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姉、斬る、妹―2805年、東京国の凶賊始末記―  作者: 羽法 伊助
5話:【鯉志川瞳】軽やかに、茫々と
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5-6

 瞳の報告を受けた初芽は、東京国から逃げる綾井を捕らえるべく、警官隊と協力して捜索網を敷いたが、おそらく捕まらないだろうと判断していた。

 瞳が斬り斃した男も検分されたものの、名前も分からなかった。手持ちの財布に入っていたのは、分厚い札束だけだった。

 2日ほど経ったが、綾井と国塚は捜査網に触れなかった。

 初芽からは、警戒網を維持できるのは今晩までだ、と瞳は聞いた。


 その日の夜、瞳は家で愛用のシャークの刃を研いでいた。

 剣士は自分で研ぐことはせず、専門家である砥師(とぎし)に出すというのが普通なのだが、瞳は刀を研ぐのが好きだった。とはいっても、やはり専門家ほどに上手く研ぐことはできない。あくまで、寝刃を合わせる程度のことしかできない。単に、瞳は自分の使う道具の手入れをするのが好きなのだった。

 研ぎを終えて、シャークを鞘に納める。

 兄の純也は、いつものように机に向かって勉強をしている。だけど、どことなく上の空なのは瞳にも分かった。

 こんな夜分に刀を研いでいるその理由に、不穏なことしか思い浮かばないのだろう。

 まさしく、瞳はその不穏なことをしようとしている。

「ねえ、お兄ちゃん」

 声をかけると、一呼吸置いてから、純也は顔を向けた。

「どうした」

「もしも、私が死んだら、お父さんとお母さんをよろしくね」

 その言葉に、純也は顔をしかめた。

「そんなことを言ってはダメだ。絶対に、死んではいけない」

 次に顔をしかめるのは瞳の番だった。

「私は、剣志隊の隊士だよ。この間みたいに斬り合いになれば、死ぬかもしれない」

「瞳は忘れている。お父さんとお母さんを助けられるのは、僕たちしかいないんだ。瞳が死ねば、僕一人だけになる。それは、絶対に駄目だ」

「でも……」

「もし死ねば、瞳が剣志隊に入隊する時に、反対しておけばよかったと、僕も、お父さんもお母さんも、後悔することになるよ」

 瞳は目を丸くして驚いていた。そんな風なことを考えたことは無かった。

 自分一人で食い扶持を稼ぎ、両親を助けられれば、それで良いと思っていた。

 そのままでいれば、自分の存在が両親や兄の負荷になると考えていたからだった。

 だから、自分が剣志隊の入隊考査に合格した時、両親がそれに反対するなど、少しも考えなかった。止めておけばよかったと後悔するだなんて、微塵も思いつかなかった。

 剣志隊で働くために家を出た後、兄は両親とそんな話をしたのかもしれなかった。

「もし瞳がこれから死ぬかもしれないだなんて思っているのなら、僕も一緒に行く。瞳を死なせたりしない。僕も死ぬわけにはいかないから、2人で生きて帰れるようにする」

 今から人を斬りに行こうというのに、純也はついてくると言う。

 そこには、決意があった。

 瞳が持ってはいない種類の決意だった。

 だが、その決意は瞳にも伝わった。

 瞳は立ち上がり、出かける支度を整えた。

「シャーク」72.72cmモデル(二尺四寸)を腰に帯び、移動に必要なだけの金を財布に入れ、靴をはいた。

 ドアを開ける前に、瞳は純也の方に振り返った。

「絶対に生きて帰ってくるよ。だから、お兄ちゃんは家で待ってて」

「ああ、分かった。気をつけて行ってくるんだよ」

「うん」


 今夜は月明りが弱かった。薄い雲が空にかかっていた。

 今日も蒸し暑い。

 瞳は北へ向かった。

 目指すのは新荒川大橋。

 その南の岸に、警官隊が作った検問の1つがあった。

 木で作った簡素な柵を守るように、警官が4人配置されていた。

 普段は警官が待機しているようなことはなく、どんな人でも素通りできる。

 ただ、今みたいな捜査網が敷かれている時は、こうして容疑者が通過できないように見張っているのだ。

 ここより北に向かいたいなら、必ずこの検問所を通過する必要がある。

 「お疲れ様です」と声をかけると、警官たちは瞳が剣志隊隊士であることを察してくれた。こんな時間に日本刀を帯びている女の子は、それくらいしかいない。

「今日、ここを引き払うと聞きました」

「うん。どうやら、犯人は逃げてしまったらしいね。ちょうど今、本署に戻ろうとしたところだよ」

「私、ちょっと心当たりがあって、ここを見張ろうと思います。大丈夫ですか?」

 警官は少し驚いていた。

「たった一人でかい?」

「私の思い違いかもしれないので、巡察ついでに来たんです」

「ついでって……君、築地本願寺から来たんだろう? ものすごい遠いが……」

「お願いします」

 じゃあ一緒に残るよという警官の申し出を丁寧に断った。

 警官がここから去るという状況が、瞳には必要だった。

 親切な警官たちを見送り、一人だけになった瞳は、警官が使っていた簡素な木の椅子に座った。


 それから1時間も経たなかっただろう。

 かすかに足音がして、瞳は目だけをゆっくりその方向に向けた。

