第14話 信じてもいいか?
普通のカフェ。
その単語は、思っていた以上に玻璃宮千歳に似合わなかった。
いや、正確に言うと、似合わないからこそ目立った。
駅前から少し歩いたところにある、チェーンでも高級店でもない、小さなカフェ。
木の看板。ガラス越しに見える観葉植物。
学生や会社員や近所の主婦が、思い思いにコーヒーを飲んでいる。
どこにでもある場所。誰もが普通に入って、普通に席について、普通に注文する場所。
その入口の前に、財閥御曹司が立っていた。
濃いグレーのコート。黒のタートルネック。
いつものスーツよりはずっと私的なのに、立っているだけで周囲の空気が少し高級になる。通りすがりの女の子が二度見していた。
仕方ない。顔がいい。
「……場違いだな」
俺が言うと、千歳は眉を上げた。
「開口一番それか」
「いや、褒めてる」
「どこが」
「普通のカフェ前にいるだけで、宣材写真みたい」
「語彙が安い」
「高級ホストなんで」
「高級なら語彙も磨け」
いつものやりとり。それだけで、少し緊張が解ける。
今日は、偽装恋人としての昼の外出。
白蝶会に、千歳が俺を夜だけではなく私生活にも入れ始めたと思わせるための餌。
同時に、普通の場所で一緒に過ごす練習でもある。作戦だ。偽装だ。たぶん。
でも、楽しみではある。
昨日、千歳がメモ帳にそう書いた。
俺はその一文を思い出して、少し笑いそうになった。
「何だ」
千歳が俺を見る。
「いや。楽しみそうな顔してんなと思って」
「していない」
「してる」
「君ほどではない」
「俺?」
「朝から、妙に落ち着きがない」
「初デートなんで」
言ってから、少し空気が止まった。
デート。また言った。
千歳の目が、わずかに揺れる。けれど今日は逃げなかった。
「作戦だろう」
「作戦だな」
「偽装だ」
「うん」
「ただし」
千歳は少しだけ視線を外す。
「楽しみではある」
反則。自分で昨日書いた言葉を、そのまま声にするな。心臓に悪い。
俺は咳払いして、店のドアを開けた。
「じゃあ、御曹司様。普通の世界へようこそ」
「君は普通の世界の代表なのか」
「少なくとも、サイズ注文は俺の方が上手い」
「……それは認める」
認めるのか。
少し面白くなって、俺は先にカウンターへ向かった。
店内は昼の混雑が少し落ち着いた時間帯だった。
窓際の席にはノートパソコンを開いた会社員。
奥には本を読む老人。中央のテーブルには女子大生らしき二人組。そして俺たち。
どう見ても浮いている。主に千歳が。
「注文、どうする?」
俺が聞くと、千歳はメニューを見上げた。
「コーヒーでいい」
「サイズは?」
「……普通」
店員さんが一瞬だけ固まった。俺は笑いをこらえた。
「すみません、ホットコーヒーのMを二つで」
「かしこまりました」
千歳が横から小声で言う。
「普通では通じないのか」
「店による」
「なぜ統一しない」
「財閥で規格化する?」
「検討する」
「するな」
俺が会計しようとすると、千歳が先にカードを出した。
「俺が払う」
「普通のカフェでブラックカード出すな。店員さんが緊張する」
「では何を出せばいい」
「交通系ICとか」
千歳が少し黙った。
「持っていない」
「御曹司様、普通の世界に弱すぎる」
「君が払え」
「命令?」
「願い」
「便利に使うな」
俺は結局、自分のスマホで支払った。
千歳は少し不満そうだった。
「次は俺が払う」
「じゃあ次までに交通系IC作っとけ」
「鏡味に頼む」
「自分で作れ」
「君が隣にいれば問題ないと言った」
言葉に詰まった。
昨日のメッセージ。君が隣にいれば問題ない。それをここで出してくるな。
俺はコーヒーを受け取りながら、顔が熱くなるのを感じた。
「……そういうの、人前で言うな」
「普通の会話だ」
「どこが」
「カフェの注文補助の話だろう」
「絶対違う温度だった」
「君の受け取り方の問題だ」
千歳は涼しい顔で、トレーを持った。
カップは右手。
通常。
俺はちらりと見て、少し安心する。
