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第10話 最初は仕事だった

『待っている』


玻璃宮千歳から届いたその一文は、短いくせに重かった。


待っている。


俺の話を。俺の謝罪を。俺の本音を。

今まで何度も、千歳は俺を待った。

答えに詰まった時も。逃げようとした時も。軽口でごまかそうとした時も。


あいつは涼しい顔で、逃げ道を塞いで、それでも最後の一歩だけは俺に選ばせた。

それが腹立たしくて、怖くて、でも少しだけありがたかった。

そして今度は、俺が本当に話す番だった。


最初は仕事だった。金のためだった。灯庭舎を守りたかった。

だから、敵の用意した餌を飲み込んだ。


玻璃宮千歳という男が、その先でどれだけ傷つくかなんて、見ないふりをした。

最低だ。


でも、それを言わずに次へ進むことはできない。


キス未遂の夜から二日後、俺は灯庭舎へ向かった。

千歳に会う前に、どうしても行っておきたかった。

逃げ道を確認するためではない。帰る場所を、ちゃんと見ておくためだ。


昼下がりの灯庭舎は、いつもより静かだった。

庭では小さい子たちが砂場で遊んでいる。


年長組は学校からまだ帰っていない。

古い木造の建物は、冬の日差しを浴びて、少しだけ眠そうに見えた。


玄関の扉を開けると、床がぎし、と鳴る。

この音を聞くと、今でも少し安心する。


「纏くん?」


院長先生が奥から顔を出した。

白髪が増えた。でも、目元の優しさは昔から変わらない。


「仕事前?」

「いや。今日は休み」


「珍しいわね」

「まあな」


俺は靴を脱ぎ、廊下へ上がった。子供の頃より、廊下が狭く感じる。

俺が大きくなっただけなのか。建物が少しずつ弱っているのか。

たぶん、両方だ。


食堂で出されたお茶を前に、俺はしばらく黙っていた。

院長先生は急かさない。


昔からそうだ。俺が話し出すまで、待つ。

千歳と少し似ている。そう思って、胸が痛んだ。


「院長」

「何?」


「俺、今日、謝りに行く」

「誰に?」


「……大事にしたい人」


院長先生の目が、少しだけ柔らかくなった。


「そう」


「でも、最初にひどいことした」

「そう」


「その人、たぶん知ってる。でも、俺の口からはちゃんと言ってない」

「うん」


「言ったら、切られるかもしれない」


院長先生は湯呑みを両手で包んだ。


「それでも言うの?」

「言わないと、隣に立てない」


自分で言って、少し驚いた。

隣に立つ。千歳に並ぶ。高い場所にいるあいつへ、俺も行く。


そう決めたはずだった。

でも、嘘を隠したままでは行けない。


院長先生は、静かに微笑んだ。


「それなら、もう答えは出ているのね」

「……怖いけどな」


「怖いのは、大切だからよ」


大切、その言葉に、胸の奥が熱くなる。

まだ、好きだとは言っていない。でも、千歳はもう大切だった。大切にしたい人だった。


「ちゃんと謝りなさい」


院長先生は言った。


「でも、許してもらうためだけに謝るのではなくて」

「うん」


「その人が傷ついたことを、その人のものとして返してあげなさい」


「難しいな」

「大人になるって、だいたい難しいのよ」


俺は苦笑した。


「俺、もう二十八なんだけど」

「まだまだね」


院長先生は容赦なかった。

その容赦なさに、少し救われた。


食堂を出る時、庭から蓮太が走ってきた。


「纏兄ちゃん!」

「おう」


「この前言ってた金持ち、まだ来ないの?」

「何でそんなに見たいんだよ」


「だって金持ちでしょ? 馬車で来る?」

「来ねぇよ。たぶん車だ」


「長いやつ?」

「長いかもな」


「すげー!」


蓮太の目が輝く。俺は思わず笑った。

千歳がここに来たら、どんな顔をするだろう。


たぶん最初は、綺麗な顔で礼儀正しく挨拶する。

子供たちに囲まれて、少し困る。

蓮太に「札束で汗拭くの?」と聞かれて、目を細める。そして俺を見る。


君は、ずいぶん面白い場所で育ったんだな。

そんなふうに言うかもしれない。


見せたい。やっぱり、そう思った。

いつか。、嘘を全部話したあとで。


俺が灯庭舎を出る頃、空は薄く曇っていた。


スマホを見る。

千歳からの連絡はない。


約束の時間は夕方。


場所は、前に上着を返してもらった会員制ティーサロンではなく、千歳が指定した小さなレストランだった。

個室。人目が少ない。


話をするための場所。

重い話には、妙に似合いすぎている。


店へ向かう途中、笹目冴から電話が来た。


『逃げてない?』

「開口一番それかよ」


『逃げてないならいい』