 男が1人、歩いて来るのが見えた。

 この道のどこかでじっと息を潜め、検問にいる警官たちが引き上げるのをずっと待っていた男。

 残り10メートルほどまで近づいて来たところで、瞳は立ち上がった。

 夜の闇に紛れてまるで見えなかったようで、いきなり現れた人の影に、その男は体が飛び上がるほど驚いていた。

 男は動かない。ただ、刀の柄を握ったのは分かった。

 瞳は叫んだ。

「国塚!」

 こんな男に対して、闇討ち騙し討ちはお断りだった。やるなら真っ向勝負。

「国塚」

 今度は、瞳は静かに呼んだ。

 5メートルまで近づいて、ようやく月明りでも顔が見えた。

 逃げるために髪の毛と眉を剃り落としている。浅ましい顔だ、と瞳は思った。

「な、なんで……俺がここにいると分かったんだ……」

「剣志隊の名簿で、あんたの郷里が日光だって分かった。だから、逃げるなら北だろうって」

 国塚が盗み見た名簿で、純也が人質になりかけた。今は逆に、名簿のおかげで国塚の逃亡先が読めた。なんて皮肉、と瞳は思った。

「なんで今日ここに来るって……」

「検問を無理矢理突破するのは難しい。検問も無いような荒地を踏破するような根性はあんたには無いと踏んだ。逃げるなら、捜査網が解除された後だろうって」

 瞳はシャークを抜いた。月明かりが刃を青く照らし返す。

 慌てて国塚も刀を抜いた。瞳に抜かされたようなものだ。

「隊士の名簿が1冊、失くなっていた。房江さんは、用意しておく名簿は常に3冊だけって決めてたんだ。だから、数が減ったらすぐ分かる。無くなったのは、あんたをラーメン屋で見かけた日の晩だって教えてくれた」

 国塚は小さなバッグを肩から提げている。

「それを売る気でしょう? 綾井に捨てられたあんただから、別の犯罪者に売り込むだろうと思ってね」

「こ、これを買ってくれるって人がいるんだ! 警察の動きが激しいからって、受け渡しは、鳩ヶ谷宿でって……!」

「それは、どんな人?」

「い、言えない……っ。口外したら、俺は……」

 瞳は刀を下段に構えた。

 落ち着いている。

 目だけは、国塚への殺気を隠さない。

「投降するなら、今この場で斬ることはしない」

 国塚は刀を構えたまま首を左右に振った。

「どうせ、命があっても、捕まったら、俺は、俺は……!」

 まあ、そうだね。断首かもね。

「その名簿には、当然、今私が住んでる家の住所も書いてあるし、私の実家のことも書いてある。見逃すわけにはいかない」

「お、俺を殺すつもりか」

「あんたが私を殺す気なら」

 瞳は力むことなく、あくまで自然体に構えた。先日、あのスキンヘッドの男と斬り合った時のような焦りはない。ただ静かに剣先を揺らして、下段に構えている。

 国塚は、斬り込むか迷っている。瞳にどう斬りかかればいいか分かっていない。

 かといって、逃げることもできない。背を向けて走ったところで、逃げ切れる気がしない。

 なら、斬り込むしかない。活路を見出すしかない。

 なにせ、男女の性差がある。押し込むんだ。力で押し切るんだ。

 斬るんだ。

 国塚は刀を握る手に力を込め、足を踏み込んだ。距離はたったの数メートルしかない。踏み込めば、刀は届く。押し切ってやる、と国塚は気合をみなぎらせた。

 勝てる、と思った。

 直後、「たん」という音を聞いた。冷たい床にゴムボールが跳ねるような、金属バットで硬球を打ったような、軽やかな音だった。

 国塚の意識が、突然消えた。

 おそらく、自分が斬られたことにも気づかなかったに違いない。

 裏切り者としては、ごく慎ましい最期だった。


 瞳は国塚の遺体をそのままにし、名簿だけを取り戻して検問へと戻った。

 この後、瞳は初芽に1週間の休暇が欲しいとお願いした。

 兄と一緒に、郷里へ戻って親の顔が見たい、と話をした。

 初芽は快諾した。

 郷里へ戻ったら、父や母と話をしたいことがたくさんあった。

 それは、瞳の、剣士として必要な会話になるはずだった。

 死ぬわけにはいかない。

 それを確認するためだった。

 その後、純也は東京国の防衛大学に入学した。ゆくゆくは軍人になるつもりだった。瞳からしたら意外ではあったが、しかしよく考えると、意外でもないと思い当たった。

 瞳や純也が、まだ一人では自分の食事を手に入れることすらできない頃、自分たちを守り、育ててくれたのが父と母だった。その経験が、強く、誰かを守らなくてはという気持ちを育んだのだろう。

 郷里から帰ってきた瞳が道場で稽古に励んでいると、隊士たちは、以前より「たん」が繰り出されることが多くなった、と口々に言った。

 何か変わったことがあったのか、という質問に、瞳は柔らかい笑みを浮かべて、しかし何も言わなかった。

 両親と話をした事で、心境に変化があったのだろう。

 瞳は、それを誰かに話すつもりはなかった。

 今はそれでいい、と思っている。

5話までお読みいただき、ありがとうございます。

続きも楽しんでいただけましたら、ブックマークしていただけると嬉しいです。

次は復讐のために剣を執る隊士のお話です。

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