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第9話 キス未遂の、その手前

『次は逃げるな』


玻璃宮千歳から届いたその一文を、俺は何度も見返した。

短い。冷たい。いつもの千歳らしい。


けれど、そこに込められているものは軽くなかった。


逃げるな。


たぶんそれは、依頼の話から逃げるなという意味だ。

灯庭舎のことから逃げるなという意味だ。


俺が最初、金のために千歳へ近づいたことを、自分の口で言えという意味だ。

それは分かっている。分かっているのに、俺の頭の中では別の意味も勝手に増えていく。


逃げるな。

俺から? この関係から? 触れそうになる距離から? それとも、お前自身の気持ちから?


「で、今日は絶対にキスしない日です」


朝のファミレスで、笹目冴はいつものようにメモ帳を開いた。

俺はコーヒーを前に座っている。


寝不足だった。昨日からずっと、灯庭舎と澪標の丘の地図が頭から離れない。


千歳が差し出した手。共犯になる覚悟は? 俺が取った手。今度は、二人で嘘をつく。

その感触が、まだ掌に残っている。


「聞いてる?」


冴がペンでテーブルを叩いた。


「聞いてる」


「絶対聞いてなかった顔」

「聞いてるって。キスしないんだろ」


「軽く言った」

「軽く言わないと死ぬ」


「それがもう危ない」


冴はメモ帳を俺に向けた。


ーー

攻略ログ08:キス未遂の、その手前

ーー


その下に、いつものように作戦らしきものが書いてある。


ーー

触れそうになる。

でも、触れない。

触れられない理由を、自分で知る。

ーー


「……作戦か、これ」

「作戦じゃないね」


「おい」

「もう攻略だけじゃないから」


冴はあっさり言った。

俺はコーヒーを飲もうとして、手を止める。


「じゃあ何だよ」

「分岐点」


「分岐点?」

「落とすために触れるのか、本気だから触れられないのか。ここで纏が自分で分かる」


「他人事みたいに言うな」

「他人事だし」


「幼馴染の情」

「あるから言ってる」


冴は真面目な顔で俺を見た。


「いい? ここまで千歳さんは、かなり自分の奥を見せた。澪標の丘、母親、理想、灯庭舎との重なり。しかも、あんたが最初から依頼で近づいたことも知ってる」

「……ああ」


「でも、まだ“あんたの口から”言ってない」


胸が重くなる。


「分かってる」

「分かってるならいいけど、今日、勢いでキスしたら駄目」


「しねぇよ」


即答した。

冴は黙って俺を見る。


「……何だよ」


「したいとは思ってるんだ」

「言ってねぇ」


「“しねぇ”は、したい可能性がある人の否定」

「性格悪いな」


「千歳さん仕込みです」


冴は少し笑ったが、すぐに真面目な顔へ戻った。


「腐女子向けに言うとね」

「また出た」


「ここでキスしたら確かに沼る。でも、まだ早い」


「何でだよ」

「まだ謝ってないから。まだ許されてもいないから。なのに唇で流したら、甘いけど安くなる」


「……」

「本当に大事にしたい相手には、キスより先に言うことがある」


それは、俺にも分かっていた。

千歳の唇に触れたいかと聞かれたら、否定できない。


あの皮肉屋の口を黙らせたい。

いつも俺を困らせるくせに、自分も困っているあの顔を、もっと近くで見たい。名前を呼ぶ声を、もっと乱したい。


でも、それをしてしまえば、言わなければならないことを先延ばしにできる。

仕事だったこと。金のためだったこと。敵の策略に乗っていたこと。


千歳が知っているとしても、俺がまだ言っていないこと。


「……最低だな」


俺が呟くと、冴は静かに言った。


「最低だと分かってるなら、まだ戻れる」


「どこに」

「誠実な方に」


「ホストに誠実さ求めるか?」

