甘い誘惑
学校へ向かう道。
私の隣を歩くかぐやは、朝から妙に機嫌がよかった。
「ふふん」
「…………」
「ふふふん」
「ねえ」
「何じゃ?」
「なんでそんなに楽しそうなの?」
「分からぬか?」
「分からないから聞いてるんだけど」
かぐやは嬉しそうに笑った。
「今日は帰りに、くれーぷを食べるのであろう?」
「ああ、クレープね」
「うむ!」
なるほど。
昨日からずっと楽しみにしてたんだ。
「何を食べようかの。昨日見たものには、いちごが乗っておった」
「イチゴね」
「あれがよい」
「はいはい」
「いや、ちょこれーとも捨てがたいの」
「好きにすれば?」
「両方という手もある」
「太るよ」
「ならぬ」
「即答かよ!」
そんな話をしながら歩いていた時だった。
「…………あ」
私は足を止めた。
「どうした?」
「忘れてた」
「何をじゃ?」
「昨日のアンケート」
「うむ」
「パパから、お金もらってない」
「…………」
かぐやの笑顔が消えた。
「え?」
私は財布を取り出した。
開く。
小銭。
以上。
「今日もお金ない」
「…………」
「かぐや?」
「…………」
さっきまで弾むように歩いていたかぐやの肩が、見る見る落ちていく。
「明日食べればいいじゃん」
「今日食べると言うた……」
「言ったのはあんただけどね」
「いちご……」
「聞いてる?」
「ちょこれーと……」
目から光が消えた。
歩幅が半分になった。
つい一分前まで天にも昇る勢いだった女が、一瞬にして地獄へ落ちた。
「そんなに!?」
「月……」
「何?」
「学校とは、つらいところじゃの……」
「まだ着いてもないわ!」
◇
学校に着いても、かぐやの元気は戻らなかった。
「くれーぷ……」
「まだ言ってる」
「いちご……」
「分かったから!」
私たちは運動場の脇を通り、下駄箱へ向かっていた。
その時だった。
カキーン!
金属バットがボールを捉える音が響いた。
思わず足が止まる。
運動場では、野球部が朝のバッティング練習をしていた。
一人の男子がバッターボックスに入る。
構えは悪くない。
でも、少し肩に力が入りすぎている。
そんなことを考えながら、何気なく彼を見つめた。
すると、いつものように情報が頭に浮かんできた。
運動 2/2
体力 1/2
頭脳 1/2
野球 2/2
ふうん。
野球の才能は、もう十分に発揮できているみたい。
体力はまだ伸びそうだけど。
ピッチャーがボールを投げた。
カキーン!
鋭い打球が外野へ飛んでいく。
いい当たり。
私は無意識に、その打球を目で追っていた。
昔は、私もあそこにいた。
泥だらけになってボールを追いかけて、何百回もバットを振った。
誰よりも練習したつもりだった。
実際、小学生の頃は男の子にも負けなかった。
でも、成長するにつれて少しずつ差が開いていった。
走る速さ。
投げる球の強さ。
打球の飛距離。
昨日まで勝てていた相手に、いつの間にか勝てなくなっていた。
悔しかった。
だから、もっと練習した。
それでも差は縮まらなかった。
結局、私は野球を辞めた。
別に後悔しているわけじゃない。
……たぶん。
カキーン!
また、いい音が響いた。
気づけば私は、バットを振る男子をじっと見つめていた。
「月、どうしたのじゃ?」
「え?」
かぐやの声に、私は我に返った。
「何を見ておる?」
「……何でもない」
私は運動場から目を離した。
「ほら、行くよ。遅刻する」
「うむ……」
かぐやは不思議そうに私を見たけれど、それ以上は何も聞かなかった。
歩き始めてから、もう一度だけ振り返る。
カキーン!
乾いた音が、朝の空に響いていた。
◇
昼休み。
私とかぐやは、教室でお弁当を広げていた。
「月……」
「何?」
「いちごと、ちょこれーと。どちらがうまいと思う?」
「まだクレープの話!?」
「うむ」
かぐやは卵焼きを口に運びながら、真剣な顔で考え込んでいる。
「生くりーむというものも気になるの」
「はいはい」
「ばななも捨てがたい」
「もう好きにして」
「しかし、全部食べるには金子が足りぬ……」
「一円もないんだから、足りない以前の問題でしょ」
私はため息をついた。
朝からずっとこれだ。
頭の中はクレープでいっぱいらしい。
その時だった。
「なあ、かぐやちゃん」
近くで弁当を食べていた男子が声をかけてきた。
「何じゃ?」
「そんなにクレープ食いたいの?」
「食いたい!」
即答だった。
男子が笑う。
「じゃあ、今日の帰り、俺が奢ってやるよ」
「行く!」
「早っ!」
思わず私が突っ込んだ。
男子も驚いている。
「マジで?」
「うむ! 恩に着るぞ!」
かぐやは満面の笑みだった。
すると、その会話を聞いていた別の男子が立ち上がった。
「ちょっと待て! 俺も奢る!」
「え?」
「俺も!」
「俺も行く!」
「俺だって!」
あっという間に、教室の男子たちが騒ぎ始めた。
「俺、イチゴのやつ買う!」
「じゃあ俺、チョコバナナ!」
「俺は抹茶!」
「俺、二つ奢る!」
「ずるいぞ! 俺も二つ!」
何これ。
クレープの競り市?
かぐやは目を輝かせた。
「なんと!」
そして両手を合わせる。
「それならば、全種類食べられるではないか!」
「「「おおおおお!」」」
なぜか男子たちから歓声が上がった。
「ちょっと待ちなさい!」
私は立ち上がった。
「かぐや! いい加減にしな!」
「月! 全種類じゃぞ! 全種類!」
「聞いてる!?」
「いちご! ちょこれーと! ばなな! まっちゃ!」
「そんなに食べられるわけないでしょ!」
「大丈夫じゃ!」
「何が!?」
もう私の声は届いていなかった。
「じゃあ放課後、みんなで行こうぜ!」
「おう!」
「俺も!」
「俺も行く!」
男子たちは勝手に盛り上がっている。
かぐやも大喜びだ。
「楽しみじゃのう!」
「…………」
私は椅子に座り直した。
そして、天井を見上げた。
どうしてこうなった。
こうして、放課後のクレープ屋行きが決まった。
参加者、十数名。
目的、クレープ。
ただし、目的がクレープなのは、どうやら一人だけらしい。
……絶対、面倒なことになる。




