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恋をする。
全員というわけではないが、たいていの人間はする。
形は人それぞれで、幼い頃から一緒にいたら恋人になっていたとか、一緒に同じ目標に向かっていたらそのまま人生の伴侶になっていたとか。
棚網圭子の場合も、決して珍しい恋ではなかった。
小学校6年生の夏、かき氷を食べに駄菓子屋に行った時だった。その店は老翁が店先に出ているのどかな雰囲気だった。放課後には、近所の子どもが集まるような、そんないい店だった。
だが、当時の圭子は知らないことだったが、その老翁は金を溜めこんでいるという噂があった。実際は見た目通りに質素なのだが、その噂を真に受けた輩がいた。
その輩というのは、仕事をクビになってこの先どうしたら良いかと悩む中年の男だった。その男は安い刀をどこぞで手に入れると、駄菓子屋に乗り込んだ。
老翁と圭子は怯えるばかりで、男が鼻息を荒くして店の中を物色しているのをただ見ているだけだった。
そこへ、少年が店の中に入ってきた。彼もかき氷を食べに来たのだろう。右手に小銭を握っていた。
竹刀袋と、道着が入っているらしい袋を持っていた。
すわ、警察が来たかと男は刀を振り上げた。
少年は、小学6年生の圭子よりはずっと肝が据わっていた。表情は固いが、体は落ち着いて竹刀を正眼に構えていた。
勝負にならなかった。いくら真剣とはいっても、男は素人であり、少年は懸命に稽古を続けている剣道少年であった。
少年が男をこてんぱんにのした後、警察がやって来て男を連行していった。
「ふぅ、死ぬかと思ったなぁ」
少年は当初の予定通りかき氷を買うと、美味しそうに食べ始めた。
圭子が買ったかき氷はもう溶けていたので、一気に飲み干したところでさっさと帰ればよかった。
でも、圭子はその少年から顔を離せなかった。
圭子はじっと少年を見ていた。
少年はかき氷を食べている間、竹刀をその辺の柱に立てかけ、道着の入った袋は地面に置いていた。
その袋には、「志位健市」と名前が書いてあった。
圭子は、剣道とは無縁の家庭で育った。
両親とも少しばかり過保護なのが玉にキズであるが、それは穏やかであることの裏返しだった。剣道のような激しいスポーツとは無縁なのだ|(両親はあくまでスポーツととらえていた)。
だが、両親からはさっぱり分からないのだが、圭子は中学校に進むと剣道部を選んだ。この時代、剣道部に入ることは、将来は軍人になることを希望している、といってよい。
圭子の両親はひどく狼狽した。バドミントンが好きな娘は、中学でもバドミントン部に入ると思ったのだ。
危険だ、生傷が絶えない、そんなことをしなくても軍人になりたい子はたくさんいる、などと止めようとした。どうして、お前が剣道部に?
圭子は頑として聞かなかった。既に心に決めていたようだった。
圭子のために注文した剣道着が家に届いた時、母親は人知れず泣いていたし、父親も難しい顔をしていた。
当の圭子は、喜んでいた。
これで、私も剣志隊を目指すことができる。
剣道部に入った圭子は、最初の頃は苦労した。
小学校か、あるいはそれよりも前から剣道を学んできた子と比べると、中学校から剣道を始めるというのはいささか遅いという感が否めない。
しかし圭子は真面目だった。練習は欠かさず参加したし、家に帰っても竹刀の素振りを毎日続けた。
才はあったし、努力も実ったらしい。中学1年の終わりの頃、剣道部内での試合で先輩たちをも倒し、1位を取った。
しかし、強くなったとはまだ思えなかった。同じ頃に行われた東京国内の中学生剣道大会においては、準決勝で敗退したからだ。
だからこそ、圭子は努力を重ねた。目的がはっきりしているからだ。
中学2年になって、剣道部内で圭子が負けることがなくなったことで、ついに挑戦する時が来たと圭子は判断した。
剣道部顧問の教師に相談した。
