研究日誌17:ノドゥス中央病院
「それで、どっち回り?」
メルクがりんごを剥いている。
「右回りでした」
「賭けは君の負け。くく」
メルクが笑ってりんごを口にする。
僕のために剥いたわけじゃないのか。
アレイスタの魔法は僕の予想に反して右に回転した。
「頭の上で霧になりました」
「ふーん」
メルクが神妙な面持ちでメモを取っている。
いつもと違う服と帽子が気になる。
「災難だったね」
「ええ、お土産がありますよ」
メルクにお茶のプレゼントを渡した。
メルクが鼻に当てて一嗅ぎした。
「君、これ、いくらで?」
「100マルカスです」
お土産に値段を聞く人なんだ。
「たっか。茶の品質が低い――
粉になった紅茶に、酢酸リナリルをまぶした安物だね」
「……いらないなら」
「いらないとは言ってない」
メルクが大切そうに鞄に仕舞う。
何も聞かれなかったけど、このプレゼントがなかったら、僕の心はへし折れていただろう。
この右腕のように。
橈骨・尺骨骨幹部骨折。
左足首の剥離骨折。
肋骨のヒビ。
こっちの医者も驚くくらいアレイスタの処置が完璧だった。
まさかあの場で手術されるとは思っていなかったけれど。
「回復魔法があるといいのに」
「そうだね、回復魔法なら私も使ってもいいね」
「そういえば、メルクさんは魔法使わないんですね」
「私には弓があるからね、それに……」
メルクが不自然に視線をそらした。
目線の先に有るのは……?
「くっくく」
これは遊び。
メルクの冗談。
本人はエルフギャグと呼んでいる。
思わせぶりなセリフと仕草で、引っ掛ける悪い遊び。
僕はため息をついた。
残念だけど、回復魔法は物語に登場するだけの便利な魔法。
魔法で治療を補助することはできるけれど、身体を直すのは自分の力。
まして、心についた傷は……。
こっちに戻ってきて、生命の危機が完全に無くなったせいで大きくなった不安。
ふとした瞬間に、黒刃が何度も僕に落ちてくる恐怖が蘇ることがある。
昨日も痛みと不安で夜中に何度も目が醒めた。
誰かと共有すれば慰めになるかもしれない。
思い切って口にした。
「あの時、遺跡の方に逃げるべきだったのでは」
「気することはない」
即答だった。
そんなことは悩みでも何でもないと言いたげな顔だ。
「アレイスタが言ってた」
「何をです?」
「一番被害が大きかったのは噴水広場の出入り口。人が人に潰された。
仮に、君が遺跡に逃げていても結果は変わらない。君は死んでたけれど」
いま、アレスタがテロメア遺跡で現場検証を行ってる。
何か気になる点があるらしい。
あんな事件があったのに、テロメア遺跡はその日の夜には再開した。
それほど今は交易が活発化している。
「血が流れると人は反省する」
「出入り口を増やすんでしたっけ」
「その変化は大きなこと」
メルクの慰めは、事実認定が直球過ぎて、受け止めるには覚悟がいるけれど、
その分、忖度がない。
少しだけ救われた気がする。
「魔法の被害は大してなかった。軽い凍傷が数名」
「……じゃあ、僕が庇ったのは」
「人命救助という点では意味がない」
はあ。
剛速球過ぎる。
「でも、学術的には意義深い。よくやった弟子よ」
メルクが僕の頭を撫でる。
「弟子……」
悪い気はしなかった。
「左回り現象が観察されたことは僥倖。これからやることは多いぞ」
メルクが僕の口にりんごをねじ込んだ。
「早く良くなれ、弟子よ」
*
「あの、ちょっと気になっていたんですけど」
「なんだい?」
「その服と帽子はなんです?」
角のように高く、横に広い白いキャップにエプロンドレス。
いつもとは全然違う印象。
「これは倭の國の伝統的な儀式衣装だよ」
メルクがくるりと回転してみせた。
メルクのミステリアスで知的な雰囲気とよく似合っていた。
「儀式? 何のです」
「頼みがある」
僕は身構える。
あの、地下遺跡の悪夢がフラシュバックした。
「今度はベッドは変形しないよ」
メルクがカバンをごそごそしている。
何かキラッとした物を取り出した。
「君の血がほしい」
太い針がギランと光った。
*
「じゃあ、これにサイン」
……甲は乙に対して一切の責任を負わないものとする……?
「なんです、これ?」
「同意書だよ。儀式には君の名前が必要なんだ」
渡されたペンで名前を書き入れた。
「はい、これ」
「よし、これで準備は整った」
メルクが僕の左腕の袖をめくって、腕を縛った。
「な、なにを」
「暴れないで」
しばらく腕を見ていたメルクが肘の内側に何かを塗った。
「冷た」
「お酒だよ。手を握って。強くなくていい」
針を持ったメルクが腕に迫る。
拳の数センチ先にメルクの胸がある。
指を動かしたらしたら当たるんじゃないか?
さり気なく、指を……
ドキドキドキドキ。
「チクッとしますよ」
「……!」
針が腕に刺された。
痛みはない。
針に接続されたチューブに赤い血液が吸い出される。
「痺れとかないですか」
腕を縛っていた紐を解く。
「じゃあ、手を楽にして」
吸い出された血が、瓶に溜まっていく。
何か不思議な感じがした。
「儀式が終わるまでには時間がかかるから、少し無駄話をしよう」
珍しく、メルクが真面目な表情で言った。
無駄?
と思ったが、口にはださない。
「特異点を知っている?」
僕は首を横に振る。
「特異点は近づけない場所。近付こうとすると遠のく場所」
「また、禅問答ですか?」
「私には殺せない特異点が何人もいる」
もっと物騒な話だった。
「アレイスタ。お互い死ぬことが分かっているからね。殺せない」
アレイスタは即死系。
黒龍を手懐けるメルクといえど殺せない。
わかる。
「ダゲル。こいつは簡単に殺せるけど、政治的に殺せない」
裏社会で写真を武器にする、底のしれない男。
ダゲルは恐らく王族だろう。
わかる。
メルクが針を引き抜いた。
酒を浸した布を紐で縛る。
瓶に蓋をして、窓に腰を掛けた。
「オームの力は魔法を捻じ曲げる。アレイスタの魔法も私の矢も君に当たらない」
瓶の中の血をうっとりと眺めている。
「ようこそ、特異点の世界へ」
月明かりに照らされたメルクはまるで、絵画のようだった。




