7-2
剣道の稽古などしたくないと思っていた珠子だったが、始めてしまえば案外夢中になっていたらしい。
柚希に耳を掴まれた時は昼過ぎだったが、元の服に着替えて道場を出ると夕日も暮れかけという時刻だった。しばらくすれば、夜が来るだろう。
道場の近くにある井戸で、柚希と珠子は水を飲んだ。試合の後は、水がうまい。
「大広間で絵を描くというのは、遊んでる風に見えるから、他の隊士への悪影響がある。宿舎の部屋の中で描くのじゃ駄目なのか?」
という入りからして、説教らしかった。
「風景を描く時は風景を見ながらでないと駄目なんですよね、私」
「しかしなぁ」
「大広間で描いてるのは平日だけですよ! それに、夕方までには切り上げてますし!」
「それは分かってるが……。新人隊士が入ってきた時にも、お前が絵を描いてたらまずいぞ」
「ああ、3人入ってくるんですよね。1人、すっごい腕がいいとか」
「羽場紗枝だ。1年もしたら、お前と打ち合ってもいい線いくと思う」
1年後の自分には思うところがある。だが、そんなことは露とも表には出さなかった。
「入隊日が分かったら教えてください。その日からはしばらくは描く場所を変えますので」
「今日からにしてくれよ、ばか」
えへへ、と愛想笑いを浮かべて、珠子は退散することにした。
が、その背中に柚希が固い言葉を投げた。
「長谷部。剣道では、相討ちなどよせ」
それは、珠子の家族からも時々言われていることだった。珠子にしてみれば、たまの負けを喫した時にたいてい言われる、お馴染みの言葉だった。
負ける、という局面になると「せめて一太刀」という気が起こってしまう。
「剣道では、それでもいいだろう。同時に打突が有効なら、無効になる。やり直しができるだろう。しかし、真剣ではそうはならない。死体が2つになるだけだ」
「それは分かっているんですが、つい……」
「勝ち気があるのは良いことだ。しかし、命を落とせば、もう勝てない。竹刀の時からそれをやっていると、真剣の時にも同じことをするぞ。だから、やめておけ」
「では、さっきの立ち会いなら、副隊長ならどうしていましたか?」
柚希は少し考えた。
あの時、避けようと珠子が後ろに飛び退いたところで、柚希は珠子の胴を打てた。仮に胴に届かなかったとしても、珠子の腕は斬れるだろう。珠子からすれば、あの時点で万策尽きたと見えている。
しかし、柚希は明確に答えた。
「相手の太刀を刀で受けろ。両手で柄を握っていては止められないだろうから、こう左手を刀に添えて止めるんだ」
「剣道じゃ、自分の竹刀の刃の部分に触れるのは反則ですよ」
「そうだな」
柚希はそこを突かれて、軽く笑った。
「だから、剣道では、あの時点でお前の負けだった。剣道だから、相討ちにしたお前の判断は正しい。私は今、真剣の斬り合いでの話をした。普段の稽古は、あのような状況にならないように振る舞った方が良い」
言い終えるより前に、柚希は道場へ戻ろうとしていた。もう少し稽古を続けるらしい。
「ああ、そうそう。もう一つ、お前に言っておくことがある」
説教の言葉なら、もう腹一杯だった。できることなら、耳を塞いでどこかへ行ってしまいたかった。
「お前、私が胴撃ちをする前に、窓からの夕日に見とれただろう。この時刻なら、お前は夕日を見ることでいくらか気持ちをそぞろにすることは予想できた。あそこで私の胴撃ちを読めなかったのが、一番の敗因だ」
うーむ、と珠子は腕を組んで、道場へと戻っていく柚希を見送った。
夕日に見とれるな、ということだろうか。珠子にとっては難題だ。
ただ、もし真剣で打ちあっている時に夕日に目を奪われれば、絵を描けなくなる体になるのは間違いなさそうだ。
珠子は沈みかけている日が稜線の向こうに消えて見えなくなるまで外で待っていた。
