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第15話 共犯者の告白

『約束する』


そう打ったあと、俺はしばらくスマホの画面を見ていた。

善処するでも、検討するでも、分類中でもない。


約束する。

たった四文字が、妙に重い。


けれど、不思議と嫌ではなかった。

玻璃宮千歳が「信じる練習を始める」と言った。


俺は「俺も」と返した。

その次に来たのが、


『次は、君が俺を信じて話す番だ』


だった。

千歳は、逃がしてくれない。


いつだってそうだ。

こちらが軽口で逃げようとすると、静かな目で待つ。


こちらが自分を罰して楽になろうとすると、その道を塞ぐ。

こちらが都合のいい嘘に戻ろうとすると、「本当は?」と聞いてくる。


本当に、性格が悪い。

でもたぶん、俺はもう、その性格の悪さにだいぶ救われている。


****


翌日、俺は灯庭舎にいた。

院長先生に、過去の出資話を聞くためだった。


昔、支援者を紹介すると言って近づいた男。

そのせいで灯庭舎は資金を失い、出資者の信用も失った。


その話が、白蝶会や狗飼錆人につながっているかもしれない。

俺はそれを千歳に話すと約束した。


一人で突っ走らないとも約束した。

だから、まずは聞く。


怒るのは、そのあとだ。


「その人の名前?」


院長先生は、古い書類箱を開けながら少し眉を寄せた。


「ええ。たしか……犬飼さん、と名乗っていたと思うわ」


心臓が嫌な音を立てた。


「犬飼?」

「字は違ったかもしれないけれど。名刺はもう残っていないかもしれないわね」


俺は声が低くなるのを抑えた。


「その人、どんな男だった?」

「物腰は柔らかかったわ。ボランティアとして何度か来てくれて、子供たちにも優しくて。古い施設を残すためには外部資金が必要だ、支援者を紹介できると言ってくれたの」


院長先生は、書類の束をめくる。

その手が、ほんの少し震えていた。


「私たちも焦っていたのね。建物の修繕費がかさんで、行政の補助だけでは足りなくて。あの時、うまい話にすがってしまった」

「院長が悪いわけじゃない」


思わず強く言った。

院長先生は、少しだけ笑う。


「ありがとう。でも、大人としての責任はあるわ」


その言い方が痛かった。

俺は奥歯を噛む。


「その後、金は?」

「一部の準備金を、支援団体を通す形で預けることになったの。でも、その団体自体が実体のないものだった。紹介されるはずだった出資者も、最後には連絡がつかなくなった」


「警察は?」

「相談はしたわ。でも、こちらの書類不備もあって、相手を追い切れなかった。何より、その噂が広まって、他の支援者が離れてしまったの」


胸の奥が、熱くなる。

怒りだ。


でも、今は飲み込む。

一人で突っ走らない。


千歳と約束した。


「写真は?」


俺が聞くと、院長先生は一枚の古い写真を出した。

昨日、千歳に届いたものと同じ時期の写真。


灯庭舎の前。

院長先生。子供たち。そして、男。


顔立ちは、今の狗飼錆人と完全には一致しない。

髪型も雰囲気も違う。


でも、笑い方が似ている。

人の懐に入るための笑み。


そして、左手の小指には黒い石の指輪。

俺は写真を握り潰しそうになって、慌てて指の力を抜いた。


「纏くん」


院長先生が静かに言う。


「怒っているのね」

「怒ってる」


「無茶はしないで」

「しない」


即答した。

自分でも驚くくらい、すぐに答えられた。


「約束したから」

「誰と?」


俺は少しだけ黙った。

それから言った。


「千歳さんと」


院長先生の目が柔らかくなる。


「そう」

「一人で突っ走らないって」


「いい約束ね」

「守れるかは分からない」


「守ろうと思っているなら、前よりずっといいわ」


俺は写真をスマホで撮った。

書類も、許可をもらって撮影した。


本当は、このまま狗飼錆人を探しに行きたかった。

あの男の胸ぐらを掴んで、何をしたのか吐かせたかった。


灯庭舎の庭で笑った子供たちを、金の数字に変えたこと。

院長先生の善意を、弱さとして利用したこと。


古い建物を壊すために、先に信用を壊したこと。

全部、吐かせたかった。


でも、行かない。

行かない代わりに、俺は千歳へメッセージを送った。


