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第7話 嫉妬は注文していない

嫉妬というものは、もっと分かりやすい感情だと思っていた。

誰かが誰かを見ている。自分以外の相手に笑っている。


近づいている。触れている。それが気に入らない。だから腹が立つ。

単純で、扱いやすくて、恋愛の駆け引きに使うには便利な感情。


店でも何度も見てきた。


「昨日、他の子の席ついてたでしょ」

「私のこと、一番って言ったのに」

「今日、あの子に笑いすぎ」


そう言って怒る女の子たちは、たいてい自分でも怒っている理由を分かっていた。

寂しい。不安。自分だけを見てほしい。言葉にできなくても、根っこはそこにある。


だから俺は、そういう時には相手が欲しがる言葉を渡せた。


「妬いた?」

「可愛いな」

「でも戻ってきただろ」

「今日、一番見てるのは君だよ」


安い。でも、必要な時もある。そういうものだと思っていた。

だから、嫉妬攻略なんて、簡単だと思っていた。少なくとも、今朝までは。


「次は嫉妬攻略です」


笹目冴は、いつものファミレスでいつものメモ帳を開いた。

俺はコーヒーを前に、やや警戒していた。


最近このメモ帳に書かれた通りに物事が進む。

距離感。ツンデレ。高慢。甘やかし。承認欲求。


そして全部、俺の方が千歳に引っかき回されている。このメモ帳、呪物なんじゃないか。


「その顔、失礼なこと考えてるでしょ」

「いや」


「考えてたね」

「冴、千歳さんに似てきたな」


「それは光栄」

「褒めてない」


冴はメモ帳を俺に向けた。


ーー

攻略ログ06:嫉妬は注文していない

ーー


「まず確認」

「何」


「今のアンタは、千歳さんを軽く試す段階じゃない」

「……はい」


「素直」


「最近怒られるからな」

「いい傾向」


冴はペンをくるりと回す。


「嫉妬って、本来は相手を試すために使うと傷つけやすい」

「恋愛講師っぽい」

「講師だから」


「自称な」

「だから今回は、“嫉妬させる”より“嫉妬が漏れる”が本命」


「俺が?」

「そう」


「決めつけるな」

「もう漏れてる」


俺はコーヒーを飲んだ。苦い。


「漏れてない」

「じゃあ、昨日送ったメッセージは?」


冴がスマホを指差す。

俺は少しだけ視線を逸らした。


『俺以外に無理する顔見せるな』


我ながら、かなり面倒くさい文を送った。

深夜のテンションというものは、危険だ。


千歳からは、


『それは命令?』


と来た。

俺は、


『願い。でも、できれば聞け』


と返した。

それに対する千歳の答えは、


『検討する』


だった。

検討する。つまり、保留。いや、たぶん照れ隠し。たぶん。

たぶん、そうだと思いたい。


「それ、嫉妬じゃなくて心配」


俺は言った。


「うん。心配に見せかけた独占欲」

「やめろ」


「“俺以外に”って付けた時点で、だいぶアウト」

「……」


「ねえ纏」


冴は少しだけ真面目な顔になった。


「今のアンタ、千歳さんが他の誰かに弱いところ見せたら嫌でしょ」


言葉が詰まった。

嫌だ。たぶん、嫌だ。


千歳が本社の執務室で見せた、あの少し疲れた顔。五分だけ目を閉じて休んだ顔。

「今日はもう玻璃宮やめて寝ろ」と言ったら、「なら、聞いてやる」と返してきた夜の顔。


実際には見ていない。でも想像できる。

それを、他の誰かが知っているとしたら。


鏡味は別だ。あの執事は、千歳の家族みたいなものだ。でも、それ以外は。

白蝶会の人間。斎門。凍蝶院瑠璃香。狗飼錆人。あるいは、俺の知らない誰か。


そいつらに千歳が弱さを見せるのは、嫌だ。かなり嫌だ。


「顔」


冴が言う。


「何」

「独占欲の顔」


「違う」

「じゃあ何?」


「……不機嫌」

「それを世間では独占欲と言います」


俺は黙った。

冴は勝ち誇らず、むしろ少し柔らかく笑った。


「大事なのはね、独占欲を出すこと自体じゃない」

「うん」


「それを相手に押しつけないこと。千歳さんを縛るんじゃなくて、自分がどう感じたかを認める」


「難しくない?」

「恋愛だもん」


「恋愛じゃない」

「まだそれ言う?」


俺は返せなかった。

冴はメモ帳に三つの項目を書いた。


ーー

一、他人の影で反応を見る。

二、相手を傷つける嫉妬誘導はしない。

三、自分の独占欲が漏れたら、茶化しすぎず受け止める。

ーー


「今回はどこで会うの?」

「パーティー」


「また?」

「玻璃宮グループの協賛イベント。美術系の支援パーティーらしい」


「千歳さん、そういうの多いね」

「御曹司だからな」


「で、アンタも呼ばれた」

「半分仕事、半分監視」


「監視?」

「白蝶会の関係者が来るらしい。千歳さんが、俺に“見ていてほしいものがある”って」


冴の表情が少し変わった。


「それ、かなり信頼されてない?」

「利用されてるだけかも」


「まだそうやって逃げる」

「事実だろ」


「事実でも、全部じゃない」


全部じゃない。最近、そういうことばかり増える。

仕事。利用。攻略。嘘。でもそれだけじゃない。


それだけでは説明できないものが、千歳との間に少しずつ積もっている。


「今日の注意」


冴が言った。


「もし千歳さんに他の男が近づいても、いきなり噛みつかない」

「犬じゃねぇ」


「でも噛みそう」

「噛まねぇよ」


「あと、アンタがわざと女の子の話をして千歳さんの反応を見るのはアリ。ただし、雑に“女ならこう”みたいな言い方はしないこと」

「分かってる」


「本当に?」

「女の子を雑に扱うと、お前に刺されるからな」


「私以前に、そういう男は普通に嫌われる」