「今向かってる」


『顔は?』

「知らん」


『笑えてる?』

「笑わなくていいって言われた」


電話の向こうで、冴が少し黙った。


『千歳さん、優しいね』

「うん」


認めるのに、もうそんなに抵抗はなかった。


『今日、何を言うか決めた?』

「決めた」


『聞かせて』


「最初は仕事だった。金のためだった。灯庭舎を守るためだった。でも、途中から違った」

『うん』


「けど、それは言い訳にしない。最初に傷つけたことは消えない。謝る」

『うん』


「あと、今も灯庭舎を守りたい。でも、千歳さんを犠牲にして守るのは嫌だ」

冴は、少し息を吐いた。

『いいじゃん』


「本当に?」

『うん。格好よくはないけど、誠実』


「褒めてる?」

『半分』


「残りは?」

『頑張れ、馬鹿ホスト』


「雑だな」

『今のアンタには、そのくらいがちょうどいい』


電話の向こうで、冴が笑った。


『それから』

「何」


『もし千歳さんがすぐ許さなくても、拗ねない』

「分かってる」


『信じたいけど、信じるには遅い。たぶん、そういう感じになる』

「……予言やめろ」


『女の勘』

「嫌な勘だな」


『でも、ここを越えたら共犯になれるよ』

「共犯」


『恋人より先に共犯。腐女子向けに言うと、そこが沼』

「また何か言い出した」


『今の二人は、ただ甘くなるより、まず一緒に悪いことする方が似合うってこと』


「悪いことって」

『敵を騙すこと』


そうだ。俺たちは、二人で嘘をつくと決めた。

敵の策略に乗り、落ちたふりをして、逆に白蝶会を崩す。

そのためにも、今日の話は必要だった。

嘘を武器にするなら、まず俺たちの間に残った嘘を片づけなければならない。


『行っておいで』


冴が言った。


『今日は攻略じゃなくて、謝罪』

「分かってる」


『じゃあ、ちゃんと負けてきな』

「負け前提かよ」


『そう。好きな人には、負けるくらいでちょうどいい』


電話が切れた。好きな人。

その言葉が、しばらく耳に残った。


まだ、口に出すには早い。

でも、もう否定するには遅すぎた。


****


レストランの個室に入ると、千歳はすでにいた。

窓際の席。薄いグレーのスーツ。今日はタイをしていない。


いつもより少しだけ私的な雰囲気があるのに、背筋はやはり綺麗だった。

テーブルには、水と、まだ手をつけていない前菜。


千歳は俺を見る。


「来たな」

「来た」


「顔が硬い」

「笑わなくていいって言っただろ」


「言った」

「だから笑ってない」


「素直だな」

「今日だけ」


千歳の口元が、わずかに動く。

でも、すぐに真面目な顔へ戻った。


「座って」


俺は向かいに座った。

いつもなら斜め隣を選んだかもしれない。


でも今日は、向かい合うべきだと思った。逃げないために。

料理の説明をしようとしたスタッフを、千歳が柔らかく断った。


「少し、二人にしてください」


扉が閉まる。

個室に静けさが落ちる。


俺は水を一口飲んだ。喉が乾いている。

千歳は何も言わない。待っている。また、待っている。俺が話し出すのを。

俺は、深く息を吸った。


「最初は仕事だった」


言った。

言葉が部屋に落ちる。

千歳の表情は変わらなかった。

でも、目は俺から逸れない。


「うん」


「金のために、お前に近づいた」

「うん」


「依頼主の裏に白蝶会がいるかもしれないとか、御曹司を失脚させるための醜聞作りだとか、考えれば分かったはずだった。でも、俺は深く考えなかった」

「なぜ」


「金が必要だった」


逃げずに言う。


「灯庭舎を守るために」


千歳は黙って聞いている。


「それは本当だ。でも、それを理由にして、お前が傷つくかもしれないことを見ないふりしたのも本当だ」


俺は拳を握った。


「ごめん」


千歳は何も言わなかった。

俺は続ける。


「お前は知ってたんだろうけど、それでも俺の口から言わなきゃいけなかった」

「そうだな」


短い肯定。

痛い。でも、必要な痛みだった。


「俺は、お前を落とすつもりで近づいた。噂を作って、金をもらって、それで灯庭舎を守れればいいと思った」

「うん」


「でも、途中から違った」


言い訳みたいだ。

そう思った。でも、言わなければいけない。


「お前が母親の話をした時、雑にできなかった。澪標の丘を見た時、守りたい理由を知りたくなった。Club Perigeeで休んだ顔を見た時、もっと休ませたいと思った。本社で弱さを見せた時、誰にも見せなくていいから俺には見せろって思った。キスしそうになった時、触れたかった。でも、触れたら全部ごまかせる気がして、怖かった」