『犬飼と名乗ってたらしい。

黒い石の指輪あり。

写真と書類、持って余白の部屋に行く』


既読はすぐについた。

返事もすぐだった。


『一人で動くな』


俺は短く返した。


『動いてない』


今、かなり動きたいけど。

少し間があって、返事。


『なら、俺のところに来い。そこで怒れ』


俺は、その画面を見て少しだけ笑った。

本当に、この男は。


怒りの置き場所まで用意しようとする。


****


余白の部屋に着いた時、千歳はすでにいた。

テーブルには黒い作戦ノート。


白いマグと青いマグ。

本棚の横には蓮太の絵。


逃げない場所。

その空気に触れた瞬間、張りつめていた何かが少し緩んだ。


「来たな」


千歳が言う。


「来た」

「顔が怖い」


「今は笑えない」

「笑わなくていい」


千歳は立ち上がり、俺の持ってきた封筒を受け取った。

俺はソファに座る。


座った瞬間、膝から力が抜けそうになった。

怒りで疲れている。たぶん。


千歳は写真を見た。書類も見た。

表情はほとんど変わらない。


でも、目が冷えていくのが分かる。


「犬飼、か」

「字は分からないって」


「狗飼錆人が偽名を使った可能性もある。あるいは部下か、関連人物」

「でも繋がってるだろ」


「高い確率で」


俺は拳を握った。


「灯庭舎に入り込んで、善人面して、金を奪って、信用まで壊した」

「うん」


「それで今度は、その土地ごと潰そうとしてる」

「うん」


「殺してぇ」


言葉が落ちた。

千歳は、驚かなかった。


責めもしなかった。

ただ、静かに俺を見た。


「それほど怒っているんだな」

「怒ってる」


「当然だ」


その一言で、少しだけ救われてしまった。

怒るなと言われたら、たぶんもっと壊れていた。


でも千歳は、怒りを否定しない。

ただ、置く場所を見ている。


「だが、一人で行くな」

「分かってる」


「本当に?」

「約束した」


「君は、約束を守る男か?」


胸に刺さる問いだった。

俺は、最初に嘘をついた男だ。


千歳に金のために近づいた男だ。

約束を守る男です、と軽くは言えない。


だから、ちゃんと答えた。


「これから、そうなる」


千歳の瞳が少し揺れた。


「そうか」

「証明するって言っただろ」


「言ったな」

「だから、今ここに来た」


千歳は黙っていた。

それから、白いマグを俺の前に置いた。


中身は水だった。


「飲め」

「命令?」


「命令」

「そこは願いじゃないのかよ」


「今の君は、水を飲むべきだ」


俺は笑いそうになった。

笑えないと思っていたのに、少しだけ笑ってしまった。


「御曹司様、厳しい」


「飲め」

「はいはい」


「はいは一回」

「はい」


水を飲むと、喉が少し楽になった。

千歳は向かいではなく、隣の一人掛けに座る。


近い。

でも、触れない。


まだ、触れる理由を決めていない。


「整理する」


千歳が言った。


「灯庭舎に接触した男は“犬飼”を名乗った。黒い石の指輪あり。支援団体を装い、資金を奪った。その結果、灯庭舎は支援者の信用を失い、資金難が悪化した」

「うん」


「白蝶リゾート構想は、その後の資金難と老朽化を理由に、灯庭舎を移転へ追い込もうとしている」

「うん」


「つまり、過去の資金詐欺と現在の開発計画は、一本の線でつながる可能性が高い」

「狗飼錆人」


俺が言うと、千歳の目が細くなる。


「まだ断定はしない」

「でも、お前もそう思ってるだろ」


「思っている」

「なら」


「だからこそ、証拠を取る」


千歳の声は冷静だった。


「怒りで動けば、相手にこちらの手札を見せるだけだ。君が狗飼に詰め寄れば、灯庭舎はさらに攻撃される。院長先生も、子供たちも危険になる」

「分かってる」


「君自身もだ」

「俺は別に」


「別に、ではない」


千歳の声が強くなった。

俺は黙った。


千歳は、まっすぐ俺を見る。


「君を雑に使わせる気はないと言った」

「……」


「それは敵だけではない。君自身にもだ」


胸が痛い。

俺は、自分を雑に使う癖がある。


灯庭舎のためなら、多少汚れてもいい。

誰かを逃がすためなら、自分の取り分がなくなってもいい。