「それはそう」


俺の経験は、誰かを消費して得たものではない。

夜の店で、いろんな人の寂しさを見てきた記録だ。そこは間違えない。間違えたら、俺は本当にただの嫌な男になる。


「それと」


冴はペンを指先で回した。


「腐女子向けに言うと、今回は手首」

「また出た」


「前回の袖掴みは、言葉にならない“ここにいて”だった」


俺は思わず黙った。

千歳が俺の袖を一瞬だけ掴んだ時の感触。布越しなのに、まだ残っている。


「今回は、そこから一段進んで手首」


冴が言う。


「千歳さんが本気で嫉妬したら、たぶん言葉より先に手が出る」

「何で断言できるんだよ」


「今までそうだったじゃん。手、袖、グラス、上着。あの人、口では逃げるけど、指先はかなり正直」

「……」


「もし掴まれても、すぐ茶化さない」

「分かった」


「あと、アンタが言いたくなるやつ」

「何」


「触らせんなよ」


俺はコーヒーを吹きそうになった。


「言わねぇよ」

「言いたくなる」


「言わねぇって」

「もし言いたくなったら」


冴は続けた。


「命令じゃなくて、願いにしな」


俺は一瞬黙った。そして、少しだけ笑った。


「分かってる」


****


パーティー会場は、古い劇場を改装したホールだった。

高い天井。金縁の装飾。赤い絨毯。壁には古い絵画。


舞台には室内楽の演奏者たちがいて、弦の音が空気を細く震わせている。

Club Perigeeとは別の意味で、現実味のない場所だった。


俺は黒のスーツで行った。

前よりも、こういう場に慣れてきた気がする。それがいいことかどうかは知らない。


受付を済ませると、すぐに千歳の姿が見えた。

今日は濃いワイン色のタイをしている。黒のスーツ。白いシャツ。整った髪。相変わらず、場の空気を自分に合わせている。


ただ、彼の周囲にはすでに人がいた。

数人の財界人。文化人らしき女性。


それから、若い男。銀縁の眼鏡をかけた、知的な雰囲気の男だった。

年は千歳と同じくらいか、少し下。


スーツは上品で、話し方にも余裕がある。千歳の隣に立っても浮かない。

それが、まず気に入らなかった。


いや、待て。落ち着け。たまたま隣にいるだけだ。

千歳は財閥の人間だ。仕事相手も多い。男が隣に立ったくらいで何を考えている。


俺は深く息を吸って、いつもの顔を作った。


「玻璃宮さん」


声をかけると、千歳がこちらを見た。

表情が一瞬だけ変わる。本当に一瞬。


周囲には分からない程度に、目元が少し柔らかくなった。

その変化だけで、さっきの不機嫌が少し消えた。単純すぎる。俺は。


「来たな、纏」


名前。人前で。

周囲の視線が俺に向く。若い男も、俺を見る。値踏みではない。興味。


それもまた気に入らなかった。

千歳はその男に視線を向ける。


「紹介しよう。白河瑞貴。美術財団の理事だ」


白河瑞貴。

男は丁寧に会釈した。


「初めまして。白河です」

「架橋纏です」


「噂は伺っています」


噂。どういう噂だ。ホスト。千歳の男。白蝶会が探っている相手。どれだ。

俺は笑った。


「いい噂だと助かります」


白河は柔らかく笑う。


「千歳さんが楽しそうだ、と」


胸の奥が変な音を立てた。

千歳さん。下の名前。しかも自然に。


千歳は特に訂正しない。昔からの知り合いか。それとも、仕事上そう呼ぶ関係か。

どちらにしても、気に入らない。かなり。


「それは珍しいですね」


俺は笑顔を保つ。


「この人、俺の前だとだいたい皮肉ばっかりなので」


千歳が横から言う。


「君の前だからだろう」

「俺のせい?」


「君は刺しやすい」

「人をクッションみたいに」


白河が笑った。


「本当に楽しそうだ」


その言い方が、穏やかで、嫌味がなくて、だから余計に苛立った。

悪い男ならよかった。白蝶会の人間ならよかった。敵なら噛みつける。


でも白河は、ただ感じのいい男だった。

千歳の隣にいても不自然ではない男。

千歳の疲れを、俺より前から知っていそうな男。


「白河さんは、千歳さんとは長いんですか」


俺が聞くと、白河は頷いた。


「学生時代からです。財団の関係で、今もたまに」


学生時代。俺の知らない千歳。

それは当たり前だ。俺は最近会ったばかりのホストだ。


千歳の三十年の中で、俺が知っている時間なんて、ほんの少ししかない。

なのに。胸の奥がざらつく。


千歳が俺を見る。


「纏」

「何」


「顔」

「何の」


「面白くなさそうだ」

「そんなことないですよ」


「敬語に戻った」


白河が少し目を丸くする。

千歳は気にせず続けた。


「分かりやすいな」

「ここで分析するな」


「では後で」


後で。その言葉だけで、少し救われる。

後で話すつもりがある。今この場だけではない。


俺は、自分の単純さに呆れた。

白河は用事があるらしく、穏やかに去っていった。


その背中を見送りながら、俺は何も言わないようにした。

千歳は横から俺を見る。


「妬いた?」


直球だった。俺は咳き込みそうになった。


「は?」

「違うのか」


「違います」

「早い」


「違うから」

「では、なぜ白河に対してそんな顔を」


「どんな顔」

「君の席に別の客が座った時の、売れっ子ホストの顔」


「たとえが最悪」

「分かりやすいだろう」


「仕事相手だろ、白河さん」

「そうだな」


「なら別に」

「なら?」


千歳が一歩近づく。近い。人前なのに。

いや、人前だからこそ、これくらいの距離は偽装として自然なのかもしれない。

周囲には、親しい関係に見えるだろう。


「別に、何かな」

「……」


「纏」

「面白くなかっただけ」


千歳の目が細くなる。


「何が」

「千歳さんって呼ばれてたのが」


