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細君が「これ着て寝てね。せっかくの制服が皴だらけになっちゃうから」と半ば強引に貸してくれたパジャマを着た瞳は、ソファで横になったまま兄の背中を見ていた。
勉強の邪魔はしたくないな、と思ったのに、話しかけてきたのは純也だった。
「次に実家に戻るのは来週にしようと思うけど、瞳は行ける?」
背中を向けたまま、ペンを動かす手は止めないままそう質問した。
「仕事があるから、ちょっと難しいかな。隊長とかに、理由をつけてサボる奴って思われたくないんだ」
そうか、と純也はひとりごちた。
行けなくて申し訳ない気持ちもあるが、兄にお願いしなくてはいけないことがある。
「仕送りのお金はちゃんとあるよ。持っていってくれる?」
「お父さんもお母さんも、そんなに無理してお金送ってくれなくて大丈夫って言ってるよ」
「何言ってんの。借金があるんだから、ちゃんと少しずつ返していかないと」
そのために、瞳は剣志隊に入隊したのだ。両親と、これから大学に入る純也のためにお金を稼ぐのが目的なのだ。
「瞳には世話になりっぱなしだ。ごめんね」
そう謝ってくるのはもう100回は超えているので、瞳としてはもう聞き飽きていた。
「そんなこと気にしないで。私は、ただ幸運で、お兄ちゃんがお金のことで我慢してくれただけ。そうじゃなかったら、お兄ちゃんと同じ立場だったんだよ」
純也の手の動きがぴたりと止まった。
「瞳は小さい時から頑張っていたよ。幸運なんかじゃない」
そこで純也は言葉を切ってしばらく黙っていた。
なんて言うべきか、瞳は思いつかなかった。
だから、考えているうちに眠気がやって来て、そのまま眠りに落ちてしまった。
瞳は、自分が剣志隊に入隊したいと思った8歳の頃を夢に見た。
両親が、善人であるが故に借金を背負わされた8歳の時から、瞳はゴミ捨て場に落ちていた竹刀を拾ってきて素振りを始め、学校では級友にいらなくなった問題集は無いかと盛んに聞きまわっては、もらった問題集を繰り返し解いた。
剣志隊に入隊できれば、けっこうなお金が手に入る。それを目指して瞳は努力を続けた。
1度目の入隊考査は10歳の時で、その時には選外となった。その時の剣志隊隊長である八幡和也に、考査後に「筋はいいから頑張って」と声をかけられたのは励みになった。
本気だと分かった両親は、僅かなお金を切り詰め、瞳を剣道場に通わせて、問題集を買うお金を作ってくれた。
本当なら、兄だって問題集や文房具を買って欲しいと思っているはずだと、瞳の心にはしこりが残った。
その次の年に2度目の考査を受け、合格した。
以来、瞳は実家への仕送りを欠かしたことはない。お金を入れた封筒には、「借金の支払いと、お兄ちゃんの学費に使ってください」と毎回手紙を添えている。
今もそんな夢を見るのは、自分の魂から「あれだけ頑張れたんだから、これからも頑張れる」と言われている気がした。
翌朝、瞳がソファの上で目を覚ました時も、兄は早起きして勉強をしているのだと思った。
そうして、瞳が起きたのを見届けて、朝食もしっかり食べるのも見届け、そして剣志隊本営へ向かうのを見届けるのだとばかり思っていた。
いない。寝る前は、テーブルに向って勉強をしていたはずの純也が、いなかった。
「あれ」
純也がアルバイトに出かける時間は知っている。それは、瞳が学校か、あるいは剣志隊の本営に行った後のはずだった。純也が先に家を出るということはない。
「なぜ」
言葉に出してみたけれど、理由までは思い浮かばなかった。
しかし、兄妹であるだけあって、瞳には全く見当がつかないということでもなかった。
瞳は、昨日、家に帰ってきた時の自分の振る舞いを思い出した。
それは、純也を心配させるほどに、焦っていたように見えてはいなかったか?
「まさか……」
とは思うが、純也が一足先に家を出る目的は、一つしか思いつかなかった。
綾井友朗を探しに行ったのでは?
瞳の考えは、半分当たっていて、半分外れていた。
確かに純也は瞳のために行動を起こしていた。
純也がアルバイトをしている本屋は、銀座の商店街にある。開店は10時なので、出勤はその30分前で問題ないのだが、純也は8時には商店街に現れていた。
本屋に向かわず、今朝の仕入れを終えた飲食店を聞き回っていた。
「昨日の夜、何か怪しい人は見かけませんでしたか? そういった話があったというだけでも構わないんですけど……」
純也は、この商店街の本屋でアルバイトを始めて、既に4年目になる。夕食の買い物もこの商店街で済ませるし、服や雑貨も全てこの商店街の店で購入していた。すっかり、商店街の一員である。
この苦学青年に対し、商店街の人々は優しかった。
「昨日、ラーメン屋で暴れたって奴か? オレは見てねえけど、親父がなんか怪しい奴を見かけたって言ってたな。ちょっと待ってろ、聞いてきてやる」
仕入れた魚を店先に並べる手を止めて、魚屋の主人が店の中に引っ込んだ。
純也は、にこにことしたまま、それを待った。
しばらくして、でかい魚でも釣り上げたような顔で親父が戻って来た。
「見たってよ。この商店街の、一番いい宿に入って行ったって」
「男が2人ですか?」
「ああ、2人だよ」
実は、純也は瞳が席を外したタイミングで、吉久の細君から瞳がした電話の内容を聞いている。それくらいの事をしてしまうぐらいには、純也は妹のことが心配だった。
電話の会話で出た名前は、綾井と国塚という2人の名前のはずだ。
おそらく、いい宿に泊まったというのは、その2人ではないだろうか。
すぐに吉久の家に戻り瞳に伝えたかったが、時刻はもうすぐ昼四つ。真面目なこの男に、アルバイトを無断欠勤するという考え方は無かった。
その2人の男というのが、予想外に行動が早いということにも、考えは及ばなかった。不幸にも、純也には綾井がどのような男なのか、まるで知識が無かった。綾井という男のことを知っていれば、無断欠勤していたであろう。
本屋の主人に遅れたことを謝り、素早く開店の準備をした。
午前中は何も起きなかった。
純也は昼九つの鐘が鳴るのを待っていた。
昼休憩に入ったら、剣志隊の本営まで走って行くつもりだった。
鳴った。
純也の代わりに店先に立つべく現れた主人を見かけるなり、純也はちょっと用事があると伝えて、店を出た。
出たところまでは良かったが、すぐさま足を止めることになった。
2人の男が、今まさに本屋に入って来ようとしていた。
1人は、髪が肩にかかるほど長く、左目の上に刀傷の痕がある。もう1人は、丸坊主のスキンヘッドの男だった。
髪の長い男が言った。
「ええと、鯉志川純也君ですか?」
なぜ知っているのか、という疑問に、喉が詰まる。しかし、持ち前の正直さが、詰まった喉から素直な言葉を吐き出させた。
「はい、そうです」
髪の長い男……綾井はにこやかに笑顔を浮かべ……刀のツカに手をやり……
抜くより前に、綾井と連れの男が後ろに大きく飛びのいた。
瞳が斬りかかっていた。