「纏に求めてる」


俺は黙った。

冴はメモ帳にもう一行書く。


ーー

キスしないことを、逃げじゃなく誠実さにする。

ーー


「今日はどう会うの?」

「千歳さんの別邸。昨日の資料の続き」


「二人きり?」

「鏡味さんはいると思う」


「でも、実質二人になるね」

「たぶん」


「じゃあ注意」


冴は指を三本立てた。


「一、灯庭舎と澪標の丘の話を整理する」

「うん」


「二、共犯になるなら、何をどう騙すかを確認する」

「うん」


「三、近づいても、自分から触れにいかない」

「……」


「聞いてる?」

「聞いてる」


「四、触れたくなったら、先に謝る」


「謝る?」

「キスより先に、謝罪」


胸が痛い。それが正しいと分かる。分かるから苦しい。


「それと」


冴はペン先を俺に向けた。


「もし千歳さんが止めたら、止まれ」


「止めたら?」

「たぶん、手で止める」


「何で手なんだよ」

「千歳さんは、口より手が正直だから」


「また沼語か」


「そう。キスを止める時に、唇じゃなくて手を取る男は強い」

「強いの基準が分からん」


「分からなくていい。でも、もし手を取られたら、茶化すな」

「……」


「その手は、“逃げるな”でもあるし、“まだ信じきれない”でもあるし、“でも離したくない”でもある」

「手に情報量詰めすぎだろ」


「BLの手はそれくらい喋る」

「怖い言語だな」


冴は少しだけ笑った。


「纏」

「何」


「今日たぶん、格好悪いよ」


「俺が?」

「うん」


「今から言うか?」

「でも、格好悪くても逃げない方が、千歳さんには届く」


「刺すつもりはない」

「じゃあ届く」


その言い方が、少しだけ優しかった。

俺はスマホを見た。

千歳からの最後のメッセージ。


『なら、次は逃げるな』


俺は、まだ返事をしていなかった。

今さらだが、返信画面を開く。

短く打つ。


 『逃げない。でも、今日は多分うまく笑えない』


送信。

既読はすぐについた。返事は、少し遅れてきた。


『なら、笑わなくていい』


その一文だけで、胸が詰まった。

こいつは、ほんとうに。どうしてそんなところだけ優しいんだ。


俺はスマホを伏せた。


「顔」


冴が言う。


「何」


「もう駄目な男の顔」

「うるさい」


「でも、いい顔」

「どっちだよ」


「本気の男の顔」


俺は何も言えなかった。


****


別邸に着いたのは、昼過ぎだった。

昨日と同じ、小さな洋館。庭には薄い冬の光が落ちている。


白蝶リゾート構想の資料を見た場所。

灯庭舎が、澪標の丘の一角にあると分かった場所。


あの瞬間から、俺たちは同じ地図の上に立ってしまった。

玄関では鏡味静臣が待っていた。


「架橋様。お待ちしておりました」

「どうも」


「坊ちゃまは奥に」

「坊ちゃまって言っていいんですか?」


鏡味は一瞬だけ目を細めた。


「千歳様がいらっしゃらない場では」

「なるほど」


「もっとも、聞かれている可能性はございます」

「怖」


鏡味は真顔で言った。


「坊ちゃまは、昔から耳がよろしいので」


奥の扉の向こうから、千歳の声がした。


「聞こえている」


鏡味は涼しい顔で一礼する。


「でしょうね」


この主従、やっぱり強い。

俺は少しだけ笑った。緊張が、ほんの少しほどける。

鏡味は俺を見て、静かに言った。


「架橋様」

「はい」


「本日は、どうぞ最後まで」


その先は言わなかった。

でも分かった。


最後まで、千歳の話を聞いてやってくれ。

あるいは、最後まで、自分の話をしてやってくれ。たぶん両方だ。


「……はい」


俺は頷いた。


奥の部屋に入ると、千歳は資料机の前に立っていた。

白いシャツに、黒のベスト。ネクタイは外している。


