第16話 落ちるふりは、ここまでだ
「叔父上を引き剥がす」
玻璃宮千歳は、余白の部屋のテーブルに広げた相関図を前に、そう言った。
声は静かだった。
けれど、その静けさの奥に、いつもの刃がある。
玻璃宮斎門。
千歳の叔父。
玻璃宮玄理――千歳の父親に劣等感を抱き続け、凍蝶院瑠璃香と白蝶会に甘い言葉で取り込まれた男。
完全な悪人ではない。
だが、善人とも言えない。
弱さを利用されて、敵の駒になっている。
「引き剥がすって、どうやって」
俺は青いマグを片手に聞いた。
余白の部屋には、もう何度も来ている。
白と青のマグ。蓮太の絵。安いメモ帳。高級な作戦ノート。
灯庭舎と澪標の丘の地図。触れない約束を書いたページ。
正面から抱きしめた日の記録。
共犯者の距離、危険度高。
いつの間にかこの部屋は、ただのセーフハウスではなくなっていた。
俺たちが嘘を作り、本当を残す場所。
逃げない場所。
千歳は黒い作戦ノートを開いた。
「叔父上は、自分が玻璃宮グループ内で正当に評価されていないと思っている」
「実際は?」
「能力はある。ただ、父と比べられ続けた」
「総帥と比べられるのはきついな」
「しかも、本人はそれを認めたくない」
「面倒くさいタイプだ」
千歳が俺を見る。
「君が言うか」
「俺は面倒くさくないだろ」
「かなり」
「即答やめろ」
千歳は少しだけ笑った。
だが、すぐに真面目な顔へ戻る。
「叔父上は、承認されたい。自分の功績を形にしたい。瑠璃香はそこを突いた」
「白蝶リゾート構想を進めれば、斎門さんの手柄になるって?」
「そうだ。父が海外にいる間に、大型開発を成功させた人物として名を残せる、と」
俺は相関図を見下ろした。
玻璃宮斎門。
凍蝶院瑠璃香。
狗飼錆人。
白蝶会。
その線の一本一本が、灯庭舎と澪標の丘に向かって伸びている。
腹が立つ。
だが、今は怒りに任せて動く場面ではない。
俺は約束した。一人で突っ走らない。
復讐するなら二人で。
「で、斎門さんには何が効く」
俺が聞くと、千歳はペンを持ったまま少し考えた。
「正面から否定すれば意固地になる。瑠璃香に利用されていると指摘しても反発するだろう」
「じゃあ、褒める?」
千歳の目が少し動いた。
「褒める?」
「ああ」
俺はソファの背にもたれた。
「承認欲求タイプなら、否定より先に認める。まず“あなたが必要です”って形を作る」
千歳が黙る。
その沈黙が、少し懐かしかった。
最初の頃、俺は千歳を攻略しようとして、いろいろなテンプレを試していた。
距離感。ツンデレ。高慢。甘やかし。承認欲求。嫉妬。理想。キス未遂。
今思えば、かなり馬鹿なことをしていた。
でも、その馬鹿な攻略ログが、今ここで武器になる。
「叔父さんを引き剥がすなら、敵から奪うんじゃなくて、自分で戻ってきたと思わせた方がいい」
「……続けて」
千歳が言った。
俺は少しだけ笑った。
「御曹司様、俺の話を真面目に聞くようになったな」
「君は時々、腹が立つほど使えることを言う」
「褒めてる?」
「全部」
胸が鳴る。
最近の千歳は、半分ではなく全部と言うことが増えた。
そのたびに俺の心臓が危険物みたいになる。
俺は咳払いして話を戻した。
「斎門さんは、瑠璃香さんに“あなたこそ玻璃宮の未来を作る人”みたいに言われてるんだろ」
「おそらく」
「なら、こっちはもっと現実的な形で承認する。白蝶リゾート構想そのものを否定するんじゃなくて、“斎門さんの視点は必要だった。ただし、今の計画は瑠璃香と錆人に利用されている”って方向に持っていく」
千歳はノートに書き始めた。
綺麗な字。
本当に腹が立つほど綺麗な字だ。
「叔父上に、別の功績を用意する」