千歳の指が、テーブルの上でわずかに動いた。

俺は、その指先を見てしまった。手を伸ばせば、届く距離だった。


グラス越しでも、テーブル越しでもない。

本当に、少し身を乗り出せば触れられる。謝罪の途中で。いちばん触れてはいけないところで。俺の手が、ほんのわずかに動いた。


千歳の指へ伸びかける。でも、止めた。自分の膝の上で、強く握り込む。

今この手で触れたら、謝罪ではなく、許しをねだる形になる気がした。


俺を許してくれ。嫌いにならないでくれ。隣にいさせてくれ。

そんな感情を、千歳の手に押しつけることになる。


それは違う。

今日の俺は、触れるために来たんじゃない。

傷つけたことを、傷つけたまま認めるために来た。


千歳は、俺の手が止まったことに気づいていた。

気づいていて、何も言わなかった。その沈黙が、また痛かった。


「俺は」


喉が詰まる。


「もう、お前を仕事に戻せない」


言った。

一番言いたかったことを。


千歳は、静かに俺を見ていた。

その目は冷たくない。でも、甘くもない。

真剣に、俺の言葉を受け止めている。


「俺は、怒っている」


千歳は言った。

胸が痛む。でも、頷いた。


「当然だ」


「君が最初から仕事だったことは知っていた。けれど、知っていたから傷つかないわけではない」

「うん」


「君がどこで本気になったのか、俺は見ていた。だが、見えていたから安心できたわけでもない」

「うん」


「俺は、君がいつか自分の口で言うのを待っていた」

「……遅くなった」


「遅いな」


容赦のない言葉。でも、それでいい。

千歳は水のグラスに触れたが、飲まなかった。


「ただ」

「うん」


「俺も、君を利用した」


その声は、少しだけ低かった。


「敵の出方を見るために。白蝶会を釣るために。君がどう動くか確かめるために」

「それは」


「言い訳ではない。俺の罪だ」


罪。千歳がそんな言葉を使うのは、少し意外だった。


「俺は最初、君を駒として見ていた」

「……」


「綺麗で、軽くて、使いやすそうな男だと思った」


「ひどいな」

「ひどいよ」


千歳は自分で認めた。


「でも、君は駒として扱うには、あまりにも勝手に動いた」


「それ、褒めてる?」

「半分」


「残りは?」

「迷惑だった」


少しだけ、笑いそうになった。でも笑わなかった。

今日の千歳は、かなり正直だった。


「君は、俺の予定にないところで怒り、俺の予定にないところで優しくし、俺の予定にないところで止まった」


昨日のキス未遂。

止まったこと。千歳も覚えている。当然だ。


「だから、俺も君を仕事に戻せなくなった」


呼吸が止まった。千歳は目を伏せる。


「それが腹立たしい」


「腹立つのか」

「腹立つ」


「何で」

「俺は、自分の予定通りに進まないものが嫌いだ」


「俺の存在、だいたい嫌いじゃん」

「そうだな」


千歳は少しだけ笑った。


「なのに、嫌いではない」


胸が熱くなる。


この男は、こういう言い方をする。好きだとは言わない。

でも、嫌いではないの中に、たくさんのものを入れてくる。


「千歳さん」

「何かな」


「俺、これからもお前に近づく」


千歳の目がこちらを向く。


「敵に見せるために?」

「それもある」


「他には?」

「俺が近づきたいから」


言った。逃げなかった。

千歳の表情がわずかに揺れる。


「それは、危険だな」

「知ってる」


「俺も、君を近くに置く」


「敵を騙すために?」

「それもある」


「他には?」


千歳は少し黙った。

そして、静かに言った。


「君がいないと、退屈だから」


俺は思わず笑ってしまった。

泣きそうなくらい、笑いたくなった。


「御曹司様、それ口説き文句としては遠回しすぎる」

「口説いていない」


「じゃあ何」

「事実だ」


「事実の方が困るな」

「君がいつも言わせている」


千歳は水を一口飲んだ。その動作で少し間が空く。

それから、彼は言った。


「信じたいとは思っている」


冴の予言通りの言葉だった。

