第12話 偽装恋人、はじめました
余白の部屋に置いた安いメモ帳は、翌日には二冊に増えていた。
一冊目は、俺がコンビニで買ったやつ。表紙に少し折れ目があって、千歳に「字が汚い」と言われた、あの作戦メモ。
二冊目は、千歳が用意したらしい、やけに上等なノートだった。
革みたいな手触りの黒い表紙。紙も厚い。ペンを走らせるだけで金がかかっていそうな音がする。
俺はそれを見た瞬間、顔をしかめた。
「何これ」
「作戦用ノートだ」
千歳は当然のように言った。
余白の部屋のテーブルには、資料が広げられている。
白蝶リゾート構想。
白蝶会関係者リスト。
狗飼錆人の周辺情報。
玻璃宮グループ内の推進派と反対派の相関図。
そして、灯庭舎に関する調査メモ。
昨日まで空っぽだった部屋に、一気に現実が持ち込まれた感じがした。
「作戦用ノートって、こっちの安いやつがあるだろ」
俺はコンビニのメモ帳を指差した。
千歳は一瞥する。
「それは君の字が汚い」
「理由がひどい」
「作戦を残すには視認性が必要だ」
「御曹司様、メモ帳にも格式を求めるのかよ」
「最低限の読みやすさを求めているだけだ」
「俺の字、そんなに?」
千歳は無言で、コンビニのメモ帳を開いた。最初のページ。
余白の部屋。
その下に俺の字。逃げない場所。
たしかに、やや乱れている。けど読める。読めるだろ。
「味があるだろ」
「味で暗号化するな」
「失礼な」
千歳は黒いノートを開き、綺麗な字で書いた。
ーー
偽装関係運用方針
ーー
「急に仕事感」
「仕事だ」
「恋人ごっこじゃなくて?」
千歳の手が止まった。
「君は、これをごっこにしたいのか?」
言い方が静かだった。責めているわけではない。
でも、刺さる。俺はソファに座り直し、首の後ろをかいた。
「したくない」
「なら、仕事だ」
「でも、ただの仕事にも戻せない」
千歳が顔を上げる。
俺は逃げずに続けた。
「戻せないから、ちゃんと決めたい」
千歳の目が少しだけ揺れた。それから、彼は小さく息を吐く。
「そうだな」
ノートの文字が一行増える。
ーー
仕事として始める。ただし、本当を傷つけない。
ーー
俺はその文字を見て、胸が少し詰まった。
千歳は、こういうことをさらっと書く。
嘘を扱う作戦の中に、本当を残す。
それがこの部屋の役割なのだと、改めて分かった。
「まず、敵に見せる関係性を整理する」
千歳がペンを持ったまま言う。
「敵に見せる?」
「白蝶会は、俺が君に溺れているという構図を欲しがっている」
「男に溺れる御曹司」
「そうだ。財閥跡取りとして不適格だと印象づけるには、分かりやすい」
「腹立つな」
「腹を立てるのは後にしろ」
「今も立てていいだろ」
千歳は少しだけ口元を緩めた。
「では、半分だけ許可する」
「御曹司様、怒りにも許認可制」
「君は放っておくと全部顔に出す」
「出てねぇよ」
「出ている」
いつものやりとり。それだけで少し呼吸が楽になる。
千歳はノートに箇条書きを始めた。
ーー
一、人前では親密に見せる。
二、ただし決定的な証拠は渡さない。
三、二人きりでは嘘をつかない。
四、触れる時は理由を共有する。
ーー
俺は四番目で手を止めた。
「理由を共有」
「必要だろう」
「手を取るにも?」
「状況による」
「肩を抱くにも?」
「状況による」
「腰は?」
千歳の目が細くなった。
「君は、なぜ急に具体的になる」
「作戦確認」
「目が泳いでいる」
「泳いでない」
「照明のせいか?」
「ここは照明がいいからな」
千歳は呆れたように、でも少しだけ楽しそうに息を吐いた。
「腰は、よほど必要な時だけだ」
「許可制なんだ」
「当然だ」
「じゃあ、千歳さんから触るのは?」
千歳のペンが止まった。
「俺から?」
「俺ばっかり触る想定なの、不公平だろ」