言ってしまった。馬鹿か。完全に漏れた。

千歳は一瞬黙った。本当に、一瞬だけ。

その後、口元を押さえるように少しだけ顔を逸らした。


「……そうか」

「笑うな」


「笑っていない」

「笑ってるだろ」


「少し」

「性格悪いな」


「何度目だろうな」


千歳の声は、少し嬉しそうだった。それがまた腹立たしい。


「別に、名前くらい誰でも呼ぶだろ。君も呼ぶ」

「俺は」


言いかけて止まる。

俺は違う。何が違う。分からない。でも違う。


千歳がそれを見抜いたように、柔らかく言う。


「君が呼ぶ時は、少し身構える」

「何で」


「君が俺をただの“玻璃宮”から引き戻すから」


胸が詰まった。千歳は、さらっとそういうことを言う。

しかも自分で言っておきながら、少し困った顔をする。


「そういうの」


俺は低く言った。


「他のやつにも言うなよ」


千歳の視線が、まっすぐ俺に来た。


「命令?」


冴の声が頭に浮かぶ。

命令じゃなくて、願い。俺は息を吐いた。


「願い」


千歳は、黙った。そして、静かに微笑んだ。


「検討する」


「またそれかよ」

「便利な言葉だ」


「俺が便利な言葉使うと逃げたって言うくせに」

「俺は御曹司だから許される」


「上からだな」

「上にいるからね」


いつものやりとり。でも今日は、妙に甘く聞こえた。

その後、千歳は主催者への挨拶へ向かった。


俺は少し離れた場所で会場を見ていた。

白蝶会の関係者らしき人間も数人いる。


千歳から事前に見ていてほしいと言われていたのは、このあたりだろう。


白い蝶のブローチ。冷たい笑み。距離を取って様子を伺う人間たち。

その中に、狗飼錆人はいなかった。


だが、瑠璃香に近い空気を持つ女が何人かいる。

俺は水のグラスを手に、あくまで場に馴染むように立った。


しばらくして、以前店で助けた客の一人が俺に気づいた。

沙月ではない。

別の女性。名は美緒里。


悪い投資話に巻き込まれかけていたところを、俺が螢経由で逃がした。

ここにいるということは、やはりそれなりの家の人間だったのかもしれない。


「マトイくん」


彼女は少し驚いたように、それでも嬉しそうに近づいてきた。


「久しぶり」

「美緒里さん。元気そうでよかった」


「うん。おかげさまで」

「それはよかった」


彼女は俺のスーツを見て、少し笑う。


「今日はホストじゃないの?」

「今日は御曹司の付き添い」


「御曹司?」


彼女の視線が千歳へ向く。

その瞬間、千歳もこちらを見た。遠いのに、目が合った。千歳の表情は変わらない。


でも、俺には分かる。見ている。かなり見ている。

美緒里が小声で言う。


「もしかして、噂の?」

「何の噂ですかね」


「マトイくんが、すごく綺麗な男の人に本気っぽいって」


誰だ、そんな噂流したやつ。たぶん螢だ。あとで締める。


「本気っぽいって何」

「そのまま」


「俺、いつも本気ですよ」

「嘘。マトイくんは本気の時ほど、軽く言えなくなる」


胸に刺さる。どうして周りの人間は、俺をこうも見抜くのか。


「美緒里さんまで冴みたいなこと言う」


「冴さん、元気?」

「元気すぎる」


美緒里は笑った。その笑顔が、前よりずっと明るい。

本当に逃げられたのだと思うと、少し安心する。


「今日は一人?」

「父と来てるの。あ、でも今は挨拶回り」

「そっか」


「マトイくん」

「何」


「ありがとうね。あの時、本当に助かった」

「いいって」


「よくない。ちゃんと言いたかった」


俺は軽く笑う。


「じゃあ、受け取っときます」

「うん」


美緒里はふっと目を細める。


「今度は、マトイくんが幸せになってね」

「急に重い」


「似合うと思うよ、あの人」

「……何が」


「マトイくんが、嘘つけなくなってる顔してる」


俺は何も言えなかった。

美緒里は楽しそうに笑い、去っていく。


その直後、千歳が戻ってきた。足音が静かなのに、気配が強い。


「親しげだったな」


来た。声が平坦だ。しかし、目は平坦ではない。


「知り合い」


「客?」

「元客」


「元」

「今は違う」


「ずいぶん楽しそうに話していた」


俺は思わず千歳を見る。

これは、もしかして。


「気になった?」


千歳はすぐに答えない。

グラスを持つ指が、少しだけ動く。


「ならない」


「本当に?」

「ならない」


「冷たいねぇ」


千歳は俺を見る。そして、低く言った。


「で、その“元客”より、俺の方が下か?」


心臓が止まりかけた。

何だそれ。完全に、想定外の方向から来た。


俺は千歳を嫉妬させるつもりで、美緒里と話したわけではない。

ただ、偶然話しただけだ。なのに、千歳はそれを見ていた。そして、そんなふうに言う。


「……は?」

「比べてみろよ」


近い。声が低い。

千歳はいつもの穏やかな顔をしている。周囲には、何でもない会話に見えるだろう。でも俺には分かる。これは平静じゃない。


「何と何を比べるんだよ」

「君が俺を見る顔と、彼女を見る顔。違うだろ」


「違う?」

「全然違う」


「どう違う」


また、答えを求める。

今日の千歳は、ずるい質問ばかりする。俺は喉の奥が熱くなるのを感じた。


「美緒里さんは、逃げられてよかった人」

「俺は?」


千歳の目が、逃がしてくれない。俺は、息を吐いた。


「お前は」


言葉を探す。

客。仕事相手。攻略対象。恋人でもない。でも、それらのどれでもない。


「……逃げてほしくない人」


言った瞬間、千歳の目が少し見開かれた。

自分でも、どういう意味か分からない。


逃げてほしくない。俺から? 自分自身から? 守りたいものから?

それとも、俺の前から?