「そう。白蝶リゾートを止めた男じゃなくて、暴走した開発を健全化した男にする」
千歳のペンが止まった。
「君は」
「何」
「本当に、人の欲を見るのが上手いな」
「ホストなんで」
「それは逃げだ」
「今日は許せ」
「許す」
即答。
俺は逆に詰まった。
「……今日は甘いな」
「君が役に立ったからな」
「言い方」
千歳は少しだけ笑った。
その笑顔が余白の部屋に馴染んでいる。
最初は、この部屋の方が千歳に合わせて整っていた。今は少し違う。
千歳が、この部屋で少し崩れるようになった。
白いマグを両手で包んだり。
安いメモ帳に本音を書いたり。
蓮太の絵を、本棚の横に大事そうに置いたり。
俺は、それを見るのが好きになっていた。
かなり、まずいくらいに。
「顔」
千歳が言う。
「何」
「変な顔をしている」
「してない」
「している」
「分析禁止」
「ここは余白の部屋だ。禁止事項は少ない」
「触れない約束はあるけどな」
言った瞬間、少し空気が変わった。
触れない約束。
好きだと言えるまでは、勢いでキスしない。
軽く触れない。
触れる時は理由を共有する。
手を握るのは、ここにいると確かめたい時。
正面から抱きしめるのは、感情を受け止める時。
後ろから抱きしめるのは、倒れそうな背中を支えたい時。
そのルールは、俺たちを遠ざけるためではなく、近づくためにある。
分かっている。
でも、分かっているからこそ、時々苦しい。
千歳は白いマグを見た。
「今日、会合がある」
「斎門さんと?」
「表向きは、玻璃宮グループ内の開発検討会だ。叔父上も来る。瑠璃香側の人間も数人」
「俺も?」
「来てほしい」
胸が鳴った。
命令ではなく、依頼だった。
「理由は?」
俺が聞くと、千歳はまっすぐ俺を見る。
「俺が一人で冷静でいられるか、少し自信がない」
そんなことを、千歳が言うようになった。
以前なら絶対に言わなかった。
玻璃宮千歳は、涼しい顔で一人で立ち、誰にも弱みを見せなかった。
でも今は違う。
「……分かった」
俺は頷いた。
「行く」
「助かる」
「人前では?」
「偽装関係を継続する。叔父上にも、俺が君を近くに置いていると思わせる」
「落ちたふり?」
「そうだ」
「まだ落ちてないふり、できる?」
言ってから、しまったと思った。
千歳の目が、静かに揺れる。
俺も逃げなかった。余白の部屋だから。逃げない場所だから。
千歳は少しだけ視線を外した。
「落ちたふりは、そろそろ難しいな」
心臓が、一拍遅れた。
「……千歳さん」
「だが、落ちたと認めるには、まだ早い」
「うん」
「君がちゃんと選ぶと言ったから」
「言った」
「俺も、ちゃんと選ぶと言った」
「うん」
千歳は俺を見る。
「だから今日も、半分は作戦だ」
「残りは?」
千歳は、少しだけ笑った。
「君が隣にいると、俺が楽だから」
反則。
本当にこの男は、最近反則技が多すぎる。
「……そういうの」
「軽い口で言うな?」
「うん」
「軽くない」
何度も聞いた返し。
でも、何度聞いても胸が熱くなる。
****
午後、俺たちは会合の会場へ向かった。
玻璃宮グループ本社の中層階にある会議室。
最上階ほど冷たくはないが、十分に息苦しい。
長いテーブル。
分厚い資料。
高そうな椅子。
窓の外には、都心のビル群。
そこに、斎門がいた。
年配の男。
千歳とどこか顔立ちが似ている。
だが、千歳の透明な刃とは違い、斎門の目には焦りと苛立ちが滲んでいた。
その隣には、白蝶会側の男。
狗飼錆人本人はいない。
だが、あの黒い石の指輪をした男が一人、後方に立っている。
俺の背筋が冷えた。
灯庭舎の写真。
犬飼。黒い石。
怒りが胸の奥で跳ねる。
その瞬間、千歳が資料を両手で持った。
