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第13話 触れない約束

偽装恋人、初日。

そう書いた安いメモ帳のページを、俺は翌朝になっても何度も思い出していた。


ーー

千歳、袖をつまむ。理由:確認。

俺、かなり死ぬ。

纏、肩に触れる。理由:庇護。効果:高。

纏、手を握る。理由:偽装。効果:安定。危険度:高。

ーー


危険度、高。

あの綺麗な字で、そんなことを書くな。


思い出すたびに、胸が変な音を立てる。

俺はホストだ。言葉にも、視線にも、距離にも、普通の男よりは慣れている。

手が触れたくらいで、袖をつままれたくらいで、心臓が死ぬような初心な男ではない。

……はずだった。


「で、顔が死んでるけど」


Club Perigeeの控室で、仁科螢がソファに寝転がったまま言った。


「生きてる」

「身体はね」


「心もだよ」

「いや、今のマトイさん、完全に“御曹司に袖つままれました”って顔してる」


「何だその顔」

「分かる顔」


「分かるな」


螢はスマホを俺に向けた。

画面には、昨夜のレセプションの記事が出ていた。


小さな経済系ニュース。美術財団支援レセプション。玻璃宮グループの若き実務中枢、玻璃宮千歳が出席。

その写真の端に、俺が映っている。千歳の隣で笑っている俺。肩が少し近い。


知らない人間が見れば、仕事関係者にしては近く、恋人と呼ぶにはまだ曖昧な距離。絶妙だった。


「もう出てるのか」

「本記事は普通。でもこっち」


螢が別の画面を開く。匿名掲示板まがいのゴシップアカウント。

そこには、昨夜の写真が拡大されていた。


ーー

玻璃宮の若当主、夜職の男と親密?

