(133)
ナーガムは、頭から手を下ろし、明妃を見た。そして、思わず厳しい口調で言った。
「明妃殿下、法座主府が、今どういう状態であるかは、お分かりなのかっ」
彼女は、頷いた。
「ええ、昇格試験期間中であることは、承知しております。
私も、大切なこの期間に、このような凡人の些事について、お願いにあがったことは、本当に心苦しく思っております。けれど、些事とはいえ、玄武が絡むことが明らかになった以上、法座主府のお力にすがるしかございませんでしょう」
淑やかで柔らな声が耳朶に絡みつく。
ナーガムは、一瞬強く瞑目し、眉間に深々と縦皺を寄せた。
(そう来るのか・・・何が何でも我が意を通すおつもりなのだな)
明妃は、扇を握ったまま沈黙し、ナーガムの反応を冷静に観察していた。
その視線に、ナーガムの皮膚が敏感に反応し、じわじわと紅潮した。
(凡人だ、凡人に過ぎない、ただの女ではないか・・・落ち着け)
ナーガムと、乾陽大公ダルディンとは、又従兄弟の間柄だ。
ダルディンがミレイナ王女と挙式する前々夜、ナーガムは、彼と一晩飲み明かした。
その時、珍しく深酔いしたダルディンは、兄のように慕うナーガムへ訴えた。
「大伯母上様が、俺に、とんでもないことを言ったんだ。
『玄武の男は、歳がいけばいくほど、執着が増して厄介な性格になって拗れまくるのだ。あのお二人がいい手本だろう』って、俺はあんな風になるのは嫌だ。それなのに、ウウッ、どうしよう、もうすぐ結婚するのに、まだあの人が、頭から消えてくれないんだ。ウウウッ」
ナーガムは、盃の前で突っ伏して呻く、半泣き状態のダルディンを見下ろしながら、一体、お二人って、誰なんだ?それに、あの人が頭から消えないってどういうことなんだ?と疑問に思った。
それは愚問だとすぐ気がついた。
長老である巽陰大公が、そんな丁寧な言い方をする相手なんて、あのお二人しかありえない。だから、ナーガムは尋ねるのをやめた。そして、そうなってくると、『頭から消えない』という誰かも、一時執拗に流された、ダルディンと明妃に関する不名誉な噂から、何のことかは明らかだった。
その時は、ダルディンは、まだ千年齢にも達しない幼玄武なのだから、仮に過ちがあったとして、その事が忘れ難いと訴えたところで、仕方のないことだと思い、適当に慰めたのだ。
そして、今実際に、明妃であるリーユエンの間近に接すると、魔導士姿の時とは、あまりに違い過ぎて、ダルディンがああなってしまったのも当然だと、初めて納得できたのだ。けれど、自分は、千六百齢を超えた一人前の陽玄武なのだから、こんなものに絡みつかれたぐらいで、言いなりになってはいけないと、己の精神を必死で奮い立たせた。
リーユエンは、ナーガムの反応を冷静に見極めた。
(やはりダルディンの様には、いかないな。まあ、あんな風になったら困るし・・・では、作戦第二を実行しようか)
「ご存じでいらっしゃることと思いますが、ドロメル当主が、私のところを訪ねてまいりました。
彼は、エスメルの父親です。エスメルの命を救って欲しいと、私に訴えました。
彼は、こう言ったのです。
『娘の命が助かるなら、魔力が使えなくなろうとも、正気を失おうとも、私は、一生面倒を見ます。魔力があろうとなかろうと、正気であろうとなかろうと、私の愛する娘であることは、決して変わりません。
誓って申し上げます。私は、エスメルの命が助かるのなら、私自身の命と引き換えでも構いません』」
リーユエンはそう言うと、ナーガムから視線を逸らし、辛そうにうつむいた。
「法座主府に凡人の問題について、関わるように訴えることを、私も、良しとしているわけではありません。
ですが、ここまで娘を思って訴える父親の願いを、何の解決策も考えずに、冷たく突き放すことはできかねました。グレゴルの娘を思う心に免じて、今回だけは、昇格試験期間のしきたりを曲げても、お慈悲を頂けないでしょうか」
リーユエンは、椅子から静かに立ち上がり、ナーガムへ向かい平伏した。
ナーガムは、慌てて椅子から立ち上がり、体がよろめいた。
「おやめください殿下っ、私は、たかが総執行に過ぎません。あなたが平伏されてはなりません」
「いいえ、私は、グレゴルの代わりにお願いに参ったのですから、平伏するのは当然です。どうか、この願いをお聞き届けください」
ナーガムは天を仰いだ。
(油断した・・・二段構えだったのか・・・何という小賢しさ、いや失礼、聡明さだ。
猊下は、まさか、こんな事まで見越して、私にこの件を任せたのか?
大体、凡人に関わる事件なのだから、渉外案件を担当する監執行が担当してもよかったはずなのだ。それなのに、猊下は、私をわざわざ指名されたのだ)
ナーガムは、腹を括った。
「殿下、どうぞ、お立ちください。しばらくこちらでお待ちください」
ナーガムが退室したあと、リーユエンは太子椅子の背もたれに、ぐったりと身を預けた。
ツォンパに吸血されたのは、かなりのダメージで、貧血のためか目眩が酷かった。意識を保っていようと思ったのに、いつの間にか意識を失っていた。
ナーガムは、猊下に従い、部屋へ戻ってきた。昇格試験期間中、法座主府内の玄武は、外部の者との接触は禁止というのが、しきたりだった。猊下ご自身が、たとえそれが明妃といえども、直接会われるのは、しきたり無視の暴挙と批判を受ける行為なのだ。
しかし、ナーガムから話を聞いた猊下に、躊躇いはなかった。
「外部と接触禁止の慣例を守るため、リーユエンとの接触を断っておったが、今から直接会おう。凡人のことだと放置しておけば、また、リーユエンは危険を犯すに違いない」
それが、下した結論だった。




