会帰りの男女が乗ってきた。女のほうが、マフラーをほどきながら話しだした。
「あの陽菜ちゃんの事件。十年前に自分をさらった男を自分でやったんだって。テレビで言ってた」
「まだ、あの子が犯人かわかってないんじゃないの」
「いやいや、自分の家だよ?やってるよ」
男は笑って、窓の曇りを手で拭いた。
「でもさ、十年も黙ってたわけでしょ。なんかあるって、絶対」
川向こうの集合住宅の前で降りるとき、女はドアが閉まる前に振り返った。
「運転手さんも道、滑るから気をつけてね」
二時のコンビニの駐車場は、出入り口のところだけ雪がかいてあって、黒いアスファルトが見えていた。運転席で缶コーヒーを開けて、塩むすびの包みをはがした。フロントガラスに、また細い雪が落ちはじめていた。
◇
土曜は昼すぎまで眠った。居間のストーブに火を入れてテレビをつけると、ワイドショーがまだ火事の事件について話している。
画面の右上には、「重要参考人」の字が表示されたままだ。司会者が新聞を手に、捜査関係者によると、と読み上げた。亡くなった沢井は十年前に陽菜さんが行方不明になったとき、警察から話を聴かれていた。
「十年たって、また同じ部屋にいたわけですからね。何もなかったとは、ちょっと考えにくい」
男のコメンテーターが言うと、隣の女のコメンテーターが深くうなずいた。千坂の地図が映り、アパートの場所に赤い印がついた。陽菜さんの父親は東京の出版社で週刊誌の編集長をしていて、これまでの取材には応じていない、と司会者が付け加えた。雑誌の名前は出なかった。六年前まで、野口もそこに所属していた。
郵便受けに、向かいから回ってきた回覧板が差しこんであった。青い表紙のバインダーに、除雪の当番表と年末の夜回りのお知らせが挟んである。名簿の自分の欄に判を押して、隣の家の郵便受けへ回した。
その晩は、客の話もラジオも昼のテレビと同じことを言っていた。住宅街の角で両手を振って車を止めた若い男は、乗りこむなり産院の名前を言った。
「生まれそうなんです」
奥さんは親の車で先に行ったらしい。男は膝の上で手を組んではほどき、信号で止まるたびにその先の信号の色を見ている。産院の前に着くと、千円札を三枚置いて釣りも待たずに走っていった。
日曜は公休だった。昼前に母の軽の屋根の雪を払い、母が冬のあいだ積んでいた柄の短いスコップと古い毛布を物置から出して後ろの座席の足もとに入れた。タイヤは十一月のはじめに冬用に替えてある。乗らない車のタイヤを野口は毎年替えていた。キーを回すと、セルが一度回ってエンジンがかかった。暖房が効いてくるのを待たずに坂を下る。
坂の下のガソリンスタンドで、先週灯油を入れてくれた女が事務所から出てきた。首には今日も手ぬぐいを巻いている。
「満タンで」
「はい」
ノズルを差しこんだ女が、車の屋根と野口の顔を見比べた。
「これ、坂の上の奥さんの車でしょう」
「はい」
「そう」女は数字の回る機械に目をやった。「まだ動くんだね」
女はそれ以上訊かずに、柄の長いスポンジでフロントガラスに残った雪解けの筋を拭った。代金を受け取ると、気をつけて、とだけ言って事務所へ戻っていった。
◇
国道をひと走りしたら戻るつもりだった。いつものコンビニの前を過ぎた。昼の駐車場は車で埋まっていた。市街を抜けても、野口は引き返さなかった。郊外の大型店と除雪車の車庫を過ぎると、田んぼの中の一本道に車の轍が二本続いている。
山あいの道に入ると、両側の杉が近くなった。あの夜は雨で、ほとんど何も見えなかった。昼の光の中で見る道は、思っていたより細い。トンネルを抜け、国道が二手に分かれるところでハンドルを左に切った。三つ目の信号を右に入ると、道が海に寄る。灰色の海の沖に、白い波頭がいくつも立っていた。