昨日決めた新しい合図。カップを左手に持ち替えたら近づく。
両手なら助ける。
我ながら何の作戦だと思うが、こういうルールがあるだけで落ち着く。
俺たちは窓際から少し離れた席に座った。
外からは見える。でも近すぎない。
写真を撮られても、親密には見えるが決定的ではない。
絶妙な席。千歳が選んだ。
「さすが御曹司様。位置取りが策士」
「褒めている?」
「全部」
千歳の指がカップの取っ手で止まった。
「……そういう返しを覚えたな」
「誰かさんの影響」
「悪い影響だ」
「悪くないだろ」
千歳は少しだけ笑った。その笑顔が、普通のカフェにいるといつもより近い。
本社やレセプションの中では、千歳はどこか“玻璃宮”だった。でも今は違う。
大きな肩書きも、高級な照明も、完璧な会話もない。
ただ、普通のカフェでコーヒーを前にした男。それが、妙に眩しかった。
「何を見ている」
千歳が言う。
「普通のカフェにいる千歳さん」
「変か?」
「変」
「正直だな」
「でも、嫌じゃない」
千歳はカップを口元へ運びかけて、少し止まった。
「そうか」
「うん」
「俺も、君がこういう場所にいるのを見るのは初めてだ」
「俺は馴染んでるだろ」
「馴染んでいるが、少し違う」
「何が」
千歳は俺を見た。
「Club Perigeeにいる君は、人を逃がす顔をしている」
「……」
「ここにいる君は、少し逃げている顔をしている」
刺された。いつものことなのに、普通のカフェで刺されると余計に効く。
俺はコーヒーを飲んだ。熱い。
「逃げてるか?」
「少し」
「何から」
「今日が楽しいことから」
言葉が出なかった。
千歳は、こういうところが本当にずるい。
「作戦だから、楽しいって認めにくいんだろう」
「……千歳さんは?」
「俺も少し」
「やっぱり」
「だが、昨日書いた」
「楽しみではある?」
「そうだ」
「今は?」
千歳は窓の外に視線を向けた。
「楽しい」
短い言葉だった。普通の言葉だった。
それだけで、胸がいっぱいになりそうになる。
俺はカップを両手で持ちそうになって、慌てて片手に戻した。
千歳が目ざとく見る。
「今、両手になりかけた」
「違う」
「助けるべきか?」
「いらない」
「顔は要ると言っている」
「分析禁止」
「ここは普通のカフェだ。禁止事項はない」
「作戦ノートに書くぞ」
「書けばいい」
二人で小さく笑った。
周囲から見たら、たぶん普通に親しげな二人に見える。
男同士で、少し距離が近くて、片方がやけに美形で、もう片方がやけに軽い。それだけ。
けれど俺たちの間には、合図と約束と嘘と本当が何層にも重なっている。
コーヒーの湯気の向こうで、千歳がふと目を細めた。
「纏」
「何」
「左奥の席」
声が変わった。
俺は笑顔を崩さず、視線だけをずらした。
左奥の席。黒いジャケットの男が、スマホをいじっている。
一見普通の客。だが、スマホの角度が不自然だ。こちらを撮っている。
「白蝶会?」
「おそらく」
「早いな」
「想定内だ」
千歳はカップを左手に持ち替えた。
合図。
近づく。分かっていても、心臓が跳ねる。
俺は自然に身を乗り出した。
テーブル越しに、少しだけ顔を寄せる。
「どこまで?」
「親密に見える程度」
千歳の声は低い。
「決定的にはしない」
「了解」
俺はカップを置き、千歳の方へ身体を傾けた。
まるで何か内緒話をしているように。
「御曹司様」
「何かな」
「普通のカフェデート、初回から盗撮つきとか豪華すぎません?」
「君の人生に刺激を添えている」
「いらない刺激」
「退屈しないだろう」
「お前、初対面からそればっかだな」
千歳が少し笑った。その笑顔を見て、俺も笑う。
写真を撮るなら撮れ。ただし、決定的なものは渡さない。
俺たちは、近い。でも触れない。
その距離が、逆に妙に甘い。
左奥の男が、こちらへスマホを向け直す。
俺は千歳にだけ聞こえる声で言った。
「もう少し近づく」
「理由は?」
「作戦」
「それだけか?」
千歳の問いは、静かだった。俺は一瞬だけ言葉に詰まる。