白蝶会筋からも困惑の声か。

ーー


「白蝶会筋って何だよ」


俺は眉をひそめる。


「本人たちが流してるんだろ」


螢が言う。


「早いな」

「食いついたってことじゃん」


「喜べない」

「だろうね」


螢はスマホを伏せた。

いつもの軽い顔ではなく、少し真面目な顔だった。


「マトイ」

「何」


「これ、本当に大丈夫なの」

「何が」


「御曹司は財閥側だから、守り方も分かってるだろうけどさ。お前は?」


俺は黙った。


「店にも火の粉来るかもしれない。お前が助けた女の子たちにも、灯庭舎にも」


「分かってる」

「分かってるならいいけど」


「螢」

「ん?」


「悪いな。巻き込む」


螢は一瞬だけ目を丸くした。

それから、嫌そうな顔をする。


「うわ。素直なマトイ、気持ち悪い」


「殴るぞ」

「軽い軽い」


螢は笑って、またスマホをいじり始めた。


「でも、まあ。巻き込まれるなら、ちゃんと巻き込めよ」

「どういう意味だよ」


「一人で抱えるなって意味」


その言葉に、少しだけ胸が痛んだ。

最近、いろんな人に同じことを言われている気がする。


一人で抱えるな。頼れ。逃げるな。隣にいろ。

どれも苦手だった。


でも、千歳と同じ地図に立ってしまった以上、苦手だからと逃げている場合ではない。


「あとさ」


螢がにやっと笑った。


「御曹司、次いつ店来るの?」

「知らん」


「呼べよ。売上になる」

「お前、本音が出たな」


「違う違う。応援。九割応援、一割売上」

「一割にしては目が本気」


「だって財閥だぞ」

「金づる扱いするな」


そう言った瞬間、螢が固まった。

俺も、自分で少し驚いた。前なら言わなかった。


客を金として見ることに、ここまで引っかからなかった。

けれど今、千歳をそう呼ばれるのが嫌だった。


螢は俺をじっと見て、ふっと笑った。


「はいはい。大事な御曹司様ね」

「うるさい」


「顔赤い」

「照明のせい」


「控室、蛍光灯だけど」


俺はクッションを投げた。

螢は避けなかった。顔面に当たって、派手に倒れた。

少しだけ気が晴れた。


****


その日の夕方、俺は余白の部屋へ向かった。

手には紙袋が二つ。


ひとつは、灯庭舎に寄った時に蓮太から預かった絵。

もうひとつは、近所の雑貨屋で買った安いマグカップ二つ。


本当は、買うつもりはなかった。

でも、余白の部屋のキッチンに置いてあったグラスがあまりにも上品で、落としたら俺の月収が飛びそうだったのだ。


いや、たぶん飛ばない。でも精神的には飛ぶ。だから買った。

白いマグと、薄い青のマグ。

白い方は千歳。青い方は俺。


買ってから思った。逆では。いや、でも千歳には白が似合う。

冷たい白ではなく、少しあたたかい白。俺は青でいい。


Club Perigeeの照明みたいな青。

澪標の水の色にも、少し似ている。


余白の部屋に着くと、千歳はすでにいた。

リビングのテーブルに資料を広げている。


白いシャツ。袖は少しだけまくってある。ネクタイはしていない。

昨日よりも、さらに部屋に馴染んでいる。それが妙に嬉しくて、同時に怖かった。


「遅い」


千歳が顔を上げる。


「約束の三分前ですけど」

「俺が十分前に来た」


「それ、前も聞いた」

「成長がないな、君は」


「御曹司様の待ち時間基準が厳しいんだよ」


俺は紙袋をテーブルに置いた。

千歳が目を向ける。


「何だ」

「差し入れ」


「君が?」

「俺が差し入れしちゃ悪いか」


「いや」


千歳は少しだけ目を細めた。


「嬉しい」


不意打ちだった。

やめろ。そういう素直な一撃は、心臓に悪い。

俺は紙袋を開けて、マグカップを出した。


「余白の部屋用。グラス高そうで怖いから」


千歳は白いマグを手に取った。


「安いな」


「第一声それか」

「だが、悪くない」


「採用?」

「採用」


千歳は青い方も見た。


「君が青?」

「なんとなく」


「俺は白か」

「嫌なら交換する」


「いや」


千歳は白いマグの縁を指でなぞった。


「これでいい」


それだけなのに、妙に照れくさい。

余白の部屋に、またひとつ小物が増えた。


安いメモ帳。高い作戦ノート。そして、二つのマグカップ。


「もうひとつは?」


千歳がもう一つの紙袋を見る。

俺は少しだけ笑った。


「蓮太から」


「札束の子か」

「覚え方」


袋から取り出したのは、子供の絵だった。

クレヨンで描かれた、古い建物。庭。木。そして、やけにでかい車。


その横に、長身の黒髪の男らしき絵がある。

顔の横に吹き出し。


ーー

