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第8話 理想を聞いたら、守りたい場所が見えた

人には、守りたいものがある。

金。家。名誉。立場。店。過去。誰かの笑顔。帰る場所。


守りたいものがある人間は強い。

でも同時に、そこを突かれると弱い。


俺は、それをよく知っている。灯庭舎がそうだった。

あそこは、ただの古い孤児院だ。


雨の日は廊下が湿るし、冬は窓際が寒いし、庭のフェンスは何度直しても傾く。

新しい施設に比べたら、不便だらけで、金もない。


でも、あそこには帰ってくるやつがいる。

昔の俺みたいに、どこにも行けない子供が、ひとまず息をする場所がある。


だから、守らなきゃいけない。たとえ、俺が少し汚い仕事を受けることになっても。そう思っていた。

思っていた、はずだった。


「今日は、重いよ」


笹目冴は、ファミレスのテーブルにメモ帳を広げ、やけに真面目な顔でそう言った。


「急に何」

「攻略ログ07。理想を聞く」


「理想って、急に就活みたいになったな」

「茶化さない」


珍しく、冴の声が少し低かった。

俺はコーヒーのカップを持ったまま、少し黙った。


昨夜のメッセージ。


『次に会ったら話せ。

何をそんなに守ろうとしてるのか』


千歳の返事。


『君も話すなら』


そこから、俺たちは約束した。

逃げない。善処する。千歳語で言えば、たぶんかなり本気の約束だ。


「……聞く」


「で、話す?」


冴の問いは、思ったよりまっすぐだった。

俺は視線を逸らす。


「何を」

「灯庭舎のこと」


「まだ早い」


「何が?」

「……全部は」


冴は、責めるでもなく頷いた。


「全部じゃなくてもいい。でも、何も話さないならフェアじゃない」

「分かってる」


「千歳さんはたぶん、今日、自分のかなり奥を見せるよ」


「どうして分かる」

「ここまでの距離」


冴はメモ帳に、今までの攻略ログを並べて書いていた。

距離感。ツンデレ。高慢。甘やかし。承認欲求。嫉妬。


その下に、今日の文字。


ーー

攻略ログ07:理想を聞いたら、守りたい場所が見えた

ーー


「距離が縮まった。お互いの反応も見えた。嫉妬まで認めた。次に聞くべきは、“この人は何のために戦ってるのか”」

「壮大だな」


「恋ってそういうとこあるから」

「また名言っぽく言う」


「いい? 纏」


冴は少し声を落とした。


「相手の理想を聞くってことは、その人の痛みを聞くのと同じ」

「……」


「理想って、たいてい欠けてるものから生まれる。千歳さんが土地を守りたいなら、そこには失ったものがある。母親とか、家族とか、自分が自分でいられた時間とか」


俺は黙って聞いていた。

千歳の母。水緒。澪標の丘。青い器。母が好きだった場所。金で飾る必要がない場所。


千歳がその話をする時、声の温度が変わる。

俺はそれを知っている。


「今日の作戦」


冴はペンを持った。


「一、仕事の話として聞き始める」


「仕事の話?」

「いきなり“あなたの理想は?”って聞くと重いから」


「たしかに」


「二、茶化してもいい。でも相手が本気で話し始めたら茶化さない」


「最近そればっかだな」

「だってアンタ茶化すから」


「癖なんだよ」


「三、自分にも守りたい場所があることは匂わせる」


「匂わせ」

「全部話さなくてもいい。でも、千歳さんだけを裸にしない」


その言い方に、胸が少し痛んだ。

千歳だけを裸にしない。確かにそうだ。俺は千歳の本音を知りたい。でも、自分の本音は隠したい。それはずるい。


「四」


冴は最後に書いた。


「手」

「また出た」


「腐女子向けに言うと、今日はキスじゃない。ハグでもない。手」

「何で急にキスの話になるんだよ」


「感情が近づくと、触れたくなるから」


俺はコーヒーを吹きそうになった。


「触れねぇよ」


「今の即答、だいぶ怪しい」

「うるさい」


「でも、まだ手だけ。資料を見る時、地図を押さえる時、同じ場所を指す時。そういうところで触れる方がいい」


「何がいいんだよ」

「恋愛じゃなくて、同じ未来を見てる感じになる」


俺は黙った。

同じ未来。その言葉が、少しだけ胸に残る。


「最初から抱きしめたら安いの。まず手。指先。地図の上で触れる。そういうのが沼」


「沼って便利すぎるだろ」

「便利だよ」


「俺は御曹司の仕事の話を聞きに行くんだけど」

「だから言ってる。仕事の話と恋の話が同じ地図に乗った時、手が触れたら強い」


「何語?」

「BL語」


「出た」


冴はにやっと笑った。


「あと、今日はキスしそうになっても、しない方がいい」

「だから何でそうなる」


「今キスすると、嘘の仕事と本気の境目が曖昧なまま進む。千歳さんに対して誠実にするなら、ちゃんと“最初は仕事だった”を言ってから」


言葉が刺さった。

最初は仕事だった。その言葉は、いつか必ず言わなければならない。


今はまだ言っていない。千歳は知っているかもしれない。

でも、俺の口からは言っていない。


「……分かってる」


「本当に?」

「分かってる」


「今日は、近づくけど触れすぎない」

「難しいな」


