第11話 俺の話なんて、つまんねぇよ
余白の部屋は、想像していたよりも普通の部屋だった。いや、普通というには広い。
都心から少し離れた、古い低層マンションの最上階。
外観は地味で、入口も目立たない。
オートロックも監視カメラもあるが、いかにも高級物件ですという顔はしていない。
部屋に入ると、広いリビングに、低いソファと木のテーブル。
壁際には本棚。小さなキッチン。奥に寝室がひとつ。
窓の外には、派手な夜景ではなく、古い住宅街の屋根が見えた。
玻璃宮千歳が用意したにしては、ずいぶん控えめだった。
「……もっと、すごい部屋かと思った」
俺が言うと、千歳はコートを脱ぎながら眉を上げた。
「すごい部屋とは?」
「床が大理石で、シャンデリアがあって、ワインセラーが壁一面にあって、風呂がガラス張り」
「君は玻璃宮を何だと思っている」
「金持ち」
「情報が浅い」
「金持ちの部屋ってそういうもんじゃないのか」
「それは成金の発想だ」
「御曹司様、毒舌」
「君が安い想像をするからだ」
俺は部屋を見回した。
照明は柔らかい。家具は高いのだろうが、主張しない。
ここには、千歳の本社みたいな冷たさも、Club Perigeeみたいな派手さもない。呼吸しやすい。
名付けるなら、たしかに余白の部屋だった。
「いい部屋だな」
俺が言うと、千歳は少しだけ目を細めた。
「褒めている?」
「今日は全部」
「珍しい」
「高くつくぞ」
「君が?」
「俺が」
いつものやりとり。少しだけ笑える。
でも、その後の沈黙は軽くなかった。
ここは、俺たちが本音を残すための場所だ。
敵を騙すための作戦を話す場所でもある。
そして今日は、俺自身の話をする日だった。
最初は仕事だった。
その謝罪は済ませた。でも千歳は言った。次に会う時は、君自身の話を聞かせてくれ。
灯庭舎のこと。俺が何を抱えて、ここまで来たのか。その話を、俺はまだしていない。
正直、逃げたい。
俺の話なんて、面白くない。
ホストとして飾れる話ならいくらでもある。笑える失敗談も、泣ける苦労話も、客が喜ぶように味つけした過去も出せる。
でも、本当の話となると途端に言葉が重くなる。
孤児院育ち。金がない。親がいない。
そんな話は、同情か気まずさを呼ぶ。
俺はそれが苦手だった。
かわいそうな男として見られるくらいなら、金の亡者で軽薄なホストの方がずっと楽だ。
千歳はリビングのテーブルに資料を置いた。
白蝶リゾート構想。灯庭舎の登記情報。周辺地図。
そして、白蝶会に関する調査メモ。
仕事の話ならできる。
そちらへ逃げたくなる。
俺は資料に手を伸ばした。
「まず作戦の確認から——」
「纏」
千歳が俺の名を呼んだ。静かな声だった。
俺は手を止める。
「逃げたな」
「……まだ何も」
「資料に逃げた」
「作戦も大事だろ」
「大事だ。だが、今日は先に君の話を聞く」
「御曹司様、優先順位が厳しい」
「君が逃げるからだ」
何も言えない。
千歳はソファに座り、向かいではなく隣の一人掛けを指した。
「座って」
「面接?」
「事情聴取」
「怖いな」
「逃げなければ怖くない」
「逃げたら?」
「追う」
即答だった。俺は笑ってしまった。
「怖い御曹司だな」
「今さらだ」
俺はソファに座った。
千歳は少し離れた一人掛けに座る。
近すぎない。けれど、逃げるには近い。
絶妙に嫌な距離だった。
千歳は水のグラスを二つ用意して、片方を俺に渡した。
「飲め」
「命令?」
「願い」
「真似するな」
「便利だろう」
俺はグラスを受け取った。指は触れなかった。
前なら、こういう時の指先の距離に無駄に反応していた。
今も反応はしている。けれど今日は、そこへ逃げてはいけない気がした。