千歳を守るためなら、自分が危険に飛び込んでもいい。

そう考える。


考えてしまう。

千歳は、それを許さない。


「俺は、灯庭舎のためなら動ける」


俺は低く言った。


「でも、自分のためには止まれない」

「知っている」


「だから、止めろ」


言ってから、息が詰まった。

頼っている。


完全に。

千歳は、静かに頷いた。


「止める」


「強引にでも」

「もちろん」


「御曹司様、そういうの得意そう」

「得意だ」


少しだけ笑えた。

その笑いを合図にするみたいに、千歳は黒い作戦ノートを開いた。


「今後の方針を決める」

「うん」


「一つ。灯庭舎の件は、鏡味にも調査させる」

「分かった」


「二つ。君は院長先生に追加資料を確認する。ただし、一人で狗飼周辺には接触しない」

「分かった」


「三つ。偽装関係は継続。むしろ強める」

「強める?」


「相手は、君を揺さぶるために灯庭舎の写真を送ってきた。つまり君が俺の近くにいることを不快に思っているか、利用価値があると見ている」

「それで?」


「こちらから、もっと価値があると思わせる」


千歳はペンを置く。


「俺が君を手放せなくなっているように見せる」


その言葉に、心臓が鳴った。


「……それ、偽装?」

「偽装だ」


「本当に?」


千歳は少し黙る。

それから、俺を見る。


「半分」


「残りは?」

「今は言わない」


「逃げた」

「逃げたな」


自分で認めた。

珍しい。


俺は思わず笑った。


「千歳さんでも逃げるんだな」

「君の前では、最近よく逃げている」


「なら追うぞ」

「今は追うな」


「命令?」

「願い」


俺は頷いた。


「分かった。今は追わない」


千歳の目が、少しだけ柔らかくなった。


「ありがとう」


その言葉が静かに落ちる。

俺は胸が苦しくなって、青いマグを手に取った。


今はインスタントコーヒーではなく、水。

冷たい。


少し落ち着く。


「偽装関係を強めるって、具体的には?」


俺が聞くと、千歳は表情を整えた。


「余白の部屋への出入りを、ある程度見せる」

「ここを?」


「直接場所は漏らさない。ただ、俺が君と二人で会う時間を増やしていることは匂わせる」

「危なくないか」


「危ない」

「おい」


「だが、敵が欲しがるのは“秘密の関係”だ。こちらが完全に隠すより、隠しきれていないように見せた方が食いつく」

「作戦としては分かる」


「不満か?」

「お前が自分を餌にしすぎるのが不満」


「君も餌だ」

「そこは否定しろ」


「嘘はつかない」

「正直すぎる御曹司」


千歳は少しだけ笑った。


「だから、二人でやる」


その一言で、胸が少し静かになる。

二人で。


それなら、まだ進める。

俺一人で汚れるわけではない。


千歳一人が餌になるわけでもない。

二人で嘘をつく。


二人で、本当を残す。


「分かった」


俺は言った。


「やる」

「ただし」


千歳が続ける。


「前提がある」

「何」


「君が一人で復讐に走らないこと」


痛い。

今、まさに刺された。


「……分かった」


「本当に?」

「本当に」


「なら、言葉にして」


千歳は逃がさない。

俺は息を吸った。


「俺は、狗飼錆人の件で一人で動かない。怒っても、先にお前に言う」


千歳は頷いた。


「よろしい」

「先生かよ」


「君には必要だ」

「否定できない」


「それから」

「まだあるのか」


「ある」


千歳は少しだけ目を伏せた。


「君が復讐したいと思うこと自体は、否定しない」


胸が鳴った。


「でも、それを一人で背負うな」

「……」


「復讐するなら、二人でやる」


言葉が、部屋に落ちた。

重くて、危なくて、少し甘い。


「御曹司様が復讐とか言うと、怖いな」

「怖がらせるために言った」


「性格悪い」

「知っている」


千歳は静かに言った。


「ただし、俺たちの復讐は、相手を殴りに行くことではない」

「じゃあ何だ」


「相手の嘘を暴くこと」


千歳の声に、冷たい刃が戻る。


「狗飼錆人が灯庭舎を壊したなら、その証拠を取る。白蝶会と瑠璃香が開発のために過去から仕込んでいたなら、その流れを明らかにする。叔父上が利用されているなら、引き剥がす」