「君は触るのが仕事だったんじゃないのか」
「お前には仕事で触りたくないって、何回言わせる気だよ」
言った瞬間、空気が止まった。
千歳が黙る。俺も黙る。こういう言葉が、最近は不意に出る。
軽くない言葉が、会話の隙間から落ちる。
千歳は少しだけ目を伏せた。
「……そうだったな」
「うん」
「では、俺から触る場合も、理由を共有する」
千歳はノートに書き足した。
ーー
五、千歳から触れる場合も同様。
ーー
「自分で名前書くと仕事感あるな」
「では、君が書くか?」
「俺が書いたら暗号になるんだろ」
「自覚があるなら改善しろ」
「善処する」
「便利な言葉を使うな」
二人で少し笑った。でも、その笑いは長く続かなかった。
資料の一枚に、今日の予定が書かれている。
夜、玻璃宮グループ主催の小規模レセプション。
美術財団の支援者向けで、白蝶会関係者も数名参加予定。
狗飼錆人本人はいない可能性が高いが、瑠璃香側の目はある。
つまり今日が、偽装恋人の初陣だった。
「最初から本番かよ」
俺が言うと、千歳は涼しい顔で頷いた。
「小規模な方が試しやすい」
「小規模って言っても、俺から見たら十分えげつないけどな」
「君は少し慣れた」
「慣れたくなかった世界だ」
「俺は君の店に慣れた」
「一回来ただけだろ」
「十分だ。騒がしかった」
「悪口?」
「半分」
「残りは?」
千歳は少しだけ視線を外す。
「息ができた」
その一言で、俺は何も言えなくなった。
前にも言われた。君の店は、騒がしいのに息ができる。
それを覚えているだけで、胸が熱くなる。
千歳は、すぐに話を戻した。
「今日の会場では、俺が君を呼んだ形にする」
「俺からじゃなく?」
「君が俺を追いかけているように見せるより、俺が君を近くに置きたがっているように見せた方が、白蝶会は食いつく」
「御曹司がホストに夢中」
「そうだ」
「……お前、大丈夫なのか」
千歳はペンを置いた。
「大丈夫ではない」
正直だった。
「だが、必要だ」
「必要でも、自分を雑に使うなって言っただろ」
「覚えている」
「なら」
「だから、君を呼んだ」
胸が鳴った。
千歳はまっすぐ俺を見る。
「一人で雑に使う気はない。君と使う」
「言い方」
「何かおかしいか?」
「いろいろ」
「君はすぐ変な方向に取る」
「お前が言わせてる」
千歳は少しだけ笑った。
でも、その目は真剣だった。
「纏。今日、俺はたぶん君に寄る」
「……」
「人前で」
「うん」
「演技として」
「うん」
「だが、嫌なら止める」
その言葉は、かなり丁寧だった。
千歳が、俺に選択肢を渡している。
俺は深く息を吸った。
「嫌じゃない」
千歳の瞳が揺れる。
「ただ、演技でも、ちゃんと言え」
「何を」
「今から触るとか、近づくとか」
「その場で?」
「難しければ合図でもいい」
千歳は少し考えた。
「合図」
「そう」
「では、グラスを左手に持ち替えたら、近づく」
「妙に具体的だな」
「作戦だからな」
「右手なら?」
「通常」
「両手なら?」
千歳はじっと俺を見る。
「君はなぜ、そういう余計な分岐を作る」
「気になった」
「両手なら、助けろ」
俺は一瞬黙った。
冗談みたいな流れの中に、急に本気が混ざった。
「分かった」
「……」
「両手なら、絶対助ける」
千歳は目を伏せた。
「軽くないな」
「軽く言ってない」
「なら、困る」
「困っとけ」
千歳は少し笑った。
「命令?」
「願い」
「またか」
余白の部屋を出る前に、千歳は黒いノートを閉じた。
俺はコンビニのメモ帳を手に取る。
最初のページの下に、新しく一行書いた。
ーー
偽装恋人、開始。
ーー
千歳が覗き込む。
「やはり字が汚い」
「読めるだろ」
「読めるが、恋人の文字がひどい」
「そこだけ見るな」
「偽装より恋人の方が崩れている」
「うるさい」