水を飲む。喉が少し楽になる。でも、言葉は出てこない。
千歳は待っている。いつも通り。待つのが上手い男だ。
いや、違う。待つことに慣れすぎた男なのかもしれない。
母親がいなくなり、父親が遠くへ行き、玻璃宮という名前だけが残って。
誰かが自分を見つけてくれるのを、ずっと待っていたのかもしれない。
そんなふうに考えてしまって、俺は観念した。
「俺の話なんて、つまんねぇよ」
まず、そう言った。
千歳は眉ひとつ動かさない。
「君がそう言う時ほど、重要な話なんだろう」
「なんでも見抜くな」
「見抜いているんじゃない。君が分かりやすすぎる」
「ホスト失格だな」
「俺の前では、そうかもな」
それは妙に甘く聞こえた。
今は逃げ道にしてはいけないのに、胸が少し揺れる。
俺はグラスを置いた。
「俺は、灯庭舎で育った」
千歳は黙って頷く。
「本当の親のことは、あんまり覚えてない。覚えてないっていうか、覚えようとしてこなかった。誰かに聞けば何か分かったのかもしれないけど、知ってもどうしようもないだろ」
「うん」
「灯庭舎には、俺みたいなのが何人もいた。親がいないやつ。親はいるけど一緒にいられないやつ。理由はいろいろ。子供の頃は、そういう事情の違いなんてよく分からなかった」
古い廊下の匂いが、鼻の奥に蘇る。
雨の日の湿った木。冬の石油ストーブ。薄いカレー。
洗濯物。子供の泣き声。誰かの笑い声。
「俺は、よく喋る子供だったらしい」
千歳の目が少しだけ柔らかくなった。
「今もだな」
「うるさい」
「続けて」
「周りの顔色を見て、空気が悪くなる前にふざける。泣きそうなやつがいたら笑わせる。大人が困った顔をしてたら、いい子のふりをする」
「……」
「別に、優しかったわけじゃない。そうした方が、自分も安全だったんだと思う」
千歳は何も言わない。ただ聞いている。だから、続けられる。
「灯庭舎は、いい場所だった。でも、余裕がある場所じゃなかった。金はいつも足りない。建物は古い。院長先生は笑ってたけど、大人たちはよく困ってた」
「君は、それを見ていたんだな」
「見たくなくても見えるだろ。子供って、意外と大人の金のなさに敏感なんだよ」
千歳は少しだけ眉を寄せた。
「そうか」
「俺は早く稼ぎたかった。金があれば、だいたいの困った顔は減ると思ってた」
「それでホストに?」
「顔がよかったからな」
言った瞬間、千歳が呆れたように見る。
「そこで軽口に逃げるな」
「本当だろ」
「顔がいいことは否定しない」
「認めた」
「だが、それだけではないはずだ」
本当に容赦がない。俺は苦笑した。
「顔がよくて、口が回って、人の顔色を見るのが得意だった。ホストは向いてた」
「君にとって、ホストは何だった?」
「最初は金になる仕事」
「今は?」
俺は少し考えた。
Club Perigeeの照明。客席で笑う女の子。悪い男から逃げたい客。助けた女たち。
螢の呆れた顔。冴の小言。
そして、千歳が店に来た夜。
騒がしいのに息ができる。そう言ってくれた。
「逃げ道」
俺は言った。
「誰かにとっての?」
「たぶん」
「君自身にとっては?」
言葉が詰まった。痛いところを突かれた。
千歳は、こういう時に遠慮しない。
「俺にとっては……稼ぐ場所」
「それだけ?」
「……役に立てる場所」
言ってから、自分で少し驚いた。
千歳は黙っている。
「客が欲しい言葉を渡す。泣きたいなら泣けるようにする。悪い男に捕まってるなら逃がす。そういうの、俺にはできたから」
「うん」
「でも、それが善行みたいに言われるのは嫌だ」
「なぜ」
「俺は金をもらってる」
「金をもらったら、優しさではなくなるのか」
「……」
「君は、金と優しさが同じ場所にあると落ち着かないんだな」