「そうだよ。ここからが本命だから」


本命。冴はさらっと言った。

俺は聞こえなかったふりをした。


****


今日の待ち合わせは、千歳の指定した車だった。

玻璃宮グループの車で、澪標の丘周辺を回る。仕事の視察という名目。


俺はそこに同行する。表向きは、最近千歳の周囲にいる“男友達”として。

実際は、千歳が俺に見せたいものがあるから。


車は都心を抜け、少しずつ建物の密度が下がっていった。

窓の外には、古い住宅街と、まだ残っている緑。細い川。低い丘。


俺は、妙な既視感を覚えた。完全に知っている場所ではない。

でも、空気が近い。灯庭舎のある坂道に似ている。いや、まさか。


俺はまだ、その繋がりに気づいていなかった。

車内には、千歳と俺だけだった。


運転は鏡味。後部座席に並んで座る距離は、近すぎず遠すぎず。

ただ、これまでとは違って、沈黙が少し重い。


千歳は窓の外を見ていた。

いつもの涼しい顔。でも、その視線はいつもより遠い。


膝の上には、革のファイル。

その上に置かれた千歳の手が、いつもより少しだけ強く閉じている。


俺はその手を見て、すぐに目を逸らした。見すぎるな。今日の手は、危ない。


「緊張してる?」


俺が聞くと、千歳は少しだけ眉を動かした。


「俺が?」

「他に誰が」


「君の方が緊張しているように見える」

「俺は初めての社会科見学なんで」


「社会科見学」

「財閥御曹司の守りたいものツアー」


「語彙が安い」

「親しみやすいと言え」


「言わない」


いつもの軽口。でも、千歳の声にはわずかに硬さがある。

俺はそれ以上押さなかった。代わりに、窓の外を見た。


「ここが澪標の丘?」

「正確には、その周辺だ」


「思ったより、街に近いんだな」

「そうだな。だから狙われる」


「開発?」

「白蝶リゾート構想」


千歳の声が少し低くなる。


「表向きは地域再生。老朽化した施設と未活用地を整理し、観光資源化する」


「表向きは?」

「実際は、土地の記憶を消して、都合のいい高級リゾートに塗り替える計画だ」


「土地の記憶」


俺はその言葉を繰り返した。千歳は頷く。


「この周辺には古い建物が多い。戦前から残るものもある。小さな施設、古い家屋、祠、旧水路。金に換えにくいが、消したら戻らないものばかりだ」


「それを守りたい?」

「そうだ」


「財閥の跡取りが、金にならない土地を?」


少し挑発するように言った。

千歳は逃げなかった。


「金にならないから守る価値があるものもある」


俺は黙った。

その言葉は、俺の中の灯庭舎に触れた。古い建物。金にならない場所。でも消したら戻らないもの。


「……そういう場所、知ってる」


小さく言ってしまった。千歳がこちらを見る。


「君にも?」


俺は窓の外を見たまま、笑った。


「まあな。今はまだ、内緒」


前にも似たことを言った。その時、千歳は深く聞かなかった。

今日も、少しだけ黙った後、静かに言う。


「では、いつか聞く」


「いつか?」

「君が話す気になった時に」


その言い方が、優しかった。

押さない。でも待つ。俺は、それが少し苦しかった。


「千歳さんは」

「何かな」


「いつからここ守ろうとしてんの」


千歳はしばらく答えなかった。

車は細い道へ入る。木々の影が窓に流れていく。


ファイルの上で、千歳の指がゆっくりほどける。

その指先が、革の角をなぞった。何かを落ち着かせるみたいに。


やがて、古い石段のある場所で車が止まった。

鏡味が静かに言う。


「到着いたしました」


千歳は車を降りた。

俺も続く。

外の空気は、都心より少しだけ湿っていた。草の匂い。土の匂い。遠くで水の流れる音がする。


目の前には、ゆるやかな丘が広がっていた。

高級リゾートなんて言葉とはまるで合わない。


何もない。本当に何もない。でも、何もないからこそ、息ができる。

千歳は少し歩いて、丘の上に立った。


風が彼の髪を揺らす。

その横顔は、財閥の会議室にいる時よりずっと静かだった。


「母が、ここを好きだった」


千歳は言った。


「水緒さん?」

「そう」


初めて、俺は母親の名前を口にした。

千歳は少しだけ驚いたようにこちらを見る。


「覚えていたのか」

「覚えるだろ」


「なぜ」

「大事そうだったから」


千歳は、また少し困った顔をした。

困らせたいわけじゃない。でも、困った顔も見たい。俺はかなり駄目になっている。


「母は、ここを“余白”と呼んでいた」

「余白?」


「何者でもなくていい場所。玻璃宮でも、跡取りでも、妻でも、母でもなく。ただ水緒として息ができる場所だったらしい」


余白。

その言葉が、なぜか強く残った。


まだ存在しないはずの、俺たちの。いや、今はまだ知らない未来だ。


「千歳さんにとっても?」


俺が聞くと、千歳は丘の向こうを見た。


「子供の頃は、そうだった」


「今は?」

「今は、守る対象だ」


「場所が変わった?」

「俺が変わった」


千歳は、少し笑った。


「子供の頃は、ここへ来ると母が笑った。それだけでよかった。大人になった今は、ここを残す理由を説明しなければならない。収益性、文化的価値、地域資産、法的根拠。言葉にしなければ、誰も納得しない」


