第二章4話『親愛の号哭』
「――三百九十六……」
その声。
掠れた声に、息が詰まる。
「お、とう…………さま……なの…………?」
沈黙。返事は無い。だが、それが何よりの証拠だ。
純黒のローブ。フードから覗く荒れた青髪。レティシアを凝視する無色の双眸。威風堂々とした、けれどどこか気落ちしたような佇まい。
見間違えるはずがない。
「なんで……。あなたは、私が…………」
救ったはず。それなのに、どうして――。
重ねる問いかけ。反応は無い。
「ぁ」
――気付けば、一歩、足が前に出ていた。
「お父様」
二歩、言い慣れた単語を口に出す。その言葉を反芻する度、心が温かいもので包まれる。
――何で、お父様が生きているのだろう。何で、暗い顔をしているのだろう。
「お父様、お父様、お父様――っ!!」
四歩、駆け出す。想いが、とめどなく溢れ出す。
――いや、何だっていい。お父様が目の前にいる。それが全てだ。
「会いたかった……会いたかったの……会いたかったんだよ……っ!」
十歩、父の胸に飛び込む。
――祈りが、届いた。お父様に、もう一度会えた! あの頃の優しいお父様に、また……!
「だめ……っ!」
「ぇ」
――瞬間、首が締まる感覚が生じ、後ろに倒れる。
眼前、白光が空を斜めに切り裂いていた。
「ぇ………………」
切られた。今、切られた。切られかけた。――切られかけた? お父様に?
「ぅ、そ…………」
今、レティシアは死にかけた。
お父様の剣で。
お父様を見る。
こちらを睨み付ける切れ長の双眸に静謐な殺意が込められている。
――どうして?
「な……んで…………」
「れ……っ」
「サンドラ…………?」
レティシアの背後、苦痛に顔を歪ませたサンドラがいた。
「まえっ!」
「――ふ」
「――――っっっ!!」
言われるがままに抜剣。甲高い鉄が重なる音と尋常ではない重さがレティシアを襲った。
「……ぁ………………ぇ」
意味のある言を紡げない。
口が開閉を繰り返している。
見上げる。
――「あの時」のような凍てついた瞳が、レティシアを見下ろしていた。
「っ…………!」「あぅっ!」
レティシアを守っている愛剣の位置をズラして威力を逸らし、叩き込まれた長剣がそのまま地に衝突する寸前、間一髪で左に転がり死域から脱却。
「キャァァァァァァ!!」「衛兵!! 衛兵を!!」「に、逃げろぉぉぉぉ!!」
「う、そ……だよね……? 嘘だって、言ってよ…………」
民衆の逃げ惑う声も、雑音にしか聞こえない。今、レティシアの世界にはお父様しかいない。
そうだ何かの手違いだ。お父様がレティシアに剣を向けるはずがない。決着の瞬間、かつての「色」が確かに滲んでいたお父様が、愛する孤児に真剣で斬り掛かるわけがない。
それか、レティシアの実力を試そうと、敢えて……
「れ! にげる、だいじ!!」
耳元で鳴る音、服を掴む手に心を傾けず、ゆっくりと立ち上がる。
「お父様……お父様なんだよね?」
「……はい」
「っ、私、レティシアっていうの! この子――サンドラが付けてくれた名前で、今は王国騎士団長なんだ!」
「……そうですか」
「れっ、れっ……!!」
「王様も反省して、帝国との戦争を終わらせたんだ! ヴァインも院長を引き継いで頑張ってるよ! ――お父様が苦しむ必要も、私たちが戦う理由ももうない……ないんだよ」
「……えぇ、そうですね」
「だめっっっ、れっっ!!」
「っ! だから昔みたいに笑っ」
――線。線が見えた。光が反射したように白線が。次いで、赤が見えた。赤の線が、宙に舞って――、
「――――――ぇ」
左腕が、宙を舞っていた。
「ぇ、あ、がぐぐぐぐぐぐぅぅああああああああっ!?」
喉が、脳髄が、鼓膜が、眼球が、絶叫する。
これまで感じたことのない激痛が、激痛という言葉では言い尽くせない激痛が、激痛が激痛が激痛が脳髄を鮮烈な白で埋め尽くす。
地に転がって蹲る。桃色の肉、白色の筋と骨、それを覆い隠すようなおびただしい赤が見えた。
「――それが、なんだというんだ?」
神経が剥き出しで、桃色の肉を風が撫でる度に視界が明滅する。
「ーーっ、ーーーーっ!!」