また、名前をつけられた。俺がずっと見ないふりをしていたものに。
「そうかもな」
「なぜ?」
「金のために優しくしてるって思われるのが嫌なんじゃない。逆だ」
「逆?」
「優しさのために金を欲しがってるって思われるのが、嫌だ」
言った瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
「それを知られると、そこを突かれる。灯庭舎みたいに」
千歳の表情が静かに変わった。
「……君は、守りたいものを弱点にされるのが怖いのか」
「怖いよ」
即答だった。
「灯庭舎があるから、俺はこの仕事を受けた。金が必要だったから、白蝶会の餌に食いついた。守りたいものがあると、足元を見られる」
「だから隠す」
「そう」
「俺にも?」
俺は息を止めた。千歳は静かに俺を見ている。
責めているわけではない。でも、逃がす気もない。
「……最初は」
「今は?」
「見せたいと思ってる」
千歳の瞳が揺れた。
「灯庭舎を?」
「うん」
「俺に?」
「お前に」
言ってから、妙に恥ずかしくなった。顔が熱い。
「ただ、まだ心の準備がいる」
「俺が?」
「俺が」
千歳は少しだけ笑った。
「君でも準備が必要なんだな」
「俺を何だと思ってるんだよ」
「口が回るくせに、肝心なところで臆病な男」
「最近、評価が的確すぎる」
「見ているからな」
その一言で、胸が鳴る。
俺はグラスを持ち上げようとして、やめた。
今逃げたら、また見抜かれる。
「灯庭舎には、院長先生がいる」
俺は話を続けた。
「俺が小さい頃からずっといる人。めちゃくちゃ優しいけど、たまに言葉が痛い」
「冴さんと似ている?」
「ちょっとな。冴はもっと遠慮がない」
「想像できる」
「子供たちは、うるさい。蓮太っていうガキがいて、金持ちは札束で汗を拭くと思ってる」
千歳が目を瞬かせた。
「何だそれは」
「お前が来たら聞かれるぞ」
「答えを用意しておく」
「まさか拭くのか」
「君で試すか?」
「やめろ。札束で頬叩かれるホスト、絵面が最悪だろ」
千歳が笑った。ちゃんと声が出た。
その笑い方に、俺の胸が軽くなる。重い話の中で、こうやって笑えるのはありがたい。
「子供たちは、君を慕っているんだな」
「どうだろうな。からかいやすいだけだろ」
「それは好かれているということだ」
「千歳さん、子供相手にまともに喋れる?」
「失礼だな」
「泣かれそう」
「なぜ」
「顔が綺麗すぎて怖い」
「君は泣かなかった」
「俺は大人だからな」
「時々疑わしい」
「ひど」
千歳はまた少し笑った。
でも、すぐに表情を整える。
「灯庭舎の資金難は、いつからだ」
来た。
現実の話。俺は息を整える。
「ずっと余裕はなかった。でも本格的にやばくなったのは、数年前から。大口の出資話が一度流れて、それで逆に信用を失った」
千歳の目が鋭くなる。
「出資話?」
「ああ。ボランティアで出入りしてた男が、支援者を紹介できるって言った。けど、結果的に金を持ち逃げされたような形になったらしい」
「その男の名前は?」
「分からない」
俺は首を振った。
「俺はその時、もう灯庭舎を出て働き始めてた。詳しいことは院長先生もあまり話したがらない。ただ、それ以来、出資者が離れて、運営が厳しくなった」
千歳の顔が険しくなった。
「資料は残っているか」
「たぶん。でも院長先生に聞かないと」
「聞けるか」
「聞く」
「嫌なら俺が」
「いや」
俺は即答した。
「俺が聞く」
千歳は俺を見た。
「分かった」
「お前に任せたら、院長先生が緊張する」
「俺はそんなに怖いか?」
「御曹司様だからな」
「君は平気そうだ」
「俺は慣れた」
「俺に?」
「お前の皮肉に」