昼の道の駅には車が五、六台停まっている。物産館ののぼりは風に巻かれて竿に貼りつき、窓の紙には、冬期は午後四時まで、とあった。トイレの棟の前に車を寄せた。あの日、メーターを止めたのもこのあたりだ。
自販機で缶コーヒーを買い、物産館の戸を引いた。干した魚のにおいが、暖房の熱と一緒に出てきた。レジの奥で編み物をしている年配の女が壁の高いところのテレビに一度だけ顔を向けた。千坂の火事のニュースだった。編み棒は、すぐにまた動きだした。
何も買わずに外へ出た。缶コーヒーをポケットに入れたまま、駐車場の出口へ歩いた。灯りの消えた常夜灯の柱の上に雪が載っていた。その先が旧道で、入口の色の褪せた青い標識に、鳴磯 8km、とある。
旧道を歩いた。海側のガードレールの向こう、崖の下で波が砕けている。路肩には除雪車の寄せた雪が膝の高さまで積み上がり、車の通るところだけが黒く濡れていた。革靴に、すぐ水がしみてきた。山側のバス停の小屋はトタン屋根に雪を厚く載せていた。時刻表の鳴磯行きは一日に四本で、朝の一本目は七時を過ぎてからだ。
あの夜、陽菜はこの道をサンダルで歩いていった。雨は明け方まで降っていた。鳴磯までは、標識のとおりなら八キロある。
十分ほど歩いて、足を止めた。カーブの先で道は崖に隠れている。
陽菜は、野口が毎晩休むコンビニにいつもの時間にやって来た。その晩の九時に沢井は、陽菜ちゃんと一緒に全部渡しに行く、と留守電に残している。市街を抜けたあたりで陽菜は一度、何か言いかけてやめた。降りたあとにはあの子供の名札が残っていた。
陽菜は、野口のところへ来たのではないか。
それなのに、何も訊かずに道の駅で降ろした。残っていた名札はもう警察に渡してしまった。
海からの風が、ガードレール上の雪を巻き上げていた。来た道を戻るあいだに、濡れた革靴の中で指の先が冷える。千坂へ向かう国道で、鳴磯のほうへ走るパトカーとすれ違った。
千坂に戻って、いつものコンビニの駐車場のいつもの場所に車を入れた。ポケットの缶コーヒーはもう冷えていた。あの夜、陽菜が窓を叩いたあたりを、買い物袋を提げた親子が通った。子どもが水たまりの氷を踏んで割り、母親に手を引っぱられた。
月曜は五時半に営業所へ出た。運行管理のデスクで岸本が予備の車の鍵を出した。
「野口さん」
鍵を渡しながら、岸本が声を落とした。所長は奥の机で電話をしている。
「あの晩の映像さ。警察、何か言ってた?」
「カメラのほうも見た、と言っていました」
「見たって、全部?」
「そこまでは聞いていません」
「そう」岸本は眼鏡を額に上げて、また下ろした。「いや、うちのほうにも何か訊かれるかと思ってさ。控え、取ってるから」
それだけ言って、岸本は画面に戻った。車庫の予備の車は昼間の雪をフロントガラスに薄く載せていた。
九時を過ぎると客が途切れた。営業所に車を入れて、休憩室で日報の数字を足した。
休憩室は事務所の奥の六畳ほどの部屋で、真ん中に石油ファンヒーターが一台ある。壁際の長机には、誰かの持ちこんだ週刊誌が紐でくくって積んであった。窓の下の将棋盤では駒が指しかけのまま並んでいて、誰と誰の勝負なのかを野口は知らない。盤の横には、負けたほうが片づけること、と書いた紙が貼ってあり、黄ばんだセロハンテープの上から誰かが画鋲を一つ足していた。
ファンヒーターの前で、遠藤がほかの運転手二人を相手に缶のお汁粉を両手で包んで何かの話をしている。
「だからさ、祝いの晩だよ。十一時半ごろ。大通りで手を挙げた爺さんがいてさ。普段着で、革の手袋して。乗せたら、どっかで見た顔なんだ」
「誰よ」
「叙勲の先生」
二人が笑った。遠藤は缶を振って、底の粒を飲もうとした。
「ほんとだって。春にテレビで勲章もらってるの見たもん。夜中にさ、叙勲の先生を乗せたんだよ。サインもらっときゃよかった」
