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世界はあなたに焦がれている  作者: シロ


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3/19

一章 雨の夜の乗客②

 始発のバスは六時四十分だった。停留所の屋根の下で待つあいだに、雨は霧雨になった。バスには野口のほかに夜勤明けらしい作業着の男が二人乗っていて、二人とも窓に頭をつけて眠っていた。


 野口の家は終点の二つ手前の停留所から坂を五分上ったところにある。門を入ると庭の隅にブルーシートの山があった。シートの下は母の軽自動車で、たるんだところに冷たい雨水が溜まっている。野口はシートの端を持ち上げて水を落とした。


 玄関の鍵を開けて居間の灯油ストーブに火を入れた。母が使っていたストーブで、つまみの数字はもう読めない。やかんに水を汲み、天板に載せた。湯が沸くまでのあいだ台所の棚を眺めた。母の字でラベルを貼った瓶が並んでいる。塩、砂糖、だし、と書いた紙がどれも縁から黄ばんでいた。やかんが鳴りはじめると冷蔵庫から冷やご飯を出して茶碗に盛り、湯をかけた。塩の瓶だけを開けてひとつまみ振った。漬物の残りを添え、立ったまま食べる。


 内ポケットの布を出して居間のちゃぶ台に置いた後、布団を敷く。


 横になってスマホの目覚ましを合わせようとすると画面に通知が二つ並んでいた。


不在着信、沢井、二十一時四分。留守番電話、一件。


 野口は通知を開いて再生ボタンを押し、スマホを耳に当てた。ざらついた息づかいと、そのうしろで何かが小さく鳴る音が聞こえてくる。


「あー、野口さんか。沢井です」


 野口は画面に触れて音声を途中で切り、スマホを伏せて枕もとに置いた。


◇


 眠れなかった。ストーブの熱で、電灯から下がった紐の先の玉が揺れては止まった。隣の家で雨戸を開ける音がした。


 九時を過ぎて布団を出た。雨はやんでいる。縁側のガラス戸を開けて外へ出ると、向かいの家の庭で老人が雪囲いの縄を締め直していた。毎年、初雪の前になると一度ほどいて締め直す。老人は手を止めて野口のほうを見た。


「さびくなってきたな」

「んだな」


 老人はうなずいて、また縄締めに戻った。野口はガラス戸を閉めた。


 ストーブのやかんで茶を淹れて、テレビをつけた。昼のニュースは火事を二番目に伝えた。上空からの映像で、二階建てのアパートの一階の端の部屋が窓のまわりから黒く焼けている。真上の二階の窓も上の縁がすすけていた。焼け跡から男性とみられる一人の遺体が見つかったこと、現場から灯油が使われた形跡があり、警察が放火の疑いもあるとみて調べていることをアナウンサーは伝えていた。


「この部屋に住む大学生の長谷部陽菜さん、二十歳と連絡が取れていないということです」


 野口は湯呑みをちゃぶ台に戻した。茶はまだ半分残っている。スマホを取って電話帳を開いた。指で名前をたどっていくと、は行のところに長谷部の名前と番号が残っていた。六年、一度もかけていない番号だった。かけずに電話帳を閉じた。


 画面が切り替わってアパートの前の道が映った。規制のテープの向こうで消防の隊員が焼けた窓枠を外している。雨に濡れた路地に焦げた畳が何枚も立てかけてある。


 スマホを開くとニュースの見出しの下にもう何百もの書きこみが並んでいた。長谷部陽菜という名前と、二十歳という年齢から十年前のことを思い出した人がいた。そこから先の書きこみは、みんなその話になった。十年前の夏に鳴磯町で行方不明になり、九日目に見つかった女の子を書きこみは「陽菜ちゃん」と呼んでいた。全国が帰りを祈った、と書く人もいた。当時の写真を貼った書きこみが何度も繰り返されている。六年前の記事を持ち出す書きこみもあった。陽菜ちゃんのことで記事を書いて、捏造だと言われて消えた記者がいた、という書きこみで、その下に記者の名前を挙げた人もいた。野口はそこで画面を閉じた。