「全部やるのか」

「やる」


「強いな」

「君が頼ったからな」


心臓が跳ねた。

千歳は、わざとではない顔をしている。


たぶん本気で言った。

俺が頼ったから。


だから応える。


「……そういうの」


「軽い口で言うな?」

「うん」


「軽くない」


今度は、俺が黙った。

千歳は本当に、少しずつ俺の言葉を奪っていく。


そして、もっと強い形で返してくる。

反則だ。


作戦をまとめたあと、少し休憩になった。

俺はキッチンに立ち、二つのマグにコーヒーを入れた。


千歳は灯庭舎の写真をもう一度見ている。

その顔が、ひどく真剣だった。


「なあ」


俺は青いマグを手に言った。


「何かな」


「俺、今日かなり怒ってる」

「知っている」


「たぶん、これからもっと怒る」

「だろうな」


「それで、千歳さんにひどいこと言うかもしれない」


千歳が顔を上げる。


「俺に?」

「止められたら、八つ当たりするかも」


「予告するのか」

「信じる練習中だから」


千歳は、少しだけ目を細めた。


「いいだろう」

「いいのか」


「八つ当たりは受け止めない。止める」

「あ、そこは優しくない」


「君の怒りは受け止める。だが、不当な攻撃は受け止めない」

「……ちゃんとしてるな」


「契約は大事だ」

「恋愛も?」


「なおさら」


俺は笑った。

千歳も少しだけ笑った。


その笑いのあと、千歳は白いマグを両手で包んだ。

両手。


助けろ、の合図。

俺はすぐ気づいた。


「助ける?」


千歳は少しだけ苦笑する。


「少し」


「どうした」

「君の怒りを見ていたら、俺も腹が立ってきた」


「灯庭舎のこと?」

「それもある」


「他には?」


千歳は少し黙った。


「君が、その怒りを抱えて一人でどこかへ行くかもしれないと思った」


俺は息を止めた。


「行かない」

「分かっている」


「でも怖い?」

「少し」


正直に言った。

千歳が。


俺は近づきかけて、止まった。

触れない約束。


でも、合図は出ている。

助けろと言われた。


「触れる?」


俺が聞くと、千歳は少し考えた。


「今は、言葉で」

「分かった」


俺はソファの隣に座った。

近い。


でも触れない。


「行かない」


俺は言った。


「約束したから」

「うん」


「怒っても、お前のところに来る」


千歳の睫毛が揺れる。


「うん」


「復讐したくなったら、まずお前に言う」

「うん」


「一緒にやる」


千歳が、少しだけ目を伏せた。


「……そうだな」

「二人で」


俺が言うと、千歳はゆっくり頷いた。


「二人で」


その言葉だけで、少し落ち着いた。

触れなくても、ちゃんと届くことがある。


触れない約束は、やっぱり距離を作るためではなかった。

言葉を逃がさないための約束だ。


夕方になる頃、鏡味から千歳に連絡が入った。

灯庭舎の過去の件について、いくつか古い記録が見つかったらしい。


支援団体の名義。

仲介した人物の別名。


そして、狗飼錆人が過去に関与していた投資会社の名前。

完全な証拠ではない。


でも、線はかなり濃くなった。


「錆人だな」


俺が言うと、千歳は端末を見ながら頷いた。


「まだ詰める必要はある」

「でも、ほぼ」


「そうだ」


怒りが戻ってくる。

しかし、今度は暴れなかった。


千歳が隣にいる。

ここに怒りを置いていい。


それが分かっているだけで、少し違った。


「纏」


千歳が言った。


「何」

「これから、君は狗飼錆人に対してかなり冷静でいなければならない」


「無理そう」

「無理でもやる」


「厳しい」

「俺が隣にいる」


その一言で、何かが止まった。

心臓も、怒りも、少しだけ。


「……それ、反則」

「事実だ」


「最近、事実が一番反則なんだよ」


千歳は少しだけ笑った。


「では、事実をもう一つ」

「何」


「俺は、君と戦う」


胸が熱くなる。

千歳はまっすぐ俺を見る。


「灯庭舎のためだけではない。澪標の丘のためだけでもない。俺自身のためでもある」

「うん」


「そして」


千歳は少しだけ言葉を止めた。

珍しく、迷う。


俺は待った。


「君の怒りを、一人で終わらせたくない」