昨日より少しだけ柔らかい格好なのに、表情は硬い。

地図が広げられている。


澪標の丘。灯庭舎。白蝶リゾート構想。

赤い線。

俺たちの守りたい場所を囲む、嫌な色。


「来たな」


千歳が言った。


「来た」

「笑わないと、本当に顔が怖いな」


「笑わなくていいって言ったの、そっちだろ」

「言った」


「じゃあ我慢しろ」

「善処する」


いつもの言葉。

でも、今日は少しだけ違う。お互いに笑おうとして、うまく笑えない。

千歳は地図を指した。


「整理しよう」

「ああ」


「灯庭舎は、澪標の丘の北東側にある。土地名義は福祉法人だが、周辺地権者との絡みが複雑だ」


「それで移転話が出たのか」

「おそらく。白蝶会は周辺から切り崩している。直接買えない場所は、資金難、老朽化、安全基準を理由に移転へ追い込む」


「……やり方が汚いな」

「きれいな開発など、そう多くない」


千歳の声は冷静だった。

でも、指先に少し力が入っている。


怒っている。俺も怒っている。

灯庭舎を老朽化と資金難で追い込む。


言葉にすれば合理的だ。

でも、そこにいる子供たちの顔を知っている俺には、ただの暴力に見える。


「白蝶リゾート構想の中心は瑠璃香さん?」

「表向きは、叔父上を含む開発推進派だ」


「実質は?」

「凍蝶院瑠璃香と狗飼錆人」


狗飼錆人。


その名前を聞くたび、胸の奥がざらつく。

なぜかは、まだ分からない。でも、嫌な予感がする。


「錆人は、裏の交渉役だ。地上げまがいの接触、資金の流れ、人脈の整理。表に出ない部分を担っている」

「ヤクザ風ってやつか」


「風、で済めばいいがな」

「……」


「纏」


千歳が俺を見た。


「君がこの依頼を受けた経路を教えてほしい」


来た。逃げるな。

俺は息を吸った。


「仲介人が来た。店に」


「名前は?」

「名刺は出さなかった。三十代半ばくらい。高いスーツ。でも、自分の金じゃない感じ」


「特徴は」

「指輪。左手の小指に、黒っぽい石の指輪をしてた」


千歳の目が細くなる。


「黒い石」


「知ってる?」

「白蝶会周辺で使われる身内向けの印かもしれない」


「趣味悪」


「他には?」

「玻璃宮千歳と親しくなれって。世間に誤解される程度に」


「目的は醜聞作りか」

「そう言われたわけじゃない。でも、そうだろうな」


「報酬は?」


俺は金額を言った。

千歳の表情は変わらなかった。でも、ほんの少しだけ目が冷えた。


「灯庭舎の修繕費には十分な額だな」

「……ああ」


「だから受けた」

「そうだ」


声がかすれた。


「最初は、軽い仕事だと思った。男相手でも、親しくなるだけならできるって。御曹司に少し噂が立つくらいで、誰かが本当に傷つくなんて考えてなかった」


最低だ。

言いながら、自分で思う。

千歳は黙っている。俺は続けた。


「金が欲しかった。灯庭舎を守りたかった。だから、見ないふりをした」


「何を」

「お前が傷つくかもしれないこと」


言った。言ってしまった。喉の奥が痛い。


「ごめん」


千歳は何も言わない。


「本当に、ごめん」


これが、俺が先に言うべきことだった。

キスより先に。触れるより先に。好きだと認めるより先に。


俺は、謝るべきだった。


「俺はお前に近づいた。金のために。敵の思惑に乗って」


千歳の視線が俺に刺さる。でも、逃げなかった。


「途中から違ったなんて、言い訳みたいだけど」


言葉が詰まる。


「でも、途中から本当に、違った」


千歳の目がわずかに揺れた。


「いつから?」

「分からない」


正直に言う。


「気づいたら、お前の反応を見たくなってた。困るって言わせたくなってた。疲れてる顔を見たら休ませたくなった。澪標の丘の話を聞いたら、守りたいと思った。灯庭舎と同じ場所だって知る前から」