「面倒だな」

「面倒だよ」


その素直な言い方に、少し笑ってしまった。

千歳も、ほんの少し笑う。


「でも、守りたい」

「何で?」


「母が好きだったから」

「うん」


「それだけでは、理由として弱い」

「でも、最初の理由はそれなんだろ」


千歳がこちらを見る。

俺は肩をすくめた。


「いいじゃん、それで」

「君は簡単に言う」


「複雑にするのは、お前の周りの仕事だろ」

「ずいぶん乱暴だな」


「俺はホストなんで」

「便利な言葉に戻った」


「今日は許せ」


千歳は少しだけ笑って、また丘を見る。


「母はよく言っていた。金は流れだと」


「流れ?」

「溜め込むだけでは淀む。流れがあるから人が生きる。だから、土地も金も、ただ所有するのではなく、何を残し、何を流すかを考えろと」


「難しい母親だな」

「そうだな。子供には全然分からなかった」


「今は?」


千歳は少しだけ目を細める。


「少し、分かる気がする。玻璃宮グループが大きくなるほど、金は速く流れる。速すぎる流れは、弱いものを削る。古いもの、小さいもの、声の小さいものから消えていく」


俺は黙って聞いていた。

胸の中で、何かがじわじわと重くなる。


古いもの。小さいもの。声の小さいもの。灯庭舎。


「この丘には、そういうものが残っている」


千歳は言った。


「だから守りたい」

「母親のためだけじゃなく?」


「母のためでもある。でも、それだけではない」

「うん」


「ここを守れないなら、俺は玻璃宮の名前で何を守るつもりなのか分からなくなる」


その言葉は、静かだった。

でも、強かった。


千歳がどんな場所に立っているのか、少し分かった気がした。

高慢な御曹司。財閥の跡取り。上からものを言う男。


でも、その高さは、ただ人を見下ろすための場所じゃない。

遠くまで見るための場所だ。弱いものが流れに削られないように、見つけるための場所。


「千歳さん」

「何かな」


「お前の理想って何?」


千歳が俺を見る。


「急に面接官か?」

「将来性ある男か見極めてんの」


「ホストに査定される日が来るとは」

「俺、見る目はあるぜ」


「女を見る目は?」

「ある」


「男を見る目は?」

「……勉強中」


千歳は少し笑った。


「なら、教材としては高くつくぞ」

「御曹司価格かよ」


「俺が守りたいものは、安くない」


その言葉に、冗談で返せなかった。

千歳は丘の風を受けながら、ゆっくり言った。


「俺の理想は、古いものをただ残すことではない」

「うん」


「変えるべきものは変える。壊すべきものは壊す。金も動かす。人も動かす」

「財閥っぽい」


「そうだな」


「でも?」

「変える時に、声の小さいものから潰すやり方は嫌いだ」


胸が鳴った。


「それが理想?」

「まだ言葉にするには未熟だ」


「十分だろ」

「君は褒める基準が甘い」


「今日は本気で言ってる」


千歳が黙った。

俺も、逃げなかった。


「お前がそういうこと考えてるの、俺はいいと思う」


「いい?」

「好きだ」


言ってから、息が止まった。

今の「好き」は、危なかった。


理想が好き。考え方が好き。そういう意味だ。たぶん。いや、そう言い訳できる。

でも、千歳にはどう聞こえただろう。


千歳も、一瞬だけ動きを止めた。

風が吹く。葉が揺れる。遠くで水の音がする。


「……そういう言葉を」


千歳は低く言った。


「簡単に使うな」

「簡単じゃない」


「なら、なお悪い」

「最近そればっかだな」


「君が学習しないからだ」

「してるよ」


「どこが」

「今、逃げなかった」


千歳は俺を見た。

その顔に、少しだけ困ったような、嬉しいような、複雑な色が浮かぶ。


「そうだな」


「認めた」

「少しだけ」


「御曹司様、採点厳しい」

「高くつくと言っただろう」


俺たちは、少し丘を歩いた。

千歳はところどころで立ち止まり、昔の話をした。


母が好きだった木。雨の日に水路が光ったこと。

子供の頃、靴を泥だらけにして鏡味に叱られたこと。


千歳がそんな話をするのは、珍しかった。

俺はそれを聞きながら、何度も思った。