それだけじゃない。千歳の近くにいると落ち着く。
敵の目がある時ほど、守りたいと思う。
でも、ここでそれを言うと顔に出る。
「……半分」
「残りは?」
「お前が撮られてるのが腹立つ」
千歳の目が、わずかに揺れた。
「俺だけではない。君もだ」
「俺はいい」
「よくない」
即答だった。
「君を雑に使わせる気はない」
胸が鳴る。
千歳はカップを置いた。
「両手では持っていないが」
「うん」
「少し、助けてほしい」
言葉が、まっすぐ来た。
俺はすぐに頷いた。
「任せろ」
「何をする気だ」
「普通の恋人っぽい会話」
「偽装だ」
「分かってる」
俺は笑って、声のトーンを少し上げた。
周囲に自然に聞こえるくらい。
「で、千歳さん。次はどこ行く?」
千歳が一瞬だけ瞬きをする。
すぐに合わせてくる。
「君に任せる」
「それ、普通のデートで一番困るやつ」
「そうなのか」
「そうなの。行きたい場所言えよ」
「……書店」
「御曹司様、デート先が真面目」
「嫌か?」
「嫌じゃない」
「では決まりだ」
「俺の意見は?」
「嫌ではないんだろう」
「強い」
左奥の男は、たぶん撮っている。
俺たちは、普通の会話を続けた。
次は書店。その次は余白の部屋。
いや、それは言わない。ここでは言えない。
千歳は時折、本当に楽しそうに笑った。俺も笑った。
演技として。本音として。両方で。
カフェを出る時、千歳はさりげなく俺の隣に並んだ。
触れない。でも近い。
白蝶会の男は少し遅れて席を立った。
「尾行される?」
俺が小声で聞くと、千歳は頷いた。
「少し泳がせる」
「了解」
「ただし、灯庭舎方面には行かない」
「分かってる」
千歳は少しだけ俺を見る。
「怒ったか?」
「何に」
「俺が先に言ったこと」
「いや」
俺は首を振った。
「むしろ助かった」
千歳の目が柔らかくなる。
「そうか」
「お前、本当に守り方が上手いな」
「守れているかは、まだ分からない」
「守ろうとしてるのは分かる」
千歳は返事をしなかった。でも、耳が少し赤い気がした。
照明はない。外の自然光だ。つまり、たぶん照れている。
「今、照れた?」
「照れていない」
「外だから照明のせい使えないぞ」
「君の存在が目に悪い」
「便利すぎるだろ、それ」
歩きながら笑う。
普通の道。普通の昼。普通のカフェデートの帰り。
なのに、背後には敵の目がある。
それでも、少しだけ楽しかった。いや。かなり楽しかった。
書店には寄らなかった。
白蝶会の尾行を適度に巻くため、千歳の指示で駅ビルを抜け、別の出口から鏡味の車に乗った。車内で千歳はすぐに仕事の顔へ戻った。
「写真は撮られた」
「だろうな」
「だが、決定的なものはない」
「普通のカフェで普通に話してるだけ」
「それで十分だ」
「御曹司がホストと普通のカフェにいる時点で異常ってことか」
「そうだ」
「なんか腹立つな」
千歳は少しだけ笑った。
「君と普通のカフェに行くことが、敵にとっては異常に見える」
「俺たちにとっては?」
「……」
千歳は少し黙った。
「悪くなかった」
「高評価」
「かなり」
その一言で、俺は窓の外を見た。顔が緩むのを隠すためだ。
鏡味がバックミラー越しにこちらを見た気がした。
絶対見ている。この執事、何も言わないのに全部分かっている。
余白の部屋へ着くと、千歳はコートを脱いで、すぐに作戦ノートを開いた。
俺はキッチンで、今日のために買ったマグにコーヒーを入れた。
白いマグを千歳へ。青いマグを俺へ。
千歳は受け取ると、少しだけ表情を緩めた。
「このマグ、悪くない」
「だろ」
「安いが」
「一言余計」
「でも、持ちやすい」
「褒めてる?」
「全部」
また全部。最近の千歳は、その言葉の使い方を覚えすぎている。
俺は顔が熱くなるのを誤魔化しながら座った。
作戦ノートには、千歳の綺麗な字で今日の記録が書かれていく。
ーー
普通のカフェ。白蝶会関係者らしき男、撮影確認。
左手カップ合図、実施。
接近理由:作戦半分、保護感情半分。