 一時を回るころにはテレビも同じことを言いはじめた。画面に十歳の陽菜の写真が出た。学校で撮ったらしい写真で、前髪をピンで留め、少し首をかしげて笑っている。続いて十年前の会見の映像が流れた。白髪の混じった男が長机の前で深く頭を下げている。下に字幕が出ていた。祖父・大槻恒夫さん(当時六十二)。男は顔を上げるとマイクに向かって「孫を無事に帰してほしい」と言った。声は低くところどころで途切れた。アナウンサーが大槻恒夫が鳴磯町で児童養護施設を長く運営してきたこと、この春に叙勲を受けたことを付け加えた。


 野口はリモコンを持ったまま画面の男の顔を見ていた。会見の映像は短くすぐに十歳の写真に戻った。チャンネルを替えても、どこも同じ写真を使っていた。


 ちゃぶ台の上の布を野口は手もとに引き寄せた。字を読み、端のほつれた糸を指でそろえてまた置いた。


 午後、短く眠った。目を覚ますと外はもう暗くなりかけている。


 スマホには昼よりも多くの書きこみが並んでいた。その中に写真を載せたものがいくつかあった。大学の知り合いだという人が載せ、すぐに消し、それを誰かが拾ってまた載せていた。五時のニュースはその写真を顔の部分だけ切り取って使った。


 居酒屋の座敷で撮ったらしい写真だった。何人かの若い女のうちの一人がグラスを持ったままカメラのほうへ顔を向きかけている。


 野口は写真を指で広げた。画面いっぱいになった顔の、目と唇の端と顎の線を見た。道の駅の手前で、ミラーの中で目を見開いていた女だった。


 テレビは写真の女性が長谷部陽菜だと報じていた。どの局もその顔写真を繰り返し映す。


 画面には、朝の留守番電話の通知がそのまま残っていた。沢井の名前を見て、野口は画面を戻した。


 居間の電灯の下で布にスマホのカメラを向けた。表を撮り、裏返してまた裏を撮った。裏には縫い目の跡に沿って糸の切れはしが残っていた。撮った写真を開いて字が読めることを確かめた。布を台所の引き出しから出した小さなビニール袋に入れ、上着の内ポケットにしまい、ストーブの火を消した。


◇


 千坂中央警察署へは千坂駅前行きのバスに乗る。日曜の夕方のバスは空いていて、買い物袋を提げた女と部活帰りらしい高校生が乗っているだけだった。窓の外でまた雨が降りだした。


 昼のテレビに映った通りの角に野口は見覚えがあった。客を何度も降ろした角だった。野口は署より三つ手前の停留所で降りた。


 大通りから一本入り、もう一本入ると通りの先に赤い光が回っていた。規制のテープがアパートの前の道を斜めに横切って張られている。テープの手前に傘を差した近所の人が何人か立っていた。離れた角にはテレビ局の名前の入った車が停まっている。


 焼けたにおいが雨の中にまだ残っていた。濡れた灰と溶けたものが混じったにおいだった。アパートの一階の端の部屋は窓のガラスがなくなって黒い穴になっていた。テープの内側で制服の警官が一人、傘も差さずに立っていた。


 野口は人の後ろを通って角を回った。アパートの裏手は車一台がやっと通れるほどの路地になっていた。路地にもテープが張られている。警察の投光器が一台、焼けた部屋の裏手を白く照らしていて、雨の筋がその光の中だけ見えた。テープの外から一階の端の部屋の裏側が見える。小さな窓があり、窓枠は外されて黒く焼けた壁の下に立てかけてあった。窓の下は腰の高さの柵で囲った狭いベランダで、物干し竿が一本、斜めに落ちかかっていた。柵の外側の地面に植木鉢が一つ倒れて割れ、土がこぼれていた。