千歳が少し笑う。でも、その目はまだ鋭い。
出資話。持ち逃げ。ボランティア。
その言葉が、今後どこへ繋がるのか。俺はまだ知らない。
でも千歳の顔を見る限り、彼は何かを感じている。
「その男」
千歳が言う。
「白蝶会や狗飼錆人につながる可能性がある」
胸がざらついた。
狗飼錆人。嫌な名前。嫌な目をした男。
「……やっぱり、そう思うか」
「まだ断定はしない。だが、手口が似ている」
「手口?」
「弱い場所に入り込み、善意や資金援助の顔をして信用させる。その後、資金の流れを壊し、孤立させる」
千歳の声が低くなる。
「開発前の地ならしとしては、よくある」
「よくあるのかよ」
「よくあるから、許されるわけではない」
その声には、怒りがあった。
俺のために怒っているのか。灯庭舎のために怒っているのか。
それとも、弱いものが削られる仕組みそのものに怒っているのか。
たぶん全部だ。
「纏」
「何」
「灯庭舎の件は、俺も調べる」
「いいのか」
「澪標の丘の一部だ。俺の守る場所でもある」
その言い方に、胸が熱くなった。
俺だけの問題じゃない。千歳だけの問題でもない。俺たちの守りたい場所が、また重なる。
「頼む」
素直に言えた。
千歳の目が、少しだけ柔らかくなる。
「珍しいな」
「何が」
「君が、すぐに頼った」
「……お前なら頼っていい気がした」
言ってしまった。
千歳の動きが止まる。
「そうか」
「うん」
「では、頼られよう」
「上からだな」
「上にいるからね」
いつもの言葉。でも、今日は少し違う。
その高さが、俺を見下ろすためではなく、遠くを見るためのものだと、もう知っている。
少し休憩しようと、千歳がキッチンに立った。
「何か飲むか」
「御曹司様が入れてくれるのか?」
「水くらいなら」
「紅茶は?」
「鏡味ほど上手くない」
「じゃあ水で」
「君は遠慮がないな」
「お前限定裏メニュー」
「それは俺の台詞だ」
千歳がグラスに水を注ぐ。それだけの動作なのに、妙に絵になる。
俺はソファに座ったまま、部屋を眺めた。
まだ何もない。生活感もない。でも、これから何かが増えていく気がした。
俺たちの作戦メモ。
灯庭舎の資料。澪標の丘の写真。千歳が置いていく手袋。
俺が適当に買ってくる安いマグカップ。
そういうものが、この部屋に少しずつ積もっていく。
ここが本当に余白になる。そう思った。
千歳が水を持って戻ってきた。
「何を見ている」
「この部屋、まだ空っぽだなって」
「必要なものは揃っている」
「そういう意味じゃなくて」
「では?」
「これから、俺たちのものが増えそうだなって」
千歳の指が、グラスを置く途中で止まった。
「俺たちの?」
「作戦資料とか、メモとか、そういう意味」
慌てて言い足すと、千歳は少し目を細めた。
「逃げた」
「少し」
「今日の君はよく認める」
「逃げない予定なんで」
「予定」
「努力目標」
千歳はグラスを俺に渡した。指先が少し触れる。
昨日の未遂が、一瞬だけ蘇る。触れそうで触れなかった距離。手だけを握ったこと。
俺はグラスを受け取り、すぐに指を離した。
千歳がそれを見る。
「まだ、触れないのか」
直球だった。
水を飲み損ねるところだった。
「……話の流れ、急じゃないか」
「急ではない。昨日の続きだ」
「御曹司様、回収が早い」
「待つと言ったが、忘れるとは言っていない」
俺はグラスを置いた。
逃げるな。何度も言われている。
「触れたいよ」
言った。千歳の目が揺れる。
「でも、まだ怖い」
「何が」
「触れたら、自分の都合のいい方に全部持っていきそうで」
「君は、俺をそんなに簡単に流される男だと思っているのか」
「思ってない」
「では?」
「俺が流されそうなんだよ」