千歳は、地図の端に手を置いたまま、じっと俺を見ていた。


「それでも」


俺は言った。


「最初に嘘をついたことは、消えない」


沈黙。


長い、長い沈黙だった。

外で風が鳴る。庭の木が揺れる。どこかで鳥の声がした。


俺は、その沈黙を受け止めるしかなかった。

千歳が俺を責めるなら、受け止める。怒るなら、それも受け止める。帰れと言うなら、帰るしかない。


それでも、灯庭舎と澪標の丘を守るためには、何かしなければならない。

でも今この瞬間だけは、策略より先に、千歳の答えを待った。


やがて、千歳が口を開いた。


「知っていた」


声は静かだった。


「君が仕事で近づいていることは、最初から」

「……ああ」


「敵が俺に男との醜聞を作ろうとしていることも、予測していた」

「うん」


「君が途中から変わったことも、見ていた」


胸が詰まった。


「いつから?」

「君が、母の話を雑に扱わなかった時」


内覧会。

澪標の丘の絵。母が好きだった。

俺は敬語に戻った。

母親の話を雑に扱うほど、悪いホストじゃないんで。

千歳は、あれを覚えていた。


「それから、君はずっと分かりやすかった」


「……悪かったな」

「悪いとは言っていない」


「じゃあ?」

「困った」


いつもの言葉。でも今日は、深かった。

千歳は少しだけ目を伏せた。


「利用するつもりだった相手が、俺の大事なものを雑にしなかった。敵の餌にするつもりだった男が、俺の疲れに気づいた。俺を落とすために近づいたくせに、軽く触れなくなった」