カップではない。
でも、俺たちの中ではもう十分だった。
両手。助けろ。
俺は勝手にそう受け取った。
俺は小さく息を吐き、千歳の隣へ半歩寄った。
触れない。でも、隣にいる。
千歳は一瞬だけ俺を見て、すぐに前を向いた。
「本日は、お時間をいただきありがとうございます」
御曹司の声。
玻璃宮千歳の声。
会議が始まった。
白蝶リゾート構想の収益見込み。
観光客誘致。地域経済への波及効果。
古い施設の整理。安全性。
聞こえのいい言葉が並ぶ。
俺には難しい数字も多かった。
でも、人の顔色を見るのは得意だ。
斎門は、数字そのものよりも、周囲の反応を見ている。
自分の案がどれだけ評価されているか。
自分の発言がどれだけ重く扱われているか。
やっぱり、承認欲求だ。
白蝶会側の男は、斎門が不安そうになるたびに、少し頷く。
「あなたの考えは正しい」と言わんばかりに。
気持ち悪い。
あれは支援ではない。
餌だ。
斎門はそれを食わされている。
会議の途中、斎門が千歳を見て言った。
「千歳くん。君は、この構想を感傷で潰そうとしているのではないかね」
空気が冷える。
母の話に近づく言い方。
千歳の指がわずかに動いた。
俺はすぐに気づいた。
千歳は怒っている。
でも、ここで怒れば相手の思う壺だ。
俺は一度、息を吸った。
そして、千歳より先に口を開いた。
「斎門様」
会議室の視線が一斉に俺へ向く。
ホスト風情が何を言う。
そういう目がいくつも刺さる。
慣れている。
「何かな、君は」
斎門の声には明らかに不快感があった。
俺は笑った。
ホストの笑顔ではなく、相手の懐に入るための笑顔。
「外部の人間が失礼します。でも、先ほどからお話を聞いていて、斎門様の視点は必要だと思いました」
斎門の眉が動く。
千歳も、少しだけ俺を見る。
「ほう」
「澪標の丘をただ守りたいと言うだけでは、現実は動かない。資金も、人も、地域も必要です。斎門様が見ている“どう動かすか”の視点は、絶対に必要です」
白蝶会側の男が、わずかに目を細めた。
斎門は、少しだけ姿勢を正した。
効いている。
「だが、君は千歳くんの側の人間だろう」
「はい」
俺は即答した。
会議室の空気がまた揺れる。
「俺は千歳さんの隣にいます」
言ってから、千歳の気配がわずかに変わったのを感じた。
でも、今は見るな。
俺は斎門を見る。
「だからこそ言います。千歳さん一人では、斎門様の視点は補えない。反対に、斎門様一人では、この土地に残っている記憶を守りきれない」
斎門が黙った。
「お二人の方向が違うこと自体は、悪いことじゃないと思います。ただ、その違いを利用している人間がいるなら、話は別です」
白蝶会側の男が口を挟む。
「失礼ですが、ホストの方に何が分かるのですか」
俺はそちらを見た。
「人が、何を欲しがっているかくらいは」
部屋が静かになる。
俺は続けた。
「誰かに認められたい人間が、どんな言葉に弱いか。寂しい人間が、どういう手つきで差し出された餌を取るか。そういうのは、夜の店の方がよく見えます」
男の顔が硬くなる。
斎門は、俺を見ていた。
怒っているのか。それとも、刺さったのか。
分からない。
その時、テーブルの下で、千歳の指が俺の手に触れた。
一瞬だけ。合図だった。
行くぞ、ではない。
ここにいる。
そういう合図。
俺はその指に、ほんの少しだけ触れ返した。
握らない。見せつけない。
ただ、ここにいると返す。
人前での手の接触は、偽装にもなる。
でも今のこれは、戦う前の合図だった。
千歳が静かに口を開いた。
「叔父上」
声は穏やかだった。
「俺は、叔父上の開発視点を否定していません」
斎門が千歳を見る。
「では、なぜ反対する」
