第7章 変化
初秋、クリス一家がアメリカから無事に帰国した。
百合子に初めて挨拶ができた初夏の頃、トーマスからクリスへ突然の連絡が入っていた。母親が怪我をしたことで気弱になったのか、「会ったことのない孫たちに会いたい」と急に言い出したという。
クリスの仕事は佐伯がしっかり引き継ぎ、クリス一家は急遽、家族全員でアメリカへと旅立っていたのだ。
「おかえり、クリス! お母さんの具合はどうだった?」
ハルトが笑顔で迎えると、クリスは少し申し訳なさそうに頭を下げた。
「長くなってしまい、本当に申し訳ありませんでした。おかげさまで母も歩けるようになりましたし、孫たちに会えて大喜びでしたよ」
「よかった! ……あ、ミコ姉は?」
「診療所に向かいました。えまさんが作ってくれた回復用の漢方薬がよく効いたので、その報告とお礼を伝えに行ったようです。……あ、それと社長。これはリチャードから君に、と託されたものなんだ。マイケルから預かっていたらしくて」
「えっ、マイケルから?」
ハルトが渡された箱を開けると、中からずっしりと重い、見たこともないほど立派なヴィンテージの懐中コンパスが現れた。
「なんか……僕の知ってる磁石と違って、ものすごく重厚だね。……マイケルはどうしてる? 船に乗って、あちこちの国を旅してるのかな」
「ええ。相変わらず忙しくしているようで……私も今回は会えませんでした」
そう答えるクリスの顔色はどこか蒼白で、長旅の疲れが色濃く残っているように見えた。
「クリス……すごく疲れてるみたいだね。今日は部屋でゆっくり休んで」
「……ありがとうございます、社長」
深くお辞儀をしたクリスは、迎賓館へと向かった。
◇
翌日。
クリスは一人、パソコンに向かっていた。
自分が渡米したことで、ハルトが以前から提案していた「自社調達の漁船」の計画が先延ばしになっていたのだ。
これから結の郷が自給自足の時代へ移行した時、地上のインフラに頼らず海へ出られる船は、絶対に必要になる。
トアのルールに従えば、この郷で作る船も、役目を終えた後は自然に還ることができる素材で造らなければならない。
動力の中心となるのは、結城紬や麻で織り上げた頑丈な「帆」と、瓦ソーラーから得られる電力。
海を汚すFRP(強化プラスチック)の船体は使わず、鋼材を主体とした船体を採用する。そして、船体の防腐処理には、結の郷の職人たちが培ってきた漆の技術を応用する計画だった。
配線に使われる導線や絶縁体にも、天然素材を可能な限り取り入れる。
高効率のモーターやバッテリーのセッティング、電気配線、そしてトアとの連動システムは、システムに詳しいクリスが、トアの作った設計図をもとに組み上げていく手はずになっていた。
だが――。
荒波や強い風圧に耐える堅牢な船体を造るには、熟練した造船技術が必要になる。
特に鋼製船体の溶接や、マストとソーラーパネルを支えるフレームの加工は、郷の職人でもどうにもならない。
そこでクリスは、沿岸部にある実績豊富な小型造船所へ電話をかけた。
『はい、根岸造船鉄工所です』
「お忙しいところ恐れ入ります。私、結の郷のクリス塚野と申します。本日は、ソーラー発電と帆で動く『ハイブリッド電動・鋼製船』の船体部分について、ご相談したくご連絡いたしました」
『はい? ソーラーと……帆? 船体だけ、ですか? うちで扱っているのは普通のディーゼル漁船ですが……』
電話の奥から、困惑した声が返ってくる。
クリスは静かだが、力強い口調で言葉を継いだ。
「はい。エンジンや燃料系統は一切積みません。風を受けるマストと可動式の帆、そしてデッキ上部に大型のソーラーパネルを設置し、高効率の電動モーターで推進します。
御社にお願いしたいのは、波の抵抗を抑えた鋼製船体と、帆やソーラーパネルが受ける強い風圧に耐えられる、堅牢な上部フレームの製作と溶接なのです」
『……エンジンを積まねぇで、風と太陽光を利用して海に出るってのかい?』
「そうです。
塩害や衝撃に耐えられる鋼板と、こちらの推進システムに合わせた船体設計。これを実現できるのは、この地域で最高の溶接技術を持つ御社しかないと思っています。
一度、こちらで作成した設計図を見ていただけないでしょうか」
クリスの論理的で熱意に満ちた言葉に、電話の奥の担当者が息を呑む気配が伝わってきた。
『……おもしろいじゃねぇか。燃料を使わねぇ鉄の船か。……分かった。現場の技師長を同席させる。一度、工場へ図面を持ってきな!』