結果:敵への餌として有効。決定的証拠なし。
ーー
俺は眉を上げた。
「保護感情って書くのかよ」
「君が言った」
「言ったけど」
「本当の記録だ」
言い返せない。
俺は安いメモ帳を開き、今日のページに書いた。
ーー
普通のカフェデート。
千歳、サイズで詰まる。かわいい。
敵、盗撮。腹立つ。
千歳、俺を雑に使わせる気はないと言った。俺、かなり死ぬ。
ーー
千歳が横から覗き込む。
「かわいいを消せ」
「嫌だ」
「サイズで詰まったことも消せ」
「歴史的記録」
「君は歴史を軽んじている」
「本当の記録だろ」
千歳は俺を睨む。でも、耳が少し赤い。
「それと、また死んでいる」
「今日も死んだ」
「生きろ」
「お前が殺してる」
「物騒な言い方をするな」
俺は笑った。
千歳も、少しだけ笑った。
その時、千歳のスマホが震えた。画面を見た瞬間、彼の笑みが消えた。
「何」
俺が聞くと、千歳は無言で画面を見せた。
差出人不明のメッセージ。
写真が添付されている。
今日のカフェの写真ではない。
もっと古い写真。灯庭舎の前。数年前だろうか。
若い男が、院長先生らしき人と並んで写っている。
その男の顔に、俺は見覚えがなかった。
でも、胸の奥がざらついた。
写真の下に短い文。
ーー
懐かしい場所ですね。まだ残っているとは。
ーー
千歳の顔が冷えている。
「これ」
俺の声がかすれた。
「灯庭舎だ」
「……誰だ、この男」
千歳は写真を拡大した。
画質は荒い。だが、男の左手に黒い石の指輪が見える。
俺の背筋が冷たくなった。
「仲介人」
「何?」
「俺に依頼を持ってきた男も、黒い石の指輪をしてた」
千歳の目が鋭くなる。
「同一人物か?」
「顔は違う気がする。でも、同じ筋だ」
「白蝶会」
「あるいは錆人」
狗飼錆人。
その名前が、部屋の中に落ちる。
余白の部屋の空気が一瞬で変わった。
白いマグ。青いマグ。蓮太の絵。メモ帳。
さっきまで温かかったものが、急に狙われている気がした。
「院長に確認する」
俺はスマホを取った。手が少し震えている。
千歳がそれを見て言った。
「今すぐでなくていい」
「でも」
「焦るな」
「灯庭舎の写真だぞ」
「だからこそ焦るな」
千歳の声は強かった。
俺は息を吸う。吐く。千歳は俺をまっすぐ見ている。
「相手は、君を揺さぶるためにこれを送っている」
「分かってる」
「今、慌てて動けば相手の思う壺だ」
「分かってるけど」
「纏」
名前を呼ばれた。低く、強く。
「両手」
「……え?」
「君、スマホを両手で握っている」
俺は自分の手元を見た。
本当だった。両手で、スマホを強く握っていた。
両手なら助けろ。
カップではない。でも合図は同じだ。
俺は、助けが必要な状態だった。
千歳が立ち上がる。近づいてくる。
でも、触れない。約束を守っている。
「助ける」
千歳は言った。
「今、触れない。まず言葉で止める」
「……うん」
「息を吸え」
俺は言われた通りにした。
「吐け」
吐く。
「もう一度」
繰り返す。
少しだけ、視界が戻る。
千歳は俺の前に立ったまま、静かに言った。
「灯庭舎は、まだある」
「うん」
「写真は過去のものだ」
「うん」
「相手は情報を持っている。だが、こちらも今、手掛かりを得た」
「手掛かり」
「黒い石の指輪。灯庭舎との接触記録。出資詐欺との関連」
千歳の声は、冷静だった。
冷たすぎない。俺を落ち着かせるための温度。
「一つずつ調べる。君一人で飛び出すな」
「……」
「これは命令だ」
俺は顔を上げた。
千歳がまっすぐ俺を見ている。
「願いじゃないのか」
「今は命令だ」
「何で」
「君が自分を雑に使いそうだから」
胸が痛い。
「俺は」
「分かっている。灯庭舎が大事なんだろう」
「うん」
「だから、俺にも守らせろ」
言葉が、胸に落ちた。俺にも守らせろ。
それは、たぶん。今日のどの言葉よりも深かった。
「……千歳さん」
「何かな」
「今、触れていいか」
千歳の目が揺れた。
「理由は」