「今の計画が、叔父上の功績にならないからです」
斎門の表情が変わった。
千歳は淡々と続ける。
「このまま白蝶リゾート構想を進めれば、表向きの旗印は叔父上になる。しかし、実際の資金流入と権利設計は白蝶会と凍蝶院瑠璃香が握る。失敗すれば叔父上が責任を負い、成功すれば彼らが利権を取る」
「……何を根拠に」
「資料があります」
千歳は別の資料を出した。
鏡味が調べたものだろう。
白蝶会関連法人。
狗飼錆人につながる投資会社。
過去の土地取得。灯庭舎への接触疑惑。
まだ完全な証拠ではない。
しかし、斎門を揺らすには十分だった。
「叔父上」
千歳の声が少しだけ柔らかくなる。
「この計画を止めるのは、負けではありません。叔父上が、瑠璃香と狗飼錆人に利用される前に軌道修正したと示せる」
斎門の手が、資料の上で止まる。
「軌道修正……」
「はい。地域再生そのものは必要です。だが、白蝶リゾートではない。叔父上が中心となって、文化保全型の再生計画へ組み替えればいい」
俺は内心で息を呑んだ。
千歳は、斎門を潰しに来ていない。
救い道を用意している。
自分の叔父だからか。
それとも、まだ戻れる人間だと見ているからか。
たぶん両方だ。
斎門はしばらく黙っていた。
白蝶会側の男が慌てて口を挟む。
「斎門様、これは千歳様の揺さぶりです。白蝶会としては――」
「黙ってくれ」
斎門が低く言った。
男が止まる。
「少し、考えたい」
会議室の空気が変わった。
完全に引き剥がしたわけではない。
だが、亀裂は入った。
白蝶会と斎門の間に。
****
会議後、俺と千歳は本社の廊下を歩いていた。
千歳は黙っている。
俺も黙っている。
エレベーターの前まで来たところで、千歳がようやく言った。
「君は」
「何」
「本当に予定にない動きをする」
「怒る?」
「怒ってはいない」
「じゃあ?」
千歳は俺を見た。
「助かった」
また、その言葉。胸が熱くなる。
「役に立った?」
「腹が立つほど」
「褒めてる?」
「全部」
俺は笑った。
でも、次の瞬間、千歳の表情が少し崩れた。
疲れている。
会議中ずっと張っていた神経が、今やっと少し緩んだのだろう。
俺は近づきかけて、止まった。
「触れる?」
千歳が先に言った。
俺は少し驚く。
「理由は?」
「今日は、少し疲れた」
「うん」
「君が隣にいると、楽だ」
胸が鳴る。
「じゃあ、肩だけ」
「許可する」
俺は、千歳の肩に軽く手を置いた。
ほんの一瞬。
廊下の端。
誰に見られるか分からない場所。
それでも、理由を言って、許可を得て触れた。
千歳の肩は少し硬かった。
でも、俺の手が触れると、わずかに力が抜けた。
それだけで、俺の方が救われた。
「……効果は?」
俺が聞くと、千歳は少し笑った。
「高い」
「メモ帳に書く?」
「書く」
エレベーターが来る前に、俺は手を離した。
触れた時間は短かった。
でも、十分だった。
****
余白の部屋に戻る頃には、外はすっかり冷えていた。
俺たちは車を降りて、余白の部屋のある古いマンションへ入った。
千歳はコートを着ていた。
いつものように綺麗に着ている。
なのに、背中が少しだけ重そうに見えた。
エレベーターの中でも、千歳は無言だった。
疲れている。
怒ってもいる。
たぶん、斎門を救う道を作ったことにも、自分で少し傷ついている。
身内を敵から引き剥がすというのは、勝つことではない。
壊れたところを、壊れていると認めることでもある。
余白の部屋に入ると、千歳はコートを脱ごうとして、少し手を止めた。
俺はそれを見て、何も言わずに近づいた。
「触れる」
千歳がこちらを見る。
「理由は?」
「支える、まではまだ早い」
言ってから、自分で少し笑いそうになった。
