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硝子蝶  作者: 無夜
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 個人で所有し、管理している薔薇の庭。

 六月の頃は特に美しい。    

 鮮やかなビロード赤の、黒紅の、朱赤の、真紅の、緋の、様々な赤い薔薇が咲く。

 こんなに赤の種類があろうとは、私は今まで知らなかった。

「主人の道楽なの」

 義母となる人がしとやかに笑って、自慢げに私を庭に案内する。私の婚約者は彼女が苦手らしい。さっさと家に入ってしまった。

 僅かに上がった目尻や、顎のラインの骨っぽさが不思議と似ているけれど実母ではないのだという。

 薔薇の園に一歩踏み込んで、義母は背後を気にしながら私を窺っている。

「貴女、あの子からなんて聞かされていて?」

「は?」

 私は唐突な質問に困ってしまった。

「私のことを、息子はなんて貴女に紹介したのかしら?」

 義母は真剣な顔をして聞いて来た。

 私はまだ質問の意図がわかっていなかった。

 えっと。私はゆっくりと言葉を反芻した。

「おかあさま」

 呼びかけてみる。

 もっとわかりやすく言って欲しい。

 義母はわざと白髪を残すように染めて、ごく自然に見えるように髪を整えていた。

 肌に皺があっても、色は白く、透き通るように美しい人だ。

「……これといって、聞かされていません」

 彼が義母を『あの女』と呼んだのは覚えている。でもそれは言わなくてもいいことのはず。寝物語に時おり語られる、ありもしない庭で母親が蝶に食べられてしまう夢。その時に、実の母親は既に死んでいるのだと、言っていたことぐらいしか聞き及んでいない。不思議なほど、この母のことは話題に出なかった。

 私は沈黙に、さらに言葉を要求されているのだと気づき答えに窮した。弱ってしまう。本当に私は何も聞かされていないのだ。

 義母の唇がきゅっと結ばれる。

「美紀さん。あの子をお願いいたします」

 義母は私に深く頭を下げた。



 彼が硝子蝶を見たという、中庭はこの家にはない。黄色い薔薇はここにはないのだ。

 私は暑い時間を避けて、午前中と夕暮れ時に庭を散策してみたが、噴水や井戸といったものも見なかった。

 義母は私を可愛がってくれて、庭仕事用にとおそろいのエプロンを引っ張り出してくれた。

 ……優しい人なのではなく、彼女はとても寂しい人なのだと、わかった。私を気遣い、言葉を途切れさせ、窺う仕草。嫌われることに怯えるような、人に合わせるあまりに自分を見失ってしまったような、そんな女性。

 義母を見ていて私は不安になった。

 この家に嫁いだら、私も義母のようになってしまうのだろうか。

 それは嫌だ。

 私は激しい後悔と不安を心中に渦巻かせた。

 様々な赤と緑の庭園で、狂うような眩暈を覚える。捻じ曲がり、赤は渦巻く。

 貧血を起こしているのだと、気がついたのはふらつく体を無意識に立て直した時だ。網膜に焼きつくのは、色彩が反転した、薄緑の薔薇の花。蒼穹に映り込む赤い葉。

 これは硝子蝶の物語。

 儚く脆く、崩れやすい。

 硝子蝶は軋む音を立てて羽ばたく。重たい羽翅を持ち上げ、光を通して大地に艶やかな色を落として。

 私は夢を見ているに違いない。

 噴水と、長椅子と、煌くような黄金の薔薇をつけた生垣。閉塞した中庭。

 きっと彼の妄想が私に移ったに違いない。この美しい閉じた庭。

 蝶は、重たげな羽翅を嘘のように軽く動かしてひらひらと飛ぶ。

 彼から聞いていたのとは違う。とても小さい。掌にすっぽり収まってしまうような硝子細工の蝶。

 彼が立っていた。その手首から、蝶は血を吸っている。

 彼は私を見て、微笑んだ。

 低く掠れた声で彼は私に呼びかける。

 強い日光を拒むために濃い緑色の長袖のシャツに袖を通し、前は開いたまま。中に着ているのは脇と襟の大きく開いたランニング。だから浮いた鎖骨が見え、白い肌が大きく覗く。

「硝子蝶はとてもとても綺麗だよね。俺はずっとこの生き物に捕らわれていたのかも」

 私は悲鳴に近い声をあげて叫んでいた。

「振り払って。それ、を」

 血を、中味を、蝶は吸っていくのだろうか。

 彼は空っぽになり、蝶はいつしか大型の猛禽のように育つのか。

 私は蝶を払いのけようと、一歩を踏み出した。

 だが、義母の呼び声に、私は噴水のある中庭という妄想が壊れ、赤い薔薇の庭に引き戻された。

「大丈夫ですか? ぼんやりなさっていましたよ」

 心の底から気遣われているのがわかる声。

「大丈夫です。すいません、ご心配をおかけいたしました」

「いいえ」

 義母は逡巡している。

「……貴女は、私が、あの子の実の母親だと、聞いているでしょうか」

 私はその言葉の意味がやっぱりすぐにはわからなかった。

 彼が硝子蝶を見るより前に、彼の母は死んでいると聞かされていた。だから、彼女のことを私はずっと継母だと信じていたのだ。『ああそうなんですか』とすぐにはいかなかった。三秒ほどは確実に沈黙してしまった。