この男にも、子供だった時間がある。当たり前なのに、少し不思議だった。

高慢で、綺麗で、全部見透かしてくる御曹司にも、泥だらけの靴で笑っていた頃がある。


そして、その時間を知っている人は、今はもう少ない。


「鏡味さんは、昔から?」

「母が生きていた頃から家にいる」


「じゃあ、家族みたいなものか」


千歳は少し考えた。


「本人は否定するだろう」


「千歳さんは?」

「……否定しない」


その声が、とても静かで、少し柔らかかった。

俺は、鏡味静臣という男が千歳にとってどれほど大きい存在なのか、少し分かった気がした。


丘を降りる途中、古い石碑があった。

苔がついている。文字は一部しか読めない。


「これは?」

「古い水路の道標だ。澪標の名はここから来ているとも言われている」


「へえ」


俺はしゃがんで石碑を見る。

苔の匂い。湿った土。古い石。灯庭舎の庭にも、似た匂いがある。


「……本当に、似てるな」


思わず呟いた。

千歳が聞き逃さなかった。


「何に?」

「俺の知ってる場所」


「君が守りたい場所?」


俺は黙った。

千歳は追わない。それがずるい。

追われたら逃げられる。でも、待たれると逃げ場がない。


「孤児院」


気づけば、口にしていた。

千歳の目がわずかに動く。


「孤児院?」

「俺が育ったところ。灯庭舎っていう」


「とうていしゃ」


千歳が、その名前を繰り返した。音を確かめるみたいに。


「灯りの庭の舎で、灯庭舎」

「いい名だな」


「古いけどな」

「古いものは、悪いことではない」


「金はかかる」

「だろうな」


「今、けっこう危ない。建物も、運営も。移転するなら金がいる。残すにも金がいる」


言ってしまった。全部ではない。

依頼のことは言っていない。でも、灯庭舎の危機には触れた。


千歳は黙って聞いていた。


「君が金を必要としている理由は、それか」


問いではなく、確認だった。やっぱり、ある程度は気づいていた。

俺は苦笑した。


「調べてた?」

「少し」


「趣味悪いな」

「必要だった」


「俺を利用していい男か見極めるため?」


以前と同じ言葉を返すと、千歳は少しだけ目を伏せた。


「それもある」


「他には?」

「君が何を守ろうとしているのか、知りたかった」


今度は、俺が困った。言葉が出ない。


「……そういうの、軽い口で言うなよ」

「軽くない」


即答だった。胸を撃たれた。

千歳は続ける。


「灯庭舎は、君にとってどういう場所だ」

「帰る場所」


答えは、すぐに出た。


「いや」


俺は少しだけ笑った。


「だった場所、かな」


「今は?」

「守る場所」


千歳は、俺を見ていた。俺が逃げないか、待っているように。


「俺は、あそこで育った。親とか家とか、そういうのはあんまり分からなかったけど、あそこには飯があって、布団があって、うるさいガキがいて、院長先生がいた」

「うん」


「別に、綺麗な場所じゃない。金もない。冬は寒いし、夏は虫が多いし、階段はぎしぎし鳴る」

「うん」


「でも、俺みたいなのが、いていい場所だった」


言葉にしたら、喉が少し詰まった。

自分でも驚く。こんな話、誰にでもするものじゃない。


冴と螢は知っている。院長先生はもちろん知っている。

でも、千歳に話すのは初めてだった。


「だから、なくしたくない」


千歳は黙っていた。ただ聞いていた。

茶化さない。分析しない。利用できる情報として処理する顔でもない。

ただ、俺の言葉を受け取っている。


「そのために、金がいる」


「だからホストに?」

「それもある」


「それも?」


鋭い。いつか、全部話さなければならない。

依頼のこと。金のこと。御曹司を落とす仕事。


でも今は、まだ言えなかった。

卑怯だと思う。それでも、まだ言えなかった。


「今日はここまで」


俺は言った。

千歳は少しだけ目を細めた。


「逃げたな」

「うん」


認めた。

千歳は驚いたように瞬きする。


「認めるのか」

「今日は、認める」


「なぜ」

「全部言うには、まだ俺が駄目だ」


千歳は長い間、俺を見ていた。

風が吹く。丘の草が揺れる。やがて千歳は、静かに言った。