後ろから抱きしめるのは、倒れそうな背中を支える時。
あのルールを思い出したからだ。
でも、今日はまだそこじゃない。
俺たちはまだ、その距離に踏み込むべきではない。
「今は、上着をかけるだけ」
千歳の目が少し揺れる。
「理由は?」
「お前の背中が、少し寒そうだから」
「寒いだけか?」
「半分」
「残りは?」
「後ろにいるって、少しだけ伝えたい」
千歳は黙った。
長い沈黙ではなかった。
けれど、十分に重かった。
やがて、千歳は静かに頷いた。
「許可する」
俺は、自分の上着を脱いだ。
そして、千歳の背後に立った。
腕を回しはしない。
抱きしめない。
ただ、肩へ上着をかける。
後ろから包むにはまだ早い。
でも、背中にいることだけは伝えたかった。
上着が千歳の肩に落ちる。
布越しに、千歳の背中の輪郭が少しだけ緩む。
「……温かいな」
千歳が言った。
「俺の上着だからな」
「君は、いつも体温が高い」
「それ、前も言ったな」
「覚えている」
胸が鳴る。
あの握手。手の冷たさ。一瞬の熱。
手の温度は、ずっと反復してきた。
今は手ではなく、上着越しの温度だ。
でも、意味は近い。
ここにいる。
後ろにいる。
まだ抱きしめない。
でも、離れてもいない。
千歳は上着の襟にそっと指を触れた。
「これは、後ろから抱きしめるのとは違うな」
「違う」
「なぜ?」
「まだ、そこまで使いたくない」
「使う?」
「大事な時に取っておく」
千歳は少しだけ笑った。
「君は、時々妙に律儀だ」
「触れ方に意味を持たせろって言われたからな」
「冴さんか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「言ってる意味は分からなかったけど、今は少し分かる」
千歳は振り返らないまま、小さく言った。
「なら、これは?」
「これは、予告」
「何の」
「いつか本当に、お前の背中を支える時が来ても、俺は逃げないっていう予告」
千歳は黙った。
上着を握る指が、ほんの少し強くなる。
「……危険度が高いな」
「メモ帳に書く?」
「書く」
その声が少しだけ掠れていた。
余白の部屋の中は、静かだった。
白いマグ。青いマグ。蓮太の絵。
二冊のノート。灯庭舎の写真。斎門を揺らした資料。
そして、千歳の肩にかかった俺の上着。
この部屋に、またひとつ本当が増えた。
後ろハグ未満。
でも、いつかへの予告。
千歳は上着を羽織ったまま、ソファに座った。
俺は少し離れた椅子に座る。
触れない。
でも、上着は千歳の肩にある。それだけで、距離が少しおかしい。
近い。かなり。
千歳は白いマグを両手で包み、俺は青いマグを片手に持つ。
テーブルには今日の資料。黒い作戦ノート。
安いメモ帳。千歳は作戦ノートに書いた。
ーー
斎門叔父上、白蝶会からの切り離し第一段階。
承認欲求への別ルート提示、有効。
纏、予定外発言。効果:高。
会議中、テーブル下で指先接触。理由:戦う合図。効果:安定。
ーー
俺は安いメモ帳に書いた。
ーー
叔父攻略。斎門さん、揺れる。
千歳、叔父を潰さず戻る道を作った。やっぱり優しい。
人前で手に触れる。理由:ここにいる、行くぞ。効果:高。
肩に触れる。理由:疲労。効果:高。俺も死ぬ。
背後から上着をかける。理由:まだ支えない。でも後ろにいる。危険度:かなり高。
ーー
千歳が覗き込む。
「また死んでいる」
「今日も死んだ」
「生きろと言っただろう」
「お前が殺してるんだよ」
「物騒だな」
千歳はメモ帳の一文を指した。
「優しいを消せ」
「嫌だ」
「効率がいいだけだ」
「違う」
俺は即答した。
「お前は、戻れる人間を見捨てたくないんだろ」
千歳は黙った。