「落ち着きたい」
「俺に?」
「お前に」
沈黙。
千歳は、少しだけ目を伏せた。そして、静かに頷いた。
「許可する」
俺は、千歳の手に触れた。
指先だけ。握るというより、触れる。
千歳の手は少し冷たかった。でも、ちゃんとそこにあった。
俺は深く息を吐いた。
「いるな」
千歳が言う。
「うん」
「ここにいる」
「うん」
「灯庭舎も、守る」
声が震えそうになった。
「頼む」
「頼られた」
「うん」
「では、応える」
千歳の指が、少しだけ握り返す。
触れない約束を破ったわけではない。
理由を言って、許可をもらって、触れた。それだけ。
でも、その手は今までで一番確かだった。
しばらくして、俺たちは手を離した。
千歳はすぐに端末を開き、鏡味に連絡した。
「灯庭舎の過去の出資話について、記録を洗ってください。黒い石の指輪、白蝶会の周辺人物、狗飼錆人の部下筋も」
仕事の顔。
でも、俺を置いていかない顔。
通話を終えた千歳は、白いマグを持った。
今度は両手だった。
「助ける?」
俺が聞くと、千歳は少しだけ笑った。
「もう助けられている」
「俺に?」
「君が、頼むと言ったから」
「それが?」
「俺は、頼られるのに慣れていない」
「財閥御曹司なのに?」
「期待されることには慣れている。利用されることにも」
千歳はマグを見つめる。
「だが、頼られるのは少し違う」
その言葉が、静かに刺さる。
「嫌?」
「嫌ではない」
「ならよかった」
「ただ」
「ただ?」
千歳は、少しだけ視線を上げた。
「怖い」
初めて聞くような声だった。
俺は何も言わずに待った。千歳は続ける。
「君が俺を頼るなら、俺は応えたくなる」
「うん」
「でも、応えられなかったらどうする」
「……」
「守れなかったら。灯庭舎も、澪標の丘も、君も」
千歳の声がかすかに揺れた。
「俺は、誰かに信じられるのが怖い」
胸が締めつけられた。
「期待されることには慣れている。でも、信じられることは怖い」
俺は、やっと分かった気がした。玻璃宮千歳が、なぜいつも距離を置くのか。
なぜ選択肢を渡し、契約を作り、理由を求めるのか。
信じるのも怖い。信じられるのも怖い。
失った時、裏切った時、応えられなかった時の痛みを、たぶん誰より知っている。
千歳は白いマグを両手で包んだまま、立っていた。いつものように背筋は伸びている。
でも、その背筋が、今にも折れそうに見えた。
強い男が、弱くなったのではない。強いまま、怖がっている。
俺は、その前から逃げたくなかった。
「千歳さん」
俺は静かに呼んだ。
「何かな」
「触れる」
千歳の睫毛が揺れた。
昨日決めたばかりのルール。
触れたい時は、理由を言う。理由が“触れたいから”だけなら保留。
「理由は?」
千歳が聞いた。声はかすかに掠れていた。
俺は一度、深く息を吸った。
「お前が壊れそうだから、じゃない」
千歳の目が、少し見開かれる。
「お前は壊れてない。怖いって言えてる。ちゃんと立ってる」
「……」
「でも、俺が」
喉が熱くなる。
「壊れそうなお前の前から、逃げたくない」
千歳は何も言わなかった。
「抱きしめて、全部大丈夫だって誤魔化したいわけじゃない」
「うん」
「お前が信じるのを怖がってるなら、その怖さごと受け止めたい」
「……」
「俺がここにいるって、手だけじゃ足りないなら」
声が震えた。
それでも逃げなかった。
「正面から、受け止めたい」
長い沈黙だった。
余白の部屋の中で、時計の音だけがやけに大きく聞こえた。
千歳は白いマグをテーブルへ置いた。
その指先が、ほんの少し震えている。けれど、目は逸らさない。
「……許可する」
その一言で、胸の奥がほどけた。
俺はゆっくり近づいた。
急がない。奪わない。押し切らない。千歳が逃げられる速度で。
それでも、逃げないでいてくれる距離で。
そして、正面から千歳を抱きしめた。
初めてだった。手でも、袖でも、肩でもない。
胸の前に、千歳がいる。腕の中に、千歳の身体の重さがある。