 路地はその先で別の路地とつながり、さらに先で小さな公園の植えこみに突き当たっている。公園の向こうには国道の街灯が並んでいるのが見えた。国道に出て右へ行けば、野口がいつも休憩するコンビニがある。歩けば四十分かもう少しかかる。


 野口はしばらくテープの外に立っていた。路地の奥から警官が一人こちらを見た。野口は傘を傾けて来た道を戻った。大通りに出て停留所の屋根の下で次のバスを待った。乗ったバスは川に架かった橋を渡り、三つ目の停留所が署の前だった。


 玄関の自動ドアを入ると、受付の窓口に制服の警官が一人いる。野口は名前を言い「アパートの火事のことで話したいことがある」と伝えた。


「火事の夜に、住んでいた人を車に乗せたかもしれません。タクシーの運転手をしています」


 警官は電話の受話器を取った。短く何か話して受話器を置き、そこで少し待ってほしいと言った。


 長椅子に座って待った。壁の掲示板に交通安全の標語と、行方のわからない人を探すポスターが何枚も貼ってある。いちばん古いポスターは色が抜けて写真の顔が青っぽくなっていた。


 二十分ほどして奥の階段から男が下りてきた。紺のスーツにネクタイを緩めている。三十代の半ばくらいで、短く刈った髪の片側が寝癖のように立っていた。男は階段の下で野口の濡れた靴をちらっと見て、それから顔を見た。


「すみません、お待たせして。県警の矢代です。捜査一課」


 男は名刺を出した。県警本部刑事部捜査第一課、警部補、矢代亮介。


「日曜の夜に悪いですね。まぁ、こっちも日曜なんですけどね」


 二階の小さな部屋には机が一つと折りたたみの椅子が四つあった。矢代は自動販売機の缶コーヒーを二本持ってきて一本を野口の前に置き、手帳を出した。黒い手帳の表紙に子ども向けの小さなシールが一枚貼ってあった。動物の絵らしいシールで、角が一つはがれかけている。矢代は手帳を開く前にその角を親指で押さえた。


「で、乗せたかもしれない、というのは」


 野口は、二時すぎに国道沿いのいつものコンビニで彼女を乗せたところから話した。鳴磯町まで、高速は使わずに、と言われたこと。三時四十分ごろに道の駅で降ろしたこと。男物のからし色のジャンパーと、煙のにおい。矢代は手帳に書きながらときどき顔を上げた。


「足もとは、サンダルでしたっけ。どういうのです?」

「ベランダに置いておくような、プラスチックのです」

「色、覚えてます?」

「灰色だったと思います」

「かかとのあるやつですか」

「ないやつです。つっかけるだけの」

「じゃあ、素足でサンダルを?」

「靴下は履いてました。灰色の。濡れて黒くなってましたけど」

「他に何か特徴ありました?」

「泥が爪先に。乾いて白っぽくなりかけてました」

「靴底は……見てないですよね、さすがに」

「見ていません」

「ですよね。すいません、細かくて」


 矢代は一つ答えるたびに書いた。書くのが追いつかないと、ちょっと待ってくださいね、と言ってペンを走らせた。


「降りてから、どちらへ」

「駐車場の出口のほうへ向かってました」

「何か受け取ったり渡したりは」

「運賃として、二万円を受け取りました」

「メーターはいくらでした」

「四万三千九百二十円」

「……足りない分はどうしたんです」

「精算は済んでいます」


 矢代はペンの動きを止め、野口の顔をちらりと見た。それきり、そのことには触れなかった。


「……その二万の札は、いま手元に?」

「会社の窓口に出しました。もうほかの人の売上と一緒になっています」


 矢代は軽く眉をひそめた。


「誰が触ったかわからないお札の山に入っちゃったわけですね。指紋は、まあ無理か」


 矢代は手帳の次のページに移った。


「それと、話したいことがある、と受付で」


 野口は上着の内ポケットからビニール袋を出して机の上に置いた。


「明け方、洗車のときに後部座席の隙間から出てきました」


 矢代は袋を手に取り、袋ごと天井の蛍光灯にかざした。しばらくそのまま動かない。ポケットから白い手袋を出してはめ、布をつまみ出した。表と裏を交互に見ている。縫い目の跡に残った糸の切れはしを、爪の先で一本ずつ起こす。