おかねもちの人へ とうていしゃにきてね

ーー


千歳は、しばらく黙って絵を見ていた。


「……俺か?」

「たぶん」


「まだ会っていないのに?」

「俺が話したら描いた」


「車が大きすぎる」

「金持ちのイメージらしい」


「俺は札束で汗を拭くのか?」

「練習しとけって言っただろ」


千歳は小さく笑った。でも、その目は絵から離れない。


「ここが灯庭舎か」

「蓮太の中ではな」


「いい絵だ」

「褒めたら調子乗るぞ」


「なら、褒める」


千歳は絵を丁寧に持ち上げ、部屋の本棚の横に立てかけた。

その仕草が、やたら大事そうで。俺は少し、言葉に詰まった。


「そこに置くのか」


「だめか?」

「いや」


「この部屋に必要だと思った」

「……そっか」


余白の部屋に、また感情が増えた。

灯庭舎の子供が描いた絵。千歳をまだ知らない子供が、千歳を待っている絵。


これが後で壊されたら、俺は本当に耐えられないだろう。

そんな不吉なことを、なぜか一瞬考えてしまった。


振り払うように、俺はマグを持ってキッチンへ向かった。


「コーヒーでいい?」

「君が淹れるのか?」


「インスタントなら」

「余白の部屋の品位が下がるな」


「じゃあ水飲んでろ」

「コーヒーでいい」


「素直」

「今日だけだ」


もう何度目か分からない“今日だけ”。

でも、今日はそれがやけに優しく響いた。


二人で安いマグのコーヒーを飲みながら、作戦ノートを開いた。千歳の黒いノート。表紙だけで俺のメモ帳十冊分くらいしそうなやつ。


最初のページには、昨日書いた方針がある。


ーー

仕事として始める。ただし、本当を傷つけない。

ーー


今日は、その下に新しい見出しが加えられた。


ーー

接触ルール

ーー


俺は眉をひそめる。


「本当にやるのか」

「やる」


「真面目だな」

「君が危ないからだ」


「俺が危ない?」

「俺も危ない」


千歳は当然のように言った。

俺の方が固まる。


「自分で言うんだ」

「事実だ」


「……顔に出すなよ」

「君にだけ言われたくない」


千歳はペンを持ち、淡々と書き始めた。


ーー

一、公的な場での接触は必要最小限。

二、接触前に可能な限り合図を出す。

三、二人きりの時は、原則として不用意に触れない。

四、触れたい場合は理由を言う。

五、理由が“触れたいから”だけの場合は保留。

ーー


俺は五番目で噴き出した。


「何だよ、五番」

「必要だろう」


「触れたいから触れたいは理由にならない?」

「ならない」


「厳しい」

「今の俺たちには危険だ」


その言い方が真面目で、笑えなくなった。

千歳はペンを置いて俺を見る。


「昨日、君は言った。触れたら、自分の都合のいい方に全部持っていきそうで怖いと」

「……言った」


「俺も同じだ」


「千歳さんも?」

「そうだ」


千歳は白いマグに視線を落とした。


「俺は、君が触れない理由を聞いて安心した。だが同時に、触れなかったことが惜しかった」


胸が鳴る。


「お前、それ」

「言うと決めた」


千歳は顔を上げる。


「逃げない場所だろう、ここは」


何も言えなかった。

俺がメモ帳に書いた言葉を、千歳が使う。逃げない場所。

そうだ。ここでは、嘘をつかない。隠しすぎない。都合よく触れない。


「俺も」


俺は言った。


「惜しかった」


千歳の指が、マグの取っ手を少し強く握る。


「うん」


「だからルールいるな」

「そういうことだ」


俺は黒いノートを少し引き寄せ、ペンを借りた。

千歳が眉を上げる。


「君が書くのか」

「読めるように書く」


「善処しろ」


俺は五番の下に書いた。


ーー

六、好きだと言えるまでは、勢いでキスしない。

ーー


書いてから、手が止まった。自分で書いた文字に、自分で刺された。

千歳も黙っていた。部屋が静かになる。インスタントコーヒーの香りだけが、薄く残っている。


「……纏」


千歳の声は低かった。


「何」


「今のは、かなり」

「うん」


「踏み込んだな」

「逃げない場所だからな」


千歳は、長い間その一文を見ていた。

そして、静かに頷いた。


「採用する」

「いいのか」


「必要だ」

「好きって言えるまで、だぞ」


「読める」

「俺の字が?」


「ぎりぎり」

「おい」


千歳は少し笑った。でも、その目は真剣だった。


「好きだと言えるまでは、勢いでキスしない」


千歳は、ゆっくり読み上げた。その声で聞くと、余計に重い。

俺は手のひらに汗をかいていた。


「言えるようになるのか」


千歳が聞いた。ずるい問いだった。でも、逃げるな。