細いわけではない。弱いわけでもない。
けれど、いつも真っ直ぐ立ち続けていた身体が、今だけほんの少し俺に体重を預けた。
それだけで、胸が詰まった。
千歳の手は、最初、宙に浮いていた。どうしていいか分からないみたいに。
俺は何も言わなかった。
抱きしめる力も強くしなかった。
ただ、逃げない。ただ、ここにいる。
やがて千歳の指が、俺の背中に触れた。確かめるように。
それから、ゆっくり布を掴む。
袖ではなく。手首でもなく。背中。
「……纏」
「うん」
「これは」
「うん」
「かなり、困る」
「知ってる」
「でも」
千歳の声が、胸元で小さく響いた。
「遠くない」
俺は目を閉じた。
「俺も」
「……」
「触れてるのに、怖くない」
千歳の指が、背中で少しだけ強くなる。
「信じてもいいか」
声は小さかった。でも、確かに聞こえた。
俺は即答したかった。いいに決まってる。
信じろ。絶対裏切らない。
そう言いたかった。
でも、軽く言ってはいけない気がした。
この腕の中にいる千歳は、玻璃宮の跡取りでも、策士でも、俺を振り回す高慢な御曹司でもある。
でも今は、それだけじゃない。
怖いと言えた男だ。信じられるのが怖いと、俺に見せた男だ。
だから、軽く返してはいけない。
俺は千歳を抱きしめたまま、静かに言った。
「いい」
千歳の呼吸が揺れる。
「でも、俺は最初に嘘をついた」
「知っている」
「だから、すぐに全部信じろとは言わない」
「……」
「少しずつでいい。疑ってもいい。怖がってもいい。俺が証明するって言っただろ」
千歳の額が、ほんの少し俺の肩に近づいた。
触れるか、触れないか。そのぎりぎりの距離。
「うん」
「だから、信じてもいい。信じるのが怖いなら、怖いままでもいい」
「君は」
「何」
「そういうところだけ、ちゃんとしている」
「だけって何だよ」
千歳が、ほんの少し笑った。
泣いてはいない。でも、声が少し濡れていた。
俺は腕を緩めない。強くもしない。
ただ、千歳が離れるまで待つ。
正面から抱きしめるのは、感情を止めるため。
冴が前にそう言っていた。何語だよと思った。今なら、少し分かる。
これは、欲で迫るための抱擁じゃない。
千歳の怖さと、俺の怖さが、暴れ出さないようにするための腕だ。
しばらくして、千歳が小さく息を吐いた。
「もういい」
「離す?」
「……少し待て」
俺は笑いそうになって、こらえた。
「どっちだよ」
「俺にも分からない」
「じゃあ、分かるまで」
「うん」
その“うん”が、あまりにも素直だった。
胸が痛くなるくらい。
数秒後、千歳は自分から少し身体を離した。
俺も腕をほどく。一気に部屋の空気が戻ってくる。
触れていた場所が、少し寒い。でも、嫌ではなかった。
千歳は目を伏せ、少し乱れた服を整えた。
「作戦ノートに書く必要があるな」
「今のを?」
「ルール適用第一号だ」
「真面目か」
「真面目だ」
「俺、字汚いから千歳さん書いて」
「君が言い出したんだ。君も書け」
「厳しい」
二人でソファに戻った。さっきより、少し近い距離に座った。
千歳は黒いノートを開く。俺は安いメモ帳を開く。
手は震えていなかった。俺は今日のページに書いた。
ーー
普通のカフェデート。敵に撮られる。
灯庭舎の写真が届く。黒い石の指輪。
俺、両手でスマホを握る。千歳、助ける。
千歳、信じられるのが怖いと言った。
俺、触れると言った。理由:壊れそうな千歳の前から逃げたくなかった。
正面から抱きしめた。
俺、絶対に本当のことにする。
ーー
千歳は黙って読んでいた。
それから、俺からペンを取り、下に綺麗な字で書いた。
ーー
怖いまま、信じる。
正面から抱きしめる:感情を受け止める時。実施。効果:高。危険度:非常に高。
ーー
俺はその文字を見た。
胸が痛くて、温かかった。
「千歳さん」
「何かな」
「危険度、非常に高って」
「事実だ」
「何が危険だった?」
千歳は少しだけ視線を逸らした。
「離れたくなくなった」
息が止まった。
「……それ、書かなくていいのか」