「では、待つ」


それだけだった。

責めない。追わない。ただ待つ。その優しさが、逆に痛かった。


「千歳さん」

「何かな」


「お前、優しいな」


千歳は少しだけ嫌そうな顔をした。


「効率がいいだけだ」


「嘘」

「嘘ではない」


「いや、優しい」

「君に言われると落ち着かない」


「何で」

「君は、俺が隠しているものを名前で呼ぶ」


その言葉に、何も言えなかった。

俺も同じだ。


千歳は、俺が隠しているものを見つける。

善性とか、優しさとか、帰る場所のなさとか。勝手に見つけて、名前をつける。

それが怖い。そして、少し嬉しい。


車へ戻る途中、千歳が不意に立ち止まった。


「纏」

「何」


「灯庭舎は、どこにある」


「何で?」

「調べる」


「怖いな」

「怖くはない。必要だと思った」


「何の」

「君が守りたい場所を、俺も知っておきたい」


胸が熱くなった。

本当に、この男は。言葉の選び方が、不器用なのか上手すぎるのか分からない。


「まだ来るなよ」


俺は言った。


「なぜ」

「いきなり御曹司が来たら、ガキどもが札束で汗拭くか聞く」


千歳が目を瞬かせた。


「何だそれは」

「子供の偏見」


「面白いな」

「面白がるな。あと院長先生に変な緊張させたくない」


「では、事前申請する」

「本気か」


「君が話してくれるなら、いつか見たい」

「……」


「君がいていい場所だったんだろう」


その言葉で、胸の奥が完全にやられた。

俺がいていい場所。


俺がさっき言った言葉を、千歳はそのまま拾った。

雑に扱わず、ちゃんと抱えて返してくる。


「……いつかな」

「いつか」


千歳は頷いた。


「約束ではない。予約だ」


「ホストクラブかよ」

「君に合わせた」


「悪影響受けてるな」

「少しな」


二人で笑った。

その時、俺は思った。この人に灯庭舎を見せたい。いつか。

まだ今じゃない。でも、いつか。


俺が一番見られたくない場所であり、一番見てほしい場所。

そこに千歳が立つところを想像してしまった。


****


帰りの車では、あまり話さなかった。

鏡味が静かに運転し、千歳は窓の外を見ている。


俺は手元のスマホを触りながら、何度も灯庭舎の地図を開きかけて、やめた。

まだ早い。でも、もう遠くない。


途中、千歳が言った。


「今日、白蝶会の資料を少し見せる」


「今?」

「君に見てほしいものがある」


「俺が見ても分かるか?」

「君は人の欲を見るのがうまい」


「褒めてる?」

「半分」


「残りは?」

「使えると思っている」


「言い方」

「事実だ」


そのまま車は、千歳の執務室ではなく、玻璃宮グループの別邸らしき建物へ向かった。


小さな洋館。静かな庭。

表向きは資料保管用の施設らしい。中へ入ると、会議机の上にいくつもの資料が広げられていた。


白蝶リゾート構想。推進派一覧。反対派一覧。

土地取得予定図。


俺はそこで初めて、敵の姿を少しはっきり見た。


凍蝶院瑠璃香。白蝶会。狗飼錆人。玻璃宮斎門。開発推進派。


千歳は資料を指しながら説明した。


「継母は、開発利権を足がかりに玻璃宮グループ内の実権を狙っている」


「瑠璃香さん?」

「ああ」


「白蝶会は、その社交的後ろ盾?」

「そうだ。没落貴族の名残だが、古い社交界にはまだ顔が利く」


「で、狗飼錆人」


その名前を口にした瞬間、胸の奥がざらついた。

千歳がそれに気づいたように、俺を見る。


「気になるか」

「嫌な目してるからな」


「彼は、瑠璃香の愛人だ。金と利権に執着している」

「後妻の犬?」


「犬ならまだ従順だ」


千歳の声が冷える。


「彼は、飼い主の手も噛む」


その言い方に、妙なリアリティがあった。


「知ってるのか」

「少しな」


「俺、あいつ見た時、なんか嫌な感じした」

「君の勘は当たる」


「ホストなんで」

「便利な言葉だ」


千歳は地図を広げた。


「白蝶リゾート構想の予定地は、この一帯だ」


地図には、色分けされた土地があった。

丘。水路。古い建物。緑地。その端に、いくつか未取得の区画。