気付けば、断面にかじりついていた。
意識が揺らぐ。口の端から血が漏れ溢れ、口の中には鉄の味が広がっていた。
「ぐ、ぅぅぅぅぅっっ!!」
「私は教えたはずだ。『敵対生物に隙を見せてはならない』と」
耐え難い激痛の中で認識を改める。
やはり孤児院で戦ったお父様は本気では無かった。当然だ。本気のレティシアに殺される事こそが彼の本願だったのだから。
だが、今は違う。理由は分からないが、お父様は全力でレティシアを殺そうとしている。そして同時に思い知る。
――この痛みは、かつてのレティシアが帝国兵相手に絶え間なく与えていたものだと。
「――――っ!!」
そこで理性が戻り、愚行をやめる。代わりに口内を思いっきり噛み、痛苦に離れゆく意識を強引に留める。
「私の最高傑作が、こうも女々しく変わり果ててしまっているとは。……嘆かわしい」
「ふーっ、ふーっっ……あな、た、本当にお父様……なの?」
「あぁ、そうだ――お前に殺されたのも、しっかり覚えている」
「――っ」
「れっ……ちが……とま、とまらない、よ……っ!」
「さん……どら……」
再び耳元で鳴る声――泣きながら断面をハンカチで結び、必死に押さえているサンドラを見る。
その度に稲妻のような激痛が倍々になって全身を駆け巡る。痛覚遮断を貫通して余りある激痛。
――だが、立ち上がらなければ。
「――下が、ってて」
「れ……? ――っ! だめ! だめだよ、ねぇ、にげよ? むりしちゃ、や!」
「ううん……お父様からは、逃げられない。そういう……ものなの……」
左腕、清潔だった桃色のハンカチが見る影もなく赤に染色されている。だが、断面が見えなくなっただけでも十分に効果があった。
「……ねぇ。どうして、私に……そんな目を向けるの?」
「……愚問。復讐に他ならない」
復讐。その響きが胸を鈍く貫く。
否定、したい。だって日記にも書いてあった。レティシアの洞察の正確さを、日記が保証してくれていた。だから、あれはお父様が望んでいたことだったと、反論したい。
でも、その一言に込められた凄み、重みがレティシアにそれをさせなかった。
故に、歯をこれでもかと食いしばり、構え――肉迫する。
――嫌だ。剣を向けたくない。せっかくまた会えたのに。こんなの、嫌だ。
「――っ!」
でも、お父様は本気だ。サンドラもいる。戦わなくてはならない。
――弱音は捨てろ。今この瞬間だけは、心を消し去れ。
「――――うぅぅぁあああっっ!!」
――そんなこと、できるわけがないよ。
「ふっ、あぁぁっ、くっ、し――っ!!」
「――」
号哭に一切を任せた剣舞。作法など念頭にない。がむしゃらに畳み掛ける。
それをお父様は涼しい顔でいなす、いなす、いなす。一歩一歩、後ろに足を置きながら、猛撃を受け流す。
「――――あぁぁぁぁぁっっ!」
上に振りかぶり、ありったけ溜めた剣撃をお見舞いする。
「が」
――寸前、腹部にお父様の足裏が食い込んだ。勢いに任せ、レティシアの身体は後方へ吹っ飛ぶ。
「ぐ、ぅううっっっ!!」
視界の縁、こちらに顔を向けるサンドラの悲痛な面持ちが一瞬だけ映った。
「くぅっっ――!」
すぐさま剣を逆手に持ち替え地に突き刺し奥歯を食い縛る。ガゴゴゴ、と地面が削れる音の破裂を代償に、レティシアは蹴撃の威力を殺し切ることに成功した。
「れっっ!!」
「こ、ない、で…………」
振り返って駆け寄ろうとするサンドラを静止。剣を支えに立ち上がる。
――刻一刻と力が抜けていく。体温が失われていく実感がある。徐々に適応しつつある激痛も、未だに劈く。
「――っ!」
でも、目を逸らさない。
「左腕をもがれた程度でこの乱心。落ちる所まで落ちたな」
「ううん……っ、上がったの! 大切な、親友たちのおかげで……!」
脳裏を過ぎるは二つの「色」。
一色は今も桃色の目を腫らして行く末を見守っている「紅」。彼女がいたから、レティシアは道具になり切れなかった。
一色はさっきまで一緒に街道を歩いていた「白」。彼女がいたから、レティシアは大切なものに気付けた。
だからこれは弱さではない。へこんで、沈んで、闇の中を彷徨って、絶望に打ちひしがれて、心が悲鳴を上げるレティシアに立ち上がる力を与えてくれる、強さだ。