「書いたら君が死ぬ」
「もう死んでる」
「生きろ」
「お前が殺してる」
千歳が少し笑った。俺も笑った。
笑えることが、ありがたかった。
そのあと、千歳は鏡味からの返信を確認した。
過去の出資話について、調査を始めたらしい。
黒い石の指輪。
白蝶会周辺人物。狗飼錆人の部下筋。灯庭舎との接触記録。
いくつかの線が、少しずつ一本の縄になり始めている。
その縄は、たぶん敵の首にも、俺たちの喉にもかかっている。
だからこそ、慎重に引かなければならない。
「次は、灯庭舎の過去を調べる」
千歳が言った。
「院長先生に話を聞く」
「俺も行くか?」
俺は少し考えた。
「まずは俺が行く」
「分かった」
「でも、隠さない」
千歳が俺を見る。
「聞いたことは、ここで話す」
「約束か」
「約束」
善処でも、検討でも、分類中でもない。
約束。
そう言えたことが、少し誇らしかった。
千歳は静かに頷く。
「では、俺も調査結果を隠さない」
「約束?」
「約束する」
胸が熱くなる。俺たちは、まだ恋人ではない。
好きだとも言っていない。キスもしないと決めた。
でも、約束は増えていく。手の約束。触れない約束。信じる練習。
そして今日、正面から抱きしめる理由。
余白の部屋には、そういうものが少しずつ積もっている。
外が暗くなる頃、千歳は玄関でコートを羽織った。
「纏」
「何」
「今日は、助かった」
「お互い様だろ」
「そうだな」
「次は?」
「灯庭舎の過去。それから、偽装関係の次の一手」
「普通のデートは?」
「今日やった」
「書店は?」
千歳が少しだけ目を逸らした。
「……行けなかったな」
「行きたかった?」
「少し」
「じゃあ、また行こう」
千歳がこちらを見る。
「作戦で?」
俺は少し笑った。
「半分」
「残りは?」
「俺が行きたいから」
千歳は、しばらく黙った。それから、柔らかく笑う。
「では、俺も半分は作戦で行く」
「残りは?」
「君と行きたいから」
今度は俺が黙った。
やられた。完全に。
「顔」
「何」
「嬉しそうだ」
「……してる」
認めると、千歳は満足そうに目を細めた。
「素直だな」
「今日だけ」
「今日だけが増えすぎだ」
「在庫過多」
「買い占める」
「高くつくぞ」
「君が?」
「俺が」
二人で笑った。
扉が閉まる前、千歳が言った。
「纏」
「何」
「信じる練習をする」
「うん」
「だから、逃げるな」
「逃げない」
「俺も逃げない」
「知ってる」
「まだ知らないだろう」
「これから証明しろよ」
千歳は少しだけ驚いた顔をして、それから笑った。
「言うようになったな」
「教材がいいので」
「では、期待している」
「任せろ」
扉が閉まる。
俺は余白の部屋に一人残り、白と青のマグを見た。
蓮太の絵。メモ帳。黒い作戦ノート。
今日届いた灯庭舎の写真。
大事なものと危険なものが、同じ部屋に増えていく。
怖い。
でも、もう増やさない生き方には戻れない。
千歳が信じてもいいかと聞いた。
俺は、いいと言った。
俺は千歳を正面から抱きしめた。そして、千歳は逃げなかった。
その事実を、これから本当のことにしなければならない。
スマホが震えた。千歳からだった。
『信じる練習を始める』
俺は少し笑って、返す。
『俺も』
すぐに既読がつく。少し遅れて、もう一通。
『次は、君が俺を信じて話す番だ』
俺は画面を見つめた。分かっている。
灯庭舎の過去。出資詐欺。狗飼錆人の影。俺の怒り。俺の復讐心。
それを千歳に隠したままでは、同じ場所には立てない。
俺はゆっくり返した。
『話す。一人で突っ走らない』
千歳の返信は短かった。
『約束だ』
俺は、今度は迷わず打った。
『約束する』
これまで何度も、善処する、検討する、分類中だと逃げてきた。
でも今日は違う。
約束する。そう返した。
そして、その言葉に怖くなりながらも、少しだけ誇らしかった。
怖いまま、信じる。
余白の部屋のメモ帳には、そう書かれている。
次に進むには、十分な言葉だった。




