7-10
菫が父と再会できた日の夜。
菫の父、伊田光一がそろそろ寝ようかと思った時に、誰かが自宅の戸を静かに叩いているのに気づいた。
トントン、トントン、トン。
その符号で、誰が訪ねてきたのかは分かった。
戸を開けると、思った通り雲居眞咲だった。
「夜分にすみませんね。でも、大事な話なんで許してくれますかね」
「大丈夫です、岩瀬さん」
雲居は、伊田に対して岩瀬と名乗っていた。もう雲居はそんなことを覚えていないが。
「外で話す方が良くないですか?」
伊田は娘がいる部屋の方を見た後に、「ええ、そうですね」
2人で家を出て10メートルほど離れたところで、雲居が口を開いた。
「この度はすみません。彼らには奥さんと娘さんの殺害をお願いしたんですけど、あいつら、娘を誘拐して身代金を取ろうなどと考えを変えてしまったみたいで」
「いえ……」
「まあ、彼らは身代金を受け取ったら娘さんを帰すことなく殺すつもりだったんでしょうが、まさか剣志隊が出て来て失敗するとはね。簡単な仕事だと思ってたから意外でした」
「はあ……」
雲居は明るく喋るが、伊田は表情が暗い。雲居の顔も見ていない。
「そこで、改めて娘さんを殺すための算段をとろうと思います。また出張で家を空けるタイミングを教えてくれますか? その際は、娘さんは親戚かどこかに預けますよね。その時に、やります」
「え、えっと……」
「料金のことはご心配なく。追加料金はいただきませんよ。俺の手違いですから」
「あ、あの……!」
ここでやっと、伊田は雲居の顔を見た。
「あの、この話はここで取りやめで大丈夫です」
雲居は驚いた。口を開けて、信じられないという顔をした。
「いいんですか? 愛人と結婚したいから、奥さんと娘さんが邪魔だったんでしょ?」
「いえ、その……」
「まだ娘さんが残ってるんじゃ、愛人と結婚できないんじゃないですか?」
雲居の問いに、伊田はあまりに困っていた。
しかし、黙っていても話が終わらない。
仕方ないという気持ちで答えた。
「自分から言いだして申し訳ないんですが、後悔してるんです。娘がまだ生きていて良かったとも思っています」
「愛人との結婚は、もういいんですか?」
小さすぎる声で、伊田がやっとの思いで、「もういいんです。ありがとうございました」
雲居はどうしようかという顔をしていたが、やがて納得した。
「分かりました。じゃあ、この話はここで終わりということで」
「すみません……」
「いいんですよ」
(ただ、意外でした。その程度の気持ちだったとはね。あんなに必死そうだったのに)
「一つだけ覚えておいてください。俺はここであなたを斬ったりしない」
斬る、という言葉で伊田の視線が反射的に雲居の帯びている刀に落ちる。
「なぜかというと、警察の捜査で、彼らに殺しを依頼した人物と、あなたを殺した人物が繋がってしまうかもしれないからです。俺自身の安全のために、斬りません」
伊田は何も言えない。
「ただ、あなたが俺のことを喋るとなると、話が変わってくる。生きている証人からは証拠が次々と出てきますが、死んだ証人からは何も出て来ない。だから、その時はあなたを殺します。迅速に」
まだ伊田は何も言えない。本物の犯罪者を相手に、何を言えるはずもない。
「もちろん、あなたの娘さんも殺します。これは、まあ、ただの憂さ晴らしです」
伊田は雲居から視線を外して、俯いていた。もう雲居がここからいなくならない限り、そのままのようだった。
「ちちうえー」
明るい声で伊田がはっとした。
菫が家の戸を出て、伊田たちを見ている。
「ちちうえ、なにしてるのー?」
伊田は雲居に会釈をして、家に戻って行った。
「あのひと、だれー?」
「あの人は、お父さんの仕事の人だよ」
「しごとかー」
そうして、2人は家の中に戻って行った。
雲居はそれに背を向けて歩き始めている。
歩きながら思った。
(あの娘さん、思ったよりも幸せになってしまうかもな)
それに反発心などなかった。
誰だって幸せになって欲しい。
今回、伊田からの殺しを請け負ったのも、仕事として金を受け取ってはいたが、動機はそれじゃない。
愛人がこの世で一番好きなのに結婚できない、という話をとうとうと語ったからだ。
幸せになって欲しい。
それが、雲居が心の底から思う全ての動機だった。