「どこまで乗せたの」
「近く。ワンメーターちょっと。すぐ降りた」
野口は数字を足しながら聞いていた。遠藤の話は、休憩室を一回りするたびに大きくなる。半分開いた戸の向こうで、岸本が画面に顔を寄せたまま、キーを打つ手を止めていた。話が別のことに移ると、またキーの音がしはじめた。
祝いの晩、と遠藤は言った。あの晩の十一時すぎに、のしのかかった箱を提げた二人連れを駅前のホテルまで乗せている。叙勲の先生の顔は、陽菜の名前が出た日の昼にテレビで見た。陽菜の祖父だった。日報の余白に、ボールペンで小さく書いた。祝いの晩、十一時半、大通り、普段着、革の手袋、近く。
日報を閉じて立つと、遠藤がこっちを向いた。
「そういや野口さん。あの晩、鳴磯まで行ってたよね」
ほかの二人の目も、野口に向いた。
「まさか、あれ」
遠藤は、そこで口をつぐんだ。
「警察には話してある」
「そっか。そうだよな」遠藤は自分の膝を一つ叩いた。ほかの二人は将棋盤のほうへ目をそらした。
運行管理のデスクの前を通ると、岸本が画面を見たまま声をかけてきた。
「野口さん。車、いつ返ってくるって?」
「年内には、と」
「そう。年内ね」
岸本は壁の配車表に目をやって、画面に戻った。戸の向こうで、遠藤がまた笑っている。野口はボールペンを胸のポケットに差した。
火曜の夕方、二件目の客を降ろしたところで上着のポケットのスマホが鳴った。知らない番号だ。路肩に寄せて出た。
「野口修さんでいらっしゃいますか」
若い男の声が、週刊誌の名前を名乗った。六年前に野口の記事を載せ、半年後に取り下げた雑誌だ。
「十一月二十九日の未明に、長谷部陽菜さんをタクシーに乗せていらっしゃいますよね。車内の映像を入手しておりまして、木曜発売の号に掲載する予定です。それに先立って、野口さんのコメントをいただければと」
野口は黙っていた。
「道の駅まで送られた経緯について、何か一言でも」
男の後ろで、誰かが電話をしている。キーボードを叩く音も聞こえる。六年前までは野口も、ああいう部屋から電話をかける側にいた。黙っていると、男がもう一度、野口さん、と呼んだ。通話を切った。すぐにまた鳴った。電源を切って、助手席に放った。
営業所へ車を向けた。朝から降ったりやんだりの雪が、ワイパーのたびにガラスの下へ寄っていく。
木曜に出る、と男は言った。あの夜の映像の何がどこまで写っているのかはわからない。名前を伏せたところで、六年前のことを覚えている人間はいるし、そうなればまた捏造記者という呼び名がついて回る。
信号で止まると、部活帰りらしい高校生が二人、自転車を押して横断歩道を渡っていった。
このままなら、また坂の上の家の門の前に人が並ぶだろう。向かいの老人が窓を開けたとたんにマイクが向けられたあの時のことを思い出す。どういうふうになるかは、六年前に経験している。
信号が青になってアクセルを踏んだ。名札のほかに沢井が何を渡すつもりだったのかは、わからない。
行くなら、鳴磯の隣町に古い宿がある。六年前に何度か泊まった国道沿いの宿で、帰りの遅い野口のために女将が玄関の鍵を開けておいてくれた。まだやっているかどうかはわからない。
大通りの手前で、空車の表示を見た女が手を挙げた。喪服の上に灰色のコートを着た年配の女で、行き先は郊外の葬祭場だった。膝の上で数珠の袋を握ったまま、窓の外を見ている。ワイパーの音だけが続いた。
「兄なの。八十二でね。みんな大往生だって言うのよ」
「そうですか」
女はそのまま黙った。葬祭場の玄関の灯りの下では、同じような黒い服の人たちが、傘に積もった雪を払っている。
「雪の日に、すみませんね」
降りぎわにそう言って、女はその中へ入っていった。表示を回送に切り替えて、営業所へ向かった。