千歳の指が、澪標の丘を示す。

俺は別の資料を押さえた。


風もない室内なのに、紙の端が少し浮いたからだ。

その時、千歳の指と俺の指が、地図の上で触れた。


ほんの一瞬。でも、離れなかった。

千歳も、俺も。触れた場所は、色のついた線のすぐ近く。


まだその意味を知らないのに、そこだけ妙に熱を持って見えた。


「……悪い」


俺が言うと、千歳は地図を見たまま言った。


「何が?」


「手、当たった」

「そうだな」


「離す?」

「なぜ?」


前にも、同じことを言われた気がした。

古い地図の上。資料の上。


俺たちはいつも、何かを知る前に手が触れる。


「理由がないから」


俺が言うと、千歳は少しだけ視線を上げた。


「今日はあるだろう」


「何の」

「同じものを見るため」


その言葉に、喉が詰まった。

千歳はすぐに手を離した。逃げたわけではなく、資料をめくるために。


その手の温度だけが、地図の上に残った。

俺はその感触を振り払うように、地図へ視線を戻す。


「ここ」


俺は地図の一部を指差した。


「何がある?」


千歳が資料をめくる。


「古い児童福祉施設と記録されている」


心臓が、ひどく嫌な鳴り方をした。


「名前は?」


千歳は資料に目を落とす。

そして、動きを止めた。


俺も、その紙面を見た。小さな文字。

でも、はっきり読める。


『灯庭舎』


時間が止まった。


呼吸ができなかった。


千歳も、何も言わなかった。

俺は地図を見つめる。


灯庭舎。澪標の丘。白蝶リゾート構想。


全部、同じ地図の上にある。


千歳が守りたい場所。

俺が守りたい場所。


それは、遠いどころか、重なっていた。


「……出来すぎだろ」


やっと出た声は、震えていた。

千歳は地図を見たまま言う。


「運命と呼ぶには、少し腹が立つ」


その台詞に、俺は笑いそうになって、笑えなかった。

胸の奥がぐちゃぐちゃだった。


灯庭舎が、白蝶リゾート構想の予定地に含まれている。

つまり、敵は最初から、俺の家も、千歳の母の場所も、まとめて潰す気だった。


俺が受けた仕事の金は、灯庭舎を守るためだった。

でもその仕事の裏にいる敵が、灯庭舎を潰そうとしている。


なんだ、それ。笑えない。

最低すぎる。


「纏」


千歳の声がした。


「大丈夫か」

「大丈夫に見えるか」


「見えない」

「なら聞くな」


「すまない」


謝られて、逆にきつかった。

俺は地図から目を離せない。


白蝶リゾート構想。

灯庭舎。

澪標の丘。

狗飼錆人。

凍蝶院瑠璃香。

斎門。


一気に線が繋がりかけて、頭が追いつかない。


「俺は」


喉が詰まる。


「俺は、あいつらの金で、灯庭舎を守ろうとしてたのか」


千歳が俺を見る。


「依頼の話か」


胸が止まった。

千歳は、静かに言った。


「君が俺に近づいた依頼。背後に白蝶会がいる可能性は、最初から見ていた」


やっぱり。知っていた。千歳は知っていた。俺は何も言えない。


「ただ、灯庭舎との関係までは知らなかった」

「……」


「今、分かった」


俺は笑った。

自分でも嫌になるくらい、乾いた笑いだった。


「最低だな、俺」

「纏」


「金が必要だった。灯庭舎を守るためなら、多少汚くてもいいと思ってた」

「……」


「でも、その金の元が、灯庭舎を潰そうとしてるやつらだった」


吐き気がした。

こんな皮肉があるか。俺は馬鹿だ。あまりにも。


「纏」


千歳が俺の名前を呼んだ。

その声は静かだった。


「今は、責める時間ではない」

「責めろよ」


「責めてほしいのか」

「……」


「それで楽になるなら、責めない」


ずるい。本当にずるい。

千歳は俺に逃げ道を与えない。自分を罰して楽になろうとする道も塞ぐ。


俺は机に手をついた。その手が震えていた。自分で思うより、ずっと。

地図の端が俺の指の下でくしゃりと歪む。


千歳の手が、ゆっくり近づいた。

慰めるように握るのではなく、同じ地図を押さえるように。


俺の手のすぐ横に、千歳の指が置かれる。

触れてはいない。でも、逃げなかった。


「俺は、お前を利用した」

「知っている」


