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珠子が柚希、房江、大津の4人で築地本願寺を出た時は、昼七つからけっこうな時間が経っている。もうしばらくしたら日が暮れ始めるだろう。
つまり、急がなくてはならない。提灯などは用意していないので、本拠地を見つける前に日暮れとなれば戦闘ができず、撤退することになる。
目的の新橋は、もうほとんど人が住んでいない。珠子が誘拐犯と遭遇した蔵前と同じだ。
数百年前には人が住んだり働いていたりしたであろう廃ビルが並んでいる。
珠子は目を凝らして見渡したが、どこに誘拐犯が潜んでいるのか見当もつかなかった。
警官資料には、おおよその場所しか書かれていないので、廃ビル1つ1つに入って確認するしか無いが……。
「大きい建物から探すべきね。隠れて潜むんなら、狭いものよりは広いものを選ぶでしょう。狭い建物では、もし警官が乗り込んできた時に逃げづらいし」
房江の冷静な判断に珠子が感心している。
「手分けして探しますか?」
大津の質問に柚希が首を振る。
「4人というだけで、数で負けてる。これ以上数を割くのは良くない」
4人一塊で廃ビルの群れの中をゆっくりと歩く。
周りへの警戒も解かない。
珠子は、風景画を描く時みたいに、どんなに細かいものも見逃さないように、目から入ってくる風景を丸ごと頭の中に入れていきながら歩く。
ついに日が傾いてきた。
一行の先頭を歩く柚希に焦りが見え始めた。
撤退の二文字が珠子の脳裏にも浮かび始めた時、とある4階建てのビルの窓から、キラリとした光が見えた。
(あれは……)
割れた窓ガラスを通過した太陽光が何かを反射したようである。しかし、誰もいない部屋で、何が太陽光を反射するか? 姿見か何かを窓際に置いたというのか?
珠子は不思議に思い、首をかしげたまま足を止めた。
柚希と大津がその視線に気づく。同じように足を止めて、そのビルの1階に目をやる。
男が地面に座り込んでキセルをくわえ、煙をくゆらせていた。浮浪者が時間を潰しているようにも見えたが、違う。その傍らに、日本刀の鞘が置いてある。男は紺色の着流し姿だった。
刀を持つ浮浪者も珍しくはない。だが、本当に、ただここで時間を潰しているだけの男なのか。確かめる必要がある。
珠子が何気ない風を装ってビルに近づく。残り3人が続く。
駆け寄ってくる人影。
最初に気づいたのは大津。次に柚希と珠子が同時に気づく。
房江が、ビルに向かって走り出す。
既に人影は抜刀していた。長髪の男で、スーツ姿。きぇい、と大声をあげると、真っ向から切り下げてきた。
大津が刀でその一撃を受け止めると、腹部へ蹴りを食らわせた。
「行ってください、副隊長」
大津が言い終わるより前に、既に柚希は走り出していた。
珠子も急いで柚希に追いすがる。
大津を一人置いていくのに不安はあったが、託すしかない。
ビルの入り口に見張りを立て、さらに、遠目からそれを二重に見張るという策だったのだろう、と珠子は思った。
最初に走り出していた房江は、既にキセルの男と切り結んでいた。
連続する剣撃の間のほんの一瞬、房江が柚希と珠子に視線を送った。その目はこの状況で驚くほど落ち着いていて、優しかった。「がんばって」と言われた気がした。
柚希と珠子はビルの入り口に立つと、揃って鯉口を切った。
中に、人影はない。
珠子は後ろを振り返った。大津が長髪の男と、房江がキセルの男と斬り合っている。できることなら加勢したい。今日、自分が生きても、明日、誰かの葬式に出るのは嫌だ。
「前を見ろ、珠子」
柚希が名を呼ぶ。普段、柚希は隊士たちを名ではなく苗字で呼ぶので、珠子はハッとした。
2人に任せろ、ということだろう。
中は、雑居ビルだった。1階は郵便受けと今は動いていないエレベーターがあるだけだった。階段が伸びている。1フロアにつき、部屋は1つだけだと見当がつく。
柚希が前、珠子がその後ろにつく。
2階に上がった。
数百年前は何か店を構えていたらしいが、看板は既になく、ドアすら壊れていた。
中にいる浮浪者のように見える男たちと目が合った。計2人。
「なんだ、てめェら」
腰に帯びていた鞘に手をかける。もちろん、彼らは何か話そうなどとは一切思わず、こちらを斬るつもりだ。
「先に行け。急げ」
柚希は刀を抜きながら、そう珠子に声をかけた。青眼を斜めに構えて部屋の中へ進む。
2対1。珠子の心に不安がよぎる。
「もし、この階よりも上にいたら、私たちは前後で挟撃される。行くんだ」
柚希が踏み込んで一撃を放つ。それを見届けることはしなかった。珠子は階段を2段飛ばしに駆け上がった。
階下から、金属と金属が打ちあう音がする。お願い副隊長、死なないで。
3階は無人。すぐさま上へ。
最上階の4階。
寝泊まりはここでしているらしい。布団が乱雑に敷かれている。
その1つで寝ていたのであろう。男が起き上がってこちらを振り返った。
あの無宿人風、珠子が左目を切り裂いた男だった。
服は着替えたらしい。革のジャンパーに、黒のパンツという出で立ちだった。
その男は、壁に立てかけてあった鞘から刀を抜いていた。
下で争闘の音がするので向かうところだったようだ。
珠子は刀を抜くと同時に、鞘を思い切り男に投げつけた。
無宿人風の男は、やはり素人ではなかった。半ば不意打ちではあったが、男は慌てることなく、素手の左手で投げつけられた鞘を払った。
珠子が部屋の中に入る。
「またてめぇかよ。しつこいなぁぁぁぁ」
油断なく、下段に刀を構える。珠子は常に後の先を狙う。
「俺たちは、今日の列車で大阪に行く予定だったんだぜ。てめぇのせいで誘拐が失敗しちまったからよぉ。なのに、てめぇに斬られた目を医者に見せてたら、乗る時間を過ぎちまったんだよ。切符代、お前が出せよなぁぁぁぁ」
唾を飛ばしながら怒鳴り散らしている。
「降伏してくれますか? それなら、斬ったりしませんが」
ここまで怒っていただけだった男が、心底おかしそうに笑みを浮かべた。
「お前、蚊に降伏すれば血を吸いませんて言われたら、降伏すんのか? 降伏しようがしまいが、蚊は血を吸うだろうが。それに、俺は蚊を叩き潰せるんだぜ。なんで降伏なんかすると思うんだよぉぉ!」
ぎりぎりと男が柄を握る音がする。
できることなら、法の裁きを受けて欲しかった。今までに犯した罪を自分の口から喋って、悪かったと反省を述べて欲しかった。
しかし、そんなことは望むべくもなかったか。
今でいう軍人にあたるのが、遥か昔の武士だった。
その武士は、戦う前に名乗りを上げた。
それが己の誇りと武門の作法だからだ。
だから、軍人一家に生まれ育ち、将来は軍人になるべく武芸の修練を積み続けたその少女は静かに名乗った。
「剣志隊隊士、長谷部珠子。参る」