千歳はしばらく黙っていた。そして、小さく笑った。


「君は、時々ずるい」

「お前にだけは言われたくない」


「今のは、軽い口か?」

「……軽くない」


「なら、困る」

「知ってる」


何度も繰り返した言葉。でも、そのたびに少しずつ重くなっていく。

美緒里との会話で、千歳が揺れた。そして白河との会話で、俺が揺れた。


これが嫉妬かどうか、まだ俺たちは分類できていない。

でも、少なくとも。お互いの視線がどこに向いているかを、かなり気にしている。


****


パーティーの中盤、白蝶会の女が千歳に近づいてきた。

白いドレス。白蝶のブローチ。薄い笑み。名前は分からない。

だが、千歳が一瞬で御曹司の顔に戻ったので、敵側だと分かる。


「千歳様」


女は艶やかに笑った。


「凍蝶院様が、お話ししたがっておいでですわ」

「今日は公的な会です。個人的な話は後日に」


「まあ、つれない」


女は千歳へ一歩近づいた。

距離が近い。社交界の距離としては、たぶん不自然ではない。でも、近い。


さらに女の手が、千歳の腕へ触れようとした。

その瞬間、俺は動いていた。自分でも驚くほど自然に。


千歳と女の間に、半歩入る。

露骨に遮るのではなく、グラスを取るふりで、千歳の横に立つ。

女の手は空を切った。


「失礼」


俺は笑った。


「玻璃宮さん、次の挨拶のお時間です」


そんな予定があるかは知らない。

千歳は一瞬だけ俺を見て、すぐに合わせた。


「そうだったな」


女の目が俺を見た。笑っているが、冷たい。


「あなたは?」

「架橋纏です」


「ホストの?」

「はい。職業までご存じで光栄です」


「ずいぶんと、千歳様と親しくていらっしゃるのね」

「おかげさまで」


「お仕事で?」


一瞬、胸が冷えた。

仕事。その言葉が、今はやけに痛い。

千歳が俺を見る。俺は笑った。


「最初は」


口が勝手に動いた。


「今は、どうでしょうね」


女の眉がわずかに動く。千歳の指も、少しだけ動いた。

俺はそれ以上言わず、千歳を促した。


その場を離れる。

人の輪から抜け、少し暗い回廊へ出た瞬間、千歳が言った。


「纏」

「何」


「今のは、予定にない」


「挨拶?」

「俺の腕に触れさせなかったこと」


ばれている。

当然だ。俺はごまかそうとして、やめた。


「距離、近かった」


千歳は静かにこちらを見る。


「社交の距離だ」

「分かってる」


「なら」

「でも、嫌だった」


言った。はっきり。

回廊の空気が止まる。遠くから音楽が聞こえる。千歳の顔は、半分だけ影になっている。


「嫌だった?」

「うん」


「なぜ」

「……触らせんなよ」


出た。

冴に言われた通り、出た。自分でも驚くくらい低い声だった。


命令みたいに聞こえたかもしれない。

千歳の目が、少しだけ細くなる。


「それは命令?」


俺は、息を吸った。

違う。命令じゃない。千歳を縛りたいわけじゃない。


いや、縛りたい気持ちも、ないと言えば嘘になる。でも、違う。

少なくとも、今口にすべき形は違う。


「違う」

「では?」


「願い」


千歳は黙った。

長い沈黙。


俺は視線を逸らさなかった。

逃げるな。茶化すな。受け止めろ。冴の声が頭に響く。


千歳がゆっくり息を吐いた。


「君は」

「うん」


「本当に、困る願いばかり言う」

「知ってる」


「知っていて言うのか」

「うん」


「なぜ」


答えられない。いや、答えはある。でも言えない。まだ言えない。


「千歳さんが」


俺は言った。


「嫌そうにしながら、我慢する顔が嫌いだ」


千歳の表情が変わった。


「俺は」

「うん」


「そんな顔をしていたか」

「してた」


「……そうか」


千歳は目を伏せた。


「自分では、うまく隠しているつもりだった」

「うまいよ」


「ではなぜ分かる」

「見てるから」


言葉が落ちた。軽くない。営業でもない。作戦でもない。ただ、そうだった。

俺は千歳を見ている。


彼がどこで笑い、どこで目を伏せ、どこで手を止め、どこで息を浅くするか。

見てしまう。

千歳は、しばらく黙っていた。それから、小さく笑う。


「では、君も分かりやすいな」

「何が」


「俺に触れられるのが嫌だったのではなく、俺が我慢しているのが嫌だった」

「……そういうことにしておけ」


「違うのか?」

「両方だよ」


言ってしまった。完全に漏れた。

千歳が目を見開く。俺も固まる。


やばい。今日一番やばい。


「今のは」


千歳が言いかける。

俺は先に言った。


「分類中」


千歳は一瞬黙り、それから笑った。本当に少しだけ、声を出して。


「ずるいな、纏」

「お前ほどじゃない」