「親友……そこの少女だな」
「ひ」
「……っ!」
凍てついた眼光に身体を震わせたサンドラを見た瞬間、身体が動いた。
考え無しの肉薄。一秒に幾度を叩き込む銀閃。
「どうしてっ、なのっっっ!? どうしてっ、殺そうとするの――っ!?」
「死にゆく者に答える意味は無い。無駄だ」
冷酷に言い捨て、レティシアを弾き返す。だが、レティシアは追い縋りをやめない。地に足を着けたと同時、お父様目掛けて疾駆し、一撃を叩き込む。
「む」
――その瞬間、お父様の眉が初めて動いた。
「これは……」
剣を逆手に持ち切り裂く――ニックとの戦闘の中で得た発想だ。剣撃を防がれた瞬間に逆手に持ち替え、僅かな隙間に糸を通すが如く、がら空きの腹部に一閃。
意表を突いた一撃にお父様も対応しきれず、レティシアの胸痛と引き換えにそのまま浅く血を流させることに成功した。
「うあぁぁぁぁぁっっ!!」
再び剣を持ち直し、大声と共に畳み掛ける。銀閃、防がれる――のを見越し、長剣の動きを封じたまま風を切り裂く右足で胴体を薙いで――、
「ぁ」
突如ふくらはぎに発生した、予期せぬ感触。掴まれた。
「ふん」
掴まれた足を軸に一周、全身が撹拌され、遠心力のままに放り投げられる。思考が機能せず、身動き取れない風圧の中、レティシアは足をかがめて半回転、建物に激突する瞬間、壁に足裏を合わせ、爆発させる。
「それでいい。それでこそ『死神』だ」
音速に迫る勢いで射出された弾丸が、レティシアを流し目に見やる青髪に渾身の一撃をお見舞いする。それをお父様は体の向きを変えず、右腕に握る剣で受け止め、視線だけを交錯させる。
だが、涼しい顔に反して逞しい左足はじりじりと、後ろへと押しやられていった。
――至近距離、焦がれたお父様の横顔がある。
「――――っっ!」
心がひしゃげる。溢れ出る「感情」がとまらない。肩が震える。胸が張り裂けそうな慟哭が終わらない。
――それらを、ありったけを、ぶつける。
「どうして……なのっ! もう、全部、解決したのに……っ!」
「視野が狭いな。それか、そう思い込もうとしているだけなのか」
言い切り、お父様は剣を振り払い、硬直する剣戟を終わらせる。弾かれたレティシアはすぐさま体勢を整え着地し、距離をとった。
「仮にそうだとして、この超常をどう説明する?」
体をこちらに向き直したお父様の鋭い眼光が突き刺さる。
――死したはずの命が回帰している。イリスの関与が考えられない以上、レティシアたちがまだ想像にも及んでいない重大事件が現在進行形で引き起こされているとしか考えられない。
「そ、れは…………」
「死者は死を超越してはならない。それが世の理だ。それがどうして、お前と剣を交えている?」
「剣は……お父様しかしらない、でしょっ! 生き返ってるのは、理由なんてどうでもいいの! あなたが、苦しみから解放されたあなたが、昔みたいに笑っていられるなら……!」
「思考放棄、その一点については賞賛します。しかし、やはり落ちたな」
瞬間、地が爆ぜ、瞬く間に眼前にお父様が出現する。ひねれば容易く折れる細い首を狙った絶死の剣筋を、右手に強く握った愛剣を軌道に挟み込み食い止める。反射だった。
「――――くぅぅぅっっ!!」
「――――」
威力を逸らし、横に逃れる。勢いを殺して着地するお父様に向き直り、正面にお父様、左手に胸元に手を当て立ち尽くすサンドラがいるのを確認して、確認して、かく、にんし、て――。
「は……は……は…………」
頭がくらくらする。
考えが纏まらない。
段々と身体が冷えていくのを感じる。
お父様が、こちらを見ている。冷たい無色の双眼で、こちらを見ている。
対話を試みた。失敗した。イリスのようにはできなかった。
想いをぶつけてみた。失敗した。ニムレットみたいに受け止めてくれなかった。
――どうして、レティシアには血に濡れた親子喧嘩しか許されないのか。
「戦いたく……ないよ……っ!」
「そうか。なら抵抗をやめろ」
もはや会話は成立しない。意見の食い違いは致命的で、相容れない。レティシアにはレティシアにしか出来ない方法で、想いを伝えるしかない。