千歳は笑った。
その笑い方が、柔らかくて、ほんの少しだけ、本物の恋人みたいに見えた。
そう思ってしまって、俺は慌てて目を逸らした。
****
今日の会場は、前より少しこぢんまりしていた。
ただし、俺の感覚では十分に豪華だ。ホテルの中層階にあるプライベートラウンジ。
壁には抽象画。奥には小さなバーカウンター。招待客は三十人程度。
財界人、美術関係者、旧家の関係者、そして白蝶会の匂いがする人間が数人。
俺が会場に入ると、視線が集まった。
もう慣れてきた。
ホスト。御曹司の男。
玻璃宮千歳の近くに出入りしている、夜の匂いをまとった異物。
敵が欲しがる噂の種。それが今の俺の役割だ。
俺は堂々と笑った。
逃げるより、笑う方が得意だ。
会場の奥に、千歳がいた。
濃紺のスーツ。白いシャツ。いつもより少しだけ柔らかいタイ。
周囲と話している姿は、完璧な御曹司そのものだった。
でも、俺が入った瞬間、視線だけがこちらに来た。
ほんの一瞬。
その一瞬で、俺は少し息がしやすくなった。
千歳がグラスを右手で持っている。
通常。
俺は心の中で確認する。
焦るな。今日は作戦だ。でも、本当を傷つけない。
千歳の周囲にいた男たちの一人が、俺に気づいた。
前に見た白蝶会関係者ではないが、同じ匂いがする。
白いポケットチーフ。
笑っているのに、目が笑っていない。その男が千歳に何か耳打ちした。
千歳は穏やかに微笑んだ。そして、グラスを左手に持ち替えた。
合図。心臓が鳴る。早い。もうか。
千歳は、会話の流れを自然に切るように俺の方へ歩いてきた。
周囲の視線も一緒に動く。
俺はその場で待った。
逃げない。
千歳は俺の目の前で立ち止まる。
「遅い」
「時間ぴったりですけど」
「俺が待った」
「御曹司様、最近わがままじゃないですか」
「君が甘やかすからだろう」
周囲に聞こえる程度の声。
軽い。親しい。少し甘い。完璧な演技。
いや、演技にしては、俺の胸がうるさい。
千歳は半歩近づいた。肩が触れそうな距離。
左手のグラスが光る。分かっていたはずなのに、近い。
「今日も、よく似合っている」
千歳が言った。
「俺が?」
「他に誰がいる」
「御曹司様に褒められると、高くつきますよ」
「知っている。君は高くつく」
「俺が?」
「君が」
いつものやりとり。
でも今日は、人前だ。白蝶会の目がある。だから、俺は笑って一歩近づいた。
「じゃあ、請求書は後で」
千歳が少しだけ目を細める。
「余白の部屋に置いておけ」
その単語を人前で出すな。
心臓に悪い。もちろん周囲には意味が分からない。
でも俺には、あの部屋の空気が一瞬で浮かんだ。
メモ帳。逃げない場所。
作戦ノート。触れる理由。
俺は動揺を笑顔で隠した。
「秘密の場所みたいに言うなよ」
「違うのか?」
「……違わない」
千歳の瞳が、ほんの少し揺れた。
あ、まずい。今のは演技を越えた。
でも、周囲には親密な軽口にしか見えない。
白いポケットチーフの男が、こちらをじっと見ている。
よし。餌は撒けている。
問題は、俺の心臓が餌に食いついていることだ。
千歳は俺を会場の中央へ連れていった。
「紹介しよう」
何人かの関係者に、千歳は俺を紹介した。
「架橋纏。Club Perigeeのホストだ」
ざわつきが小さく起きる。
千歳は続けた。
「最近、俺が個人的に親しくしている」
個人的に。その言葉が、やけに響いた。
「千歳さん」
俺は小声で言う。
「何かな」
「火力高くない?」
「控えめだ」
「財閥基準怖いな」
「君の店のシャンパンコールより静かだ」
「方向性が違う」
千歳は涼しい顔で、俺を隣に置いたまま会話を進めた。
俺も、適度に軽口を挟む。場違いすぎず、馴染みすぎず。
「夜の街の話も、芸術支援と無縁ではありませんよ」
俺がそう言うと、ある美術関係者が興味を示した。
