5-1
剣志隊の道場で、「たん」という踏み込みの音が響いた。
決して大きな音ではないのに、どんな者の耳にも届く不思議な音だった。
道場にいた隊士たちは竹刀を持つ手を止めると、一斉にその音のした方へ顔を巡らせた。
その音の主が鯉志川瞳であると分かると、隊士たちは稽古に戻った。
「たん」という音で瞳が一本を取ったのについても、隊士たちは「そうだろうな」と思っている。
この踏み込みからの打ちは難剣と言われ、隊長の武井初芽すら外せない、というのが隊内での評価だった。
瞳は更衣室で防具姿から高校制服に着替えると、道場の外へ出た。
蒸し暑い8月の夜だったが、空を見上げると多少は気が紛れる。
街灯で照らされることなどないので、満天の星空だった。
耳にかかる程度の短い髪が、そよそよと揺れる。
現在、16歳の高校2年生。
隊内では男性と思っている隊士もいるが、れっきとした女性である。
瞳が夜風で汗を飛ばしていると、初芽が道場にやって来た。
今日の書類を全て始末できたか、あるいは書類仕事が嫌になってサボりたくて、竹刀を振りに来たようだった。
「よう、瞳。調子はどうだ?」
「ぼちぼちです」
「新人隊士が入ってきてから、まだ隊内の武芸大会をやってないから、そろそろやろうと思ってる。次は負けないぞ」
そう言われてしまって、瞳は困りきった。
瞳は、隊内で唯一、優勝者には金一封が贈られる剣志隊の武芸大会において、2度連続で初芽を破ったことがある隊士だった。
「お前の『たん』を、次こそは外してやるからな」
「よくみんなに聞かれてるんですけど、あれって私が好きで出してるんじゃないんですよ」
はっはっはと初芽が笑って瞳の刀を叩いた。
「お前が今よりももっと強くなったら、きっと好きに出せるようになるさ」
そう言って初芽は道場の中に入って行った。
初芽に汗をかかせられるほどの隊士は、そうはいない。
きっとみんな初芽に遠慮してそそくさと稽古を切り上げてしまうから、初芽はまた一人きりになってしまうのではないかな、と瞳は思った。
瞳の「たん」という踏み込みを受けた者からは、おおよそ同じような感想が出てくる。
『速すぎる。いきなり目の前に移動したように見える』
『あまりに自然な動きで、反射的に防御することもできない』
『攻撃されるという気持ちすら出て来なかった』
つまり、「たん」が出ると棒立ちのまま撃たれるというものである。
常に「たん」で踏み込めるというのなら瞳は天才剣士扱いとなったろうが、残念ながら「たん」が出てくるのは本人も忘れた頃くらいの頻度でしかない。
隊内でも、あくまで巧者という評価までだった。手傷も負うし、命の危機に晒されたことも1度や2度ではない。
重要な隊務には呼ばれるが、少数精鋭であたる時は呼ばれない。
しかし、瞳は気にしていない。
真面目と言えないものの、黙々と仕事をこなした。
いずれは白兵隊へと入隊し、そこでも黙々と仕事をこなすだろうと思われた。おそらくは、それまで変哲もない剣士生活が続くのだろうと、瞳自身も思っていた。
(それでいいよ。大変なのは、嫌いだし)
そう瞳は思う。
そういう意味でも、世の中上手くはいかないようにできている。
8月の蒸し暑い夜、隊士の1人が他国の過激派と会っているのを見かけることになる。
初芽が道場に入っていくのを見送った瞳は、井戸の水で軽く顔を洗い、賄い係の和美の作ってくれた夕食を摂った。
献立は魚のきすの天ぷらに、里芋の煮っ転がしだった。どれも白飯に嫌というほどあう。隊の誰もがうまいうまいと言って食べるのだが、瞳はそれほど喜んでいない。
仏頂面で、ただもくもくと箸を運ぶ。
味音痴なのか、と隊士にからかわれることも多々ある。そんな時は、瞳はこくりと頷くだけだ。
食事中、静かなのは外面だけで、瞳の心中はえらい騒ぎになっている。
(うまい! こんなにうまいもの、どんなレストランとか料亭に行っても食えない! 剣志隊になって良かった!)
これだけ喜んでいるのだが、表情には露ほども出ない。存外、喜怒哀楽がはっきりしている。それが外に出ないだけである。
食事を終え、水を飲んでほっこりしていると、浅野が食堂に入ってきた。
「事務方からの通達です。隊士のみなさんは、これに目を通して下さい」
何やら紙を配り始めた。
瞳もそれを受け取る。
それは、男の写真を白黒コピーしたもので、その下に何やら書いてある。
男の名は、綾井友朗。岩手国出身の、社会運動家。飢狼団という徒党を組み、爆薬で庁舎を破壊した疑いで指名手配されている。他にも、要人暗殺、要人の家族の誘拐、銀行の襲撃、大手企業への恐喝など、枚挙にいとまがない。
金目的の犯罪もあるが、一銭にもならない犯罪も行う。
ただただ、悪を成すのみ。
そういう生き方しか出来ないのであろう。
その綾井が、東京国で何度か目撃されているらしい。警官隊はこのことを重く見て、剣志隊にも捕縛の協力を求めてきたということのようだった。
瞳は、今日の夕食の余韻を楽しみながら、ぼんやりとその顔を見つめた。
どこかの定食屋でラーメンを食べている時を遠くから撮影したもののようだった。顔はカメラの方を向いていないため、判別はしづらい。綾井は、左手で箸を持ち、右手で新聞を持っている。
(左利きなのかな)
髪は男のくせに、肩にかかるほどの長さ。左目の上に、刀傷の痕がある。目つきがやたら鋭く、まるで爪痕のような細さだった。
服は、スーツ姿で、ネクタイまで締めている。
まるでビジネスマンにも見えるが、左の腰に日本刀を提げている。ベルトに、鞘をくくりつける工夫をしているらしい。
どこかで見たことがあると思ったら、隊士の志位健市が同じようなベルトをしていたと思い当たる。
(どこかで、そういうベルトが売ってるのかな)
もしどこかでこの男を見かけるようなことがあれば、さてどうしよう。何はともあれ、剣志隊の道場まで走って伝えに行くべきだろうか。それとも、その場で斬り伏せるべきだろうか。
(まあ、そんなこと起こることも無いか)
瞳は、宝くじを必ず1枚は買う。いつかは当たるかもしれないと思いつつ、当たらないことを確認するために買っているふしがある。
自分は平凡で、なんら特徴もない一般人だから、そうした大きなことにぶつかるわけがない。そう瞳は心の底から信じている。
(とりあえず、家に帰るまでの道では気を付けよう)
瞳は帰り支度を整えると、日本刀を左手に提げた。
隊内では珍しく、刀は自前である。隊内の大会で2回連続の優勝を果たしてしまい、けっこうな金額が溜まってしまったので買ったのだ。
MIHASHIというスポーツメーカーのモデル「シャーク」という刀で、柄に鮫革が巻かれている。
メーカー製品は工場の流れ作業で作られる粗悪品という見られ方が多いが、このモデルは高名な刀工とのコラボレーションで生まれた商品だった。よく切れる、丈夫、修理に出しやすい、対応アクセサリが多いという理由で瞳は気に入っている。
本営を出ると、街灯も無い暗い夜道。
過激派の顔をもう一度頭の中で描いた。
もし見かけることがあれば、見なかったフリなどしないというくらいの正義感が瞳にはある。