常に思考を阻害する激痛を、歯をこれでもかと噛み締めて誤魔化す。鮮明に浮き上がる記憶の数々をかかえたまま、再度お父様との距離を詰め――、
「――ぁ」
視界が黒に染まっていく。踏み出した右足が傾き、レティシアの身体は右へと落ちていく――。そのまま意識を手放し――、
「――っ」
唇を噛みちぎり、無理やり現世に留まる。交差した左足で踏ん張り、目をこれでもかと言うほど見開いて剣を構える。
左、目に映す度に胸がチクチクする泣き顔で見守るサンドラがいる。お父様の眼光は、彼女にも一瞥をくれていた。
――ここで気を失えば全てを失う。ここで迷えば全てが崩壊する。
「…………」
「訓戒」活性化。「訓戒」再定義。期間――果たすまで。
「――『敵対生物は、『侵色』する』」
「――ふ」
言語処理能力を遮断。期間――剣から手を離すまで。
爆発、肉薄、猛撃、撤退、爆発――。
雷光に勝るとも劣らない速度で、角度を変え威力を変え高さを変え、四方八方から肉薄、三撃、撤退を繰り返す。
接敵する度に互いの肉体に切り傷が増える。
目の前の敵対生物から無表情を剥ぎ取った。
そのまま猛撃をぶつけ、心の臓目掛けて刺突を――、
また、眩暈。刺突が敵対生物の左胸に突き刺さる寸前で、空中、重心が右に傾き、よろめく。
その明確な隙を、敵対生物が見逃すはずがない。
黒く染まる視界の端で、白光が三度、はためく。
一撃、ケープが切断される。
一撃、左頬を切られる。
一撃、腹部を斜めに刻まれる。
はらりとケープが落ち、腹部、血に染まった真白の肌が露になる。
――それが何だと言うのだ。
フラフラと立ち上がって、再度構える。
手に力が入らない。頭に血が通っていない。気を緩めば足から崩れ落ちる。
――それが何だと言うのだ。
眼前、重々しくこちらへ足を進める敵対生物を見据える。
「訓戒」再定義。
『剣から手を離してはならない』
『意識を手放してはならない』
『足を動かし続けなければならない』
期間――サンドラの安全を確保するまで。
「……ぁ」
刹那、斜めに白光が走るのが見えた。
愛剣が、すっぽりと手から離れて宙を舞う。既視感――失った左腕と同じ軌道を描き、カランと音を立てた。
「…………」
「訓戒」――不活性化。再定義――無効化。期間――終了。
かくん、と足から力が抜ける。左腕から、腹部から流れる赤い液体が、地を『侵色』していく。
――何かが、近付いてくる音が聞こえた。
「――れっ! たって! はやくっ!!!!」
後ろで泣きじゃくる音が聞こえる。肩を揺すられ、動く度に左腕が激痛を放つ。
でも、どんなに揺さぶられても、レティシアには応えられない。だって――、
「ごめん…………腰、抜けちゃった……っ」
顔だけ振り返り、泣き顔を親友に晒す。せめて、苦しませないように笑ってみせたが、逆効果だったらしい。
サンドラは嫌嫌と首を横に振り、レティシアの両脇に手を差し入れ持ち上げようと試みる。
「だめ……あなた、だけでも……逃げて…………」
「や!! れも、いっしょににげるのっ!!」
「お願い……逃げて……」
「にげないっ!! さは……っ、さは、れと、いがいないと、やなの――っ!!」
聞き分けの悪い親友の親愛に、それに応えられない自分の不甲斐なさに、心がぐちゃぐちゃに張り裂ける。
その、彼女の可憐な瞳からとめどなく溢れる涙を拭うことすら、今のレティシアにはできなくて。
「――終わりだな」
一歩。お父様が近寄る。
「だめ……」
一歩。お父様が剣を振り上げる。
「や……」
一歩。お父様の剣がレティシアの真上に来る。
「だめ……っ!」
「終わりだ」
――一振り。レティシアの首に線が走る。
「ころさないでっっっ!!!!」
「――――な」
突如サンドラが上げた大声に、お父様が瞠目する。
レティシアもまた、目を見張った。
――レティシアの前、サンドラの綺麗な桃髪がある。手を広げ、レティシアを凶刃から庇ってくれていた。
だが、二人が驚愕したのはそこではない。
――サンドラとレティシアを、紅色の球体が覆っている。喪われていた防御魔法が、再びサンドラ・ミリエスタに発現した。