「それは、嫉妬か?」


今度は俺が黙った。

嫉妬。

その言葉が、回廊に落ちる。逃げたい。でも逃げられない。


「……まだ、分類中」


千歳はもう一度笑った。


「では、俺もそうしておこう」

「何を」


「今日、君が美緒里さんと話していた時の感情を」


俺は目を見開いた。


「やっぱり妬いたんじゃねぇか」

「分類中だ」


「便利だな、それ」

「君の言葉だ」


千歳は少しだけ近づいた。近い。でも、今日は逃げたくない。


「纏」

「何」


「俺は、誰にでも弱い顔を見せるわけではない」


心臓が鳴る。


「うん」

「だから、あまり勝手に妬くな」


「……無理かも」


千歳の唇が、少し動いた。


「努力しろ」

「御曹司様、厳しい」


「その代わり」

「代わり?」


千歳は、ほんの少し視線を外した。


「君の前でなら、少しは気を抜く」


それは、たぶん、千歳なりの最大級だった。

俺は何も言えなかった。言葉が、胸の中で詰まる。


この男は、本当に分かりづらい。でも、分かりづらいくせに、時々こうしてまっすぐ心臓を撃ってくる。


「……それ」


俺はやっと声を出した。


「軽い口で言うなよ」


千歳が笑う。


「君の真似だ」

「似すぎ」


「では、困るか?」

「かなり」


「そうか」


千歳は満足そうだった。


回廊の奥から足音がした。俺たちは自然に距離を取る。

何事もなかった顔で、会場へ戻る。でも何事もなくはなかった。


確実に何かが進んだ。名前をつけるには、まだ早い。

でも、嫉妬は注文していないのに、勝手にテーブルへ置かれてしまった。

しかも、二人分。


****


パーティーの終盤、千歳は主催者と話し込んでいた。

俺は少し離れた場所で、白蝶会の動きを見ていた。


さっきの女は、こちらを何度か見た。情報は持ち帰られるだろう。

ホストの男が千歳に近い。千歳がそれを拒まない。むしろ、二人は何かを隠している。


敵には、そう見えればいい。そのはずだ。

これは偽装の準備。敵を油断させるための関係。


まだ俺たちは、仕事と利用の間にいる。

なのに、俺の胸はもうそんな理屈では動いていない。


白河瑞貴が再びこちらへ来た。今度は俺一人のところへ。


「少しよろしいですか」

「はい」


白河は穏やかに笑った。


「千歳さんを、よろしくお願いします」


予想外だった。


「俺に言うんですか」

「ええ」


「俺、ホストですよ」

「知っています」


「最近会ったばかりです」

「それも」


「白河さんの方が、あの人のこと長く知ってるでしょ」


白河は少し考えるように、千歳の方を見た。


「長く知っているからこそ、分かることがあります」

「何ですか」


「彼は、誰かに見られることには慣れている。でも、見抜かれることには慣れていない」


俺は黙った。


「あなたは、彼を見抜こうとしている。彼はそれを嫌がっていない」

「……嫌がってないですかね」


「少なくとも、拒んでいない」


白河は俺を見る。


「千歳さんは、弱いところを見せるのが下手です。だから、もし見えたなら、どうか雑に扱わないでください」


雑に扱わないでください。それは、俺が最近ずっと思っていることだった。

千歳を雑に扱いたくない。でも、俺はそもそも雑な始まり方をしている。


仕事。依頼。スキャンダル。金。

そのことが、急に胸を刺した。


「……分かってます」


やっとそう答えると、白河は少し笑った。


「では、安心しました」

「白河さん」


「はい」

「千歳さんのこと、好きなんですか」


聞いてしまった。

白河は少し驚いた後、穏やかに笑った。


「大切な友人です」


その答えは、嘘ではなさそうだった。


「恋愛的には?」

「違います」


即答だった。俺は少しだけ肩の力が抜けた。

白河はその様子を見て、笑いを堪えきれていない顔をした。


「やはり、妬いていらしたんですね」

「……白河さんも性格悪いですね」


「千歳さんほどでは」

「それはそう」


二人で少し笑った。その時、千歳がこちらを見ていた。

今度は、明らかに面白くなさそうな顔だった。白河がそれに気づき、さらに笑う。


「では、私はこれで。あまり彼を嫉妬させると怖いので」

「え」


「では」


白河は去っていった。

千歳が近づいてくる。


「楽しそうだったな」


声が低い。

俺は、なんだか急に愉快になってしまった。さっきまで自分が同じ顔をしていたのだと思うと、余計に。


「気になった?」

「ならない」


「本当に?」

「ならない」


「冷たいねぇ」


千歳の眉がわずかに動く。これはさっきの再現だ。

俺は笑った。


「で、その白河さんより、俺の方が下か?」