「どういう意味ですか?」
「うちの店に来る人たちって、現実に疲れてる人が多いんです。綺麗な照明、綺麗な嘘、綺麗な言葉。そういうものに金を払う。美術館に行く人と、少し似てる気がします」
千歳が横で少しだけこちらを見る。
俺は続ける。
「違う世界に逃げたい。でも、逃げたあと現実に戻るための力がほしい。そういう意味では、夜の店も、絵も、音楽も、案外近いのかもしれません」
美術関係者が感心したように頷いた。
「面白い視点ですね」
俺は笑った。
「ホストなんで、人の逃げ道には少し詳しいんです」
千歳の指が、グラスを軽く叩いた。
反応した。
たぶん。会話が少し流れたあと、千歳が小声で言った。
「君は、時々本当に腹が立つほどいいことを言う」
「褒めてる?」
「全部」
心臓が止まりそうになった。
全部。半分じゃなく。
俺は一瞬、返事に詰まった。
千歳がそれを見て、少しだけ満足そうに笑う。
「顔」
「何」
「嬉しそうだ」
「してねぇよ」
「してる」
「人前で分析するな」
「では、後で」
後で。余白の部屋で。そう聞こえてしまう。
まずい。本当にまずい。
この偽装恋人作戦、敵より先に俺が落ちる。
いや、もう落ちている。認めたくないだけで。
しばらくすると、白いポケットチーフの男が近づいてきた。
「玻璃宮様」
千歳の顔が変わる。御曹司の顔。
「何でしょう」
「凍蝶院様より、ご挨拶を預かっております。近頃、ずいぶんと楽しそうだと」
「それはどうも」
「そちらの方と、ご親密だとか」
男の視線が俺へ向く。
値踏み。軽蔑。好奇。混ざった嫌な目。
俺は笑顔で受ける。
「おかげさまで、退屈はさせてません」
男が薄く笑う。
「ホストの方は、退屈を埋めるのがお上手でしょうから」
「そうですね。退屈な人ほど、よく喋ってくださいます」
一瞬、男の笑みが固まった。
千歳が隣で、ほんの少しだけ笑った気配がした。
男はすぐに取り繕う。
「ですが、玻璃宮様ほどのお立場の方が、夜の方とあまり親しくなさるのは、いらぬ誤解を招くのでは」
千歳は穏やかにグラスを持ち替えた。
左手ではない。右手。
通常。
「誤解とは?」
「世間はいろいろと騒ぎます」
「世間ではなく、あなた方が騒ぎたいのでは?」
静かに斬った。
男の顔が引きつる。千歳は続けた。
「彼は俺の客ではありません」
おい。何を言う気だ。
「俺が呼んだ相手です」
胸が鳴った。
会場の空気が微かに揺れる。男は笑みを保とうとした。
「それは、特別という意味で?」
千歳は俺を見た。
ここでどう返すか。
作戦上、強めに出る場面。俺は分かった。
でも、千歳が言う前に俺が動いた。半歩近づき、千歳の横に並ぶ。
肩が触れる。
理由は共有済みではない。でも、今は必要だと思った。
千歳が一瞬だけ俺を見る。
俺は小さく言った。
「今だけ」
千歳の目が少し揺れた。
そして、逃げなかった。俺は男に笑いかける。
「特別かどうかは、玻璃宮さんに聞くより、見れば分かるんじゃないですか」
「……」
「俺、普通の相手なら、こんな面倒な場所に来ませんよ」
千歳が小さく息を吐く。
怒ったかと思った。違った。笑いをこらえたらしい。
男は何か言いたげだったが、周囲の視線が集まっていることに気づき、引いた。
「失礼いたしました」
「ええ」
千歳は穏やかに返した。
男が去ったあと、千歳が低く言う。
「君は」
「何」
「予定にない動きをする」
「悪かった」
「悪いとは言っていない」
「じゃあ?」
千歳は少しだけ視線を外した。
「助かった」
その一言で、十分だった。
偽装でも、人前でも、千歳に助かったと言われると、胸が熱くなる。
「ただ」
千歳は続けた。
「肩が触れていた」
「嫌だったか?」
「嫌ではない」
「なら」
「理由を共有すると決めた」