言葉が刺さった。

優しい刃みたいだった。


「千歳さん」

「何かな」


「俺、たぶん本当にお前のこと——」


好きだ。

言いかけた。


今度こそ、喉元まで出た。

でも、止まった。


千歳も、それに気づいた。

部屋が静かになる。


俺は息を吐く。


「まだ、言わない」

「なぜ」


「勝手に感情で流したくない」


千歳は目を細めた。


「六番のルールか?」


好きだと言えるまでは、勢いでキスしない。

その一文。


「言えるまでは、じゃなくて」


俺はゆっくり言った。


「言うなら、ちゃんと全部背負って言いたい」


千歳は黙っていた。

俺は続ける。


「今言ったら、怒りとか、安心とか、お前が隣にいる嬉しさとか、全部混ざってる」

「混ざっていてはいけないのか」


「いけなくない。でも、俺はちゃんと選びたい」

「選ぶ?」


「お前を好きだって言うなら、逃げでも、勢いでも、復讐の共犯だからでもなく、俺がそうしたいから言いたい」


千歳は、長い間俺を見ていた。

やがて、少しだけ目を伏せる。


「……君は時々、腹が立つほど誠実だな」

「時々かよ」


「普段は口が悪い」

「お前もな」


千歳は笑った。

でも、その笑顔は少しだけ泣きそうにも見えた。


「では、待つ」


「また?」

「君がちゃんと選ぶまで」


「長いかも」

「構わない」


「本当に?」

「その代わり」


「何」


千歳は、静かに言った。


「俺も、ちゃんと選ぶ」


胸が鳴った。

千歳も、まだ言わない。


でも、逃げない。

ちゃんと選ぶ。


それだけで、今は十分だった。

少し沈黙が落ちた。


前なら、ここで俺は茶化していた。


「御曹司様に選ばれるとか高くつきそう」なんて言って、全部を軽くしていた。


でも、今日はできなかった。

軽くしたくなかった。


千歳も、何も言わなかった。

ただ、白いマグを持つ手から力を抜いて、ゆっくり俺を見た。


「纏」

「何」


「触れる」


心臓が跳ねた。

今度は、千歳からだった。


「理由は?」


俺は、できるだけ落ち着いた声で聞いた。

千歳は少しだけ息を吸った。


「君の怒りを止めるためではない」

「うん」


「君を許すためでも、許されるためでもない」

「うん」


「共犯者として、同じ場所に立つためだ」


胸が詰まった。


「手?」

「いや」


千歳は、少しだけ迷ったあと、まっすぐ俺を見た。


「正面から」


言葉の意味を理解するのに、一拍かかった。

正面から抱きしめる。


昨日、俺が千歳を抱きしめた。

あれは、千歳の怖さを受け止めるためだった。


今度は、千歳から。

この前より、ずっと穏やかに。


でも、たぶん同じくらい重い。


「……恋人じゃないぞ」


俺は、苦し紛れに言った。

千歳は静かに頷いた。


「知っている」

「まだ、好きとも言ってない」


「知っている」

「共犯者だ」


「そうだ」


千歳は少しだけ目を伏せた。


「まだ恋人ではない」

「うん」


「だが、離れろとは言っていない」


その一言で、俺は何も言えなくなった。

離れろとは言っていない。


それだけなのに、どうしてこんなに甘い。

千歳は立ち上がった。


俺も立つ。

距離は近い。


昨日のハグの記憶が、身体に残っている。

でも、今日の千歳は昨日より落ち着いていた。


怖いまま信じる、と書いた男が、今日は自分の足でこちらへ来ている。


「許可する」


俺が言うと、千歳の目が少しだけ揺れた。


「君が言うのか」

「言ってみたかった」


「ずるいな」

「お前ほどじゃない」


千歳はほんの少し笑った。

そして、正面から俺を抱きしめた。


昨日よりも、静かな抱擁だった。

壊れそうな感情を止めるためではない。


泣きそうな怖さを受け止めるためでもない。

もっと穏やかで、でも深い。


共犯者の距離だった。

腕の中に閉じ込めるのではなく、同じ場所に立つために触れる。


お前は一人で行くな。

俺も一人では行かない。


そう言葉にしないまま、身体の距離で確認する。

千歳の腕は、思ったよりしっかり俺の背に回った。


俺は一瞬だけ戸惑って、それからゆっくり腕を返す。

強く抱きしめすぎない。


でも、離れない。