「なる」


答えた瞬間、自分でも驚いた。

千歳も、少し目を見開いた。


「断言するんだな」

「今はまだ言えない。でも、逃げるつもりはない」


千歳は目を伏せた。


「そうか」


「千歳さんは?」

「俺も」


短い。でも、十分だった。


「俺も、逃げるつもりはない」


その言葉だけで、胸が熱くなった。

触れない約束をしているのに、今までで一番近く感じる。


本当におかしい。恋愛って、たぶんおかしい。

いや、俺が今さらそれを言うのもおかしい。


「あとさ」


俺は、逃げる前にさらにペンを持った。


「何だ」

「手とか、抱きしめるとか、そういうのも決めといた方がいいんだろ」


千歳の指が止まる。


「抱きしめる?」


声が少しだけ低くなった。


「いや、今すぐじゃない」

「分かっている」


「分かってる顔じゃなかった」

「君が急に言うからだ」


「冴が前に言ってたんだよ。手で攻めろとか、正面で抱くのは感情を止める時だとか、後ろから抱くのは守りたい時だとか」


千歳は黙った。


「何だその顔」


「冴さんは、何者なんだ」

「俺にも分からん」


「腐女子向けの軍師か?」

「たぶんそう」


「君はそれを聞いて、なぜ俺に話す」

「言ってる意味は分からないけど、たぶん使えるから」


千歳は額に手を当てた。


「君の周囲は、本当に騒がしいな」


「悪口?」

「半分」


「残りは?」

「助かっている」


その言い方が優しくて、また胸が鳴る。

俺は咳払いして、ノートに書いた。


ーー

七、手を握る時は、ここにいると確かめたい時。

八、正面から抱きしめる時は、感情があふれそうな時。

九、後ろから抱きしめる時は、倒れそうな背中を支えたい時。

ーー


書いた後、二人して黙った。

今の俺たちには、手を握るだけでも危ない。


それなのに、抱きしめるなんて言葉をノートに書いた。

まだ先のことのはずなのに、部屋の温度が少し上がった気がした。


「……これ」


俺はペンを置いた。


「書いていいやつか?」


千歳はノートを見つめたまま、静かに言った。


「いい」


「本当に?」

「触れ方に意味を持たせるんだろう」


「冴みたいなこと言うな」

「君が持ち込んだ」


「それはそう」


千歳は、俺の字で書かれたルールを見て、少しだけ目元を緩めた。


「君の字は相変わらずだが、内容は悪くない」


「褒めてる?」

「全部」


また全部。俺はもう、心臓を押さえるしかない。


「顔」

「嬉しそう?」


「してる」

「してるな」


認めたら、千歳の方が少し驚いた顔をした。


「素直だな」

「逃げない場所なんで」


千歳は少しだけ笑った。


「そうだったな」


その時、千歳のスマホが震えた。

画面を見た瞬間、千歳の表情が冷えた。


「白蝶会?」


俺が聞くと、千歳は頷いた。


「瑠璃香からだ」


部屋の空気が少し変わる。

千歳はスピーカーにはせず、通話を取った。


「千歳です」


声が、玻璃宮千歳のものになる。硬く、涼しく、隙がない。

俺は黙って見ていた。


「ええ。昨夜はどうも」


相手の声は聞こえない。でも、千歳の表情で分かる。

気分のいい話ではない。


「架橋さんのことですか」


自分の名前が出て、背筋が少し伸びる。


「個人的な友人です」


友人。

その言葉が、少しだけ刺さった。作戦上は妥当だ。

恋人とはまだ言えない。偽装恋人であっても、公的に言い切るタイミングではない。


分かっている。でも、友人か。

千歳は続ける。


「ええ。親しくしています」


胸が、少しだけ持ち直す。単純すぎるだろ、俺。


「ご心配には及びません。玻璃宮グループの判断に、私生活は影響しませんので」


間。千歳の目が冷える。


「母の名を、そのような話に出さないでください」


まただ。瑠璃香は、千歳の母を使う。澪標の丘を使う。

俺は立ち上がりかけた。しかし、千歳が視線だけで止めた。


大丈夫。

そういう目だった。でも、大丈夫じゃない顔をしている。


「失礼します」


千歳は通話を切った。スマホをテーブルに置く指が、わずかに強い。

俺は何も言わず、白いマグを千歳の前に押した。


「飲め」


千歳がこちらを見る。


「命令?」

「願い」


「……便利だな」

「便利な願いだから聞け」


千歳はマグを手に取り、少しだけコーヒーを飲んだ。

インスタントの安い味。玻璃宮千歳に似合わないはずの味。

でも、今の千歳には、それが必要な気がした。


「母親のこと、また?」


俺が聞くと、千歳は頷いた。


「澪標の丘にこだわるのは、母への執着だと言われた」