「あ」
やばい。ルール違反。
俺はすぐに身体を少し離した。
千歳はそれを見て、なぜか少し不満そうな顔をした。
「離れろとは言っていない」
「どっちだよ」
「俺にも分からない」
出た。正直な千歳。
俺は笑いそうになった。
「じゃあ、次は言う」
「次があるのか」
「あるだろ、偽装恋人なんだから」
恋人。
その単語を口にした瞬間、二人とも少し黙った。
偽装。
偽装なのに、恋人という部分だけが、やけに重く残る。
その後、白蝶会の女が千歳へ近づいた。
細い声で、やたらと親しげに話す。
千歳は完璧に応対している。だが、彼女の視線は俺と千歳の距離を測っていた。
俺はグラスを持つ手を軽く回しながら、様子を見る。
その時、女が笑いながら千歳の腕に触れようとした。ほんの少し。
社交の範囲と言えば、そう見える。けれど、俺には嫌だった。
俺が動くより早く、千歳がグラスを左手に持ち替えた。
合図。
近づく。俺はすぐに隣へ入った。
「失礼」
声は軽く。笑顔も軽く。
けれど、心臓はまったく軽くない。
千歳は俺を見ずに、自然に右手を差し出した。
人前で、俺に。ほんの少し、指先だけ。
演技。偽装。敵に見せるための接触。
そう分かっているのに、俺は一瞬だけ動けなかった。
手を取るだけだ。仕事なら何度もしてきた。
客の手を取る。エスコートする。安心させる。夢を見せる。
そんなこと、呼吸みたいにできるはずだった。
でも、千歳の手は違った。
触れる理由を決めたばかりの手。
昨日、俺に「ここにいろ」と言った手。
キス未遂の時に、俺を止めた手。
偽装のために取るには、重すぎる。
「纏」
千歳が小さく呼んだ。
ほんの一瞬だけ、俺を見る。
逃げるな。そう言われた気がした。
俺は、その手を取った。
周囲には、自然なエスコートに見えただろう。
千歳の指に自分の指を添える。
握りすぎない。
でも、離れすぎない。演技として必要な温度で。
「お話の途中、失礼しました」
俺は女に笑いかけた。
「玻璃宮さん、少しお借りします」
女の目が細くなる。
「ずいぶん自然にお借りになるのね」
「慣れてきたので」
「何に?」
俺は千歳の手をほんの少しだけ握り直した。
「この人の隣に立つことに」
千歳の指が、わずかに反応した。
女は何かを探るように笑った。
「それは、お仕事として?」
痛いところを突いてくる。
俺は笑った。
「最初は」
千歳の手が、ほんの一瞬だけ強くなった。
咎めるためではない。支えるために。たぶん。
「今は?」
女が問う。
俺は答えなかった。
代わりに、千歳を見た。千歳も俺を見る。その沈黙だけで、十分だった。
女が少しだけ顔を引きつらせる。
噂としては、これで十分すぎる。
俺たちはその場を離れた。
手は、まだ繋いだままだった。
数歩歩いて、周囲の視線が薄れたところで、千歳が低く言う。
「演技が上手いな」
「褒めてる?」
「半分」
「残りは?」
「少し腹が立つ」
「何で」
「君が、こういう時だけ自然に手を取るからだ」
胸が鳴る。
「自然に見えた?」
「見えた」
「実際は、かなり動揺してた」
千歳が俺を見る。
「本当に?」
「本当」
「……そうか」
その声が、少しだけ柔らかかった。
俺は手を離そうとした。作戦上の接触は終わった。
もう離していい。なのに、千歳の指が、ほんの少しだけ俺を止めた。
強くはない。手首を掴んだ時ほどではない。ただ、まだ、という合図だった。
「千歳さん?」
「あと三秒」
「何で」
「今離すと、不自然だ」
「本当に?」
「半分」
「残りは?」
千歳は前を見たまま言った。
「まだ少し、落ち着かない」
何も言えなくなった。
人前だ。敵の視線がある。偽装だ。
それでも、千歳が俺の手を使って落ち着こうとしている。
その事実が、俺の心臓に悪すぎる。
「……じゃあ、三秒」