「……」


「だから、困った」


俺は何も言えない。

千歳は続ける。


「怒っていないわけではない」


胸が痛んだ。


「当然だ」


「傷つかなかったわけでもない」

「……うん」


「でも、君だけが嘘をついていたわけではない。俺も君を利用した。敵を見極めるために、君を近くに置いた」

「それは」


「言い訳ではない。事実だ」


千歳は俺を見る。


「俺たちは、どちらも嘘から始めた」


その通りだった。

どちらも嘘。どちらも利用。どちらも最低。それでも。


「では、ここからどうするかだ」


千歳は言った。玻璃宮千歳の声だった。

でも、その中に確かに千歳個人の温度があった。


「俺は、君に腹を立てている」

「うん」


「だが、君を切るつもりはない」


息が止まった。


「なぜ」

「君が必要だから」


胸が痛む。

必要。それは、策略上か。灯庭舎の関係者としてか。白蝶会を誘き出す餌としてか。


「それと」


千歳は少しだけ視線を外した。


「君に、まだ話を聞かせてもらっていない」

「話?」


「灯庭舎のこと。君自身のこと。君が何を抱えて、ここまで来たのか」

「……」


「次に会う時は、君の仕事ではなく、君自身の話を聞かせてくれ」


俺は笑おうとして、失敗した。


「お前、甘いな」

「甘くない」


「甘いだろ」

「信じたいとは思っている」


千歳の声は静かだった。


「でも、信じるには少し遅い」


刺さった。正面から。

当然だ。俺は、それを受け止めるしかなかった。


「分かってる」

「なら、今はこれ以上謝るな」


「何で」

「君が謝るたび、俺が許すか許さないかを決めなければならなくなる」


「……」

「まだ決めたくない」


その言い方が、千歳らしかった。

正直で、少し不器用で、残酷で、優しい。


「じゃあ、どうすればいい」

「逃げるな」


「そればっかだな」

「君が逃げるからだ」


「……」

「隣にいろ。今は、それでいい」


俺は、息を呑んだ。

隣にいろ。許されたわけではない。信じてもらえたわけでもない。


でも、切られなかった。隣にいろと言われた。

それだけで、胸がいっぱいになる俺は、もう終わっている。


「分かった」


声が少しかすれた。


「隣にいる」


千歳は頷いた。


「では、作戦の話に戻る」


急に戻すな。本当にこの男は。

でも、それに救われた。


俺たちは資料を見直した。白蝶リゾート構想。

白蝶会。凍蝶院瑠璃香。狗飼錆人。斎門叔父。灯庭舎と澪標の丘。


敵は、俺を使って千歳を落とそうとした。なら、今度はこちらがその筋書きに乗る。

ただし、主導権はこちらが握る。


「敵には、君が俺を落としつつあるように見せる」


千歳が言う。


「実際は?」

「俺たちが敵の手口を探る」


「男同士のスキャンダルを作るんだろ」

「そうだ。だから、噂はある程度広げる」


「……大丈夫なのか」

「大丈夫ではない」


千歳はあっさり言った。


「だが、敵が切り札を使う前に、こちらが情報を集める」


「その間、俺はどうすればいい」

「今まで通り、俺に近づけ」


今まで通り。

その言葉が、少し危険だった。


「近づくって」

「人前で親しげにする。連絡を取り合う。出入りする場所を重ねる。敵が“使える”と思う程度に」


「それ、かなり」

「危ないな」


千歳は俺を見る。


「嫌なら、降りろ」


言い方は冷たい。でも、目は冷たくない。

俺は笑った。今度は少しだけ、ちゃんと笑えた。


「降りる気はないって言っただろ」


千歳の目が和らぐ。


「そうだったな」


「ただし」

「何かな」


「お前が自分を餌にしすぎるのは止める」


千歳が眉を上げる。


「俺に命令?」

「願い」


「またか」

「聞け」


「願いの形をした命令だな」

「今さら」


千歳は少し笑った。


「検討する」


「便利な言葉」

「君も使うだろう」


****


資料整理が一段落する頃には、外は夕方になっていた。

西日が窓から差し込み、部屋の中を薄く染めている。


地図の赤い線も、少しだけ柔らかく見えた。でも、現実は変わらない。

敵は動く。白蝶会は千歳を失脚させようとしている。


灯庭舎は開発予定地に含まれている。

そして俺たちは、嘘から始まった関係を、今度は自分たちの嘘として使うことにした。