千歳が固まった。

完全に意趣返し。勝った。そう思った。

千歳は数秒黙った後、ふっと笑った。


「君は」

「何」


「学習するのが早いな」

「教材がいいので」


「では、答えよう」


千歳は俺をまっすぐ見た。


「比べる対象ではない」


「あ、逃げた」

「逃げていない」


「じゃあ何」

「白河は友人だ」


「うん」

「君は」


言いかけて、千歳は止まった。

その続きを、俺は息を止めて待った。千歳の指が、グラスの縁をなぞる。

一度。二度。それから、やけにゆっくり俺へ視線を戻した。


「……まだ分類中だ」


逃げた。

逃げたけど、その顔が、少し赤い気がした。


「照れた?」

「照れていない」


「目が泳いだ」

「照明のせいだ」


「ここ、回廊より明るいけど」

「君の存在が目に悪い」


「またそれ」

「便利な言葉だ」


俺は笑った。千歳も、少しだけ笑った。

やっぱり、比べる対象ではない。


その言葉だけで十分だと思った。

十分すぎるくらいだった。


****


パーティーが終わる頃、千歳は少し疲れていた。

顔には出していない。でも俺には分かる。


「送る」


俺が言うと、千歳は驚いたようにこちらを見る。


「今日は俺の車がある」


「途中まで」

「また?」


「甘やかしコース延長」

「注文していない」


「嫉妬も注文してないのに来ただろ」


千歳は少し黙って、それから笑った。


「では、仕方ない」


車寄せまで歩く間、俺たちはあまり話さなかった。

でも沈黙は、前ほど気まずくなかった。


千歳の隣を歩く。それだけで、今は少し落ち着く。


途中、ホールの出口近くで美緒里が父親らしき男と並んでいるのが見えた。

彼女は俺に気づいて、小さく会釈した。俺も軽く返す。

それだけだった。


それだけのはずだった。けれど、隣の千歳の足が、ほんのわずかに止まった。


「千歳さん?」

「……」


「どうした?」


千歳は答えない。

代わりに、俺の手首を掴んだ。


強くはない。痛くもない。

でも、逃げられないくらいには確かだった。


指先ではなく、袖でもなく、手首。

皮膚のすぐ近く。脈の近く。俺は息を止めた。


千歳の手は、相変わらず少し冷たい。

けれど、その指先にだけ熱がある。


「千歳さん」

「君は」


千歳は美緒里の方を見ずに言った。


「誰にでも、そういう顔をするのか」


声は静かだった。

怒っているようには聞こえない。


でも、手首を掴む指は離れない。


「そういう顔って?」


「助けた相手に、安心したような顔」

「……」


「彼女が笑っていてよかったと、そう思っている顔」


心臓が、ゆっくり強く鳴った。

千歳は見ている。美緒里を見ている俺を。そして、その奥まで見ようとしている。


「それは」


俺は言葉を探した。


「よかったって思うだろ。逃げられた人が、ちゃんと笑ってたら」

「そうだな」


「妬いた?」


聞いてから、少しだけ声が震えた。

千歳はすぐには答えなかった。手首を掴んだまま。離さないまま。


「分析だ」


来た。分かりやすい逃げ。でも、手が逃げていない。


「分析にしては」


俺は自分の手首を見る。


「手が近い」


千歳の指が、一瞬だけ強くなった。本当に一瞬。

そのあと、すぐ離そうとする。


俺は、反射的にその手を見た。離れる。

さっきまであった冷たさが、なくなる。それが、少し惜しいと思った。


まずい。かなりまずい。


「悪い」


千歳が言った。


「掴むつもりはなかった」

「……そうか」


「忘れろ」

「無理」


千歳が俺を見る。


「無理?」

「手首は、さすがに残る」


言ってから、しまったと思った。

千歳の目が揺れる。


「君は」

「うん」


「本当に、逃げ道を塞ぐ」

「今のは、お前が先に掴んだんだろ」


「それは」

「忘れない」


千歳は黙った。

それから、少しだけ顔を逸らした。


「なら、せめて誤解するな」

「何を」


「彼女に対して腹が立ったわけではない」

「うん」


「君が彼女を大切に思っていることが嫌だったわけでもない」

「うん」


「ただ」


千歳は言葉を止めた。

いつもの千歳なら、ここで皮肉に変える。分析だ、と切る。分類中だ、と逃げる。


でも、今日は違った。

彼は短く息を吐き、低く言った。


「君が、俺の知らない顔をしていたのが、面白くなかった」


胸が、変なふうに締めつけられた。


「千歳さん」


「今のは忘れろ」

「無理」


「二度言うな」

「無理なものは無理」


千歳は睨むように俺を見た。

しかし、その目は怖くなかった。むしろ、少し困っている。


「俺だって」


俺は言った。