「数えるのか」
「数えないと、俺がもたない」
千歳の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
三秒。たぶん、もっと長かった。
俺たちは手を繋いだまま、人目のある会場を歩いた。
演技として。噂として。そして、少しだけ本当として。
****
パーティーの終盤、千歳は少し疲れていた。
顔には出していない。でも、俺には分かる。
俺はグラスを左手に持ち替えてみた。
千歳が気づく。
「それは俺の合図だ」
「借りた」
「何の合図だ」
「休ませる」
千歳は一瞬黙ったあと、少しだけ笑った。
「君は本当に、人の合図を勝手に増やすな」
「使えるものは使う」
「それは俺の台詞だ」
「影響受けてる」
俺は自然に千歳の前へ半歩出た。
周囲には、会話の流れで移動するように見えるはずだ。
「少し外出るぞ」
「命令?」
「願い」
「なら、聞いてやる」
会場の外に出ると、小さなバルコニーがあった。
夜風が冷たい。
千歳は肩の力を少しだけ抜いた。
「疲れた?」
「少し」
素直に言った。それだけで、嬉しくなる。
「偉い」
「子供扱いするな」
「してない」
「している」
俺は笑った。
千歳も少しだけ笑った。
バルコニーからは、街の明かりが見えた。
Club Perigeeのある方角は、たぶんもっと向こう。
灯庭舎は、さらに別の方角。澪標の丘も。
俺たちの守りたい場所は、ここからは見えない。でも、同じ地図の上にある。
「今日、どうだった」
千歳が聞いた。
「偽装恋人?」
「そう」
「敵は食いついたと思う」
「だろうな」
「白いポケットチーフも、白蝶会の女も、明日には報告してるだろ」
「瑠璃香に」
「そのあと、錆人にも?」
「おそらく」
狗飼錆人の名前が出ると、胸の奥がざらつく。
千歳はそれに気づいたように俺を見る。
「まだ気になるか」
「気になる」
「灯庭舎の件と繋がるかもしれないから?」
「それもある」
「他には?」
「勘」
「ホストの?」
「人間の」
千歳は少しだけ目を細めた。
「なら、重視する」
「いいのかよ、そんな曖昧で」
「君の勘は、欲の匂いには強い」
「褒めてる?」
「全部」
また全部。やめてほしい。嬉しすぎる。
俺は手すりに肘をついた。
「千歳さん」
「何かな」
「今日の俺、ちゃんと偽装できてた?」
千歳は少し考えた。
「できていた」
「よかった」
「ただし」
「ただし?」
「時々、本当に見えた」
胸が鳴った。
「何が」
「俺を特別に扱っているように」
「……偽装だろ」
「そうだな」
千歳は夜景を見た。
「偽装のはずだ」
その言い方が、静かで痛かった。
俺は何も言えなくなった。
すると千歳が、ほんの少しだけ俺の袖に触れた。
指先でつまむ程度。軽い接触。でも、確かな合図。
「今から触る」
遅い。
もう触ってる。
そう言いたかったが、言えなかった。
胸がいっぱいになったから。
「理由は?」
俺はかすれた声で聞いた。
千歳は袖をつまんだまま言う。
「寒い」
「嘘」
「少し本当だ」
「残りは?」
千歳は少し黙った。
「今日、君が離れた時、少し落ち着かなかった」
息が止まる。
「だから、確認している」
「何を」
「ここにいるか」
俺は、何も言えなかった。
千歳の指は、俺の袖を軽くつまんでいるだけ。
手を握っているわけでも、抱き寄せているわけでもない。
でも、それはどんな甘い言葉よりも強かった。
俺は静かに言った。
「いる」
千歳の指が、ほんの少しだけ力を増した。
「そうか」
「うん」
「なら、いい」
バルコニーのガラス扉の向こうでは、まだパーティーが続いている。
敵の目もある。噂も動く。俺たちは偽装恋人だ。
でも、この袖をつまむ指だけは、偽装ではなかった。たぶん。
会場に戻る前、千歳は指を離した。