「剣志隊へ入隊希望を出したいのですが、先生の紹介状を頂けないでしょうか」
教師は喜んで紹介状を書いた。
入隊は難しいだろうが、もし圭子が合格するなら自慢の種が生まれる、くらいの考えからだった。
よって、この教師は圭子が剣志隊に入れるとは、この時には全く思っていない。
剣志隊は入隊希望を随時受け入れている。ただし、考査が行われるのは2か月に1回と、希望者が一定数に達した時だけであった。
剣志隊の考査は2種ある。武芸による考査と、筆記試験による考査である。武芸による考査は言うに及ばず、筆記試験の難度も高いと評判だった。これは、ただの乱暴者の加入を防ぐのが理由である。また、いずれ軍人になるということを前提にした場合、これもやはり武芸の腕だけでは足りない。
圭子は、次の考査の日程が決まるまでの時間を剣道の練習と勉強に充てた。
筆記試験に備えるため、圭子は書店に行くと、「剣志隊筆記試験対策問題集」を購入した。資本主義経済の中では、需要があればいつだって漏れなく供給される。
やがて考査の期日が決まり、圭子の家に受験票が届いた。圭子はさらに剣の特訓と筆記試験の勉強に熱を入れ続けて、準備を進めた。少しばかり両親の顔が暗くなっているのには気づいていたが、目的のためには立ち止まるわけにはいかなかった。
剣志隊に入隊したい、という強い目的があった。
その目的が恋であるということは誰にも言えなかったけど。
雲居眞咲は、月明りしかないあぜ道を口笛を吹きながら歩いている。
周りは民家も商家も何もなかった。
雲居が行く先に、少年が立っているのが見えた。
周りをきょろきょろとせわしく見ているのは、夜盗に出くわさないか怖いのだろう。
これから剣志隊の入隊考査を受けるというのに肝っ玉が小さいな、と雲居は思った。
やがて顔が見えるところまで近づくと、少年の方から雲居の方へ走って来た。
「待たせてごめんね。飯塚君。ちょっと時間がかかったものだから」
そう言うと飯塚はぶんぶん首を振った。
「大丈夫です。それで、ええと……」
雲居はにこやかな笑顔を絶やさないまま、袂から20ページほどの冊子を取り出した。
「これが筆記試験の内容だ」
「あ、ありがとうございます……!」
飯塚は用意していた学生バッグにそれを押し込んだ。
「こんなものをくれるっていうのに、本当にお金を払わなくていいんでしょうか……」
「もちろんだよ。どうしても剣志隊に入りたいっていう君のために用意したんだ。ただ、君の願いが叶えばいいんだよ」
飯塚はまだ緊張していたが、嬉しそうに微笑んだ。
「たくさん勉強します。剣道も、毎日稽古してます」
「うんうん。頑張らなきゃ入隊できないからね。本気で頑張るんだよ」
「はいっ」
「それで、ちょっとお願いがあるんだけど」
ちょっとばかり飯塚がぎくりとした。お金の代わりに何を要求されるんだろう、という顔だった。
「入隊できたら、剣志隊の内部の様子を教えて欲しいんだ」
「え、どうしてですか?」
「実は俺、警察なんだ。剣志隊が何をしているかの捜査中でね。どうしても内部の人でないと分からない事があるんだよ」
「内務調査ってやつですか?」
「そうそう。そんな感じ」
「分かりました。そのくらいなら、はい、大丈夫です」
「うん。頼んだよ。あともう一つ」
雲居は微笑んだままだった。ただ、瞳の中の温度が、冷えた。
「入隊考査にもし君が落ちたら、どうなるか、分かるかな」
「えっ……?」
「事前に試験内容を知るのは重罪だ。受かるなら君は俺の協力者だけど、もし落ちたら、君はただの重罪人だ。そうしたら警察である俺がどうするかは、分かるよね」
飯塚の顔面が蒼白になった。
それを見るのが目的だったのだろう。雲居はにっこり笑って背中を向けた。
「頑張ってね。死ぬ気で」
ゆっくりと雲居の背中が離れていく。
すぐに家に帰ればいいのに、飯塚の足はなかなか動き出してくれなかった。