でも、実際に聞くと、予想よりずっと刺さった。


「でも、信じるには少し遅い」


俺は頷いた。


「分かってる」


「だから、すぐには許さない」

「うん」


「それでも、切らない」


胸が詰まる。

千歳は俺を見た。


「隣にいろ。君が言ったことを、本当のことにしてみせろ」

「……」


「途中から違ったと言ったな」

「言った」


「なら、その“違った”を、これから証明してくれ」


俺は、返事をすぐにはできなかった。

嬉しい、というには重すぎる。

許されてはいない。でも、道を残された。


これから本当のことにしてみせろと言われた。

それは、たぶん千歳なりの最大限だった。


「分かった」


俺は言った。


「証明する」


千歳は頷いた。


「では、作戦の話をしよう」

「切り替え早いな」


「今、感情の話を長くすると、君が倒れそうだから」


「俺を何だと思ってるんだ」

「意外と打たれ弱いホスト」


「間違ってないのが腹立つ」


ようやく、少し笑えた。千歳もほんの少し笑った。

重い話は終わっていない。でも、息はできるようになった。


****


料理が運ばれてきた。

前菜は綺麗すぎて、何を食べているのか一瞬分からなかった。


千歳は落ち着いた手つきで食べている。

俺はフォークの種類を見て固まった。

千歳がそれを見て、少し笑う。


「外側から」

「知ってる」


「今、内側を取りかけた」

「手が滑った」


「フォークが?」

「俺の心が」


「器用だな」


こんな会話で、救われる。

謝罪の後でも、俺たちは笑える。


完全に元通りではない。

むしろ、元に戻ってはいけない。でも、新しい形なら作れるかもしれない。


食事をしながら、千歳は資料の一部を見せた。

小さな端末に、白蝶会の動きがまとめられている。


「今後、敵は俺と君の関係を利用しようとする」

「だろうな」


「そのために、こちらから適度に餌を撒く」

「餌」


「君が俺を落としつつあるように見せる。俺は、それに乗っているように振る舞う」


「落ちたふり」

「そう」


「でも、決定的なものは渡さない」

「キスとか?」


言ってから、少しだけ空気が変わった。

千歳はフォークを置いた。


「昨日のことを言っているのか」

「まあ」


「触れなかったな」

「触れなかった」


「後悔している?」


聞き方がずるい。

俺は少し考えた。


「してない」


千歳の目がわずかに揺れる。


「したかったけど、してないことは後悔してない」

「……そうか」


「次に触れるなら、逃げじゃなくしたい」


千歳は視線を落とした。


「そういうことを、食事中に言うな」

「お前が聞いた」


「聞いた俺も悪かった」

「認めるんだ」


「今日は認める日らしいからな」


千歳は、少しだけ頬が赤いように見えた。

照明のせいかもしれない。いや、今日は見逃してやる。


「作戦上は」


千歳は無理やり話を戻した。


「公的な場では親密に見せる。ただし、決定的な映像や写真は取らせない」


「手をつなぐくらいは?」

「状況による」


「肩を抱くのは?」

「状況による」


「千歳さんを甘やかすのは?」

「それは常時許可する」


俺はむせかけた。


「何を堂々と」


「裏メニューだろう」

「使いこなすな」


「高くつくのか?」

「俺がな」


千歳が笑った。

それだけで、少しだけ救われる。


「余白の場所が必要だな」


千歳が言った。


「余白?」

「人前で演技をするなら、二人きりで整理する場所がいる。玻璃宮の本社でも、君の店でもない場所」


「セーフハウスみたいな?」

「そうだ」


「名前つけるのか」


「必要か?」

「千歳さんの母親、澪標の丘を余白って呼んでたんだろ」


千歳の動きが止まった。

俺は少しだけ迷ってから言う。


「なら、“余白の部屋”とか」


千歳は、しばらく黙った。


「安直だな」

「悪かったな」


「だが、悪くない」

「それ、千歳さん基準だと採用だろ」


「採用だ」


胸が少し温かくなった。