沈黙。
千歳は俺を見ている。
俺は視線を逸らさなかった。
「お前の近くにいると、欲が出る」
千歳の呼吸が、少し変わった。
「どんな?」
「聞くな」
「聞く」
「性格悪いな」
「何度も言われた」
俺は深く息を吐いた。
「お前に触れたい。笑わせたい。困らせたい。休ませたい。俺以外に弱い顔見せるなって言いたくなる」
言ってから、心臓がうるさくなる。
「そういうのが、全部一気に来る。だから怖い」
千歳は黙っていた。
それから、少しだけ目を伏せる。
「俺も」
胸が止まる。
「俺も?」
「君を試したくなる。困らせたくなる。近づかせたいのに、近づいたら怖くなる」
千歳の声は低い。
「君が他の誰かに笑うと面白くない。君が自分を雑に使うと腹が立つ。君が灯庭舎の話をする時、そこに自分も入りたいと思った」
「……」
「君だけが怖いわけではない」
何も言えなかった。
千歳が、そこまで言うとは思わなかった。
それは告白ではない。まだ、そういう名前ではない。でも、感情の輪郭はもうはっきりしている。
「だから」
千歳は続けた。
「今は、触れないでいい」
俺の胸が、少しだけ痛んだ。
千歳は俺を見る。
「ただし、逃げるな」
「……うん」
「触れないことを、逃げ道にするな」
「分かった」
「触れないなら、その理由を言え。待たせるなら、待たせる理由を言え」
この男は、本当に強い。
ただ待つだけではない。待つからには、理由を求める。自分を曖昧に扱わせない。
その強さが、たまらなく好きだと思った。
思ってしまった。
「千歳さん」
「何かな」
「俺、たぶん」
言いかけて、止まった。
好きだ。そう言いそうになった。
でも、まだ。まだ早い。
今日の話は、俺の過去と灯庭舎。そして共犯の始まり。
ここで言うには、まだ責任が足りない。
千歳は、急かさなかった。ただ見ている。
俺は苦笑した。
「いや。まだ分類中」
千歳は少しだけ笑った。
「ずるいな」
「お前ほどじゃない」
「では、待つ」
「また?」
「君が分類を終えるまで」
「長いかも」
「検討する」
「そこは待てよ」
「善処する」
二人で笑った。
甘い。でも、どこか痛い。それが今の俺たちらしかった。
しばらく沈黙が落ちた。
今度の沈黙は、逃げるための沈黙ではなかった。
言いすぎた言葉を、互いに置くための沈黙だった。
千歳はグラスを置き、少しだけこちらへ身を傾けた。
「纏」
「何」
「君は、ずっと逃がす側だったのか」
その問いに、喉が詰まった。
客を逃がす。子供を笑わせる。大人の困った顔を減らす。
灯庭舎を守る。誰かの逃げ道を作る。
それは、俺にとって仕事で、癖で、生き方みたいなものだった。
「……たぶん」
「君自身は?」
「何が」
「誰かに、逃がしてもらったことは?」
答えられなかった。
灯庭舎は俺を生かしてくれた。院長先生は俺を育ててくれた。冴も螢も、俺の隣にいてくれた。
でも、俺はずっと、自分でなんとかする側に回ろうとしていた。
弱いと思われる前に笑って。
助けてと言う前に稼いで。
寂しいと言う前に誰かを笑わせて。
「分からない」
やっと言った。
「たぶん、あんまり上手くない」
千歳はしばらく俺を見ていた。
それから、ゆっくり手を伸ばした。
俺は反射的に身構えた。
キス未遂の夜の記憶が、指先に戻る。
でも千歳の手は、俺の唇にも、肩にも、頬にも来なかった。
テーブルの上に置いていた俺の手に、そっと触れた。
指先だけ。確かめるように。逃げてもいい距離で。
「千歳さん」
「今は」
千歳の声は静かだった。
「ここにいろ」
慰めではなかった。
かわいそうだと撫でる手ではなかった。
逃げ続けてきた俺を捕まえる手でもない。
ただ、ここにいろと言う手だった。