何事もなかった顔に戻る。でも、俺の袖には体温の記憶が残っていた。
「戻るか」
千歳が言う。
「戻る」
「外では演技だ」
「中も半分くらい本気だったけどな」
言ってしまった。
千歳の足が止まる。俺も止まる。
「……纏」
「悪い」
「謝るな」
「じゃあ?」
千歳は、少しだけ困ったように笑った。
「今のは、持ち帰る」
「どこに」
「余白の部屋に」
胸が熱くなる。この男は、俺の言葉を捨てない。
困ると言いながら、ちゃんと持ち帰る。それがどうしようもなく嬉しい。
****
パーティー後、俺たちは余白の部屋へ戻った。
作戦の振り返りのため。そういう名目だった。
実際には、二人とも少し疲れていた。
玄関を入ると、千歳はネクタイを緩めた。
その仕草があまりに自然で、俺は目を逸らした。
「何だ」
「いや」
「目を逸らした」
「見ていいか分からなかった」
千歳の動きが止まる。
「……そういうことを、正直に言うな」
「逃げるなって言ったの、お前だろ」
「言ったが、限度がある」
俺は笑って、キッチンへ向かった。
「水でいい?」
「いい」
「酒は?」
「今日はやめておく」
「正解」
グラスを二つ持って戻ると、千歳は黒い作戦ノートを開いていた。
余白の部屋のテーブルに、今日の反省点が書かれていく。
ーー
白蝶会関係者、反応あり。
纏の肩接触、予定外。効果あり。要事前共有。
人前での手つなぎ、効果大。ただし双方動揺。
千歳から袖接触。理由:確認。
ーー
俺は最後の一行を見て、思わず笑った。
「そこまで書くのかよ」
「忘れないためだ」
「何を」
「理由」
千歳はペンを置いた。
「触れる理由を忘れると、都合よく使ってしまう」
「……」
「君も、俺も」
俺は笑うのをやめた。千歳は本気だった。
触れることを、大事に扱おうとしている。
演技として必要な距離と、心が勝手に求めた距離。
その二つを混ぜて、どちらかを傷つけないように。
「千歳さん」
「何かな」
「お前、真面目だな」
「君が不真面目すぎる」
「俺も今日は真面目だったろ」
「そうだな」
千歳は少しだけ笑う。
「今日の君は、よくやった」
胸が鳴った。褒められた。
それだけで、ここまで嬉しいのは重症だ。
「顔」
「嬉しそう?」
「してる」
「……してるな」
認めると、千歳の目が少し柔らかくなった。
「素直だな」
「今日だけ」
「最近、今日だけが多い」
「希少価値の大安売り」
「安売りはしない方がいい」
「高くつくぞ?」
「君が?」
「俺が」
二人で笑った。
その後、少しだけ沈黙が落ちた。
余白の部屋は静かだった。会場のざわめきも、敵の視線もない。
ここでは、少なくとも今だけは、偽装しなくていい。
千歳はソファの背に体を預け、目を閉じた。
「疲れた?」
「少し」
「五分寝る?」
「本社ではないのに?」
「どこでも寝ろ」
「君は本当に場所を選ばないな」
「俺の隣ならいいだろ」
言ってから、またやったと思った。
でも千歳は、目を閉じたまま小さく笑った。
「……そうだな」
俺は何も言えなくなった。
千歳が、俺の隣を休む場所として認めている。
その事実だけで、胸がいっぱいになる。
五分だけ。千歳は本当に目を閉じた。
俺は隣ではなく、少し離れた椅子に座った。
近づきすぎない。触れない。でも、ここにいる。
人前では手を取れた。
肩を触れ合わせることもできた。
袖をつままれても、笑って立っていられた。
なのに、二人きりのこの部屋で、千歳の閉じた目を見るだけで、指先が動かなくなる。
理由がないからではない。理由がありすぎるからだ。
触れたい。休ませたい。近くにいたい。
自分のものみたいに思いたい。
でも、まだ恋人じゃない。偽装恋人だ。
許されきっていない。信じきれていない。
触れる理由を共有すると決めたばかりだ。