夜には、宿舎で賄い係として働いてくれている和美が隊士たちの夕食を用意してくれていた。和美は、隊士たちから料理が絶品だと評判だった。もちろん珠子も好きだった。
夕食後、隊士たちが自主的に巡察に出たり、道場に向かっていくのを尻目に、珠子は大部屋で築地本願寺の絵の続きを描いていた。
完成としても良い出来栄えである。この出来なら、大学の美術科の教授だって、そこまで悪い評価は下さないだろう。
しかし、珠子は不満だった。
この絵は努力をすることで、まだ先に行ける気がする。
努力で辿りつける、限界。
珠子が、剣に対して熱心になれない理由が、それだった。
自分自身を評価するに、その段階に15歳の時には辿り着いていた。しかし、それは誰にも負けないくらいに剣を極めたという意味ではない。
もう自分では、これ以上は上達できない、と見限ったのだった。
絵は、まだ見限っていない。どうにかすれば、まだ先へ行けるという展望を持っている。
そのために、自分の力と熱意と時間の全てを注ぎ込みたかった。
今は、親の言いつけで剣志隊の隊士として働いている。
自由でないことで、珠子の心がチクチクと痛んだ。
珠子はその日、自宅へは帰らなかった。本営に泊まると、家族は「熱心だ」と褒めてくれる。絵に時間をかけたいと思っている珠子からすると、好都合だった。
宿舎の2階の隅の部屋が、珠子が決まって寝る部屋だった。私物もいくらか置かせてもらっている。なにより、隊士たちが宿舎に泊まる時は最上階から埋まっていくので、2階には誰も来ないというのが良かった。
寝間着にしている襦袢1枚に着替えると、珠子は布団を敷いて寝転がった。
疲れがどっと全身にのしかかってきて、しかし案外心地よかった。
明日、言おう。
隊長に。
そう心に決めて、珠子は目を閉じた。
珠子は自分のことを、運が悪いやつ、と思うことが多い。
翌日、珠子は目を覚ますと、まずは身支度を整えた。寝癖で乱れた髪のまま隊長に会うというのは、なんとも具合が悪い。特に、重要な話をしようという時は、普段以上に身だしなみに気を使わなければ、という気になる。その程度には真面目だった。
普段、絵を描いている時も含めて洋服を着る珠子であるが、この日は深い藍色の地に蝶が舞う模様の小紋を選んだ。自分の姿を見下ろしてみると、びっくりするほどきちんとした身なりだった。
宿舎と本館は渡り廊下で繋がっている。
今は、昼五つ。
渡り廊下から本館に入ったところで、心臓の鼓動が早くなってきた。緊張してきている。こんなに緊張するのは、父親に「大学で美術を学びたい」と伝えた時以来だった。あの時は死ぬほど叱られた。
さて、今回はどうだろうか。
本館にある隊長室の大仰な鉄の戸の前に立つと、緊張のし過ぎで息苦しくなってきた。普段なら、「今日はやめよう」と帰るところだったかもしれない。
だが、この日の珠子としては、「早く終わらせよう」という気持ちだった。存外、思い切りが良い。
季節はもう春を過ぎているのに、鉄の戸に触れるとひんやりと冷たかった。その戸を叩く。
正確には叩こうとしたところで、珠子は手を止めた。
階下から、誰かが大急ぎでこちらに向かっているようで、どたばたと慌ただしい足音が聞こえる。どうやら、誰かが緊急で隊長に用事があるらしい。
現れたのは本営で下働きをしている浅野だった。普段は落ち着き払っていて何事にも動じない超然とした雰囲気なのだが、今日はなんだか息を切らして慌てていた。
「長谷部様」
浅野はどんな隊士にも様付けで呼ぶ。
「浅野さんも隊長に何か用事ですか?」
「はい」と返事は短い。
隊長に用事があるとなると、何かの機密かもしれない。自分がそれを知るのは不都合だと思われた。
「じゃあ、私はまた後でにするね」
「いえ、長谷部様も一緒の方がよろしいかと」
「えっ……?」
なんで、と疑問をぶつける前に、浅野は鉄の戸をどんどんと叩いて中に入ってしまった。
一緒に入るしかなかった。