「……これ、かなり」


俺が言うと、千歳が胸元で小さく笑った。


「困る?」

「困る」


「俺もだ」

「じゃあ離れる?」


千歳は少し沈黙した。

そして、低く言った。


「まだ」


胸が熱くなる。


「何秒?」

「数えない」


「御曹司様、今日は曖昧だな」

「今日だけだ」


「今日だけが多い」

「君に移った」


俺は笑った。

千歳も、少しだけ笑った。


笑いながら、まだ離れない。

抱きしめる理由は、はっきりしている。


共犯者として、同じ場所に立つため。

なのに、その理由だけでは説明できない熱が、胸の奥に残る。


でも、それでいいのかもしれない。

全部を今すぐ名前にしなくてもいい。


俺たちはまだ恋人ではない。

でも、離れろとは言われていない。


そして俺も、離れたいとは思っていない。


「纏」


千歳が言った。


「何」


「君の怒りを、一人で終わらせない」

「うん」


「俺の怖さも、一人で抱えない」

「うん」


「復讐するなら、二人で」

「二人で」


「嘘を暴く」

「全部、暴く」


千歳の指が、俺の背中でほんの少し強くなる。


「それが、俺たちの共犯だ」


俺は目を閉じた。


「……共犯者の告白ってやつか」

「何だそれは」


「今、思いついた」

「語彙が安い」


「でも悪くないだろ」


千歳は少し黙ってから言った。


「悪くない」


高評価。

たぶん、かなり。


やがて、千歳が先に腕を緩めた。

俺も離れる。


少しだけ、名残惜しかった。

でも、言わない。


顔には出ている気がする。

案の定、千歳が見る。


「顔」

「見るな」


「名残惜しそうだ」

「……してる」


認めた瞬間、千歳の目が柔らかくなる。


「俺もだ」


やめろ。

本当に、そういうのをまっすぐ言うな。


俺は青いマグを取って、水を飲んだ。

冷たい。


全然落ち着かない。


「作戦ノート」


千歳が言う。


「書くのか、今のも」

「当然だ」


「機密情報が増える」

「君の字で守ればいい」


「俺の字を暗号扱いするな」


二人でテーブルに戻った。

俺は安いメモ帳を開く。


夜になる前に、今日の記録を残す。

俺の字で。


ーー

灯庭舎の過去。犬飼。黒い指輪。狗飼錆人の線、濃厚。

俺、怒る。千歳、止める。

復讐するなら二人で。

言いかけた。でもまだ言わない。ちゃんと選ぶ。

千歳、正面から触れる。理由:共犯者として同じ場所に立つため。

まだ恋人ではない。だが、離れろとは言っていない。

ーー


書いて、自分で息が詰まった。

最後の一文。


強すぎる。

千歳はしばらくその文字を見ていた。


それから、俺からペンを受け取り、下に書いた。


ーー

俺も選ぶ。

共犯者の距離。効果:安定。危険度:継続して高。

ーー


「危険度、継続して高って何だよ」

「事実だ」


「何が危険?」


千歳は少しだけ目を伏せた。


「共犯者という言葉が、便利すぎる」


胸が鳴った。


「恋人未満の言い訳に使えるから?」

「そうだ」


「……お前、正直になりすぎじゃない?」

「逃げない場所だからな」


また返された。

俺は頭を抱えた。


「その言葉、強すぎるんだよ」


「君が書いた」

「そうだけど」


「責任を取れ」

「出た」


「名付け親だろう」

「メモ帳の?」


「この部屋の」


俺は何も言えなかった。

余白の部屋。


逃げない場所。

本当を残す場所。


ここにいると、俺たちは少しずつ逃げられなくなっていく。

でも、それが嫌じゃない。


むしろ、少し安心する。

重い話をしたあとでも笑える。


触れたあとでも、まだ言葉にできる。

それが、今の俺たちの救いだった。


玄関で別れる時、千歳は俺を見た。


「纏」

「何」


「今日は一人で行かなかったな」

「行きたかったけどな」


「知っている」

「でも来た」


「うん」

「褒めて」


千歳が一瞬止まる。

それから、少しだけ笑った。


「よくできました」

「子供扱いすんな」


「君が求めた」

「もっと別の褒め方あるだろ」


千歳は少し考え、真面目な声で言った。


「頼ってくれて、よかった」


胸が詰まった。


「……それは」

「褒めている」


「全部?」