「鳴磯小学校」


 矢代は字を読みあげたところで、手を止めた。


「名札、手書きなんですね。縫いつけるやつだ」


 矢代は布の縁を指の腹でなぞった。


「これ、ずいぶん洗ってありますね。洗濯機で何回も回してる。字がにじんでるのはそのせいか」矢代は布を裏返した。「あと、ここ。縫いつけてあったのを、引っぱって取ってますね。糸じゃなくて、布のほうが裂けてる」


 野口は黙っていた。


「三浦悠真」


 矢代は名前を読み上げ、野口のほうを見た。


「この名前に聞き覚えはありますか」

「いえ」野口は首を横に振った。「知りません」


 矢代は野口の顔をじっと見ていた。一呼吸おいて手帳に何か短く書きこむ。布を袋に戻し、口を閉じた。


「お預かりします。書類はあとで下で書いてもらいます」


 矢代は手帳のページを戻して最初のほうを見た。


「野口修さん」

「はい」

「前に、記者をされてましたね?」


 野口は答えなかった。矢代は手帳を閉じて表紙のシールの角を親指で押さえる。


「いや、すいません。名前見て、あれっと思って。六年前にうちのほうでも少し話題になったんですよ。あなたが書いたあの記事」

「そうですか」

「ええ」


 矢代は缶コーヒーを開けて一口飲んだ。


「車にカメラはついてます?」

「ついています。朝、保存ボタンを押しました」

「保存ボタン」

「24時間前までのドライブレコーダーの映像を会社のPCに送るボタンです。客とのあいだで何かあったら押すことになっているので」


 矢代は野口の顔を見た。「そうですか」と言って、また手帳を開く。


「車は昨日の夜からそのままですか」

「明け方に洗って拭きました」


 矢代は手帳から顔を上げ、目を細めた。


「洗った。車内もですか」

「いえ、外装の泥をホースで落として、シートを軽く拭いただけです。その他は特に触っていません」


 矢代はペンを持ったまま、しばらく野口の目を探るように見ていた。


「その車、当分は使わないでもらえますか」

「わかりました」

「会社のほうに正式にお願いすることになります。映像を出してもらう。今夜のうちに誰か行かせますから、会社の人に話を通しておいてもらえますか」

「わかりました」


 下の窓口で名札を預けるための書類を書いた。氏名と住所と預けるものの名前を書く欄がある。野口は「布製の名札 一枚」と書いた。矢代は書類を受け取って野口の字を読み、控えを一枚ちぎって渡した。


「また、お話を聞かせてもらうことがあると思います」


 矢代はそう言って自動ドアのところまで送ってきた。外は本降りになっている。


「傘、あります?」

「あります」


 野口は折りたたみの傘を開いた。矢代は軽く手を挙げて署の中へ戻っていった。


 九時を回って会社の営業所に着いた。日曜の夜の事務所には運行管理のデスクに岸本が一人で座っていて、無線の声が低く流れている。岸本は四十をいくつか過ぎた男で、灰色のカーディガンの袖をまくり、パソコンの画面に顔を寄せていた。机の端に、窓のついた封筒が何通か、封を切らないまま重ねてある。窓口の脇に誰かが置いていった温泉の土産の菓子箱があって、蓋の上に「ご自由に」と書いた紙が載っていた。中身は二つしか残っていない。野口が警察の話をすると岸本は眼鏡を額に上げた。


