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世界はあなたに焦がれている  作者: シロ


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2/19

一章 雨の夜の乗客①

 その夜、彼は亡霊と出会った。


 十一時を過ぎたころ、繁華街の角で手を挙げた二人連れはどちらも同じ紺色の紙袋を提げていた。袋の口からのしのかかった箱の角がのぞいている。


 後部座席に座ると年上のほうが「いい会だった」と言い、もう一人がうなずいた。年上のほうが「刺身が多すぎて肉まで箸が届かなかったよ」とこぼすと、もう一人が「あの舟盛りだけで腹いっぱいでしたからね」と笑う。野口は行き先だけを聞き、メーターを入れた。


 駅前のホテルまでは信号を四つ越えるだけだった。二人は紙袋を膝に載せ、なおも料理の話を続けている。


「運転手さん、こういう会に出ることある?」


 年上のほうがミラー越しに聞いた。


「いえ」

「そう。肩が凝るよ、ああいうのは」


 野口はうなずいてウインカーを出した。ホテルの車寄せで二人を降ろすと、年上のほうが紙袋を持ち直して「釣りはいい」と言い、千円札を一枚差し出した。メーターは九百六十円だった。


 ほどなくして雨脚が強まった。繁華街の通りは傘を差した人と上着を頭にかぶって走る人で混みあった。野口は駅の東口の乗り場に並んだ。前に七台いる。一台ずつ前へ詰めていくあいだにワイパーを止めた窓が曇り、野口は袖で内側を拭った。


 零時を少し回って乗り場の先頭に出た。若い男が乗ってきて、スマホの画面を見せながら住所を言った。男は着くまで画面から目を離さず、降りるときに千二百円をちょうどで置いていった。


 零時半を過ぎたころ、川沿いの通りの信号で止まっているとサイレンの音が後ろから近づいてきた。消防車が続けて交差点を抜け、赤い光を雨に散らしながら住宅街のほうへ曲がっていく。救急車があとに続いた。信号が青に変わると、野口は反対の方角へハンドルを切った。


 一時を回ると通りから人が消えた。駅の乗り場に戻ると並んでいる車は十台を超えている。野口は列を離れ、空車の表示のまま市街の外側をゆっくり回った。


 一時四十分に路肩へ車を寄せ、日報を開いた。夕方六時から書きこんだ数字が九つ並んでいる。下の欄で足し算をすると一万三百六十円だった。野口はボールペンをバインダーに差し、車を出した。


 午前二時を回ったところで、野口はいつものコンビニの駐車場に車を入れた。表示を回送に切り替え、エンジンはかけたままにしておく。ワイパーを止めるとフロントガラスはすぐに雨でにじんだ。雨は夕方から降りつづいていた。十一月も終わりになってときどき白い粒が混じるようになっている。外の気温の表示は五度だった。店の明かりが濡れたアスファルトに伸びて駐車場の白線を隠している。


 店に入り、缶コーヒーと塩むすびを持ってレジへ行く。若い店員は野口の顔を見るとレジ袋に伸ばしかけた手を止めた。


「袋、いいですよね」

「うん」


 店員はバーコードを読んで、缶と塩むすびをそのまま台の上に押し出した。


 車に戻り、運転席で缶を開けた。国道を、軽トラックが一台ゆっくり通っていく。荷台に空の発泡スチロールの箱を積んでいた。野口の近所の家の男の車で、この時間にはいつも市場へ向かう。運転席から片手が上がり、野口も缶を持ったまま手を上げた。ひと口目を飲みこんだとき、後部座席の窓を誰かが二度、軽く叩いた。


 振り向くと窓の外に女が立っていた。傘を持たず、肩をすぼめている。髪が額と頬に張りつき、雨のしずくが顎の先から落ちていた。からし色の男物のジャンパーはサイズが合っておらず、袖が手の甲までかかり裾は腿の半ばまで下がっている。野口はドアのレバーを引いた。


 女はかがんで乗りこみ、ドアが閉まりきる前に言った。


「鳴磯まで、お願いできますか」


 声がかすれていた。


「鳴磯町ですか」

「はい」女は膝の上で両手を握り合わせた。「高速は使わないでください」


 下の道なら二時間近くかかる。野口は缶をドリンクホルダーに差し、表示を実車に切り替えてメーターを入れた。料金のことを言いかけて振り返ったとき、女の足もとが目に入った。