ここは余白の部屋。
逃げない場所。俺の過去も、金の汚さも、灯庭舎への執着も、まだ名前をつけきれない感情も。全部抱えたまま、今だけここにいろ。
そう言われた気がした。
「命令?」
俺はかすれた声で聞いた。
千歳は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「願い」
胸の奥が熱くなった。
千歳の指が、俺の手に重なる。
握るというほど強くはない。けれど、確かに離れない。
俺は、しばらくその手を見ていた。
冷たいと思っていた千歳の手は、今日は少しだけ温かかった。いや、たぶん。
俺の手が冷えていたのかもしれない。
「確かめていいか」
俺が言うと、千歳の睫毛が揺れた。
「何を」
「俺が、今ここにいていいか」
千歳は、少しだけ指に力を込めた。
「許可する」
その言い方が、あまりにも千歳らしくて。
俺は笑いそうになって、でも少し泣きそうにもなった。
泣かなかった。泣けなかった。
代わりに、千歳の手をほんの少しだけ握り返した。
「……いる」
「うん」
「今は、ここにいる」
「それでいい」
その短いやりとりだけで、息が少し楽になった。
手を握ることは、相手を引き寄せるためだけのものじゃない。
逃げないと確かめるためのものでもある。
冴が前に言っていた、手が強いという謎の言葉。
少しだけ、分かった気がした。
分かるのが遅い。でも、今なら分かる。
千歳の手は、俺を慰めるためではなく、俺を俺のまま、ここに置くためにあった。
長くは握らなかった。千歳は、俺が落ち着くのを待ってから、ゆっくり手を離した。
離れた場所が、少し寒い。でも、その寒さも嫌ではなかった。
手を握ってもらったことが、ちゃんと残っているから。
****
夕方、余白の部屋を出る前に、俺はテーブルの上に小さなメモ帳を置いた。
コンビニで買った安いやつだ。
千歳がそれを見る。
「何だ、これは」
「作戦メモ」
「この部屋に置くのか」
「だめか?」
「いや」
千歳は手に取り、表紙を眺めた。
「ずいぶん安いな」
「文句言うな。ホストの自腹だぞ」
「君は金の使い方が下手だな」
「よく言われる」
千歳はメモ帳の最初のページを開いた。
俺はペンを渡す。
「何を書く」
「部屋の名前」
千歳は少し考え、丁寧な字で書いた。
ーー
余白の部屋
ーー
それだけ。
でも、その文字を見た瞬間、胸が少し温かくなった。
「千歳さん、字きれいだな」
「君は汚そうだ」
「失礼な」
俺はその下に、自分の字で書き足した。
ーー
逃げない場所
ーー
千歳がそれを見て、少しだけ黙る。
「……悪くない」
「採用?」
「採用」
こうして、余白の部屋に最初の小物ができた。
安いメモ帳。千歳の字と、俺の字。
まだ何も解決していない。むしろ問題は増えている。
白蝶会。
狗飼錆人。灯庭舎を過去に壊したかもしれない男。
敵に見せるための偽装関係。
許されきっていない俺。信じきれていない千歳。
でも、この部屋には、逃げない場所という名前が加わった。
それだけで、少し前へ進める気がした。
帰り際、玄関で千歳が言った。
「次は、灯庭舎について調べる」
「うん」
「院長先生に話を聞く時は、君一人で行くか?」
「まずはな」
「俺は?」
「待て」
千歳が眉を上げる。
「命令?」
「願い」
「俺が待つ側か」
「珍しいだろ」
「……悪くない」
「高評価」
千歳は少し笑った。
「ただし、長く待たせるな」
「分かってる」
「それと」
「何」
「灯庭舎へ行く時は、事前申請する」
俺は笑った。
「本気で来る気かよ」
「言っただろう。いつか見たい」
「札束の汗拭き練習しとけよ」
「君で試す」
「やめろって」
千歳は笑った。