「知ってたからって」

「俺も君を利用するつもりだった」


千歳の声が、少しだけ低くなる。


「敵の餌として。白蝶会の出方を見るために」


俺は顔を上げた。

千歳はまっすぐ俺を見ている。


「だから、君だけが最低なわけではない」


「慰めか」

「事実だ」


「……優しいな」

「違う」


「効率がいいだけ?」

「今は、違う」


胸が鳴った。千歳は一度目を伏せ、また俺を見る。


「今は、君を一人で沈めたくない」


言葉が、胸の奥深くに落ちた。

俺は、何も返せなかった。


別邸の外は、いつの間にか夕方になっていた。庭に長い影が伸びている。

俺たちは資料を片づけず、そのまましばらく黙っていた。


地図の上で、灯庭舎と澪標の丘は重なっている。

二人の守りたい場所が、敵の計画によって同じ赤い線の中に囲われている。


「整理しよう」


千歳が言った。声は、もう玻璃宮千歳に戻りかけていた。

でも、少しだけ違う。俺だけに向ける温度が残っている。


「灯庭舎は澪標の丘の一角にある」

「うん」


「そして、その澪標の丘ごと、白蝶リゾート構想の予定地だ」

「うん」


「敵は、君の孤児院も、俺の母の場所も、まとめて潰す気だ」

「……ああ」


言葉にすると、余計に腹が立つ。でも、分かりやすかった。

俺は地図を見下ろす。


「俺は、灯庭舎を守りたい」


千歳が頷く。


「俺は、母が残した場所を守りたい」


「同じ場所だな」

「そうだ」


俺は息を吐いた。


「運命ってやつなら、性格悪いな」

「言っただろう。腹が立つ」


「でも」


千歳が俺を見る。

俺は、地図から目を離して言った。


「嫌いじゃない」


千歳の表情が、少しだけ揺れた。


「俺もだ」


その一言で、何かが決まった気がした。

恋かどうかは、まだ分からない。いや、もう分かっているのに、認めていないだけかもしれない。


でも少なくとも。俺たちは同じものを見ている。同じ場所を守りたいと思っている。

そして、同じ敵を持った。


その時、千歳の指が、地図の上で俺の指に触れた。

今度は偶然ではなかった。


触れる。ただ、それだけ。手を握るほどではない。でも、同じ線の上に指を置く。そこにいる、と確かめるみたいに。


「確かめていいか」


千歳が低く言った。


「何を」

「君が、同じ地図から降りないか」


俺は笑いそうになって、うまく笑えなかった。


「許可する」


自分で言って、何だそれと思った。

でも、千歳は笑わなかった。ただ、ほんの少しだけ指に力を込めた。


「ここにいる?」

「いる」


その短いやりとりだけで、胸が痛くなる。

冴の言っていた“手が強い”という意味が、少しだけ分かった気がした。

分かりたくなかった。分かったら、戻れない気がしたから。


「千歳さん」

「何かな」


「どうする」


問いは短かった。でも、千歳はすぐに分かったようだった。

彼の目に、策士の光が戻る。


「敵の策略に乗る」

「正気か?」


「敵は君を使って俺を落とそうとしている。なら、落ちたふりをする」

「俺は?」


「君は、俺を落としたふりをする」

「……それ、前と何が違う」


千歳は少しだけ笑った。


「今度は、二人で嘘をつく」


二人で嘘をつく。

その響きは、妙に甘かった。共犯という言葉が、まだ出ていないのに、そこにある。


「俺、元々悪い男だからな」

「知っている」


「ひど」

「だから使える」


千歳は手を差し出した。

白くて、綺麗で、強い手。


「共犯になる覚悟は?」


俺はその手を見た。

最初は仕事だった。金のためだった。嘘だった。


でも、今この手を取るなら。それはもう、前と同じ嘘ではない。

俺は千歳の手を取った。


「最初から、悪い男だよ」


千歳が微笑む。


「知ってる。だから使える」


握った手は、思ったより温かかった。


****


その日の帰り道、車の中で俺たちはほとんど話さなかった。鏡味は何も聞かない。

ただ、バックミラー越しに一度だけ、俺たちの手元を見た気がした。


もちろん、もう手は離している。

でも、感触は残っていた。千歳の手。共犯の握手。あれは握手だった。