「保存ボタン押したの、野口さんか。朝、記録に残ってたから何かと思ったよ」

「すみません」

「いや、いいんだけど。決まりだし」


 十時少し前に刑事が一人来た。矢代より若く、濡れた傘を入口の傘立てに差してから身分証を見せた。任意提出のお願いです、と言って書類を一枚、岸本の机に置いた。


 岸本は書類を読み、車の番号と日付を書き込む。引き出しの中に乱雑に置かれているSDカードを一つ、パソコンに差しこんだ。画面に、日付と時刻のついたファイルが並ぶ。


「お渡しする前に、うちのほうで控えを一本取らせてもらいますね。あとで何をお渡ししたかって話になったときに、会社に何も残ってないと困るんで」


 刑事はうなずいた。岸本は引き出しからUSBメモリを出して挿し、二十八日の夜から二十九日の朝までのファイルを選んでコピーした。コピーしているあいだ、画面の進み具合を見ながら指で机を叩いている。終わるとSDカードを抜いて刑事に渡した。刑事はそれを封筒に入れて封をし、封の上に岸本と自分の名前を書いた。


「それと、その日の日報の写しを」


 岸本は棚のファイルから野口の日報を抜き、コピー機にかけた。刑事は写しを受け取ると一枚ずつ目を通して鞄にしまった。


「あと車両ですが、鑑識に回すので本署へ運びます。後ほどレッカーが来ますので、立ち会いをお願いできますか」

「え、車持っていくの」


 岸本はパソコンから顔を上げ、野口と刑事の顔を交互に見る。


「困るなあ。どれくらいかかります?」

「捜査の進展次第ですので、なんとも」


 岸本は壁の配車表を見た。並んだ磁石の札を指で弾くようにして数え、一つ大きなため息をつく。


「野口さんの車、明日の昼日勤からまた使う予定なんだけど。シフト組み直しだよ」


 刑事は「ご協力をお願いします」とだけ言って、頭を下げた。


 岸本が懐中電灯を持って立ち、刑事と二人で車庫へ出ていった。野口は事務所の窓から、二人が野口の車のまわりを歩くのを見ていた。刑事は懐中電灯で車内を照らし、ドアの隙間やタイヤハウスの泥を念入りに確認している。やがて刑事は鞄から黄色いテープを出し、四つのドアとトランクを封をするように貼りつけていった。


 ダッシュボードのカメラは、後部座席の客を斜め前から捉えるようになっている。あの暗さの中で、窓のほうを向いて眠っていた陽菜の顔がどこまで映っているかはわからない。はっきり映っていなければいい、と野口は思った。


 戻ってきた岸本は、控えのUSBメモリにラベルを貼った。ボールペンで日付と車の番号を書き、引き出しの奥にしまった。刑事がレッカーを待つために再び外へ出ていくと、岸本は菓子箱に手を伸ばして二つ残っていたうちの一つを取った。


「事件の車両になっちゃうと、戻ってきても嫌がる人いるんだよね。あの陽菜ちゃんでしょ。テレビ、ずっとやってる」


 岸本は包み紙を剥きながら言った。配車表の野口が乗っていた車の番号の下から、明日の日勤の運転手の名札を無造作に外す。野口は「お先に」と言って、タイムカードの棚の前を通って事務所を出た。


 外は雨が強くなっていた。営業所の前の駐車場に警察のレッカー車が入ってくるのとすれ違いに、野口はバス停のほうへ歩いた。


 帰りに窓を開けて煙の匂いを逃がしたつもりでも、布のシートには、まだあの焚き火のようなにおいが残っているはずだ。鑑識が車のドアを開ければ、すぐに気づくだろう。


 野口は自分の折りたたみ傘を開いた。頭上で弾ける雨の音を聞きながら、柄に会社名を刷ったあの黒い傘のことを思った。


 上着の内ポケットに手を入れると、名札を預けた控えの紙が指に触れた。

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