 女はベランダに置いておくようなプラスチックのサンダルを履いていた。サンダルの中で灰色の靴下が水を吸って黒くなっている。爪先のあたりに泥がこびりついていた。


 野口は何も言わず前に向き直り、暖房のつまみを上げた。吹き出し口の風が後ろの座席へ回っていく。しばらくすると濡れた服のにおいに混じって煙のにおいがした。焚き火のあとの湿った灰のようなにおいだった。女の髪が暖房の風で乾いていくにつれ、においは濃くなった。


 駐車場を出て国道を海のほうへ向けた。ワイパーが一往復するたびに信号の赤がガラスの上で崩れては戻った。最初の交差点で野口はいつもより早めにブレーキを踏んだ。


 市街を抜けるまで女は一度も口を開かなかった。野口はラジオを消した。ダッシュボードの上で車内カメラの赤い灯が点いている。運転席と後部座席を一つの画面に収めるカメラで、会社が二年前にすべての車両に入れた。客はたいてい気づかない。


 バックミラーの中で女は窓のほうを向いていた。ガラスに額を寄せて外を見ている。窓の外を、シャッターの下りた店と間をあけて立つ街灯が流れていった。握り合わせた手は膝の上にあって、指のあいだに何か小さなものを挟んでいるらしい。親指がときどきその上をなぞった。


 郊外の大型店の前を過ぎると、道の両側から明かりが減った。除雪車の車庫の前に、黄色い回転灯をつけた車が並んでいる。あとは雪囲いの板を打ちつけた家が、ぽつりぽつりとあるだけだった。


 外の気温の表示が四度に下がった。ワイパーが払う雨の中に白い粒の混じる回数が増えた。粒はガラスに当たるとすぐに水になって流れる。


 後ろで女が小さく息を吸う音がした。何か言うのかと思って野口はルームミラーを見た。女は唇を少し開けて運転席の背もたれのあたりを見ていた。ミラー越しに目が合う前に女は窓のほうへ顔を戻した。握った手に力が入るのがわかった。


 次にミラーを見ると女は目を閉じていた。頭が窓のほうへ傾いてジャンパーの襟に顎が埋まっている。握った手は膝の上に置かれたままだった。


 野口は速度を少し落とし、暖房を一段弱くした。


 川を一つ渡ったあたりでメーターの数字が二万円を越えた。鳴磯まではまだ一時間近くある。


 山あいの道に入ると雨の音が変わった。杉の枝から落ちる大粒のしずくが屋根を不揃いに叩く。トンネルを抜けると道の端を示す矢羽根の標識がヘッドライトの中に一本ずつ浮かんでは後ろへ流れた。


 国道が二手に分かれるところで野口はハンドルを左に切った。六年前に何度も走った道で、この先の信号の数も覚えている。三つ目の信号で右に入ると道が海に寄った。この時間は暗くて海は見えないが、窓をわずかに開けると雨のにおいの中に潮のにおいが混じった。野口はすぐに窓を閉めて後ろに冷たい風が回らないようにした。


 海沿いの道は昔より街灯が少なくなっていた。六年前にはまだやっていたドライブインが、看板だけ残して閉まっていた。道の右側の暗がりでときどき白いものが砕ける。波の音はエンジンと雨の音にまぎれていた。


 女は眠っていた。寝息は浅くときどき途切れた。一度、握った手がほどけかけてまた固く閉じた。


 三時四十分を過ぎたころ、道の先に道の駅の明かりが見えてきた。トイレの棟と自販機のまわりだけが灯り、物産館の窓は暗い。駐車場の奥にはトラックが一台、エンジンをかけたまま停まっていた。


 道の駅の手前で後ろから衣ずれの音がした。ルームミラーの中で女が跳ねるように体を起こした。目を見開いて窓の外の明かりを見ている。それから首を回して、メーターと前の道を見た。


「ここで」


 女の声は乗ったときよりかすれていた。


「ここで、降ります」


 野口はウインカーを出して道の駅の駐車場に入った。トイレの棟の前に車を寄せてメーターを止める。表示は四万三千九百二十円だった。


 女はジャンパーの内ポケットに手を入れて白い封筒を出した。封筒の口は開いていた。中から一万円札を二枚抜いてトレイの上に置く。封筒はそれで空になったらしく、女はそれを折ってポケットに押しこんだ。


「すみません」


 女はそれだけ言ってドアのほうへ体を寄せた。野口はレバーを引き、助手席の足もとから柄に会社の名前を刷った黒い傘を取って後ろへ差し出した。女は傘と野口の手を見て、間をおいてから受け取った。ドアが開ききる前に女は外へ出ていた。