「白河さんといる千歳さん見て、面白くなかった」


千歳の睫毛が揺れた。


「知っている」


「やっぱり性格悪いな」

「分かりやすかったから」


「それは認める」

「認めるのか」


「今日の俺は、だいぶ駄目だからな」

「駄目?」


「妬いたかどうか、まだ分類中なのに」


俺は千歳を見る。


「触らせんなとか、他のやつに弱い顔見せるなとか、普通に面倒くさいこと言ってる」


千歳は黙った。


「だから、まあ」


喉が少し詰まる。でも逃げなかった。


「お互い様ってことで」


千歳は、しばらく俺を見ていた。そして、ほんの少しだけ笑った。


「便利なまとめ方だ」

「ホストなんで」


「逃げたな」

「少し」


「今日は許す」

「御曹司様、寛大」


「今の俺は、君の手首を掴んだ直後だからな」

「そこ自覚あるんだ」


「ある」

「……じゃあ、もう一回掴む?」


言った瞬間、自分で殴りたくなった。

何言ってんだ俺。千歳も固まった。そして、非常にゆっくり、目を細める。


「君は」

「待て。今のは」


「軽い口か?」

「……半分」


「残りは?」


答えられない。

千歳は、少しだけ笑った。さっきより柔らかい笑い方だった。


「まだ早い」


その言い方が、やけに甘く聞こえた。

まだ早い。つまり、いつかは早くない時が来るみたいに。

俺は返事ができなかった。


車寄せに着く。

夜風が冷たい。


千歳が言った。


「今日は、少し疲れた」


自分から言った。俺は驚いて、すぐには返せなかった。

千歳がこちらを見る。


「何だ」

「いや。ちゃんと言えたなと思って」


「子供扱いするな」

「してない」


「している」

「じゃあ、偉い」


「しているだろう」


俺は笑った。


「でも、言ってくれてよかった」


千歳は目を伏せる。


「君が、俺以外に無理する顔を見せるなと言った」

「言った」


「検討した結果、君には言ってもいいと判断した」


胸が熱くなった。

この男は、本当に。どれだけ遠回しに、こちらを撃ってくるのか。


「……検討、通ったんだ」

「今回はな」


「次回も申請します」

「内容による」


車が到着した。鏡味が降りてくる。


「お迎えにあがりました」


千歳は乗る前に、俺を見た。


「纏」

「何」


「今日は、妬いた」


言われた瞬間、思考が止まった。


「え」


「分類が終わった」

「……」


「君が美緒里さんと話していた時と、白河と話していた時」


千歳は、少しだけ視線を外す。


「面白くなかった」


俺は、何も言えなかった。

千歳は、こちらを見る。


「これで公平だろう」

「公平?」


「君だけに言わせるのは、不公平だ」

「……千歳さん」


「何かな」

「今の、かなり」


「かなり?」

「ずるい」


千歳は微笑んだ。


「知っている」


車に乗り込む直前、千歳はさらに言った。


「君も、今夜はもう無理するな」


「命令?」

「願い」


やられた。完全に。

俺は口元を押さえそうになった。


「……検討する」


千歳が笑う。


「便利な言葉だ」


ドアが閉まる。車が走り出す。

俺はしばらく、その場に立ち尽くしていた。


嫉妬は注文していない。

でも、来てしまった。しかも、二人分。


****


反省会は、言うまでもなく冴の部屋だった。


「で?」


冴は開口一番、それだけ言った。

俺はソファに倒れ込む。


「嫉妬した」

「知ってた」


「千歳さんもした」

「最高」


「最高じゃない。心臓に悪い」

「最高じゃん」


冴はメモ帳を開く。


ーー

攻略ログ06:嫉妬は注文していない

ーー


その下に、勢いよく書いた。


ーー

結果:双方嫉妬。独占欲、正式発注。

ーー


「正式発注すんな」

「でも、もうキャンセル不可でしょ」


俺はクッションに顔を埋めた。


「触らせんなよって言った」


「言ったの!?」

「願いって言った」


「満点」

「満点なのか」


「命令じゃなくて願いにしたなら満点」


冴は満足そうに頷く。


「で、千歳さんは?」


「誰にでも弱い顔を見せるわけじゃないって」

「うわ」


「君の前なら、少しは気を抜くって」

「うわー」


「あと、最後に“今日は妬いた”って」


冴がクッションを抱えて転がった。


「御曹司、強い!」

「強いよな」


「強い。受けが強い。最高」

「戻ってこい」


冴はしばらく悶えてから、ようやく起き上がった。


「で、手は?」


俺は動きを止めた。


「何で分かる」

「絶対あった顔してる」


「……手首」


冴の目が輝いた。

「来た」

「何が」


「手首は来ると思ってた」

