5-2
蒸し暑い夜だった。
こんな日に夜更かししても、何もいいことはない。家に帰ったら、すぐに寝てしまおうと瞳は考えていた。
瞳の家は、内幸町にある。徒歩で行けば、およそ30分ほどであろう。
途中、銀座を通る。この辺りは、夜店やら定食屋やらが並んでおり、瞳にとっては強い誘惑だった。食欲が旺盛なもので、和美の作った夕食の後でも食べたくなってしまう。食欲は人並以上なのであった。
だが、欲のままに食事をとれば、すなわち太る。
そんなのは嫌だと思えるくらいには、瞳の精神は強靭である。無駄な肉をたくわえれば、剣の扱いの邪魔になり、そして命を落とす。それを嫌だと思えるくらいには、瞳は命に執着がある。
瞳は目に力を込め、店の看板を見ないようにしながら真っ直ぐに歩いていた。
しばらく歩いて、銀座に差し掛かる。誘惑はこの辺りが最も強い。
(あぁ、ラーメンいいなぁ)
銀座に入ってもしばらくは何ものも見ずに歩いていけたのだが、それはたったの20歩で終わった。
ぐぅ、という腹の虫が聞こえたと同時に、瞳は足を止めた。
右を向けば、ラーメン屋「撃龍」。海老を出汁にしたスープに、よくスープが絡む細ちぢれ麺。具のチャーシューが分厚いので、瞳はこのラーメン屋が大好きである。
これが、喰わずにいられるものか。
最後の砦として、今月、剣志隊から出たお給金と使った額を頭の中で計算する。
(……これなら、仕送りを減らさなくても大丈夫かな)
お金に関して、瞳には無駄遣いしてはいけないという事情がある。
さて、手持ちの金でラーメン1杯は食べられるか。出来れば、チャーシューを1枚追加したいところだが……。
ポケットに手を突っ込んで財布を取り出そうとした時、瞳にとって最高の、あるいは最低の運が顔を出した。
撃龍の店内は、カウンター席が10個ほどと、テーブル席が2つ。客入りはそこまで良くはなく、半分も埋まっていなかった。
財布の中に千円札が2枚入っているので、ラーメンは全部のせにしちゃおうかと思った時、店内に知っている顔を2つ見つけた。
1つは、今日知ったばかりの顔。
綾井友朗だった。写真で見た綾井もラーメンを食べている時だったので、よく似ていた。いや、本人としか思えない。カウンターの席には、ラーメン丼の他に、餃子の乗っている小皿が並んでいるのが見える。なんて羨ましい。金持ちだ。
もう1人。
こちらは、記憶をくすぐる程度にしか覚えていない。
剣志隊の隊士、国塚敏郎。特に目立つような存在ではなく、剣の腕も中の下。21歳の大学4年生なので、来年は白兵隊への入隊考査を受けるはずの男である。稽古もあまり熱心ではない。瞳が彼と道場で立ち会ったのは、恐らく5度もない。
この、全く関係の無さそうな2人は、あまり仲良しげではないが、しかし会話はしているのが見てとれる。さて、仲良しなのか。もしくは、国塚は過激派の綾井に脅されてでもいるのか。
ふむ。
瞳は左手に提げている刀を意識した。
まさか、人相書きを見た時に浮かんだ疑問に、今答えなければならないとは。
急いで道場へ戻るか。
もしくは、綾井を斬り伏せるか。
ここで見送れば、もう二度と剣志隊が綾井を捕えることは叶わないかもしれない。道場へ戻るのは良くないように思えた。
だが、もし万一。
国塚が、綾井の手の者だったら?
二対一である。
自信は無かった。
少し考えて、瞳は店内に入ることに決めた。
瞳は財布の中から千円札を2枚抜くと、ポケットに突っ込んだ。
そっと、鯉口を緩める。もし、綾井が出合い頭に刀を抜くのであれば、それに先んじるためである。
がらがらと戸を横に開いた。
「いらっしゃいませぇい!」
中に入ると、店員が一斉に威勢の良い声を上げる。丼から顔を上げる客が1人いたが、他の者は気にせずにラーメンを食べ続けている。
瞳は、カウンター席ではなく、テーブル席についた。普通なら2人以上の客がつく席ではあるが、瞳は気にしなかった。
カウンター席では、綾井と国塚の様子がうかがえない。そして、カウンター席より、テーブル席が好みであった。
「何にしやしょう」
店員が、怒っているのか笑っているのか分からない難しい顔で注文を聞いてくる。
「海老ラーメン、全部乗せで」
「全部乗せ一丁ぉ!」
唾が飛ぶくらいの勢いで店員が叫ぶと、同じく「全部乗せ一丁ぉ!」と他の店員が呼応する。
どちらかというと静かな場所が好きな瞳ではあるが、こういう勢いのある飲食店も好きである。いや、美味しい飲食店ならなんでもいいのである。
綾井と国塚は、2人してラーメンを食べながら、小声で話している。しかし、余程警戒しているらしく、その内容は聞き取れない。
(どうするかな)
瞳は机に頬杖をついて、メニューを手に取って見ながら、聴覚を集中させている。
何か決定的な事を喋ってくれればいいのだが、聞こえないのなら意味がない。
まだ、国塚が綾井に手引きされているのか、もしくは脅されているのかが判然としない。どちらに転ぶかで、自分の今からの身の振りが変わるのだが。
やがて、瞳の前に海老ラーメン全部乗せが来た。
瞳は割り箸を片手で器用に割ると、ラーメンを一口すすった。
(うまい……! 海老スープの風味が、ラーメンの麺とこれ以上無いほどに合っている……!)
一瞬、綾井と国塚のことを完全に忘れて、まるで初めて口にしたかのような感動で脳内の快楽物質がほとばしった。
感動して、今度はスープを飲もうとした時に、「勘定を頼む」という声が聞こえた。
それは、初めてはっきりと聞こえた綾井の声だった。
夢の世界に行きかけた瞳の意識がすっと戻ってきた。
綾井は太っ腹らしく、自分と国塚の2人分の勘定を払って行った。
「毎度ぉ! また、よろしくお願いします!」
がらがらと戸を開けて、綾井と国塚が出て行く。
(ああ、まだ一口しか食べてないのに……)
しかし、ここで見逃すことは出来ない。たとえ絶品の海老ラーメンを目の前にしていても、だ。
瞳は千円札2枚をテーブルの上に置くと、席を立った。おつりは830円であったが、それを受け取る暇もない。
「あれ、お客さん。お釣りは?」
「いらないです。とっておいて」
まだ何か後方で店員が言っていたが、瞳は2人を追って店の外に出る。正直、海老ラーメンが食べられない羽目になり、泣きそうである。
見つからぬように2人を尾行する必要があった。綾井の今晩の寝床を突きとめて、警官隊と剣志隊で包囲すれば、それで事が終わる。
瞳は道場で竹刀を振るのは好きだが、尾行というのは好きではなかった。得意でもないし、性にも合っていない。
瞳はがらがらと店の戸を開けた。あの2人とどのくらい差が開いているかは分からないが、急がなくては見失う。
戸から一歩を出した時、瞳の脛を狙って、白刃がきらめいた。