「少し休むか」


千歳が言った。


「俺に?」

「君、今日は顔が疲れている」


「誰のせいだと」

「俺?」


「半分」

「残りは?」


「自業自得」


千歳は何も言わなかった。それが逆に優しかった。

部屋の隅に、小さなソファがあった。


俺はそこに腰を下ろす。千歳は少し離れた椅子に座った。

妙な距離だ。近すぎない。遠くもない。俺たちは、黙っていた。


謝罪の後の沈黙。共犯を決めた後の沈黙。言うべきことを言ってしまった後の、空っぽの時間。

でも、重苦しいだけではなかった。千歳がそこにいる。それだけで、息ができた。


「纏」


名前を呼ばれた。


「何」

「先ほど、君は俺に軽く触れなくなったと言ったな」


心臓が跳ねた。


「言った」

「なぜ」


なぜ。答えは簡単なようで、難しい。


「仕事に戻せなくなるから」


千歳が、静かにこちらを見る。


「戻す必要があるのか?」


息が止まる。まだ早い。その問いは、まだ早い。

でも、千歳は待っている。俺は、自分の手を握った。


「ない」


声が低くなった。


「ないから、怖い」


千歳の瞳が揺れた。


「君でも怖がるんだな」

「お前相手ならな」


部屋の空気が変わった。

さっきまで資料と作戦と謝罪で埋まっていた場所に、別の熱が差し込む。

千歳は立ち上がった。ゆっくりと。俺の前に来る。


近い。近すぎる。

昨日までなら、俺が近づく側だった。今日は、千歳が来た。


「こういうの」


千歳が低く言う。


「慣れているんだろう」


「どうだと思う?」


咄嗟に返した。

でも、声が少し揺れた。

千歳は逃さない。


「試してみる?」


心臓が、うるさい。

俺は立ち上がった。千歳と向き合う。


窓から入る夕方の光が、千歳の横顔を淡く照らしている。

綺麗だ。


雑な言葉だけど、やっぱりそれしか浮かばない。

ただ、その綺麗さはもう商品みたいな綺麗さではない。


触れたら壊れそうな綺麗さでもない。

何度も壊れそうになって、それでも立ってきた人間の綺麗さだ。


俺は、その顔へ手を伸ばしかけた。


止まる。

千歳は逃げない。


目を閉じもしない。ただ、俺を見ている。


「君が?」


千歳が言う。


「俺以外に誰がいる」


自分で言ったのに、声が熱い。

千歳の睫毛が震えた。


「なら、どうぞ」


挑発。許可。試し。願い。

どれなのか分からない。


でも、千歳は逃げていない。俺も逃げるなと言われた。


距離が縮まる。

一歩。もう一歩。


息が触れそうな距離。

キスなんて、何度もしてきた。


仕事でも、プライベートでも。

唇を重ねること自体は、特別じゃなかったはずだ。なのに。


千歳相手だと、指一本動かすのが怖い。

ここで触れたら、全部変わる。


仕事だったことを謝った。でも、許されたわけじゃない。

信じてもらえたわけじゃない。それでも隣にいろと言われた。


その関係を、感情で押し切っていいのか。

千歳の目が、静かに揺れている。


彼も待っている。俺がどうするのか。

この距離で逃げるのか。踏み込むのか。


俺は、唇が触れる直前で止まった。

その瞬間、千歳の手が動いた。


俺の手首を取る。強くはない。痛くもない。

けれど、逃がさないくらいには確かだった。


「ここでキスしたら」


千歳の声は、低かった。


「君は逃げるだろう」


息が止まった。


「逃げない」


反射で言った。

千歳は、俺の手首を掴んだまま、首を横に振る。


「まだ、信じない」


その言葉は、怒りではなかった。

拒絶でもなかった。むしろ、怖がっているように聞こえた。


俺を。いや。俺がまた、自分の気持ちを仕事に戻して逃げることを。


「千歳さん」


「君は、触れるのが上手い」


手首を掴む指に、少しだけ力が入る。


「言葉も、距離も、笑い方も。人の欲しいところへ、きれいに触れる」


「……」

「だから、ここでキスしたら、君はきっと上手くする」


胸が痛くなった。


「俺を傷つけないように。自分が傷つかないように。謝罪も、嘘も、本気も、全部きれいにまとめてしまう」

「……そんなこと」


「するだろう」


言い返せなかった。

たぶん、千歳は正しい。俺は、上手くやってしまう。


唇で近づいて。甘い言葉で包んで。この痛みを、恋の熱みたいに扱ってしまう。

それが怖かった。俺自身も。