「斎門さんに腹立ってるはずなのに、ちゃんと戻る道を作った」
「利用価値があるからだ」
「それもある。でも、それだけじゃない」
千歳は目を伏せた。
「君は、本当に面倒なところを見る」
「ホストなんで」
「逃げたな」
「少し」
「今日は許す」
「甘い」
「疲れたからな」
「じゃあ、休め」
俺が言うと、千歳は少しだけ素直に頷いた。
ソファに背を預け、目を閉じる。
肩には俺の上着。
俺は少し離れた椅子に座った。
触れない。
でも、ここにいる。
しばらくして、千歳が目を閉じたまま言った。
「纏」
「何」
「落ちるふりは、ここまでだな」
胸が鳴った。
「どういう意味」
「敵に見せるために、俺が君へ落ちているふりをする。それはまだ続ける」
「うん」
「だが、俺自身にはもう通用しない」
俺は何も言えなくなった。
千歳は目を開けないまま、静かに続ける。
「俺はたぶん、君を利用しているふりをしながら、君に救われている」
「……千歳さん」
「落とされているのは、俺の方かもしれない」
呼吸が止まった。
最初、俺は千歳を落とそうとしていた。
金のために。
仕事のために。
それがいつの間にか、全部逆になった。
落とすつもりが、落とされた。
でも、千歳の口からそれを聞くと、破壊力が違う。
「それ」
俺は、ようやく声を出した。
「軽い口で言うなよ」
千歳は薄く笑う。
「軽くない」
「分かってる」
「では、困れ」
「もう困ってる」
千歳が目を開ける。
その目は、疲れているのに、どこか晴れていた。
「俺も困っている」
「知ってる」
「だが、嫌ではない」
「俺も」
部屋が静かになる。
千歳の肩には、まだ俺の上着がある。
俺はそれを見て、変な気持ちになった。
抱きしめてはいない。
でも、背後から自分の温度を預けている。
今はまだ、これでいい。
いや。
今だからこそ、これがいい。
「次は」
千歳が言った。
「叔父上を完全に引き剥がす」
「うん」
「その後、狗飼錆人の件へ踏み込む」
「……うん」
「一人で行くな」
「行かない」
「約束だ」
「約束する」
千歳は、少しだけ安心したように息を吐いた。
俺はその顔を見て思った。
好きだ。
もう、ほとんど言葉になっていた。
でも、まだ言わない。
言うなら、ちゃんと選んで言う。
逃げではなく。
勢いではなく。
復讐の熱でもなく。
俺が、玻璃宮千歳という男を選ぶ言葉として。
****
その夜、千歳からメッセージが来た。
『今日の君は、予定外だった』
俺はベッドの上で笑った。
『褒めてる?』
すぐに既読。
『全部』
胸が熱くなる。
続けて、もう一通。
『落ちるふりは、もう難しい』
俺はしばらく画面を見ていた。
そして返した。
『俺も、攻略してるふりはもう無理かも』
千歳の返事は、少し遅れた。
『では、次はふりではなく戦おう』
俺は短く返した。
『共犯として?』
すぐに既読。
『まだ恋人ではない共犯として』
俺は笑った。
胸が苦しいくらい、甘くて痛かった。
『了解。まだ恋人ではない共犯者さん』
千歳からの返事は一文。
『いずれ訂正する』
「……反則だろ」
俺はスマホを伏せ、顔を覆った。
いずれ訂正する。
まだ恋人ではない。
でも、いずれ。
その未来を、千歳が書いた。
俺はその一文だけで、眠れなくなりそうだった。
次は、斎門を完全に白蝶会から引き剥がす。
そしてその先には、狗飼錆人がいる。
灯庭舎を壊したかもしれない男。
俺の復讐の相手。千歳の敵。
俺たちはまだ恋人ではない。
でも、同じ地図に立ち、同じ嘘を武器にし、同じ怒りを分け合っている。
落ちるふりは、ここまでだ。
ここからは、落ちていく自分たちを知ったまま、敵を落としにいく。