人前の接触は、偽物だからできた。
二人きりの距離は、本物だから怖い。
俺は自分の手を見た。さっき千歳の手を取った時の感触が残っている。
演技として握った手。でも、三秒だけ離せなかった手。
「纏」
千歳が目を閉じたまま言った。
「何」
「今日は、外で君に近づいた」
「うん」
「演技だった」
「うん」
「でも、全部ではなかった」
心臓が静かに鳴った。
「うん」
「君は?」
俺は少しだけ考えた。
「俺も」
千歳は目を開けなかった。でも、少しだけ口元が緩んだ。
「なら、今日のところは成功だ」
「作戦として?」
「作戦として」
「本当としては?」
千歳は、ゆっくり目を開けた。
眠そうな目。少しだけ無防備な顔。
「保留」
「出た」
「だが、悪くない保留だ」
「高評価?」
「高評価」
俺は笑った。
保留。でも、悪くない。
今の俺たちには、それで十分だった。
その夜、余白の部屋を出る前に、俺はコンビニのメモ帳を開いた。
今日のページに、下手な字で書く。
ーー
偽装恋人、初日。
千歳、人前で手を取らせる。理由:演技、たぶん半分嘘。
千歳、袖をつまむ。理由:確認。
俺、かなり死ぬ。
ーー
千歳が横から覗き込み、眉をひそめた。
「最後の一文は何だ」
「記録」
「何が死んだ」
「俺の心臓」
「大げさだ」
「お前が言うな」
千歳は少しだけ頬を赤くした。たぶん。照明のせいではない。
「消せ」
「嫌だ」
「作戦記録に不要だ」
「本当の記録には必要」
千歳は俺を見た。
しばらくして、諦めたように息を吐く。
「……では、俺も書く」
千歳はペンを取り、その下に綺麗な字で書いた。
ーー
纏、肩に触れる。理由:庇護。効果:高。
纏、手を握る。理由:偽装。効果:安定。危険度:高。
ーー
俺は固まった。
「効果、高?」
「高かった」
「何に」
「安心感に」
胸が撃ち抜かれた。
「危険度、高?」
「高かった」
「何に」
千歳は少しだけ視線を外した。
「俺に」
もう駄目だった。本当に駄目だった。
千歳は涼しい顔をしている。でも、耳が少し赤い。
俺はメモ帳を閉じた。
「これ、危険物だな」
「そうだな」
「保管場所、考えた方がいい」
「余白の部屋に置く」
「誰かに見られたら死ぬぞ」
「君の字が汚いから読めない」
「またそれかよ」
二人で笑った。
メモ帳は、テーブルの上に置かれた。
余白の部屋に、またひとつ小物が増えた。
安いメモ帳。高いノート。二人の字。嘘の作戦。本当の記録。
玄関で別れる時、千歳が言った。
「次回は、触れる時のルールをもう少し明確にする」
「今日ので足りない?」
「足りない」
「御曹司様、几帳面」
「君が危ない」
「俺が?」
「君も、俺もだ」
その言い方に、何も返せなくなった。
千歳は靴を履き、振り返る。
「次は、軽く触れない約束をしよう」
「触れない?」
「正確には、意味なく触れない約束だ」
胸が鳴った。
次の段階が見えた気がした。
「分かった」
「逃げるな」
「逃げない」
「俺も逃げない」
千歳はそう言って、部屋を出ていった。
扉が閉まる。俺はしばらく、余白の部屋に一人で立っていた。
テーブルの上には、メモ帳がある。
そこには、今日の俺たちが残っている。
偽装恋人、初日。演技として近づいた。人前では、自然に手を取れた。
でも、二人きりになると、逆に触れ方が分からなくなった。
敵はきっと食いつく。
白蝶会は、御曹司がホストに溺れ始めたと思うだろう。
でも違う。いや、完全には違わない。嘘の中に、本当が混じっている。
だからこそ、危ない。だからこそ、目が離せない。
俺はメモ帳を見下ろし、小さく笑った。
恋人ではない。まだ、そう名乗るには早い。
でも今日、俺たちは偽装恋人になった。
そしてたぶん。偽装のふりをして、本当の方へ一歩踏み出してしまった。