着いたときには七時を過ぎていた。日報と売上の袋を持って事務所に入ると、奥の机で所長が書類に判を押していた。六十に近い男で、事務所の中でも紺のジャンパーを脱がない。眼鏡は鼻の先にかけている。運行管理のデスクには岸本がいて、無線の声が低く流れていた。
「早いね。具合でも悪いの」
「いえ。週刊誌から電話がありまして」
所長は判を持ったまま顔を上げた。
「木曜に出るそうです。あの夜の、車の中の映像を持っていると」
岸本のキーを打つ音が止まった。
「映像って、うちの?」
「警察に出した、あの晩のものだと思います」
「警察から漏れたってこと?そんなことあんの」
野口は答えなかった。所長は眼鏡を外して目頭を揉んだ。
「会社の名前も出るんだろうな、そうなると」
後ろで岸本の椅子が鳴り、湯呑みを持って給湯室のほうへ歩いていく足音がした。
「名前は、出るの。あんたの」
「出るとは言っていませんでした。ただ、六年前のことを覚えてる人はいますから」
「まあね。それはわかってて雇ったんだから、いいんだけどさ」所長は判を朱肉の上に置いた。「で、どうすんの」
「しばらく、休ませてもらえませんか。たぶん、家に人が来ます。ここにも来ると思うんです。私がいると、会社も、その、答えにくいでしょうから」
所長は黙ったまま、引き出しから綴じた紙を出してめくった。
「有給、けっこう残ってるね。使わないもんね、あんた」所長は紙を閉じた。「とりあえず今週は休みにしとく。あとのことは本社と相談する。木曜に何が出るか見てからだね」
「すみません」
「警察には、言ったの」
「これから言います」
所長はうなずくと、配車表の予備の車の番号の下から野口の札を外して、机に置いた。
「どこ行くの」
「千坂を、少し離れます」
「そう」所長はそれ以上は訊かなかった。「連絡だけは、つくようにしといて」
「電話には出ます」
日報と売上の袋を窓口の箱に入れ、タイムカードを押した。給湯室の戸の向こうで湯の沸く音がしていたが、岸本は出てこなかった。
家に帰ると旅行鞄に着替えを詰め、通帳と家の鍵束を底に入れた。鳴磯のノートは、先週の水曜から上着の内ポケットに入れたままにしてある。ストーブの火を消してタンクを抜き、流しの下の元栓を閉めた。冷蔵庫のものは、漬物の容器だけ残して捨てた。ふだん開けない奥の六畳にも、窓の鍵を確かめに一度だけ入った。母の鏡台には白い布がかけてある。靴箱の上の籠から軽の鍵を取ると、籠の底に母の字で「車」と書いた紙が敷いてあった。
軽の屋根には、夕方からの雪が積もっていた。手で払い、フロントガラスの雪は柄の短いブラシで落とした。
鞄を後ろに積んでいると、向かいの家の窓が開いて老人が顔を半分出した。
「どこさ行く」
「しばらく、留守にします」
老人の目が、野口の顔から庭の隅へ移った。母が植えた梅の枝に金曜の朝より重そうな雪が載っている。
「梅、雪吊りしとくか」
「お願いします」
老人はうなずいて窓を閉めかけ、もう一度開けた。
「屋根の雪も、降ったら見とくから」
「すみません」
窓が閉まった。エンジンは一度でかかった。暖房をいちばん上まで回しても、吹き出し口の風はなかなか温まらなかった。
国道に出ると、雪は本降りになった。前の車のテールランプについて走っていたが、市街を抜けたところでその車も脇道へ入り、あとは自分のライトの中に雪が降りこんでくるだけになった。トンネルの手前で、黄色い灯を回した除雪車とすれ違った。路肩に寄せて待つと、巻き上げられた雪でフロントガラスが真っ白になり、ワイパーが二度往復してようやく前が見えた。ラジオは山に入ったところで雑音になったので、切った。
国道が二手に分かれるところで、またハンドルを左に切る。あの雨の夜は、後ろの座席で陽菜が眠っていた。道の駅へ下りる信号は、そのまま通り過ぎた。