その笑顔を見て、俺はやっぱり思った。この人を、灯庭舎に連れて行きたい。
俺がいていい場所だったところへ。
そして、できれば。これからも、俺がいていい場所にしたいところへ。
****
その夜、俺は冴に電話で報告した。
灯庭舎のことを話した。
千歳が聞いてくれたこと。
過去の出資詐欺らしき話に狗飼錆人が関わっているかもしれないこと。
余白の部屋にメモ帳を置いたこと。
触れたいけれど、まだ触れないと話したこと。
それから、千歳が、俺の手を握ったこと。
慰めじゃなくて、ここにいろと言ったこと。
冴はしばらく黙っていた。
『いいね』
「何が」
『全部』
「雑だな」
『特に手』
「やっぱそこかよ」
『そこ。腐女子向けに言うと、ここで千歳さんから手を握るのが強い』
「何で毎回その方面から来るんだよ」
『だって強いから。慰めじゃなくて、今はここにいろ、でしょ? 最高じゃん』
「最高かは知らんけど」
『最高だよ。今まで纏が誰かの逃げ道を作ってきた。今回は千歳さんが纏を逃がさない。でも縛るんじゃなくて、ここに置く。手だけでそれをやる。沼』
「沼って便利すぎる」
『便利だよ』
俺は自分の手を見た。もう千歳の手はない。
それでも、まだ残っている。あの指の温度。ここにいろ、と言われた時の重さ。
『あと、余白の部屋に小物が増えたのもいい』
「メモ帳か」
『そこ大事。場所に感情が宿るから』
「お前、たまに編集者みたいなこと言うな」
『それから、触れない理由を言えたのもよかった』
「……そうか」
『うん。次はたぶん偽装恋人開始だね』
「まだ恋人じゃないけどな」
『だから偽装』
「ややこしい」
『でもそこが美味しい。外では恋人っぽく振る舞う。でも内側では、まだ許しきれない、信じきれない、触れきれない。なのに好きが漏れる』
「説明すんな。恥ずい」
『恥ずいものを書——じゃなくて、やるんだよ』
「今何か変なこと言いかけただろ」
『気のせい』
「絶対気のせいじゃない」
冴は笑った。
『次のテーマは、外では軽く、裏では重く』
「……まさにだな」
『偽装恋人、はじめました』
「勝手にタイトル決めるな」
『いいじゃん。分かりやすい』
俺はスマホを耳に当てたまま、余白の部屋のことを思い出していた。
千歳の字。俺の字。逃げない場所。
そして、テーブルの上で重なった手。
本当に、逃げないでいられるだろうか。まだ分からない。
でも、千歳が待つと言った。俺も待つと言った。
千歳が、ここにいろと言った。俺は、いると答えた。
それだけで、今は十分だった。
通話を切った後、千歳からメッセージが来た。
『メモ帳は置いておく』
俺は笑った。
『捨てるなよ』
すぐ既読。
『捨てない。君の字があまりに汚いので、戒めとして残す』
「こいつ……」
思わず声が出た。
でも、口元は笑っていた。
『次はもっと丁寧に書く』
返信。
『期待している』
また、それだ。
期待している。最初の頃は、その言葉に腹が立った。
今は、胸が熱くなる。
俺は返事を打った。
『期待しとけ。逃げない場所にするから』
千歳からの返事は、少し遅れた。
『なら、俺も逃げない』
たった一文。でも、それで十分だった。
俺たちは、まだ恋人ではない。許しきれてもいない。触れることすら、まだ怖い。
それでも、同じ地図に立って、同じ場所を守ることを決めた。
余白の部屋には、安いメモ帳が一冊置かれた。
その最初のページには、二人の字でこう書いてある。
余白の部屋。
逃げない場所。
そして俺の手には、まだ千歳の温度が残っている。今はここにいろ。
その願いごとみたいな命令を、俺はたぶん、しばらく忘れられない。
俺たちは、そこから少しずつ、本当の共犯関係へ進んでいく。