「全部」


本当に、困る。

俺は目を逸らした。


「顔」


「見るな」

「嬉しそうだ」


「してるよ」


認めると、千歳は柔らかく笑った。


「素直だな」

「今日だけ」


「またか」

「在庫処分」


「買い占めると言っただろう」

「高くつくぞ」


「君が?」

「俺が」


いつものやりとりで終わる。

そう思った時、千歳がふと真面目な顔になった。


「次は、叔父上を引き剥がす準備に入る」


「斎門さん?」

「ああ」


「白蝶会から?」

「彼は完全な悪人ではない。ただ、劣等感を利用されている」


「千歳さんらしいな」

「何が」


「敵でも、ちゃんと見るところ」


千歳は少し黙った。


「利用できるものを見ているだけだ」

「違うだろ」


「……」

「お前は、誰かがまだ戻れるかどうかも見てる」


千歳は答えなかった。

でも、その沈黙が答えだった。


「次は、叔父さんを落とすのか」


俺が言うと、千歳は目を細める。


「言い方」


「攻略ログ番外編?」

「君の悪影響が強いな」


「褒めてる?」

「半分」


「残りは?」

「使える」


俺は笑った。


「じゃあ、使えよ」


千歳は俺を見る。


「いいのか」


「共犯だろ」

「そうだったな」


「ただし、一人で抱えるなよ」

「君もな」


「約束」

「約束だ」


ドアが閉まる前、千歳が一度だけ振り返った。


「纏」

「何」


「まだ恋人ではない」

「分かってる」


「だが」

「うん」


「離れろとは、言っていない」


二度目。

分かっていて言っている。


俺を殺しに来ている。


「……千歳さん」

「何かな」


「それ、危険度非常に高」


千歳は、ほんの少し笑った。


「記録しておけ」


ドアが閉まった。

俺はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。


共犯者。

恋人ではない。


まだ、好きとも言っていない。

でも、離れろとは言われていない。


その距離が、今の俺たちにはいちばん危ない。


****


その夜、千歳からメッセージが来た。


『今日は、君が来てよかった』


俺はベッドに転がりながら、しばらく画面を見ていた。

それから返す。


『行ってよかった。怒りで突っ走らずに済んだ』


少しして、返信。


『俺のところで怒れと言っただろう』


俺は笑った。


『次も怒りに行く』


既読。

少し間があって。


『待っている。ただし、暴れるなら事前申請を』


「申請制かよ」


声に出して笑ってしまった。

俺は返す。


『申請先、玻璃宮千歳様で合ってる?』


返信。


『俺以外に出すな』


心臓が跳ねた。


さらっと、そういうことを言う。

俺以外に出すな。


怒りを。弱さを。

たぶん、もっといろんなものを。

俺は画面を見つめたまま、ゆっくり返した。


『分かった。千歳さん以外に出さない』


送信してから、顔が熱くなった。

意味が重い。重すぎる。


でも、取り消さなかった。

千歳からの返事は、少し遅かった。


『俺も、君以外に言わないようにする』


何を、とは書いていない。

でも、分かった。


悔しいも、怖いも、信じたいも。

たぶん、好きに近い何かも。


俺はスマホを胸の上に置いた。

狗飼錆人への怒りは、消えていない。


むしろ、これから強くなる。

でも、その怒りを一人で持たなくていいことを、今日知った。


復讐するなら、二人で。

ただし、殴りに行くのではなく、嘘を暴く。


それが俺たちの戦い方になる。

俺は目を閉じた。


千歳の文字が浮かぶ。


俺も選ぶ。


まだ、好きとは言っていない。

でも、もうほとんどそこにいる。


次は、叔父を白蝶会から引き剥がす。

恋の作戦は、政治の作戦へ変わっていく。


でも、その中心にあるものは変わらない。

同じ地図に立ってしまった俺たちが、同じ場所を守るために、同じ嘘を武器にする。


俺は小さく息を吐いた。

最初は仕事だった。


今はもう、違う。そして次からは。

愛だとまだ言わないまま、俺はたぶん、愛のために戦う。


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