余白の部屋。

まだ見ぬ場所に、名前がついた。


人前では演技する二人が、本音で話すための場所。

ホストでも、御曹司でもなく、ただ纏と千歳でいられる場所。


「余白の部屋は、こちらで用意する」


千歳が言う。


「財閥の力」

「使えるものは使う」


「俺、入り浸っていいの?」

「入り浸るな」


「厳しい」


「必要な時に来い」

「必要かどうかは誰が決める」


千歳は俺を見る。


「二人で」


その一言が、妙に刺さった。

二人で決める。今まで千歳は、自分で決めることが多かった。


俺も、自分で抱え込むことが多かった。

でも、これからは二人で。


共犯だから。


****


食事が終わる頃、外はすっかり暗くなっていた。

個室の窓には、街の灯りが映っている。


その光の中で、千歳は少し疲れて見えた。

今日の話は、彼にとっても軽くなかったはずだ。


俺は水差しを取った。

千歳のグラスが空いている。


いつもの俺なら、グラスを持って渡す。

指が触れるくらい、いくらでも自然にできる。


でも今日は違った。

俺は水を注いだグラスを、千歳の手元へ滑らせるだけにした。触れない。

触れないまま、渡す。

千歳はそれを見ていた。


「今日は徹底しているな」


「何が」

「触れない」


言われて、胸が少し痛んだ。


「……今触れたら、ずるい気がする」


「ずるい?」

「謝った日に、手まで使って安心させてもらうのは違うだろ」


千歳は黙った。

そして、静かにグラスを取った。


「君は時々、本当に面倒なところで誠実だな」


「褒めてる?」

「半分」


「残りは?」

「困っている」


いつもの言葉。でも、少しだけ柔らかかった。

千歳は水を飲んだ。そして、静かに言った。


「今日は、よく話した」

「そうだな」


「君も」

「うん」


「悪くなかった」

「千歳さんの悪くなかった、最近かなり高評価に聞こえる」


「実際、高評価だ」

「認めた」


千歳は少し笑った。


「ただし、許したわけではない」

「分かってる」


「怒っていないわけでもない」

「それも分かってる」


「でも」

「うん」


「待つことにした」


胸が詰まった。


「君が、本当のことにしてみせるのを」


俺は、まっすぐ千歳を見た。


「絶対にする」


千歳は目を細める。


「大きく出たな」

「ホストなんで」


「逃げた」

「少し」


「だが、今日は許す」

「甘いな」


「今日だけだ」

「希少価値」


「高くつくぞ」

「千歳さんが?」


「俺が」


俺は笑った。千歳も笑った。

その笑い方は、まだ少しぎこちなかった。でも、確かに二人とも笑っていた。


****


店を出ると、夜風が冷たかった。

車はまだ来ていない。


俺たちは店の前で並んで立った。

周囲には人が少ない。


それでも、どこから見られているか分からない。

敵に。白蝶会に。依頼主に。


だから、ある程度親密に見せる必要がある。

千歳もそれを分かっている。


「少し近づくか」


千歳が言った。


「作戦?」

「作戦」


「本当に?」

「半分」


「残りは?」


千歳は少しだけ俺を見る。


「寒い」


俺は笑ってしまった。


「それなら最初から言えよ」

「言った」


「今な」

「君が聞く前に言っただけ成長だろう」


「偉い偉い」

「子供扱いするな」


でも、千歳は俺の隣に少し近づいた。肩が触れそうな距離。

俺は上着を脱ごうとして、やめた。


代わりに、千歳の側へ少し身体を寄せた。


「これでいい?」

「何が」


「風よけ」


千歳は、少しだけ目を伏せた。


「雑だな」

「嫌なら離れる」


「……離れろとは言っていない」


胸が熱くなる。

俺たちはそのまま、車を待った。


何も話さない時間が、前よりずっと自然だった。

しばらくして、千歳が小さく言った。


「纏」

「何」


「最初は仕事だったんだな」


改めて言われると、胸が痛む。


「うん」


「途中から違ったんだな」