「ありがとうございます。すぐにお伺いします」
受話器を置いたクリスは、トアに作ってもらった図面をカバンに詰め込むと、力強い足取りで造船所へと向かった。
車を三十分ほど走らせ、クリスは潮の香りが漂う根岸造船鉄工所に到着した。
巨大なクレーンがそびえ立ち、鋼板を叩く乾いた音と溶接の火花が飛び交うドックの脇を抜け、事務所のドアを叩く。
「失礼します。先ほどお電話いたしました、結の郷のクリス塚野です」
「おお、来たかい。電話を受けた根岸だ。……で、こっちがうちの現場を仕切ってる技師長の岩田だ」
応接室で待っていたのは、日焼けした顔に深い刻み込みのある、眼光の鋭い老人――技師長の岩田だった。
岩田は挨拶もそこそこに、腕組みをしたままクリスをじろりと睨みつけた。
「おい、あんた。電話でデカいこと言ってたな。エンジンも積まねぇで、太陽光と風だけで荒波に出る船だと? お遊びのヨットじゃねぇんだ。漁船を舐めてもらっちゃ困るぞ」
クリスは気圧されることなく、静かに微笑むと、カバンからトアが作成した特大の図面を取り出し、机いっぱいに広げた。
「おっしゃる通りです、岩田さん。だからこそ、私どものシステムを安全に海へ出すために、御社の本物の技術が必要なのです。これが図面になります」
図面を目にした瞬間、岩田の眼光が変わった。
そこには、伝統的な和船を思わせる流線形と、現代の技術を融合させた船体ラインが描かれていた。
各部の板厚や水流抵抗の計算、重心位置に至るまで、プロの目から見ても精密な設計が書き込まれている。
「……ほう。この船型、波切りをかなり計算し尽くされてやがるな」
岩田は図面をじっと見つめた。
「……だが待て。なんだ、この塗装の指示は? 『防腐処理:伝統漆による特殊処理』だと? 普通の船底防汚塗料は使わねぇのか?」
「はい。この船は、役目を終えた後も可能な限り環境への負荷を抑えることを絶対条件としています。
船体には鋼材を使い、表面には結の郷の職人が開発した特殊な漆系の防食処理を施す計画です」
「鉄を……漆で守るってのか?」
岩田は驚いたように眉を上げた。
「ええ。そこも含めて、御社の技術者の方々と相談しながら進めたいと思っています」
「無茶苦茶な話だな……。だが、面白くもある」
岩田は図面に視線を落としたまま、口元をわずかに緩めた。
「問題はここだ」
太い指が図面の上部を指した。
「デッキの上に載せる、この瓦ソーラーパネルと可動式マストのフレーム架台だ。風を受けたら、相当な力が船体にかかるぞ。生半可な溶接じゃ、一発で亀裂が入って浸水だ」
「そこです」
クリスは身を乗り出し、真っ直ぐに岩田の目を見つめた。
「波の衝撃と風圧の双方に耐えられる高張力鋼のフレーム構造。そして、それを船体のキール――竜骨部分へ確実に荷重分散させる溶接技術。
これは、根岸造船鉄工所の技師長である岩田さんにしか頼めない仕事だと思っています。
配線回路やバッテリー、帆の制御システムはすべて私どもで組み込みます。御社には『ビクともしない最高の船体』を造っていただきたい」
事務所の中に沈黙が流れた。
岩田は煙草に火をつけ、紫煙の向こうでじっと図面を見つめる。
やがて顔を上げ、クリスを見た。
「……面白い。エンジン音のしねぇ、漆を使った鉄船か。荒波に揉まれてもびくともしねぇ、最高の骨組みを組んでやるよ。」
その代わり、電気の積み込みや配線作業の時は、俺にも見せろよ? どうやってその瓦から船を動かすのか、この目で確かめてぇからな」
「もちろんです! ありがとうございます、岩田さん」
クリスは立ち上がり、岩田と力強い握手を交わした。
♢
同じ頃、ハルトは自分の部屋で、昨日クリスから受け取ったマイケルの懐中コンパスを静かに手のひらに載せていた。
ずっしりと手に馴染む重みと、磨き抜かれた金属の質感。
蓋を開けると、ガラスの向こうで繊細な指針が滑らかに揺れ、静かに北を指し示している。
(マイケル……船に乗って、今は世界のどこを旅してるんだろう)
「よし……僕たちも、この郷でできることを精一杯やっていこう」
ハルトはコンパスの蓋をカチリと閉じると、大切にポケットへと収めた。
澄んだ秋空の下、根岸造船鉄工所から帰宅するクリスの車が走り抜けていく。
来年の春、満開の桜の下で海へと踏み出す『自然に還るハイブリッド鋼製船』の完成に向けて、『結の郷』の新たな挑戦が静かに動き始めていた。
8章へ続く。