「最低だな」


「予想通りだ」

「予想できても、嫌なものは嫌だろ」


千歳は黙った。肯定だ。

俺は拳を握った。触れない約束をしたばかりだ。


こういう時、前なら手を伸ばしていたかもしれない。

肩に触れる。手を握る。大丈夫だと言う。


でも、今は違う。

触れたい。けれど、触れない。

軽く触れないと決めたから。だから、言葉を選ぶ。


「千歳さん」

「何かな」


「悔しいなら、悔しいって言っていいぞ」


千歳の目が揺れる。


「俺は」

「うん」


「悔しい」


小さな声だった。でも、ちゃんと言った。


「母の名を使われるのは、腹が立つ」

「うん」


「澪標の丘を、感傷の象徴にされるのも嫌だ」

「うん」


「俺が守りたいものを、弱点として扱われるのが」


千歳は息を吐いた。


「悔しい」


俺は頷いた。


「うん」


「君は」

「何」


「何も言わないんだな」

「言ってるだろ」


「うん、だけだ」

「今はそれでいいかなって」


千歳は少しだけ目を伏せた。


「……そうか」


「言葉で殴るのは、あとで一緒にやろう」


千歳が小さく笑った。


「言葉で殴る」


「御曹司様、得意だろ」

「君もなかなかだ」


「俺は口が悪いだけ」

「それも才能だ」


少しだけ空気が緩む。

でも、千歳の肩にはまだ力が入っている。俺は手を伸ばしかけて、止めた。

それを千歳が見た。


「触れようとした?」

「……した」


「なぜ止めた」

「約束したから」


「理由は?」

「慰めたかった」


千歳は、俺を見ていた。

長い沈黙。そして、静かに言う。


「それは保留ではない」


心臓が鳴る。


「許可?」

「確認だ」


「じゃあ、触れる?」


俺は聞いた。千歳は少しだけ目を閉じた。


「今は」

「うん」


「言葉だけでいい」


胸が少し痛む。でも、嫌ではなかった。むしろ、安心した。

千歳が自分で選んだ。触れられることを受け入れるのではなく、今は言葉でいいと選んだ。

それが大事だった。


「分かった」


俺は言った。


「ここにいる」


千歳は目を開けた。


「それも言葉だけか?」

「必要なら、行動もつける」


「では、そこにいて」

「うん」


俺は座り直した。距離は変えない。近づかない。離れない。

ただ、そこにいる。


五分くらい、俺たちはそうしていた。

千歳は白いマグを両手で包み、俺は青いマグを持っていた。


触れてはいない。でも、不思議と遠くなかった。

触れない約束は、距離を作るためではなかった。


たぶん、ちゃんと近づくための約束だった。

少し落ち着いたあと、千歳は作戦ノートに新しく書いた。


ーー

十、慰め目的の接触は、相手の確認を取る。拒否された場合、言葉で残る。

ーー


「契約書みたいになってきたな」


俺が言うと、千歳は真顔で返す。


「契約は大事だ」


「恋愛も?」

「なおさら」


「御曹司様らしい」

「君は契約を軽んじすぎる」


「ホストは口約束で生きてるからな」


「だから危ない」

「はいはい」


「はいは一回」

「親か」


千歳は少しだけ笑った。その笑顔を見て、ようやく俺も息を吐けた。


作戦の話に戻る。

瑠璃香からの電話内容を整理し、白蝶会がこちらの偽装関係に食いつき始めていることを確認した。千歳は端末で情報をまとめながら言う。


「次は、こちらからもう少し分かりやすい餌を出す」


「またパーティー?」

「いや。今度は昼間がいい」


「昼?」

「夜の関係に見せすぎると、ホストと御曹司の醜聞としては単純すぎる。昼に会うことで、俺が君を私生活に入れ始めたように見せる」


「……計算が細かいな」

「必要だ」


「で、どこで会う」


千歳は少し考えた。


「美術館か、書店か」

「御曹司様らしい」


「君ならどこにする」

「俺なら?」


俺は少し考えた。


「普通のカフェ」


千歳が眉を上げる。


「普通の?」

「高級ホテルとか会員制じゃなくて、街中の普通のカフェ。周囲に人がいて、写真も撮りやすい。でも親密に見えすぎない」


「なるほど」


「それに、普通の場所に御曹司がいる方が目立つ」

「君は俺を何だと思っている」


「場違い美形」

「語彙が安い」


「褒めてる」

「雑だ」


でも千歳は、少し楽しそうだった。


「普通のカフェか」


「行ったことある?」

「ある」


「本当に?」

「君は俺をどれだけ浮世離れした人間だと思っている」


「札束で汗拭くくらい」

「蓮太くんの影響が強すぎる」


「ちなみに注文できる?」

「できる」


「サイズは?」


千歳が黙った。