「うん」


「今は?」


俺は千歳を見た。

その問いは、予想していた。

でも、いざ聞かれると苦しい。今は。


今は何なのか。仕事ではない。

ただの共犯でもない。好きだと、まだ言うには早い。


でも、そう言わないのは逃げかもしれない。


「今は」


俺は言葉を選んだ。


「お前に会いたい」


千歳の目が揺れる。


「仕事じゃなく?」

「仕事じゃなく」


「作戦でもなく?」

「作戦でもなく」


「では、何として」


俺は息を吸った。


「俺として」


答えになっているようで、なっていない。

でも、今の俺が言える一番だった。


千歳は、長い間黙った。そして、静かに言う。


「なら、今はそれでいい」

「今は?」


「次は、もっと聞く」

「厳しいな」


「待つことにしたと言っただろう」

「そうだった」


「待つからには、回収する」

「財閥っぽい」


「俺らしいだろう」


鏡味の車が来た。

千歳は乗り込む前に、俺を振り返った。


「余白の部屋が用意できたら連絡する」

「分かった」


「次からは、そこで話そう」


「何を」

「嘘の作り方と、本当の残し方」


その言い方が、あまりにも千歳らしくて、少し笑った。


「詩人かよ」

「財閥の跡取りだ」


「どっちも面倒くさいな」

「君ほどではない」


千歳は車に乗った。

ドアが閉まる直前、俺を見て言った。


「今日は逃げなかったな」

「だろ」


「次も逃げるな」

「そっちもな」


「善処する」

「そこは約束しろよ」


千歳は少し笑った。


「約束する」


ドアが閉まる。車が走り出す。

俺は、そのテールランプが見えなくなるまで立っていた。


許されたわけじゃない。完全に信じてもらえたわけでもない。

でも、切られなかった。待ってもらえることになった。


それだけで、膝から力が抜けそうになる。

冴の言葉を思い出す。

好きな人には、負けるくらいでちょうどいい。

今日の俺は、たぶんかなり負けた。でも、悪くない負けだった。


****


その夜、俺はClub Perigeeには戻らず、自分の部屋に帰った。

シャワーを浴びても、まだ胸の奥がざわついていた。


スマホを見ると、千歳からメッセージが届いていた。


『今日は話せてよかった」


短い。

けれど、千歳にしてはかなり素直だ。

俺は少し考えて、返した。


『俺も。遅くなって悪かった』


返信は少し遅れた。


『遅い。だが、待った甲斐はあった』


俺は顔を覆った。

本当に、こいつは。怒っているのに、こういうことを言う。


俺を責めるのに、逃げ道も残す。

いや、これは逃げ道じゃない。選択肢だ。


俺がこれからどうするかを、千歳は見ている。

もう一通、メッセージが来た。


『余白の部屋。悪くない名だ』


俺は笑った。


『採用ありがとうございます、御曹司様』


すぐに既読。


『名付け親として、責任を取れ』


俺は少しだけ息を止めた。

責任。その言葉に、いろんな意味が乗ってしまう。

俺は返す。


『取る。逃げないって言っただろ』


千歳の返信は、短かった。


『覚えておく』


俺はスマホを枕元に置いた。

部屋は静かだった。


Club Perigeeの派手な音も、玻璃宮本社の冷たい静けさも、ここにはない。

ただ、自分の呼吸だけがある。


最初は仕事だった。今日、やっと言えた。

許されてはいない。でも、隣にいることは許された。


次から俺たちは、敵を騙すためにさらに近づく。

偽装の親しさ。本物になりかけた感情。嘘と本当が、また絡まり始める。


でも、前と違うことがひとつある。

今度は、二人で嘘をつく。そして、その嘘の中に、本当だけは残す。


俺は目を閉じた。

千歳の声が、耳の奥に残っている。


君が、本当のことにしてみせるのを待つ。待っていろ。絶対にする。


言葉にはしなかった。

でも、胸の中でそう誓った。

その夜、俺は久しぶりに、夢も見ずに眠った。


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