 女はトイレの棟には向かわず駐車場の出口へ歩いていった。出口の先は海沿いの旧道になっている。女は歩きながら傘を開いた。サンダルが水たまりを踏むたびにぱしゃりと音がする。黒い傘とその下のからし色の裾が常夜灯の下を通って暗がりに入った。


 野口はエンジンをかけたまま、出口のほうを見ていた。トラックの運転手がトイレから出てきて肩をすくめながら運転台に戻っていった。


 トレイの二枚の札を取って売上を入れる袋にしまった。上着の内ポケットから自分の財布を出して札を二枚抜き、小銭入れの硬貨も数えてメーターの表示と合うようにした。それも同じ袋に入れて口を折り、運転席の脇に差しこんだ。


 駐車場を出て、来た道を戻った。帰りの道はまだ暗い。雨は細くなり白い粒は消えていた。対向車線をトラックが一台、また一台と水を跳ね上げていった。後部座席にはさっきまでのにおいが残っていた。野口は千坂の市街に入る手前で窓を少しだけ開けた。


 五時半を回って会社の車庫に車を入れた。夜勤明けの車が何台か洗車場の前に並んでいる。野口は列の後ろについて順番を待ちながら日報を書いた。行き先の欄に「鳴磯方面 道の駅」と書き、金額の欄にメーターの数字を書き写した。


 前の車から同じ夜勤の遠藤が降りてきた。


「ゆうべは駅前が混んだな。ホテルで何かの祝いがあったらしくて、二次会であっちこっちに送らされたよ」


 遠藤はあくびをしながら洗車場の水道の蛇口をひねった。


「野口さん、どこまで行ってたの」

「鳴磯のほう」

「遠っ。いい客じゃないの」

「帰りは空だよ」

「それでもさあ。こっちは千円台ばっかりだもの」


 遠藤はバケツに水を溜めはじめた。野口は日報を挟んだバインダーを閉じた。


 順番が来るとホースの水で車体を流した。水は手が痺れるほど冷たかった。タイヤハウスにこびりついた泥を柄の長いブラシで掻き出す。洗車場の柱の上で誰かが持ちこんだラジオが鳴っていた。六時のニュースが始まった。


「きょう未明、千坂市内のアパートで火災が発生し、全焼しました。焼け跡からは一人の遺体が見つかり、警察と消防が身元の確認を進めています。この部屋に住む女子大学生と連絡が取れていないということです」


 野口はブラシを持つ手を止め、ラジオのほうを見た。アナウンサーは次のニュースに移り、峠の道で路面が凍りはじめているので注意してほしいと言った。遠藤が「冬だねえ」と言って自分の車の窓を拭きはじめた。


 野口はホースを床に置いた。運転席のドアを開けてダッシュボードの車内カメラに手を伸ばす。側面に小さな保存ボタンがある。会社の決まりでは客とのあいだで何かあったときに押すことになっていた。押しておけばその日の分は営業所で抜き出すまで消されずに残る。二年前に操作を一度教わったきりで、押すのは初めてだった。長く押すと電子音が鳴り、赤い灯が何度か点滅した。


 後ろのドアを開けて後部座席を拭いた。シートには雨の跡が白く残っている。座面と背もたれの隙間に指を入れて溜まった砂を掻き出していると、指先に布のようなものが触れた。


 引き出すと、手のひらに収まるほどの白い布だった。縁の糸がほつれて長い糸が何本も垂れている。何度も洗ったように布は薄く柔らかくなっていた。黒い字が書いてある。にじんで薄くなった字を野口は車庫の蛍光灯にかざして読み、彼は目を見開いた。


  鳴磯小学校 四年一組 三浦悠真


「野口さん、水。出しっぱなし」


 隣の洗車場から遠藤の声がした。


「悪い」


 野口は床からホースを拾い上げて蛇口を締めた。水の音が止むと洗車場の柱の上でラジオが天気の話をしているのが聞こえた。手の中の布をもう一度蛍光灯にかざして読む。


 車内の忘れ物は事務所の窓口に届けて台帳に書くことになっている。野口は布を二つに折り、上着の内ポケットに入れてファスナーを閉めた。


 隣の洗車場で遠藤がまだ窓を拭いていた。野口は自分の車を所定の場所に戻し、日報と売上の袋を持って事務所へ行った。窓口には夜勤の係の若い男がいて、あくびをかみ殺しながら袋の口の数字を確かめ、受領印を押した。


「お疲れさまでした」

「お疲れさま」

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