「今触れたら」


俺は、額が触れそうな距離のまま、目を伏せた。


「謝罪を全部なかったことにしたくなる」


千歳は何も言わない。


「お前を好きかどうかより先に、俺はちゃんと償うべきだと思う」


言った。好き、という言葉が出た。

完全な告白ではない。


でも、もう逃げられないくらいには近い言葉。

千歳の目が、大きく揺れた。


「……好きかどうか?」

「分類中」


苦し紛れに言うと、千歳は少しだけ笑った。

泣きそうなほど、柔らかい笑みだった。


「ずるいな」

「お前ほどじゃない」


「俺はもう、とっくに意識している」


心臓が止まった。


「……」

「未遂で意識させるつもりなら、残念だったな」


千歳の声が、少しだけ震えている。


「俺はもう、とっくに君を意識している」


何も言えない。この距離で、そんなことを言うな。

触れないと決めたのに。全部、決壊しそうになる。


俺は目を閉じ、深く息を吸った。

そして、一歩だけ下がった。


千歳の唇には触れなかった。千歳の手は、まだ俺の手首にある。

そのまま、俺は空いている方の手で、千歳の指に触れた。


奪うようにではなく。ほどくようにでもなく。

そこにいると確かめるみたいに。


「確かめていいか」


俺が言うと、千歳の睫毛が揺れた。


「何を」

「俺が、逃げないこと」


千歳は少し黙った。

それから、ゆっくり俺の手首を離した。


でも、完全には離れなかった。

彼の指は、俺の指先へ移る。


手首から、手へ。

止めるための接触から、確かめるための接触へ。


「許可する」


千歳が言った。

声が、かすかに掠れていた。


俺は千歳の手を握った。

昨日、共犯の握手をした時と同じ手。でも今は、握手ではない。

指先を包むように、少しだけ握る。


「今は、これで許せ」


千歳は自分の手を見た。

そして、俺を見る。


「許すかどうかは、俺が決める」

「そうだった」


「……でも」

「でも?」


千歳は目を伏せた。


「今は、それでいい」


指が、ほんの少し握り返された。

それだけで、俺の胸は限界だった。


キスはしていない。触れたのは手だけ。それなのに、今までで一番近かった。

唇を重ねるよりずっと危ない距離だった。


****


その後、俺たちは少し離れて座った。

お互い、何もなかった顔はできなかった。


千歳は書類を見ようとして、同じページを三回めくっていた。

俺はそれを見て、思わず笑った。


「何だ」


千歳が睨む。


「いや。御曹司様でも動揺するんだなって」


「君がさせた」

「すみません」


「謝るな」

「じゃあ、どうすれば」


「……少し黙れ」

「はい」


俺が素直に黙ると、千歳は逆に困った顔をした。


「本当に黙るな」

「どっちだよ」


「俺にも分からない」


その正直さに、また胸が痛む。

でも、少し笑えた。千歳も少し笑った。


部屋の空気が、やっと戻ってくる。

重くて、甘くて、まだ名前のつけられないものを抱えたまま。


****


帰り際、玄関で鏡味が待っていた。

彼は俺たちを一目見て、何かを察したようだった。

本当にこの執事は怖い。


「お帰りでございますか」

「はい」


俺が答えると、鏡味は静かに頷いた。


「本日は、少しお疲れのご様子ですね」


「俺が?」

「お二人とも」


千歳が横で言う。


「余計なことを言うな」

「まだ何も」


「言う前の顔だった」

「さすがでございます」


前にも聞いたやりとり。

でも今は、その裏にあるものが少し分かる。


鏡味は千歳を大事にしている。

千歳が少しでも柔らかい顔をしていると、きっと嬉しいのだ。


外へ出ると、夕方の光はほとんど消えていた。

車までは短い距離。

鏡味が先に車を回しに行く。

俺と千歳だけが玄関前に残った。空気が冷たい。


「寒い?」


俺が聞くと、千歳は少しだけ笑った。


「また聞くのか」

「聞くよ」


「寒い」


素直に言った。

俺は上着を脱ぎかけて、止めた。

千歳がそれを見る。


「今日はかけないのか」

「かけたら、また返す口実になるだろ」


「嫌か?」

「嫌じゃない」


「では?」

「今日は、口実がなくても会えそうだから」


言ってから、心臓が鳴った。

千歳は、しばらく俺を見ていた。それから、ゆっくり目を伏せる。


