研究日誌16:絶戦
構える暇はなかった。
死の意識より黒刃の方が速く振り下ろされた。
辺りの露店が衝撃で崩れ、何本ものガラスの瓶が砕けて飛んでいく。
音がない。
刃が纏う黒い瘴気に何もかもが吸収されている。
これが、メルクが言っていた走馬灯?
脳からドパドパ。
演算能力がどうのこうの。
轟音。
スパイスの混ざった匂い。
それが一気に流れ込んできて、時間が動き出した。
まだ、死んでない。
黒刃が打ち込まれる。
そのたびに頭上で火花が散る。
刃は僕に届かない。
磁石の同じ極を無理に合わせるように刃先が逸れる[1]。
妙な力場のお陰で即死しない。
それが分かって余裕ができた。
牛の頭。
太い腕。
漆黒の皮膚。
迷宮深部にいるはずのS級。
黒刃の持ち主は、ミノタウロス。
体長は優に三メートルを超えている。
唐突に、刃が横に飛んできた。
太い枝がへし折れる音を聞いた。
気が付いたらどこかの店の壁の中にいた。
店の荷物がガラガラと落ちてくる。
壁の向こう側にいた半裸の女が悲鳴をあげた。
力場のおかげで切断されずにまだ生きているらしい。
立ち上がろうとして、手をついたら、茶葉をいれた缶がひっくり返った。
右の前腕がおかしな方に曲がっていた。
力場は絶対防衛
……じゃない。
今はまだ、痛みがない。
ミノタウロスの位置は悲鳴から分かる。
そこらの店や壁を順番に破壊しながらこちらに近づいている。
甲高い叫び。
ミノタウロスの巨体から闇が渦をまいて放たれた。
魔法に飲み込まれた店が闇に沈んでいく。
息が白い。
闇が温度を奪っている。
ここで、ギルドが到着するのを待つべきか?
腕が腫れあがってくるのが分かる。
鼓動にあわせて痛みが波のように押し寄せてくる。
無意識に胸のポケットに左手をあてた。
こぼれた茶葉から立ち上がったベルガモットの香りが僕に生きろと叫ぶ。
メルクにプレゼントを渡さなければ。
鬱血して丸太のようになった右腕を腹の上に置く。
奥歯を噛み締める。
「う、ぐう」
そばに落ちていたカラフルなスカーフで右腕を体に固定した。
壊れた壁からメインストリートに出て、最短で遺跡の外に出る。
そう決めた。
痛み始めた足を無理矢理動かす。
振動が後ろに迫ってくる。
*
人混みでごった返す通路を遡上する。
一歩進むたびに振動が腕に伝わって激痛が走る。
何があったのか確認するために止まる人。
何があったのか分かって逃げる人。
何があったのか分かって助けに向かう人。
ぶつかり、何度も転びそうになって進む。
くそ。
出口前の噴水広場はパニックになっていた。
狭い出入り口に人が殺到している。
噴水の段差に足を取られて転ぶ。
意識が飛びそうになる激痛。
吐く息が白い。
闇魔法が温度を吸収している。
気温がどんどん下がってくる。
「どけ!」という怒鳴り声はギルドの戦士たち。
なんとかかき分けてきた戦士や魔法使いたちが弩を構える。
ミノタウロスはもうすぐそこ。
「撃て!」
ミノタウロスに向かって矢が放たれた。
八本は闇に飲みこまれて消えた。
三本は硬い筋肉の鎧に弾かれた。
一本はミノタウロスの角に当たった。
頭がずるりと滑る。
地面に落ちて、べちゃという嫌な音を立てた。
ミノタウロスの頭部には人の顔。
歪んだ、苦痛に満ちた表情で、常に何か叫んでいる。
黒刃が一閃して闇が迸る。
戦士の上半身が一瞬で消えた。
魔法使いが僕の前を高速で飛んでいった。
出口付近は人の雪崩が起きて悲鳴が上がっている。
こっちに来たのは間違いだった?
迷宮の方に逃げるべきだった?
泣い声を聞いた。
黄色い服の少女。
夢と現実が重なる。
咆哮。
闇魔法。
もう動けないと思っていたのに。
無我夢中でその子に覆い被さった。
闇魔法が僕の周りを回転する。
左回り。
それは螺旋状に加速して、さらに加速して、頭上で水になった。
温かい水が僕らに降り注ぐ。
子供を庇って、ミノタウロスと対峙する。
「行って!」
慣れない左手でナイフを抜く。
ミノタウロスが雄叫びをあげる。
黒刃を振り上げる。
くそ、もう立っていられない。
「よく頑張ったわオーム」
後ろに倒れた僕をアレイスタが受け止めてくれた。
ミノタウロスの口が何か喋っている。
意味不明な、呪詛の言葉。
「私の魔法の秘密を教えてあげる」
アレイスタが立ち上がる。
「水を動かす魔法よ……ほんの少しだけね」
アレイスタが右手を挙げた。
腕を振り上げたまま、ミノタウロスの動きがピタリと止まった。
「脳幹を破壊したから、もう動けないわ」
周囲の闇が徐々に晴れ上がってきた。
下がった気温が少しずつ戻ってくる。
僕たちの周りでも、人が走り始めた。
「さっきの魔法は左回りだった」
アレイスタの様子がおかしい。
考えにふけって微動だにしない。
口元は何故か笑顔だった。
「許してねオーム、もう、好奇心が抑えきれない」
ミノタウロスが前のめりに倒れる、轟音とともに。
「オーム、今からあなたに私の魔法をぶちこむ。覚悟しなさい」
アレイスタの目が青く輝いていた。
ミノタウロスが巻き上げた風が止む。
僕はアレイスタを瞳をじっと見つめる。
今にして思えば二人ともおかしかった。
戦闘の余韻か、高濃度の魔素酔いの影響か?
「……いいですよ。今なら自信があります」
「いい眼をしてる」
「直感ですけど」
「ロマンチストね」
「そのかわり賭けをしてください」
「賭け?」
「僕は左回りに賭けます」
「……私は右ね」
「僕が勝ったら、デートしてください」
それには答えず、アレイスタが右手を挙げた。
魔法が僕に近づいてくるのが分かる
小さな小さな、でも、強力な水魔法が、僕に。
脚注
[1]私は後にこの現象を九龍斥力と命名した。