「おい」


「……善処する」


俺は笑った。


「よし、次は普通のカフェデートだな」


言ってから、二人とも少し止まった。デート。何気なく出た言葉。

偽装。作戦。餌。全部そうなのに、デートという単語だけが妙に生々しい。


千歳が目を逸らした。


「作戦だ」

「そうだな」


「偽装だ」

「うん」


「だが」


千歳は、少しだけ声を落とした。


「少し楽しみだ」


反則だ。本当に。

俺は青いマグを持つ手に力を込めた。


「俺も」


正直に言った。

千歳がこちらを見る。


「素直だな」

「今日だけ」


「またか」

「希少価値、売り切れ間近」


「買い占めるか」

「高くつくぞ」


「君が?」

「俺が」


二人で笑う。でも、胸はずっと熱かった。

余白の部屋を出る前に、俺は安いメモ帳を開いた。

今日のページに、下手な字で書く。


ーー

触れない約束。

好きだと言えるまでは、勢いでキスしない。

手を握る:ここにいると確かめたい時。

正面から抱きしめる:感情があふれそうな時。

後ろから抱きしめる:倒れそうな背中を支えたい時。

千歳、悔しいと言えた。俺、触れなかった。

次、普通のカフェデート。作戦。たぶん。

ーー


千歳が横から覗き込み、最後の一文を見て眉を上げた。


「たぶん、とは何だ」

「保険」


「作戦だ」

「うん」


「偽装だ」

「うん」


千歳は少し黙った。

そして、俺からペンを取った。綺麗な字で下に書き足す。


ーー

ただし、楽しみではある。

ーー


俺は固まった。


「お前、そういうの書くなよ」

「本当の記録だろう」


「……そうだけど」

「逃げない場所だからな」


その言葉を返されると、何も言えない。


俺はメモ帳を閉じた。

余白の部屋に、また一つ約束が残った。


触れない約束。それは、遠ざかるためのものじゃない。

好きだと言える日まで、互いを雑に扱わないためのもの。


玄関で靴を履く時、千歳が言った。


「纏」

「何」


「今日は、触れなかったな」

「うん」


「でも、遠くはなかった」


胸がじんとした。


「俺もそう思った」


千歳は少しだけ笑った。


「次のカフェでは、人前だ。必要なら触れる」


「ルール通りに?」

「ルール通りに」


「左手グラスは?」

「カフェにグラスがあるとは限らない」


「じゃあ新しい合図がいるな」


千歳は少し考えた。


「カップの持ち替えで」


「また飲み物かよ」

「分かりやすい」


「御曹司様、意外とワンパターン」

「君は余計な分岐を作るから、単純な方がいい」


俺は笑った。


「分かった。カップを左手に持ったら近づく」

「右手なら通常」


「両手なら?」


千歳が俺を見る。


「助けろ」


前と同じ答え。俺は頷いた。


「絶対に」


千歳は満足そうに頷く。


「では、次は普通のカフェで」

「デートな」


千歳の耳が、ほんの少し赤くなった。


「作戦だ」

「はいはい」


「はいは一回」

「はい」


ドアが閉まる。

千歳を見送ったあと、俺はしばらく余白の部屋に残った。


テーブルには、白と青のマグ。本棚の横には、蓮太の絵。

メモ帳には、触れない約束。


この部屋が、少しずつ俺たちの場所になっていく。それが嬉しい。

そして、少し怖い。大事なものが増えるほど、壊された時に痛い。


それを俺は知っている。灯庭舎もそうだった。

でも、増やさないように生きることは、もうできない気がした。


千歳が逃げないと言った。俺も逃げないと言った。

なら、大事なものが増える怖さごと、進むしかない。


スマホが震えた。千歳からだった。


『次の作戦について、店を三つ候補に出しておく』


俺は笑った。


『サイズ注文の練習もしとけよ』


すぐ既読。


『君が隣にいれば問題ない』


俺は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。

触れない約束をしたばかりなのに。言葉だけで、こんなに近い。

俺はゆっくり返事を打つ。


『隣にいる。両手でカップ持ったら、助ける』


千歳からの返事は、短かった。


『頼りにしている』


それだけで、十分だった。

俺は白と青のマグを見た。余白の部屋に並んだ二つのカップ。


まだ口づけすらしていない。好きとも言えていない。

でも、触れない約束をした今日、俺たちは昨日よりずっと近づいた。


次は、普通のカフェデート。作戦。偽装。たぶん。

でも、楽しみではある。


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