「本当のお母様?」

 私は聞き返した。

「そうです。やっぱり、聞いてないのですね」

 義母は落胆した顔をした。大きく彼女は傷ついている。

「あの人は、なんでそんな嘘を?」

「……色々ありましたの」

 義母の、庭弄りですっかり傷んだ爪が示したのは、日よけパラソルのあたり。

「蝶を見たのだと、あの子は言うのです。私を責める。きっと一生許してくれやしないでしょう」

 彼はどこにいるのだろうか。

 さっき、白昼夢ではすぐ側に居た。心がすごく近かったような錯覚さえ覚えたのに。

 家の中。硝子蝶に食われているところ?

 私は居ても立ってもいられなくなってしまった。

 そわそわした私を見て、義母は悲しそうに呟いた。

「こんな話、無意味ね」

 私は義母を蔑ろにしたいわけではない。彼の実の母親だというのなら、なおのこと。

 でも私には情報も何も与えられていない。どちらが嘘をついているのか、判断する材料が無い。

 実母を疎んじてついた幼い嘘が、いつしか彼自身を蝕んで真実との境目を曖昧にしてしまったのだろうか。

 それとも、懐かぬ継子に手を焼いて、心身を病んだ義母は、やがてその子はおかしくなっているが実子なのだと、ノイローゼの延長で思い込んでしまったのか。

 この家にいる義父の言葉も聞かなければ、わかりそうにない。

「あの人を探してきます」

 探すほど広い家ではない。大きな声で名前を呼べば、彼も義父も庭へと顔を見せるだろう。

 それでも私はこの異様な静寂を壊すことを恐れてしまった。物音を立ててはいけないのだ、きっと。蝶がやってきてしまうから。

 美しい、不自然な、きぃきぃという軋む音を立てる虫。

 怖くなってしまう。あの白昼夢。手首に絡み、傷に口吻を突き立てている蝶の、気味悪さ。

 その不安と背筋に残る嫌悪感、冷たい怯えを溶かすには、彼が必要。彼の腕の中に、胸に飛び込んで言葉を交わさなければおかしくなってしまう。

 こんな小さな庭。迷う余地もないのに。どうしてこんなに不安を掻き立てるのだろう。

 薔薇が多すぎるから? 血の色をしているから。

 ああ、緑の反対色は赤だ。現実と反転した色彩も、すべて赤が混じっている。空に、壁に混じりこむ赤は凄惨な物語を連想させて、私を酷く不安定にさせるのだ。

 赤と緑しかないこの世界が悪いのだ。

 私は縁側から建物の中に入った。ひんやりとした空気が家全体に籠っている。外は気が狂うほど明るくて、中は一瞬何も見えなくなるほど暗い。

 眩んでいた目が戻るまで、私は手探りで廊下を行く。不安に駆られ彼の名前を呼びながら。

 足元ではルリアゲハが羽根を休めて、ぼうっと光っている。まるでその瑠璃色のラインが浮き出しているかのよう。

 目が痛い。闇に、光に。激しい落差に、目は涙を浮かべて抗議してくる。

「どうしたの?」

 心配そうな声がして、彼が真正面から私を抱き止めた。その足は黒地に艶やかな緑の線が入った蝶を蹴散らした。

「具合が悪くなってしまった? 少し涼しい場所で休んだ方がいい」

「平気」

 彼の声が間近に聞こえると私はとても安心した。蝶に食われるなんて、嘘。不安が見せた幻。蹴散らされた蝶の残骸はもうない。

 ここは廊下。階段が近くにあって、真っ直ぐすすめば、キッチンがある。

「飲むものを作ってあげるから、椅子に座って」

 ちゃんとすべてが見えるようになった。

「あのね、お母様がね」

「……あの女が何か?」

 彼の口から落ちたのはすべてを拒絶する冷たい声だった。

 私はそれ以上言葉を紡げなくなる。

「なんでも、ないよ」

「俺の実の母親だと言ったのかな?」

「うん……」

 私が頷くと、彼も頷いた。

「話を合わせてやってくれ。でも、俺は、母さんが死んでいることを、知ってるんだけどな」

 最後の言葉は気弱でやるせない響きがあった。

 彼の母親は死んでいるのか、生きているのか。誤った記憶を持っているのは、一体どっちなのだろう?

「おいで。冷たいカフェオレでも作るから。甘いものを飲めばちょっと楽になるよ」

 彼は私の手を握り、肩に手を回した。

「うん。ありがとう」


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