それ以上ではない。でも、それ以下でもない。

途中で、千歳が言った。


「纏」

「何」


「今日は、かなり見せた」

「うん」


「君も、少し見せた」

「……うん」


「次は、逃がさない」


心臓が鳴った。でも、俺は笑った。


「怖い御曹司だな」

「今さらだ」


「次は?」

「君の口から聞く」


「何を」

「最初の依頼のこと。灯庭舎のこと。君が何を隠しているのか」


胸が痛い。でも、それは当然だった。


「分かった」

「本当に?」


「逃げないって言っただろ」


千歳は、少しだけ目を細めた。


「善処ではなく?」

「善処じゃない」


俺は窓の外を見た。夕方の街が流れていく。


「約束する」


千歳はしばらく何も言わなかった。

それから、静かに言った。


「では、俺も約束する」

「何を」


「君が話す時、最後まで聞く」


それだけで、胸が苦しくなった。

俺は、やっぱりこの男にかなり駄目になっている。


****


反省会は、その夜の冴の部屋だった。


俺は全部話した。

澪標の丘。白蝶リゾート構想。


灯庭舎が予定地に入っていたこと。

千歳が依頼のことを知っていたこと。


俺たちが同じ場所を守ろうとしていたこと。

二人で嘘をつくと決めたこと。


地図の上で、手が触れたこと。

同じ地図から降りないか確かめられたこと。


俺が、許可すると答えたこと。


冴は、珍しく途中で茶化さなかった。

最後まで黙って聞いた。そして、メモ帳を閉じた。


「かなり来たね」


「何が」

「攻略の一区切り」


「一区切り?」

「うん。次、キスしそうでしないやつが来る」


俺は動きを止めた。


「この流れで?」

「この流れだから」


冴は俺を見る。


「今、感情がかなり近い。共犯の入り口にも立った。でも、まだ一番大事なことを言ってない」


「依頼のこと」

「そう。千歳さんは知っている。でも、あんたの口から謝っていない」


「……」

「だから次は、触れそうになる。でも触れない。触れられない。そこが大事」


キスしそうでしない。

そう聞いても、もう前みたいに軽い作戦には思えなかった。


触れる。千歳に。

あの手に。あの目に。あの困った顔に。想像するだけで、心臓が変になる。


でも、冴の言う通りだった。

まだ触れてはいけない。俺はまだ、あいつに謝っていない。


「次の作戦名」


冴は、静かにメモ帳へ書いた。


ーー

攻略ログ08:キス未遂の、その手前

ーー


「本気になりすぎて、踏み込めないやつ」


「……攻略なのか、それ」

「もう攻略じゃないよ」


冴は少し笑った。


「恋の手前」


俺は返事ができなかった。

スマホが震えた。千歳からだった。


『今日は疲れた』


俺はすぐに返す。


『俺も』


少しして、返信。


『でも、悪くなかった』


俺は笑ってしまった。

千歳基準では、かなりの高評価だ。


『嫌いじゃない?』


そう返すと、すぐ既読がついた。

少しだけ間があって、返事。


『嫌いじゃない。

ただ、君と同じ地図に立ってしまったことは、少し困る』


胸が詰まった。

俺は画面を見つめたまま、長い間動けなかった。


同じ地図に立ってしまった。その言葉が、今の俺たちのすべてだった。

俺はゆっくり返事を打つ。


『俺も困ってる。でも、降りる気はない』


千歳からの返事は短かった。


『なら、次は逃げるな』


俺は息を吐く。

次。次に会ったら、何かが変わる。


落とすつもりだった。分類するつもりだった。攻略するつもりだった。

でも今、俺は千歳と同じ地図の上に立っている。


守りたい場所も、敵も、嘘も、少しずつ重なっている。

そして、まだ言えていない真実がある。


俺はスマホを握ったまま、そっと目を閉じた。

次は逃げない。そう決めたのに、胸の奥ではもう分かっていた。


千歳に触れそうになった時。俺はきっと、逃げる。

怖いからじゃない。軽く触れたら、今度こそ、あの人を雑に扱ってしまう気がするからだ。


そして俺はもう、玻璃宮千歳を雑に扱える男ではなくなっていた。


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