第4章 潮風と共に
心地よい潮風を感じながら、ハルトと光はどこまでも広がる真っ青な海を眺めていた。
マイケルたちが帰国してから数日が経っていた。
「ハルトさんと一緒にこんな風景を見られるなんて、幸せだなぁ……」
「そうだね。新婚旅行は近場だったしね」
そう、ハルトたちの結婚式の直後はテーマパークのオープン準備で多忙を極めていたため、新婚旅行は思い出の地である倉敷に一泊しただけだったのだ。
ちなみに後藤とえまは、鳥取県の大山へ向かい、新婚旅行がてら薬草採集の旅を満喫してきたらしい。
そこで、日本での試運転も兼ねて、この漆黒の要塞船で二泊三日の航海がクリスによって手配された。
迎賓館メンバーも乗り込み、ハルト夫妻と後藤夫妻に「第二の新婚旅行」がプレゼントされたのである。
幼い煌や仁愛は、クリス一家の屋敷でお留守番だ。
マイケルが用意してくれたVIPルームは、まるで彼の自宅を思わせる贅沢な造りになっていた。
手前には広々としたリビングルーム、奥には大きな天蓋付きのダブルベッドが鎮座するベッドルーム。さらに隣には至れり尽くせりのバスルーム類が完備され、とても船の中とは思えない重厚感だった。
ソファーやテーブル、飾られた調度品の数々も、一目で超一流品だと分かるものばかり。
このVIPルームは離れた場所にもう一つあり、そちらを後藤夫妻が使っている。お互いに連絡を取らない限り食事以外で鉢合わせすることのない、プライベートが完璧に守られた設計だった。
ハルトは実際に泊まってみて、改めてマイケルのスケールの大きさを実感していた。
昨日、初めてこの部屋に通された時はふたりして息をのんだ。見学で見ていた客室以上に豪華で、自分たちには縁のないような絢爛さだったからだ。
佐伯が、サッとドアを開けスマートな手つきで荷物を運び入れ、ハルト達が入ると自分はスっと部屋を後にする。そのタイミングが見事であった。
ふたりがあまりの豪華さと非日常に呆然とソファーに座っていると
コンコンと控えめなノック音が響いた。
「はい」と答えると、ドアの向こうには佐伯とメイド長の神谷が立っていた。
佐伯は大きな箱を抱えている。
「こちら、クリス様からです。『今夜の晩餐にお使いください』とのことです」
続いてメイド長が優しく微笑んだ。
「お飲み物はミニキッチンの冷蔵庫にご用意いたしました。温かいお飲み物はこちらのポットをお使いくださいませ。……それから、フルーツとデザートもセットさせていただきました。こちらは、えま様特製のハーブティーでございます」
しなやかな無駄のない動きで、あっという間にテーブルの上が華やかに彩られていく。
「では、ごゆっくりお寛ぎください。晩餐の時間にまた伺います」
そう言い残すと、ふたりはスッと静かに部屋を後にした。
取り残されたふたりは、顔を見合わせて呆然とする。
「あのふたり、本当に有能すぎるね……」
「ええ、本当に……」
「……この箱、開けてみようか」
箱を開けると、ハルトにはシックな高級スーツ、光には洗練されたイブニングドレスが納められていた。
「え? これを着て夕食を食べるの?」
「着てみてよ」
光がパーテーションの裏で着替え、照れくさそうに姿を現した。
結婚式のウエディングドレスとはまた違う、大人の品格と光の美しさを引き立てる一着。ハルトは目の前の光景に言葉を失った。
「ど、どうかな……?」
光の美しい背中が引き立つ、見事なデザインのドレスだった。
一緒に食事をするのは、兄である後藤だから気にならないとはいえ、(他人には絶対見せたくないな……)とハルトは密かに思いつつ、素直な言葉を口にした。
「……すごく、綺麗だよ」
(……うん? でも、なんでサイズがこんなにピッタリなんだろう?)
一瞬だけ釈然としない疑問が浮かんだものの、ハルトはクリスの粋な心遣いに心から感謝した。
その夜の晩餐は後藤夫妻も一緒で、えまも彼女によく似合うドレスを身に纏っていた。
お互いに少しばかり気恥ずかしさはあったものの、シェフ・ピエールが腕を振るった見事な創作フレンチは、見た目も味も感銘を受けるほど素晴らしかった。
こうして2組の夫婦は、人生初となる最高の船旅を堪能したのだった。
♢
そして今、デッキで光と共に海を眺めている。
肌を撫でる潮風が実に心地よい。
ふと、ハルトの脳裏に新しいアイデアが浮かんだ。
(もう少し小さめの漆黒の船は作れないだろうか……?)
現在の結の郷では淡水魚の養殖が中心だが、人類が楽園に行く20年後の未来なら、海の魚だって自由に獲れる。
(帰ったら、クリスに相談してみよう)
海への希望が、胸の中で大きく膨らんでいく。
そうなると、沖田船長に続く次の若い船長やクルーも育てなければならないだろう。近いうちに一度会議を開く必要がありそうだ。
「ハルトさん? また何か考えてるでしょ?」
光の声にハルトはハッと我に返った。
「ごめん! 色々考えちゃってた……せっかくの新婚旅行なのにね」
すると光は、ハルトの頬にそっとキスをした。
「そんな風に未来を考えてるハルトさんが好きだから、いいんだよ」
ちなみに、ハルトたちを見かけて楽しそうに近寄ろうとしていた後藤とえまだったが、この甘い空気を察してそっと回れ右をし、自分たちの部屋へと戻っていったのだった。
その日の晩餐は、昨日とは打って変わって極上の和食だった。新鮮な海の幸がふんだんに使われた料理に舌鼓を打つ。
(やっぱり、海の恵みを逃す手はないな)
ハルトの心は決まった。
「絶対に漁船を作ろう」と。
♢
翌朝。天照らす柔らかな朝日が、天蓋ベッドのレース越しに差し込んでいた。
光がシーツの中で静かに横たわっている。光の華奢な肩に朝の光が当たり、幻想的な美しさを醸し出していた。日常の慌ただしい暮らしの中では、なかなか見ることのできない光景だ。
(たまには光と、こういう時間を過ごすのも悪くないな……)
ハルトがしみじみと感じていると、光が「う、うん……」と小さく身じろぎをして目を覚ました。
自分をじっと見つめているハルトの視線に気づくと、光は急に照れくさそうな顔をして、反対側を向いて丸くなった。
「な、なに……?」
「ううん。すごく幸せだなって思って……。非日常の時間って大事だね。今度はクリスや源さんたちにも、この体験を味わってもらいたいな」
それを聞くと、光はくるりとハルトの方を振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。
「そうだね。でも源さん、豪華すぎて固まっちゃいそうだけど」
ハルトも声を上げて笑った。
「絶対、固まるだろうね」
♢
――次の年。
クリスと源夫妻がこの要塞船に招待され、源が言葉通りカチコチに固まったのは、また別のお話。
(第5章に続く)