「……そういうのを」


「軽い口で言うな?」

「違う」


千歳は小さく息を吐いた。


「そういうのを、もっと早く言え」


胸が熱くなった。


「悪い」

「謝るな」


「じゃあ」


「次に言え」

「分かった」


「本当に?」

「約束する」


千歳は頷いた。

車が来た。乗る前に、千歳が言った。


「纏」

「何」


「次に会う時は、君自身の話を聞く」

「うん」


「灯庭舎のことも。依頼の続きをどうするかも」

「分かってる」


「それから」


千歳は少しだけ言い淀んだ。

珍しい。


「今日、止まった理由も」


俺は息を呑む。


「……分かった」


「逃げるな」

「逃げない」


千歳は車に乗った。

ドアが閉まる。車が走り出す。

俺は、それを見送った。


唇には触れなかった。でも、指先にはまだ千歳の温度が残っていた。


****


その夜、反省会は冴の部屋だった。

俺はソファに倒れ込んだ。


冴は、なぜか最初から察した顔をしていた。


「未遂?」

「未遂の未遂」


「最高じゃん」

「どこがだよ」


「本気の男は、軽く触れないんだよ」


その言葉を、前にも聞いた気がする。

最初の頃、冴が言っていた。


あの時は意味が分からなかった。

今は、嫌というほど分かる。


「キス、しなかった」

「うん」


「したかった」

「うん」


「でも、できなかった」

「うん」


「怖かった」


冴は何も茶化さなかった。

ただ頷く。


「何が怖かった?」

「キスしたら、謝ったことも、これからしなきゃいけないことも、全部感情で押し流したくなる気がした」

「うん」


「千歳さんを、そういう逃げに使いたくなかった」


冴は、少しだけ微笑んだ。


「それ、誠実だよ」

「格好悪いけどな」


「格好悪くていいじゃん」


俺は天井を見た。

目を閉じると、あの距離の千歳が浮かぶ。


なら、どうぞ。

ここでキスしたら、君は逃げるだろう。

まだ、信じない。俺はもう、とっくに君を意識している。


反則だ。あんなの、反則だ。


「冴」

「何」


「俺、もう駄目かもしれない」

「うん」


「早くない?」

「だいぶ前から駄目だったよ」


「教えろよ」

「教えてた」


「……そうだな」


冴はメモ帳を開いた。


ーー

攻略ログ08:キス未遂の、その手前

ーー


その下に書く。


ーー

結果:触れなかったことで、本気が確定。

ーー



俺はその文字を見た。

本気。

まだ、はっきり好きだとは言っていない。でも、もう逃げ道はほとんどない。


「これで、攻略ログの意味も変わるね」


冴が言った。


「どういう意味だよ」

「落とすための記録じゃなくて、ちゃんと向き合うための記録になる」


「重いな」

「恋ってそういうとこあるから」

「またそれ」


「次は?」


冴はメモ帳を閉じた。


「謝罪と共犯」


胸が少し重くなる。でも、もう分かっている。次に進むしかない。

俺は千歳に、もっと話さなければならない。


灯庭舎のこと。俺自身のこと。最初は仕事だったこと。

そして、今は違うこと。


スマホが震えた。

千歳からだった。


『帰った』


俺はすぐに返す。


『寒くなかったか』


返信。


『少し。でも、口実なしで会えるなら問題ない』


俺は顔を覆った。

冴がにやにやしている気配がする。


「何て?」

「見せない」


「デレ?」

「……デレ」


認めてしまった。

冴が無言で拳を握った。


俺はスマホへ返事を打つ。


『次は俺の話をする。逃げない』


千歳からの返事は、しばらく来なかった。でも既読はついていた。

長い沈黙のあと、一文。


『待っている』


それだけ。たったそれだけなのに、胸が痛いほど温かくなった。


待っている。


千歳が、俺の言葉を待っている。

俺自身の話を。俺の謝罪を。俺の本気を。


俺はスマホを握りしめた。

落とすつもりだった男を、俺はもう軽く扱えない。


攻略対象だった御曹司は、今や俺と同じ地図に立っている。

キスはしなかった。できなかった。


でも、触れなかったことで、かえって分かってしまった。

俺は玻璃宮千歳を、仕事に戻せない。もう、戻したくない。


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