「予言するな」


「掴まれた?」

「掴まれた」


「強く?」

「強くはない。でも、逃げられないくらい」


冴は両手で顔を覆った。


「良い」

「何が」


「袖より踏み込んだ」

「……まあ」


「袖は“言葉にできないから少しだけ引き止める”。手首は“行くな、こっち見ろ、誰にでもそうするな”。かなり進んでる」

「情報量」


「多いよ、手首は」


俺は自分の手首を見た。

もう千歳の指はない。ないのに、残っている。冷たくて、少し熱い。変な感触。


「千歳さん、何て言った?」


冴が聞く。


「君は誰にでもそういう顔をするのか、って」


冴は崩れ落ちた。


「強い」

「強いよな」


「強すぎる。しかもその後?」

「分析だ、って」


「出た」


「でも手は離さなかった」

「はい、勝ち」


「勝ちなのか」

「完全に嫉妬」


俺はクッションに顔を埋め直した。


「俺も、もうだいぶ駄目だ」

「知ってた」


「千歳さんが他のやつに呼ばれるのも、触られそうになるのも、弱い顔見せるのも嫌だった」

「うん」


「しかもそれを、ほぼ言った」

「うん」


「終わりじゃない?」

「始まりだね」


「怖いこと言うな」


冴は笑った。それから、少しだけ表情を引き締める。


「でも、これで次に進めるね」


「次?」

「理想攻略」


「……また重そう」

「重いよ」


冴は表情を少し引き締めた。


「ここまでで、距離、反応、対等感、甘え、承認、嫉妬が出た。次は“この人が何を守りたいのか”を真正面から聞く段階」

「澪標の丘」


「そう。千歳さんの理想。仕事。母の場所。白蝶リゾート構想」

「……」


「それと、纏」

「何」


「そろそろアンタの方も、灯庭舎を隠しきれなくなる」


胸が重くなった。

そうだ。千歳が守りたい場所と、俺が守りたい場所。


「次の作戦名」


冴はメモ帳に書く。


ーー

攻略ログ07:理想を聞いたら、守りたい場所が見えた

ーー


「恋愛だけじゃなくて、二人の芯に入る回だね」


「攻略ログ、重くなりすぎじゃないか」

「でも、ここまで来たら聞くしかない」


「何を」

「千歳さんが、何のために戦ってるのか」


俺は黙った。

千歳が何のために戦っているのか。それを知りたいと思う。

仕事のためではない。攻略のためでもない。


千歳という男を、もっと知りたい。あいつが守りたいものを、見たい。

その気持ちは、もうごまかしようがなかった。


スマホが震えた。千歳からだった。


『無理はしていないか』


俺は少し笑った。そして返す。


『してない。そっちは?』


すぐに既読。

少し遅れて、返事。


『少ししている』


正直だ。俺は胸が詰まった。


『じゃあ、次に会ったら話せ。

何をそんなに守ろうとしてるのか』


返信は、しばらく来なかった。

長い沈黙。

でも、既読はついている。やがて、短い返事が届いた。


『君も話すなら』


俺は画面を見つめた。

君も話すなら。つまり、千歳はもう気づいている。

俺にも守りたいものがあることを。


俺が金をどこに使っているのか。

俺がなぜこの仕事を受けたのか。


全部ではなくても、近いところまで。

俺は、少し手が震えるのを感じた。


冴がそれに気づいた。


「来た?」

「……来た」


「何て?」


俺はスマホを見せた。

冴はしばらく黙り、それから静かに言った。


「次、逃げられないね」

「だな」


「怖い?」

「怖い」


素直に言えた。

冴は少し笑った。


「でも、行くんでしょ」


俺は画面を見た。

千歳からの短い文字。君も話すなら。それは、脅しではなかった。取引でもなかった。


たぶん、選択肢だ。千歳が俺に渡した、逃げ道ではない選択肢。

俺は返信を打った。


『話す。だから、お前も隠すな』


送信。

すぐに既読がつく。今度の返事は、少しだけ早かった。


『善処する』


固い。財閥語。照れ隠し。

でも、それで十分だった。


俺はスマホを伏せた。

手首には、まだ千歳の指の感触が残っている。


嫉妬は注文していない、独占欲も、たぶんまだ正式に認めていない。

でも、手首を掴まれた。名前を呼ばれた。願いを返された。妬いたと、言われた。


もう、なかったことにはできない。


仕事だ。攻略だ。灯庭舎のためだ。まだ、そう言える。

でも、今日分かったことがある。


嫉妬は、相手を縛るためにあるんじゃない。

自分がどれだけ相手を見ているか、どれだけ見られたいかを、勝手に暴いてしまう。

そして、それは時々、手首を掴む指先みたいに、言葉より先に、逃げ場をなくす。


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